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後編 ホリカ


 結婚して夫婦となり半年が経過した。


 遠くを見つめるホリカの視線の先にいるのは夫のテオドハンだ。マセル族の筆頭戦士はそれぞれに戦士部隊を持ち、習練生と言われる戦士達の育成もおこなっている。今まさに模擬戦をしている最中だった。


 ホリカは、戦士としてのテオドハンの本来の姿を初めて目の当たりにしていた。


 常に剣、弓矢、あるいは槍など何らかの武具を持っている。その姿は見慣れていた。しかし実際に扱って戦っている姿を目にする機会は一度も無かった。

 嫁いでからも変わらずホリカは薬師として働いている。

 筆頭戦士であるテオドハンはマセル族を代表として他族に赴く事も多く不在がちな人でもあった。現実に今日、ホリカがテオドハンを視界に入れる事が出来たのは二週間ぶりだ。


 刃先を潰した槍を持った彼は、ホリカが今まで見たことのない鋭い眼差しで相手を射るように見据えたまま容赦なく槍を突きつけている。

 習練生の少年はホリカからみても分かる程に必死な様子で食らいつくが、テオドハン相手ではまだまだ幼児も同然らしい。あっという間に槍を弾かれた少年が「あっ、」と言葉をこぼした時には、軽々と地面に叩きつけられていた。


「ちゃんと癖を直してきてるな。よく頑張った。だが気をとられすぎて足元が少々覚束ない」


 先程の射殺さん眼差しが嘘のように、勝敗をつけた途端にテオドハンはさっぱりとした落ち着いた表情でそう告げた。落ち込んだ習練生の少年の手を引っ張ってたたせると、軽快に背中を叩いてなにやら助言をしているらしい。

 次第に、落ち込んでいた少年の横顔は真剣なものになり、はい、と元気な返事が遠くの場所に立っていたホリカの耳にも届いてくる。


「本当に初めて来たのね?」

「はい。一般開放はしてるけど危ないから来ない方が良いと、嫁いですぐに注意されていたので」

「変ねぇ。闘技場付近はともかくこの観覧席は安全な場所なのに」


 驚いた様子で言うのは筆頭戦士ルクアドの妻エメだ。

 ホリカが嫁いですぐ、同年代の女性との交流も早めに開始した方が良いだろう、と、ルクアドから直々に紹介されて出会った人である。

 明るく社交的なエメのおかげで、ホリカは安心してマセル族の暮らしに溶け込む事が出来ていた。


「エメ! ホリカどの! 来ていたのか」


 観覧席への階段を駆け上って現れたのはルクアドだ。エメは大袈裟に口に片手を添えて目を丸くした。


「まぁルック。仕事を放り出して来たの?」

「終わったから来たに決まってるだろう。相変わらず冷たいな、久しぶりの再会なのに」

「たった二週間よ。もう少し留守でも良かったわ」


 早速夫婦で小気味良いやり取りを繰り広げている。

 ホリカも挨拶すると、ルクアドは満面の笑顔で返してくれる。ホリカは筆頭戦士全員と面識があり交流を持っているが、とくに交流する機会が多いのはエメとの繋がりの関係でルクアドだった。


「ルックは知ってた? テオドハン様はホリカにここに近づかないようにって言っていたみたいよ」

「あぁ。そうだろうな」

「納得するの? 観覧席なら大丈夫でしょう?」

「テオドハンの言う危ないっていうのは、二人が心配している危ないとは多分意味が違うぞ」

「そうなの? ならどういう意味? だってあなたも、別に来ても良いけど危ないから頻繁には来ないでくれって言ってたじゃない」

「あ、いや……」

「武具が飛んでくる以外に何が危ないの? まさかここが老朽化してるとか? ハッキリと教えなさい。他の皆にも共有して気をつけてもらわないと駄目じゃない!」


 エメに詰め寄られてルクアドはしどろもどろになっている。

 ホリカもてっきり武具が飛んでくるから危ないという意味だと思っていたが違うらしい。ルクアドは言いづらそうで、はぐらかそうとしている。

 一人考えこみ始めたホリカの耳に、二週間ぶりに待ち望んでいた人の声が聞こえてくる。思わず顔をその場所へと向けた。


「ホリカ! どうしてここに?」

「あ……お帰りなさい」


 急いで駆けてきたらしいテオドハンは肩を上下させて息をあげていた。

 来ない方が良い、とは言われていたが、来るなと釘を刺されていた訳ではない。それでもテオドハンは少々戸惑っている様子がある。心配をかけてしまったかもしれないと思うと、ホリカは申し訳なくなった。


