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前編 ホリカ


 窓から差し込む月の光と数本の蝋燭だけが灯された薄暗いこの部屋は、今日、結婚式を挙げたばかりの新婚夫婦の寝室だ。


 新妻のペトラは大きすぎる寝台の上で、身体をかたく縮ませて一人で震えていた。

 初夜を迎えてしまう。私は偽物の花嫁なのに。

 両腕で両足を抱えてギュッと強く抱き締める。膝に額をつけると、ペトラは瞼を閉じて神に祈った。


「お願いします。どうかファミナ族の皆をお守りください」


 呟きながら、ペトラは静かに涙をこぼしていた。




 新妻ペトラの本当の名はホリカという。


 ペトラはホリカの双子の姉であり、今日結婚式を挙げたマセル族の筆頭戦士の一人であるテオドハンの婚約者だ。そして今、マセル族の人達も夫のテオドハンも、この場にいる新妻はペトラなのだと信じて疑っていない。というよりも確かめようがない。

 これは部族同士の政略結婚だからだ。


 政略結婚した夫婦は初夜を迎える時までお互いの顔を見ることを禁じられている。

 結婚式は華やかな婚礼衣装を身に付けると同時に、夫婦共に髪や顔を白い布で隠さなければいけない。しかし視界を完全に遮断する訳ではなく、うっすらと見えるのだが、夫婦共に布をつけているのでお互いの顔はハッキリとは分からない。

 誓いの口付けや手を握るなどの接触もなく誓約書にサインをして終わる簡単な結婚式だ。マセル族の都にある小さな教会で、新妻側の参列者は誰一人といない空間で。夫側の参列者も数少なく、マセル族の族長と他の筆頭戦士四人のみだけが見届ける儀式に感動も何もあるわけがない。

 サインさえ済ませば政略結婚は成立なのだ。


 ホリカがきちんと自分の意識を取り戻したのは、最悪な事に誓約書にサインをしようとペンを握った瞬間だった。

 今までの出来事の記憶が津波のように押し寄せてきて、ペンを握ったまま動けなくなった。



 この政略結婚は一ヶ月前に突然決まったものだ。

 マセル族は優良な薬草を、武力の弱いファミナ族は強い戦士達による守護を望んでいた。

 ファミナ族は薬草に強く、マセル族の戦士達は数多に存在する部族でも屈指の力を誇っている。利害が一致し、互いに互いを裏切らない証明として部族の代表者の政略結婚が決まった。

 マセル族からは筆頭戦士テオドハン。

 ファミナ族からは族長の娘ペトラ。

 この二人が選ばれた。この話を父から聞かされたペトラは激怒した。


「嫌よ! あんな野蛮部族に嫁ぐなんて嫌だわ!」

「野蛮だなんて誤解だわ。彼等はファミナ族を護ってくださると約束してくれたのよ。それに横暴な行いは一切していない、誠実な部族よ」

「平和のために一番いらないのは武力よ。その武力を一番の誇りとしている野蛮部族の男の妻になるなんて絶対に嫌! それにおかしいじゃない! どうして長女のわたしが他族の男と結婚しなきゃいけないの? 私は次期ファミナ族長の妻になるのだと母上は言っていたじゃない!」


 泣き暴れるペトラをホリカは慰める事しか出来なかった。

 しかしホリカはすぐに行動を起こした。族長の父に願ったのだ。ペトラではなく自分を嫁がせて欲しいと。

 しかし父は表情を厳しくさせて首を振った。


「それは無理だ」

「なぜですか? 私は次女です。ファミナ族の平和のために喜んでマセル族の戦士の元へ嫁ぎます。長女であるペトラはファミナ族にとどまるべきです」

「最初はそのように考えていた。しかし無理だ」


 父の瞳が妖しく光る。

 父は私達を愛してくれている。それは疑わない。

 しかしファミナ族の族長として、ファミナ族を護るために冷酷ともいえる判断もする人だ。


「ペトラには族長家の娘としての使命を果たす決意どころか、自覚すらも何も見受けられない。厳しく教育していたがあれはダメだ。ファミナ族の暮らしの場に、あのように自由奔放な娘を一族の次期族長妻として居座らせる事は出来ない」

「父上……それは」


 父の子どもはペトラとホリカの二人のみ。

 長女のペトラが次期族長となる男の結婚して妻となりファミナ族の未来を支え、次女のホリカは父の決めた男とファミナ族にとっての有益な結婚をする。

 そういう運命なのだとペトラもホリカも母に聞かされていた。

 しかし。


「次期族長の妻として相応しいのはホリカ、お前だ」


 父は族長としてペトラを切り捨てる決断を下していた。

 そして、マセル族の戦士に嫁ぐ事で、ファミナ族の族長娘としての役目を果たせと言っている。



 結婚相手であるテオドハンについての情報は少なかった。

 年齢は二十四歳。ホリカ達よりも六歳年上。両親は幼い頃に他界し兄弟もいない。幼少の頃から戦士としての役目を背負い、実力を認められ、二年前にマセル族の筆頭戦士に選ばれたという。

 マセル一族には筆頭戦士と呼ばれる戦士部隊を束ねる存在が五人いて、その中で唯一未婚だった彼が選ばれたのだと。マセル族の族長一族の男達が全員既婚者であったのも理由にあった。


