中編 テオドハン
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木々の影に隠れて、二人の青年は息を潜める。
彼等はマセル族の筆頭戦士テオドハンとルクアドだ。
二人の眼下には、テオドハンの婚約者ペトラの姿があった。ファミナ族長の娘でありながら、ろくに働かずに自由奔放に振る舞う男関係にだらしない彼女は、容姿だけは抜群に優れている美しい少女だった。
テオドハンは苦い思いを腹の底に押し込めながら婚約者が男と抱擁している様子を眺めていた。
「ファミナ族長の長女ペトラ嬢、マセル族の筆頭戦士テオドハンとの結婚が決まった」
マセル族長からの報告を受けた筆頭戦士五人の中に戦士テオドハンがいた。テオドハンは冷静にその報告を受け止めていた。
筆頭戦士となった時点で私生活や結婚に関しての自由は無くなっている。むしろその覚悟が無ければ実力があってもマセル族の筆頭戦士は務まらない。
マセル族長は淡々と報告したが、しかしすぐに眉を寄せて厳しい表情を見せた。
「結婚式まで一ヶ月ある。五人は交代しながらファミナ族の調査と監視を。それと、ペトラ嬢について探れ。彼等の言葉に偽りは無いか徹底的に調べるんだ。許しがたい偽りが発覚した場合、この契約と結婚はすぐに破棄する」
五人の筆頭戦士はその命令をすぐに実行に移した。
本来、政略結婚の場合は初夜まで互いの顔を見ることは禁止されている。しかし、マセル族長はテオドハンも含め筆頭戦士五人全員にその命令を下した。
マセル族は政略結婚における禁止事を破っていたのだ。
調査という名の、実質諜報活動を始めてあっという間に日々は経過し、結婚式は目前に迫っていた。
その間に知り得た現実は、部族同士間の契約や利害については何ら問題がなく、むしろ狙い通りマセル族にとって有益であるという事だ。しかし結婚についてだけは違っていた。
「ファミナ族長は嘘はついていなかったが真実も言っていなかったな」
筆頭戦士の一人、ルクアドは怒りの感情を隠さずに吐き出した。ペトラと見知らぬ男との逢瀬の一部始終を全て見ていたルクアドとテオドハンは木陰に身を隠したまま、人の気配が完全に消失したことを確認してからやっと口を開いた。
「彼女はどうしたら改心してくれるでしょうか」
「あれは恐らく変わらないぞ」
ばっさりと断言されてしまい、テオドハンは落胆して片手で髪を掻き乱した。
政略結婚が決まった時、ファミナ族長が次女のホリカではなく長女のペトラを嫁がせると言った時からおかしいと考えていた。どの部族も長男、長女は自分の部族にとどまらせる風習がある。政略結婚となると第二子以降の生まれの者がその役目を担うのが当然の認識だった。
『次女のホリカは大変おとなしい子ですが、長女のペトラは明朗快活な娘です。武を尊び誇るマセル族の気質に合うのはホリカではなくペトラこそ相応しいかと思います』
ファミナ族長の言葉は確かに事実だった。
婚約者のペトラはいつも無邪気で明るく行動的だった。族長長女とは思えない程に無責任な行動ばかりをやらかしているという悪い意味で。
ホリカについての説明についても事実と言えた。ペトラと全く同じ容姿の双子の妹であるホリカは物静かでおとなしい女性だった。
だが、ホリカは責任感の強い聡明な女性でもあった。
ホリカは物静かだが内気な性格では無い。常にファミナ族の人々の事を想い、平和な生活を営み続けるため出来る事に対して懸命に取り組んでいる。
事実、ホリカはファミナ族の中でも優秀な薬師の一人でもあった。
ペトラが街を歩けば、族長の長女という身分もあり人々は一応は礼儀正しく挨拶はしているが、明らかに失望していた。あるいは怯えている様子の人までいる始末だ。
しかしホリカが街を歩くと、人々は皆明るく彼女に声をかけるのだ。ホリカも楽しそうに交流する。困っている人がいたら親身に相談に乗り、薬師として、あるいは族長の娘としての役目を果たしていた。そして姉のペトラの言動を、ホリカが沈痛な面持ちで謝罪しているのだ。
ホリカがファミナ族の人々にどれほど愛され、信頼され、希望の人となっているのかを筆頭戦士達は目の当たりにしてしまっていた。
ルクアドは哀れむようにテオドハンの肩に手を置いた。
「昨日調査にあたっていたディリとノードンから聞いたが、昨日もホリカ嬢はファミナ族長を説得しておられたそうだな。ペトラ嬢ではなく自分をお前に嫁がせてくれと」
「そしていつも通り、その訴えは却下されたそうですね」
「……残念だがファミナ族長がホリカ嬢を手放すとは思えない。族長は報告を聞いた上でも結婚は予定通りに行うと仰せだ」
「当然です。俺とペトラ嬢の結婚だけで良薬が安定して手に入るのならばそうすべきです」
「…………」