「相談もせずに来てしまってごめんなさい。ずっと、どんなところか興味があったの」

「それは構わないさ。ここは人の出入りが自由で許されている場所だし。でも、まさかホリカの顔が見れるとは思ってもみなかったから。驚いた」


 戸惑っていたはずのテオドハンはいつの間にか嬉しそうに笑ってくれている。

 会えて嬉しい、とその笑顔は確かにその事実を伝えてくれている。ホリカは照れて頬を赤くして、うつむいてしまった。


「仕事帰りだろう? 一緒に帰ろう」

「はい」

「エメさん、ホリカに付き添ってくださりありがとうございました。ルクアド殿、俺がいない隙にホリカに余計な事を言っていませんか?」


 笑顔のままルクアドを見るテオドハンの瞳は警戒の色がある。しかしその視線に負ける事なくルクアドもにやにやと笑っていた。


「何も? お互い同じことを妻に言い聞かせていたと知って可笑しかっただけだ」

「……同じこと」

「エメ、俺たちも帰ろう。新婚夫婦を早く二人きりにさせてやらないと恨まれるぞ、主に旦那の方から」

「うふふ、そうね。ホリカ、お薬ありがとう。今度またゆっくりお茶しましょうね!」

「はい。こちらこそ、ありがとうございました」


 そそくさと帰路につくルクアドとエメの夫婦を見送る。

 私達も帰りましょう、と声をかけようとしてテオドハンを見上げると、珍しい事に彼は耳を赤くして渋い顔をしていた。照れと気まずさが混じったその表情をホリカは滅多に見ることはないので、驚いて目を丸くした。


「どうかしたの?」

「いや。気にするな。俺達も帰ろう」


 歩きだそうとした時、ホリカの右手にテオドハンの左手が絡まってくる。手を繋ぐ形になってしまい、思わず辺りを見渡した。案の定周囲には数多の戦士達や習練生がいて、ちらちらとこちらをうかがう者、驚いたように見ている者もいる。

 手を繋ぐ事は好きだ。しかし多くの人前だと恥ずかしくてたまらない。

 しかもそれがテオドハンの職場なら尚更だ。手を離そうとしても、テオドハンが握ってくる力がそれを許さなかった。普段ほとんどの事をホリカの意思を尊重して譲ってくれる彼らしくない強引さに戸惑ってしまう。


「手……」

「嫌か?」

「嫌では、ないわ」

「嫌じゃないなら、今だけ俺の我儘を許してくれ」


 そのように言われるとホリカは弱かった。日頃滅多に言ってくれないテオドハンの我儘ならば当然叶えたい。

 「わかりました」と顔を真っ赤にして頷くと、やはりテオドハンは心底幸せそうに笑うのだ。




 ホリカがテオドハンとの結婚を即決出来たのには複数の理由があるが、一番の理由はやはり罪滅ぼしだ。


 違う、とは言っていたものの、テオドハンの進言のおかげでペトラの命は護られ、ファミナ族に何らかの危機に直面したらマセル族が助けてくれる事が決まったのだ。テオドハンに恩を返したい。自分が出来る事は、テオドハンが自分を妻に望んでいるのならばそれに応える事が一番の恩返しなのだとすぐに思い至った。

 父にも話は通してあり、自分の判断に委ねられていると聞いてしまえば、決断はますます早まった。


 しかしテオドハンに冷静に指摘された時、自分は恩返しどころか酷いことをしてしまったのかもしれない、と思ってしまって狼狽えてしまった。


 彼はあの夜の時には既に私に好意を持ってくれていた。

 しかし自分は彼に好意を抱いているかと言われたら、それは違った。親切な優しい人という安心感と信頼はあっても好意とは違う。同じ気持ちを抱いていないのに即答せず、熟考期間として与えられた三日間に交流を持った上で彼の人となりを知ってから返事をすべきだったのでは、と後悔した。

 それでも、彼は喜んでくれた。

 そんな反応にまずはとても安堵し、罪悪感に苛まれ泣いてしまった自分が嫌になった。



「ホリカ」


 名前を呼ばれて、考え事がぷつりと途切れる。

 顔を上げると、ソファに座って本を読んでいたテオドハンが心配そうにこちらを見ていた。ホリカも向かい側のソファに座って薬学書を読んでいたが、いつのまにか文字を追うことをやめてしまっていたらしい。

