誰もいない朝
夢の中の時間は進まない。
いつまでも夜が続き、祭囃子と子供の笑い声が時折聞こえてくるばかりだ。
ここから林を抜けて先へ進めば、神社の境内へ続く階段が見えてくる。
しかし、自分から進むことはできないし、戻ることもできない。
正確には進むことは可能なのだが、この先の到着地を思うと進まない方がいいと判断した。
あの神社は間違いなく私を呼んでいる。
ならばと神社から遠ざかっても見たのだが、次に夢を見た時には神社の方へと勝手に進んでしまっていた。
スタートは昔住んでいた家の目の前だったのだが、この距離ならもうじき神社に辿り着くだろう。
神社に辿り着いたらどうなるのか。
なぜ、この夢を見続けているのか。
先生は知っているようだったが、ただ「この先へ行ってはいけません」と言うばかりで教えてくれそうにもない。
道の真ん中に座り込んでも誰も通らない。
腰を下ろして、夢から覚めるのを待った。
「どちらもあまり時間は無さそうですね」
先生は神社の方を向きながら呟いた。
「……そろそろ頃合いか」
完全に独り言のようだった。
何か難しい顔をして悩んでいる。
かと思えば、私の方を向いて近寄ってきた。
「これを、預かっていて貰えますか」
膝を地につき、懐から何かを取り出す。
ーーコロン。
それは軽やかで澄んだ音を奏でた。
先生が傍に来てくれる度、鳴っていた土鈴である。
丸い形状で、縄で描かれたような模様がついていた。
「これは二つで一つのものです。一つはあなたが持っていてください」
「大切なものじゃないの?」
「はい。だからこそ、あなたに持っていてもらいたいのです」
先生の様子を見て、私の手は先生の服の袖を掴む。
「待って、どこかに行くの?」
「少しだけ離れますが、すぐに戻ります」
微笑みながら私の頬を撫でる。
初めて心の底から愛おしそうに見つめられた。
直感でわかった。
先生ともう会えなくなる。
ここで、お別れになると。
「嫌……行かないで」
縋ったりなんてしない。
今の今まで確かにそう思っていた。
なのに、実際に口から出る言葉はあの時の母と同じ台詞だ。
「ひより」
「今まで通りでいい! 愛してくれなくていいから! ずっと傍観者のままでいいから、独りにしないで!」
必死に先生にしがみついた。
白檀の香りがするも、やはり体温はない。
けれど先生は確かにここにいる。
先生がいなくなるくらいなら、誰も救えなくていい。
どんなものだって見続ける。
だからせめて、あなただけは側にいてほしい。
「あなたにも私にも、もう時間がないのです。視えずともあなたのそばいます。死して後の世も必ず守ると誓ったのですから。あなたが私を忘れたとしても離れたりはしません」
何を、言っているの?
私が先生を忘れる?
先生は一体何をするつもりなの?
混乱する私の手を取り、土鈴を握らせた。
「あなたの未来を心から愛しています」
「いや……! 待って!」
「目覚めなさい」
最後に聞こえたのは、感情を押し殺すような苦しげな声だった。
「はっ!」
夢から目覚めた私は、勢いよくベッドから上半身を起こした。
右手には土鈴が握られている。
視界に映るのはアパートの一室。
叔父が用意してくれたこの部屋は、簡素という言葉がぴったりだった。
備え付けの家具家電。
制服。
勉強道具。
ここに越して三年ほど経つというのに、あるものはそれだけ。
「先生……?」
呼んでみるも、返事はない。
部屋の隅で本を読んでいる姿も見当たらなかった。
「どうして」
右手の土鈴を握りしめる。
こんなお別れするくらいなら、私は……。
ぽたぽたと落ちる雫が土鈴を濡らし、赤茶の色を濃くした。
父親と母親が怒鳴り合いの喧嘩をしていた夜も、父親が女をつくって出て行った日も、心を病んだ母親が長期入院することになった時も、決して流れることがなかった涙。
それが、なぜだか今になって止めどなく溢れた。