「ルクアド殿。そんな顔をなさらないでください」
ルクアドの悲しそうな顔を見るのがテオドハンには辛い。
家族のいないテオドハンは、幼い頃から兄のように接してくれるルクアドに不安な思いをさせたくはないのだ。現実はどうしようもない。結局苦笑いを浮かべるだけになってしまう。
ルクアドは諦めたようにテオドハンの肩から手を離す。
テオドハンも、帰りましょう、と仕切り直すように言うと、立ち上がった。
結婚式が近づくにつれて、ルクアドや他の筆頭戦士達が、テオドハンがホリカの姿を視界に入れる事を避けるようにしている事をテオドハンはとっくに気付いていた。
年齢はバラバラでも筆頭戦士五人の絆は、マセル族を護るという想いも誰よりも深い。
皆、政略結婚でとんでもない女と結婚する羽目になってしまったテオドハンの行く末と心身を案じているのだ。
つい先日、筆頭戦士ディリにテオドハンは言われた。
「お前はファミナ族全体だけを見ていろ。ペトラ嬢とホリカ嬢の調査監視は四人でやる」
「命令はディリ殿達と同じく私にも下されている事です」
「テオドハン」
生きていたら父親とほとんど年齢の変わらないディリは、真剣な瞳でテオドハンを見た。真剣な瞳の奥に宿る寂しげな色が見えた気がして、テオドハンは口を閉ざしてしまう。
「お前がホリカ嬢を見る目は女に惚れた目だ」
反論出来なかった。
ホリカに惹かれてしまっているのは事実だったからだ。
「私は決して職務をおろそかにはしません」
それだけを言い、頭を下げた。
ディリは暗い表情で息を吐き出し、今日は休め、と一言だけ言葉を残すにとどまった。
婚約者ペトラとその双子の妹ホリカ。
最初こそ、二人が入れ替わっても分からないと思うほどに同じ容姿に見えていた。しかし今のテオドハンは、一目見ただけで二人を見分ける確信を持つ程にホリカに惹かれてしまっている。
淡く光る豊かな波打つ金髪を惜しげもなく見せつけるように下ろして、豪奢な服を身に纏って官能的な化粧を施し、男を誘惑して遊び呆ける婚約者のペトラ。
対して、淡い金髪を一つに結んで、地味な作業用のワンピースとエプロンを身につけて黙々と働く婚約者の妹。空色の美しい瞳は優しさと強さに溢れて、太陽に焼けないのが不思議な程に白い肌を土や薬草で汚しながら真剣に職務に取り組んでいる。時に見せる穏やかな笑みが眩しかった。
『テオドハンさまに私を嫁がせてください。ファミナ族とマセル族のために尽くす事を誓います。父上、どうかお願いします』
必死に何度も父親を説得するホリカの姿を目撃して、好きになるなと言う話こそ無理な話だとテオドハンは思う。
テオドハンがホリカに対して特別な感情を抱いてしまった決定的な出来事がある。
調査を開始して二週間が経過した時だ。
いつものようにホリカは父親を説得し、その訴えは却下されていた。重い足取りで薬草園の倉庫の裏手まで歩き、一人きりになった彼女はうずくまったと同時に涙を流し始めたのだ。テオドハンはこの時に初めてホリカの涙を見た。
『テオドハンさま。ごめんなさい』
そんな呟きを聞いてしまった。同じく共に行動していた筆頭戦士キヌスも。キヌスは苦々しげに唇を噛み締めた。
テオドハンは言葉を失って、ただただいつも通りに息を潜めてホリカを見下ろす事しか出来なかった。
謝るな。君は何も悪くない。
ファミナ族、そして双子の姉を想い改心を願う妹のホリカは、姉の婚約者であるテオドハンの事もすでに身内として考え、心配していたようだった。ぼろぼろと空色の大きな瞳から涙をこぼし、どうしようも出来ない現状に悔しそうに目を伏せるホリカの姿がテオドハンの脳裏に焼き付いていく。
同時に、穏やかで優しい性格でありながら芯の強さを滲ませるホリカに対して、心を全て奪われた瞬間でもあった。
結婚式当日は憎いほどの晴天だった。
花婿用のマセル族衣装に身を包み、被り物をして白い布で顔と髪を覆う。心は落ち着いていた。
もうファミナ族領に足を運ぶ必要はない。ホリカ嬢の姿を見る事もない。
他の筆頭戦士達とマセル族長の明らかな口数の少なさと険しい顔をしている。彼等はこの結婚式を全く祝福していないらしい。
「これはマセル族にとって喜ばしい結婚です。どうか祝福をお願い致します」
テオドハンがマセル族長に対して跪いて頭を下げる。マセル族長はわずかに瞳を見開いたが、やがて頷いた。
「テオドハン。そなたのような戦士を持つことが出来た事を私は誇りに思い感謝している。おめでとう」
テオドハンはこの結婚を破綻させるような事は絶対にしないことを誓った。
しかし、他族の仲介人達に連れられ、花嫁衣装を身に纏ってやって来たペトラの姿を目にした瞬間、テオドハンは我が目を疑った。布越しでもすぐに分かった。
なぜホリカ嬢がここに!?