 今、二人はホリカの寝室にいた。久々に二人きりで、ゆっくりとくつろいでいたのだが。


「具合が悪そうだな」

「ううん。考え事をしていただけ」

「何を考えていたか、俺が聞いても?」


 言葉に詰まってしまう。まさか結婚の返事をしたあの夜の事を思い出し、一人で落ち込んでいたなんて知られたくはない。

 結婚して半年、テオドハンの底無しの優しさと思いやりのおかげで、ホリカはこんな素晴らしい人に自分は勿体無いのではと思うほどに幸せな暮らしが出来ている。自分は同じくらい彼を幸せに出来ているのだろうか。

 一緒に過ごす時間の中で、幸福と共にどうしても不安が込み上げてしまう。


 ホリカは眉を下げて口をもごもごとさせてしまう。

 どう言えば良いのか迷っていると、本をテーブルに置いたテオドハンは立ち上がってホリカの隣にやって来てソファに座った。


「無理に言わなくて良いんだ。けど、俺はホリカが何を考えても、どんな事を言ったとしても、ホリカの事を想う気持ちは変わらない」


 どきどきと胸が苦しかった。


 明るい笑顔で安心させてくれるようにきっぱりと言い切るテオドハンの事が、愛おしくて仕方なかった。自分も全く同じ気持ちなのだと伝えたいのにいつもこうだ。感極まるばかりでどうしても言葉が出てこない。


 恩返しのために結婚を即決してしまった事を常に悔いている。もう間違えたくはなかった。

 この半年でホリカもテオドハンの事を好きになり、誰よりも愛しく想っている。だからこそ、どんなにテオドハンが何を言っても良いと言ってくれたとしても、もうホリカは()()()()()()をしたくはないのだ。


「……テオドハンさま」


 話題を変えたくて名前を呼ぶと、途端にテオドハンは笑顔を消して不満そうに眉間にしわを寄せた。


「テオ」

「……て……テオ」

「うん」


 呼び直すと、テオドハンはすぐに笑顔になった。くつろいだ様子で上体を屈めて、テーブルの奥においてある水の入ったコップを手に取って口をつける。ホリカは気になっていたことを尋ねる事にした。


「どうして私に闘技場に近づかないで欲しかったの?」

「っ!」


 むせそうになりながらコップから口を離して、片手で口を覆うテオドハンの反応に、ホリカも驚いて目をぱちぱちと瞬かせた。変な事を聞いたつもりはない。


「私はてっきり、もしも武具が飛んできたりして怪我をしたりする事を心配されていたのかと思ってて。けれどルクアド様は違うとおっしゃっていたから」

「……やっぱり余計な事を……」


 ぼそりと呟くテオドハンの言葉の意味が分からない。

 テオドハンはくしゃくしゃと自身の髪を片手で掻き上げた。こちらを見つめる瞳に熱がこもっていて、耳が赤くなっている。


「君があまりに綺麗で、優しすぎる人だから」

「え?」

「闘技場にいるのは独身で血気盛んな戦士が大半だ。多くの男達の視界にホリカを入れたくは無かった。俺のように、あっさりとホリカに好意を持つのが目に見えてるんだよ」

「…………テオ」

「あ、いや、勘違いしないでくれ。ホリカが俺の事を信頼してくれている気持ちは伝わってるし、裏切る行為をするだなんて疑った事もない。ホリカに心を奪われる男がごろごろいるとなると不快なだけで、」

「テオ! もう、分かったから。何も言わないで」


 ホリカは限界まで赤面し、思わず、らしくもない大きな声を出してうつむいてしまっていた。

 そんなあり得ない事を心配していたの、と呆れた気持ち以上に、テオドハンが自分にどれほどの思いを寄せてくれているかを思い知らされて、幸福のあまり苦しくてたまらなくなってしまう。


「……そろそろ寝るか。明日は久々に休日が被ったんだ。寝坊して、一緒に過ごす時間が少なくなるのは嫌だしな」


 おかしな空気を切り替えるように、テオドハンは普段の調子で言いながら、ソファから立ち上がっていた。脱いでいた羽織りに素早く腕を通しながら、いつものように穏やかに笑っている。

 ハッと、つられるようにホリカも顔を上げた。同時に、高揚して苦しかった心が急速に冷えて強張っていく。


 このままではテオドハンは自分の寝室に戻ってしまう。

 いつも通りに。


 ホリカとテオドハンは夫婦となり半年が経っているが、その関係は白いままだ。

 マセル族の人々も知らない二人だけの秘密。

 夫婦の契りを未だに交わしてはいなかった。


 全ての原因はホリカにある。夫婦の誓約書を改めて書き直して正式に夫婦となり、初夜を迎えるはずだったあの日。思い出しただけでも身体が震えそうになってしまう。自分はとんでもない言動をとってしまったのだ。


 ーーいやっ……!


