出来損ないの精霊の子
久しぶりにソンユ・オクに戻ってきた。ソンユ・オクは河口にある街だ。港があって、ルキエーの外と繋がっている。
戻ってきたその足で、両替商を訪ねた。川に程近い岩肌に掘られた、小さな家だ。その両替商は俺を見て片方の眉を上げた。
「ラー・ロウか。しばらく姿を見ないから、オールに帰ったのかと思ってたよ」
俺はその面白くもない冗談に小さく笑ってみせた。
「シャーフィを見送ってきたんだ。オール・ディエンの向こうまで。オージャの金をたくさん落としていってくれたよ」
そう言って、両替商の目の前のテーブルに、革袋を置く。それには、シャーフィから受け取った金が入っている。両替商は肉付きの良い腕を伸ばして、革袋の中身を取り出して枚数を数え始める。
両替商がそうやって金勘定しているのを眺めながら、俺は自分の緑色の髪の毛の先を少し摘んだ。
ルキエーでは、時折緑色の髪の子供が生まれる。俺のように。それは、間違って人として生まれてきたラー・ロウなのだという。
ラー・ロウはラーに近い存在なので、人としては暮らせない。人としての名前を持たない。家も持たないし、結婚もしない。
大抵のラー・ロウは、オールで暮らす。あるいは、オールを歩き回って、集落を渡り歩く。そして、ある日静かにラーに戻る。
俺のように街で人に混ざって暮らすラー・ロウは珍しい。
「この量だと、これだけになる。あんた、随分と良いシャーフィを掴まえたね。紹介してくれないか」
両替商が並べたルキエーの金を数える。数えた端から革袋にしまって、俺はまた笑ってみせた。
「だからオール・ディエンの向こうまで送り届けた後だって言っただろ。今頃はトウム・ウル・ネイのウルの上だ」
革袋を持ち上げて懐にしまうと、片手を上げてひらひらと揺らしてみせる。木の葉が舞い散る様子を真似たこの動きは「話はおしまい」の意味だ。
そういえばオージャだと、こういう時に相手に手の甲を見せるのだという。
「まあ、またおいで、オールに帰るまではな。帰る時には盛大に祝ってやるから教えてくれよ、あんたはお得意様だ」
両替商はそう言って、同じように片手をひらひらと揺らした。
ルキエー・オールは、とても広く、そして深い。
この国はオールの国だと言われているが、洞窟の国でもある。様々な材質の岩には大小様々な洞窟がある。ルキエーの街は、その洞窟の中にある。
オールも同じだ。洞窟の上にも広がっているし、洞窟の中にも広がっている。そういった、オールが広がる洞窟が、上下に何層も重なっている。
ルキエーの外では、「森」とはただ地上にだけ広がっているものだという。なので、シャーフィたちは誰でも、ルキエー・オールの深さに驚く。
オールの全てを把握できるのは、ラーたちだけだろう。地元の人だって、ラーに連れていかれてしまえば、オールから出ることなく彷徨い続けることになる。
俺はオールに入っていくと、いつもの場所を訪れた。
洞窟の中でも、暗くはない。ルキエーの洞窟は様々な材質の岩が寄り集まってできている。光を通す透明な石も混ざっている。そうやって、光を通したり反射したりしながら、洞窟全体がぼんやりと明るい。
いつもの木の側に座って、静かに目を閉じている緑の髪の男がいる。俺と同じラー・ロウだ。
身に纏った布から覗く手足は細く、骨が目立つ。ラーに連れていかれないためのオール・アクィトだって、一切身に着けていない。
その姿があまりに静かで、まるで木のように見えた。もしかしたら、もうラーに戻ってしまったのだろうかと、焦って駆け寄る。
俺の足音が聞こえたのか、枯れ木のようなその人はうっすらと目を開けた。濃い緑色の瞳が、俺を捉えた。
「久し振りだね。会えて良かった。もうじきだと思っていたから」
彼の言葉と表情に、俺はなんと応じたら良いのかわからず黙ってしまった。
人の気配がほとんどない。こんなにもオールに近い。きっと、この人はその言葉の通りにもうじき、きっともうじきラーに戻ってしまうのだろう。
「おまえには、別れを告げたいなと思っていたんだ。それがきっと、人としての最後の俺だ」
間違えて人として生まれたラー・ロウが、ラーに戻る。それは新しいラーの誕生でもあり、祝うべきことだ。そして、ラー・ロウの人としての死でもある。
俺は、ラーの誕生を祝うよりも先に、彼が人として死ぬことを思って、涙を流してしまう。
「泣いても良い。でも、祝っておくれ。ようやく、俺はラーに戻るのだから」
彼はただ静かにそこに座っている。涙を流す俺とは、違う。彼の心のほとんどは、もう人ではないのだろう。
最後に残った人の心で、彼は俺と話してくれているのだ。