ペトラではなくホリカが現れた事に驚愕したが、すぐにもう一つの異変に気がついた。
様子がおかしい。
意思が感じられない。仲介人の指示にのみ忠実に従うホリカは、まるでただ動くだけの人形のようだった。
挙げ句言葉も発しない。
仲介人達も、返事をしないホリカに対して困惑し、訝しむ様子はあった。しかし素直に指示に従う様子のホリカに、とりあえず目を瞑る事にしているらしい。
彼等は結婚式の始まりを宣言した。
神父の言葉を聞き流しながら、テオドハンは前だけを見ていた。仲介人と神父の許可なく、花婿は花嫁に声をかける事も触れる事も出来ない。
族長と筆頭戦士達はホリカの様子がおかしいことには気づいているようだったが、彼女がペトラではなくホリカだという事には気づいていない。気付いていないからこそ、結婚式の開催をひとまず受け入れてしまっている。
「新婦ペトラ、この誓約書にサインを」
神父の言葉を合図にホリカは無言で頷きペンをとった。ペン先をインクに浸してサインをしようとしたその瞬間、彼女の様子が激変した。
小刻みに震えだすペン先を握る右手。
わずかに乱れている息づかい。
この瞬間、初めて彼女が人形のようではなくなった事に気付いたテオドハンは思わず口を開いていた。
「大丈夫か?」
びくりと肩を震わせて、怯えたように顔をあげたホリカと布越しに視線が絡まる。虚ろだった空色の瞳にはしっかりと感情の色が戻っていて、テオドハンは息をのんだ。
「は………はい」
逃げるようにすぐに視線を下ろされ、ホリカは手を震わせたまま誓約書にサインする。記されたサインの名はペトラになっていた。
テオドハンは込み上げる様々な感情を押し込めながら、今は早急に事態の把握をしなければいけない事を悟った。
*
「後はすでに説明した通りだ。調査する前にファミナ族長達がやって来たおかげですぐに事態は解決した」
婚約早々にマセル族が政略結婚の禁止事項を破り、ファミナ族に対して調査という名の諜報活動をしていた事実をホリカに明かす事には申し訳なさがあった。しかし、族長の命令である調査は必要な事だったのだと確信を持ってもいる。
本人の知らないところで散々盗み見た挙げ句に惚れてしまったなどと告白され、ホリカ嬢はどう思うか。嫌われても気味悪がられても何らおかしくない。
ホリカは返事に窮しているらしく俯いていた。
「結婚は決定じゃない」
「え?」
予想だにしなかった言葉だったらしく、ホリカは弾かれたように顔を上げた。
「ファミナ族長が食い下がったんだ。何でもするつもりでいたがそれだけは受け入れられない、ホリカ嬢はファミナ族に必要な娘なのだと。しかし我が族長が、花嫁を取り替えられるという屈辱的な結婚式をさせられた俺の唯一の希望をも蔑ろにするのならばもう容赦はしない、と、ファミナ族長を脅してしまった。結局、ファミナ族長も渋々ではあったが、君の判断に委ねるという事で決着がついた」
「で……ですが、それでももし、結婚を拒否したら、ペトラは」
「大丈夫だ。君が拒否してもペトラ嬢は修道院に入る。ペトラ嬢の命は守られる。ファミナ族に関してもだ。武力による守護は積極的には行わない契約に変わったが、薬の納品が滞られるのは困る。相当な危機がファミナ族におこった場合にのみマセル族は力を貸す」
またもや瞳を潤ませ始めて口ごもるホリカを目の前に、テオドハンも一度口を閉じた。
今この瞬間がホリカ嬢に本音を伝える事が出来る最後の機会になるのかもしれない。