 緊張に震えながら口づけし、夜着に手をかけられた瞬間、頭で考えるよりも先に本能的にテオドハンを突き飛ばしてしまったのだ。突き飛ばした、と言っても、鍛えてるテオドハンの身体はわずかに離れただけだったのだが。


 驚きに表情を強張らせているテオドハンの表情をホリカは今もハッキリと思い出す事が出来る。その表情を見たとき、自分のしてしまった事に驚き、困惑し、罪滅ぼしで結婚を即決したにもかかわらず、いざという時に怖じ気づいてしまった覚悟の無さに愕然としてしまった。


『ち、違……! 嫌ではないのです、あの、』


 泣きそうになりながら言い訳を始めるしかない自分に対して、テオドハンは首をふった。


『怖かったよな。俺が一人で浮かれて。悪かった』


 そう言って、包み込むように抱きしめられた。


 違います。謝らないで。謝るのは私なのに……!


『好いていた女性と結婚出来た時点で俺はもう幸せなんだ。ホリカは違うのに。許してくれ』

『や、やめてください。もう夫婦なのです。も、申し訳ーー』


 謝ろうとしたら、テオドハンの唇で唇を塞がれていた。先ほどの深い口づけではなく触れるだけの甘やかな口づけで。

 重い空気を吹き飛ばすように、テオドハンは悪戯っ子のように笑っていた。


『待つけど、最低限の接触は許してくれないか? 俺の奥さん』


 ホリカは流された。救われてしまったのだ。

 呆然と頷くと、テオドハンは嬉しそうに笑顔を見せてくれた。それに安心してずるずると日が経ち、あっという間に半年が経っていた。



「火、消すぞ?」

「……は、はい」


 枕元の蝋燭の灯りだけを残してテオドハンは部屋にあった蝋燭の火を消していく。ホリカの寝室は一気に薄暗くなり、一本の蝋燭の灯りだけが頼りなくチラチラと光っていた。

 ソファに座ったまま動かないでいるホリカにテオドハンは歩み寄ると、いつものように上半身を屈ませて触れるだけの優しい口づけを落としてきた。


「おやすみ。夜更かしはするなよ。ゆっくり休んでくれ」


 大きな手のひらで頭を撫でられ、そのまま金髪を優しく梳いてくれる。いつもと変わらない穏やかで優しい笑顔で。

 テオドハンの手が離れて、扉に向かって歩き出していく。


 いつも通り。私たち夫婦の変わらない穏やかな夜。テオドハンは誠実に待ってくれている。恐らくいつまでもずっと。テオドハンから見た私は、今もまだ怖がっている、と判断せざるを得ない状況なのだろう。そう判断されてもおかしくない態度をとってしまっている自覚がある。だから、これは当然の流れだ。


 でも違う。私はもうあなたの事が。


「ホリカ?」


 テオドハンが扉を開けた瞬間。ホリカはテオドハンを背後から抱きしめていた。困惑した様子で名前を呼ぶテオドハンの顔を見上げる事は出来なかった。ただ強く抱きしめて、広くあたたかい背中に強く額を押しつける。身体は小刻みに震えていた。


「……帰らないでください」


 息をのむ音が聞こえる。

 ホリカの胸の鼓動は早まる一方だった。


「テオ。愛してます」


 やっと言えた。一番伝えたかった事が。

 言えた途端に力がするすると抜けてしまった。震える両腕がだらりと落ちそうになった時、いきなり視界がぐるりと回って歪んでいた。テオドハンに横抱きにされている。やっと理解した途端、あっという間に寝台に連れて行かれて、そっと下ろされていた。

 

 真正面、至近距離にあるテオドハンの表情は笑ってはいなかった。ジッとこちらを静かに見つめる深緑の瞳は、まるで涙をこらえているかのように瞬きすらしていない。ホリカは息をのみ、同じようにテオドハンの瞳を見つめていた。世界で一番好きな、愛している人の瞳。


「……ホリカ。愛してる」

「はい」

「君も、俺を」

「はい」


 微笑んで頷いた途端に唇を塞がれていた。あの日以来一度もされた事のなかった深い口づけで。


 息が苦しいのに幸福は膨れ上がって、涙がこぼれていた。



 




 * 偽りの花嫁の初恋 fin *



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