「昔は、ラー・ロウが生まれると、子供のうちにラーに戻していたそうだよ。それを聞いて、どうして自分もそうしてくれなかったものかと思ったけれど」
静かな瞳で、彼は俺を見上げた。俺は何も言葉にできないまま、ただ涙を流す。
「人として過ごすことにも意味はあったのだろうね。人の暮らしを見ることができた。人としてオールで過ごすこともできた。それに、おまえに会えた。おまえを助けることができたのは、俺の人としての喜びだったよ」
ああ、俺にとっての彼は、ずっと人だった。人だったのだ。
耐えきれずに地面に崩れ落ちた。膝を付いて、額を地面に付ける。湧き上がる気持ちを抑えられずに、涙を流し、拳で地面を叩く。
その激しい感情の中身はわからなかったけれど、それでもその感情は、俺の中の人の部分から溢れ出るものだった。
緑の髪に結び付けた角の飾りが揺れて、耳を叩く。耳飾りの鳥の羽が顎を撫でる。腕に巻いた牙の飾りも肌を打つ。それらは、ラーから姿を隠すためのオール・アクィトだ。俺は、まだラーに見付かりたくない。まだ、人でいたい。
巨木が倒れるような感情だった。その全てを受け止めきれずに、何度も地面を叩いて衝撃を逃す。そうやって、俺はようやく顔を上げることができるようになる。
涙は止まらないまま、呼吸は乱れたまま、地面の上から彼を見る。
「俺は……あなたと、もっと話をしたい。俺は、人として生きたい」
俺の言葉に、返ってきたのは静かな微笑みと沈黙だった。
穏やかなオールの中をケーベがはらはらと舞う。透明な石を通って屈折した光が差し込んで、辺りを柔らかく照らしている。どこかでキチュの鳴く声がした。
彼はすでに、オールの一部だった。
やがて、彼はゆっくりと口を開く。
「ラー・ロウは間違えて生まれてくると言うけれど、おまえはきっと、人になりたくて生まれてきた、変わり者のラーなんだろうね。人が好きで、人になりたくて、でも人にはなれない可哀想なラー・ロウ。おまえは、ゆっくりで良い。今は好きなだけ人として生きて、いつかそれに飽いたら、オールに戻っておいで。そうしたら、また一緒に話そう」
まるで幼い子供をあやすように、彼は言う。
その言葉に、そうか、と思う。俺は人が好きなのか。だからまだ、人でいたいのだ。
自分が彼のようにオールに帰るだなんて、まだちっとも想像がつかない。そんな日が、本当に来るのだろうか。
「ヤア・クターダ・ナ。ヴァ・ニーシェ。ラー・ドゥーダ」
彼の言葉に促されて、ゆっくりと上体を起こして口を開く。涙は止まらなかったけれど、目の前の彼をきちんと送らなければと、その気持ちでオールの空気を吸い込み言葉を紡ぐ。
「ヴァ・オール・マダ・ドゥードゥ。ヴァ・オール・マダ・ニーシェ。ドゥニャア・オール・マダ・ウヮー」
抑揚をつけて歌うように紡ぐのは、古い祈りの言葉だ。
ラーに祈りを捧げるそれらの言葉は、今もまだ生きている。食事の前には、この祈りの一部を唱えるくらいには。
全てはオールに生まれ、全てはオールに帰る。そして、ラーが生まれる。ルキエーに暮らす者たちは皆、オールに生かされ、ラーに守られている。
「ラー・ロウ・オール・マダ・ニーシェ。ドゥニャア・オール・マダ・ニーシェ」
木の前で座っている彼は、微笑んだまま静かに目を閉じた。その肩にケーベが止まる。
「ラー・ヤ・オール・マダ・ドゥーダ・ナ。ラー・ヤ・オール・マダ・ウヮー・ナ。ドゥニャア・ヤ・オール・マダ・ウヮー・ナ」
茂みを搔きわける音がして、立派な角を持ったキチュが姿を見せた。
そのキチュは、表情のない瞳で俺をじっと見た後、木のそばで静かに座っている彼を見下ろす。そして、その体に鼻先をくっつけた。
このキチュは、新たに生まれるラーを迎えに来たのだ。
俺は、右の手のひらを自分の胸に当てると、静かに目を閉じた。残っていた涙が頬を伝い落ちた。
「ヤア・ヴァ・ドゥニャア・カブリュ」
一人のラー・ロウがオールに帰り、新しいラーが生まれた。
ラー・ロウは人としては長生きしない。それは、ラーに呼ばれるからだという。そして、ラー・ロウは皆、彼のようにオールに帰りたいと思うものなのだという。
そう思えない俺は、ラーの中でも出来損ないなのかもしれない。
彼が言ったように、人が好きだから人として生まれたラー・ロウなんだろう。だから、こうして、まるで人のように暮らしている。
名前も持たずに。決して人にはなれないというのに。
いつか俺も、全てを受け入れることができるようになるのだろうか。
本編もよろしくお願いします。
『旅をする──ドラゴンの少女と巡る異世界』
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