「よく考えて選んでくれ。俺と結婚してマセル族の者として生きるか、ファミナ族の次期族長となる男と結婚してファミナ族で生き続けるか。俺との結婚を選んでくれるのならば君を必ず大切にすると誓う」
止まっていた筈のホリカの涙がまたも溢れ、こぼれ落ちていく。テオドハンはそっと指でその涙を掬いとった。
「君の療養を理由に三日間はここに留まる許可をもらってる。その間に返事を聞かせてほしい」
言わなければいけない事も伝えたい事も全て言い尽くした。
ファミナ族を何よりも大切にしているホリカ嬢が俺との結婚を選択するだろうか。叶うのならば自分の手で彼女を幸せにしたいが、そうはならなかったとしても、せめて元気になってほしい。安心して帰ることが出来るのだと喜んでくれるだろうか。
「もう少し眠ると良い。早朝に起こしてすまなかった」
おやすみ、と声をかけたテオドハンは一度ホリカの頭を撫でて立ち上がる。すぐに踵を返して寝室から立ち去ろうとしたが、左手の袖口を掴まれて立ち止まった。
驚いてふり返ると、こちらを見上げるホリカの空色の瞳とぶつかった。涙で覆われた強い意思をたたえた瞳と。
「妻に、してください」
窓から射し込む朝陽の光に照らされたホリカの涙に濡れた瞳と頬は、ゆっくりと微笑みを浮かべた。きらきらと美しいその微笑みに見とれて返事すらもままならない。
「父上も私の判断に委ねる事をお許しくださっておられるのでしたら、私はすぐに決断出来ます」
「…………待て。このまま結婚したらもう二度とファミナ族の暮らす土地には戻れない。冷静に考えるんだ」
「冷静です」
ホリカはテオドハンの袖口から手を離すと、両手でしっかりと彼からかけられた上着を胸の前で握りしめたまま寝台から両足を下ろして立ち上がり、呆然とするテオドハンと向き直った。
涙で濡れた瞳と頬のまま、しかしホリカの表情は微笑みを消して真剣なものに変わっていた。
「マセル族の皆様と、何よりもテオドハンさまに対して、私達は大変無礼な行いをしてしまいましたことをお詫びさせてください」
そう言って深々と頭を下げたホリカに、テオドハンはやっと彼女の真意を悟った。
「俺が君との結婚を唯一希望していたから、償うために結婚をする、ということか?」
「……テオドハンさま」
テオドハンは決して怒ってなどいなかった。
ホリカ嬢らしい決断だな、と分かりきった上での少しの寂しさと大きな感心、そして、たとえ理由が償いのためとはいえ自分との結婚を選択してくれた事が信じられず、嬉しかったからこそ、自問自答するように確認してしまったのだ。
しかしホリカはどうやらテオドハンが怒ったとでも解釈したらしく、明らかに狼狽えた様子でゆっくりと顔をあげた。血の気を引かせて青ざめていくホリカに、テオドハンは驚いて彼女の肩に手を置いた。
「勘違いしないでくれ。てっきりファミナ族に帰る方を選択すると思っていたんだ。俺との結婚を選んでくれるとは思わなかった」
「…………あ、の…………ごめんなさい」
この「ごめんなさい」は、やはり償いのために結婚をする、という事だろうか。
謝る事ではないのに。
テオドハンは苦笑し、そのままホリカを抱き締めた。両腕の中で、息をのんでわずかに体を震わせる彼女の小ささと頼りなさ。そんな小さな体の持つ、心の大きさと強さ、優しさに、どれ程惹かれていた事か。
「ホリカ嬢。ありがとう」
返事はなかった。
しかしホリカはテオドハンの胸にしっかりと顔を埋めてくる。不規則に小さな肩は揺れていて、泣いている事には気づいていたが、テオドハンはそれ以上言葉を発する事はしなかった。
泣き止むまで、ただ静かにホリカを抱き締めていた。