 迎えた嫁入り当日。

 早朝、起きたばかりのホリカの元にペトラが現れた。

 ペトラの目がぎらぎらと殺気だっている。このままでは殺される、そう思うほど、彼女はもはやいつもの彼女ではなくなっていた。


「ペトラ? どうし……っ!?」


 ペトラに気をとられて、もう一人部屋に入ってきていたらしい男への注意を怠っていた。

 身体を拘束され、鼻と口に布を押し付けられる。その布からは鼻につく酸っぱい臭いがした。薬草に詳しいホリカはすぐにこの臭いが人体へともたらす影響に気付き、必死に抵抗した。

 自我の意識を飛ばしたら最後。

 この薬草の効果が切れるまで私はペトラの操り人形になってしまう。

 朦朧とする意識と歪む視界の中でペトラは嗤った。


「野蛮な部族の戦士と結婚するのはあなたよ、ホリカ」


 この言葉を最後にホリカは意識だけを失った。

 ペトラの操り人形となってしまい、やっと自我を取り戻した時には、ペトラが着るはずだった花嫁衣装に身を包んで夫婦の誓約書にサインをしようとしていたのだ。


 目眩がして身体が震えた。


 まだ間に合う。自分はペトラではなくホリカなのだと。偽りの結婚をする訳にはいかない。

 しかしもし偽りの花嫁がここにいると発覚し、マセル族が裏切られたと判断したら、武力が弱いファミナ族はどうなってしまう?


「大丈夫か?」

「!」


 声をかけてきたのはテオドハンだ。

 自分よりもはるかに背の高い、ペトラの夫となるテオドハンを見上げる。はっきりと表情も顔立ちも見えないが、彼の声はいたわるような優しさが確かに込められていた。

 体調が悪いと思ったのか、または緊張のせいで震えていると思ったのか。心配してくれているらしい。

 たったこれだけのやり取りだけでホリカの心は酷く痛んだ。


「は……はい」


 逃げるように視線をそらして、ホリカは手を震わせたままペンを動かして誓約書にサインをした。

 ペトラ・アラアット・ファミナ、と、偽りの名前を。





 どれほど待ってもテオドハンは寝室には来なかった。


 夜が深くなるばかりで、身体を震わせて怯えていたホリカもついに疲れが限界に達し、気絶するように眠ってしまっていた。

 どのくらい眠っていたのか分からない。

 突然、何かが自分の頭に触れている感覚を覚え、眠っていたホリカはゆっくりと瞼を持ち上げた。身体が酷く重い。瞳を開けたものの視界は歪み、頭はぼんやりとしていたが、ゆっくりと優しく頭を撫でて髪をすく感覚が心地良かった。 


「起こしたか?」

「!?」


 ホリカは飛び起きた。

 顔を知らなくとも分かる。頭を撫でる人の正体はテオドハンだ。結婚式の時に、大丈夫か、とかけてくれた優しい声と同じ声をしていたから。

 初めてきちんと目を合わせた二人は、しばし沈黙し、互いをジッと見つめていた。


 寝台に浅く腰かけているテオドハンは戦士の正装姿だ。決して新妻との初夜を過ごしに来た人の姿ではない。

 窓から差し込む光りも朝日に変わっていた。

 日に焼けた肌と鍛え上げられて引き締まった身体は間違いなく彼が戦士であることを物語っている。焦げ茶色の髪は少しだけ乱れていて、深い緑の瞳は穏やかな色を持っていた。少しだけ驚いた様子でこちらを真っ直ぐに見つめてくるテオドハンの精悍な顔を見ていると、呼吸が苦しくなってくる。自分から目を逸らす事は出来なくなっていた。


 どの位見つめあって沈黙していたのか。

 先に動いたのはテオドハンだ。

 素早く上着を脱いだかと思えば、ホリカの身体を包み込むようにしっかりと被せてくる。彼の耳は少しだけ赤く、視線はなぜか逸らされていた。


「すまない。身体を丸めて眠っていたから気付かなかった。そんな薄い素材の夜着だったのか」

「え? ……!?」


 テオドハンの言葉の意味を理解したホリカは顔から火を吹くのではないかと思うほどに熱を帯びた。慌ててかけられた上着を胸の辺りにきつく寄せて握りしめる。初夜を迎えるために用意された特別な夜着は、一応は全身を覆っているものの、その生地はとても薄く、身体の線がハッキリと分かってしまう。飛び起きてしまったせいで夜着が乱れ、胸元や太ももも露出されていた。

 テオドハンがこちらを見て呆然としていたのはこれが理由だったのかと、ホリカは恥ずかしさで泣きそうになってしまう。


「よく眠れたか?」

「あ、の……」

「昨日は大変だったな。まだ疲れているだろう」

「テオドハン様!」


 耐えきれなくなり、ホリカは寝台の上に額を擦り付けて頭を下げた。


「おい、どうした」

「出来ません。出来る訳がありません。本当に申し訳ありませんでした。私は、ペトラではありません」

「知ってる。妹のホリカ嬢だろう?」


 あっさりと返事をされ、ホリカは思わず顔を上げてしまう。

 顔を上げたホリカの頬にテオドハンの右手が触れて、ホリカは思わず肩を震わせた。彼は困ったように険しい表情を浮かべていた。


「こちらに来た時から君はずっと様子がおかしかった。だが、誓約書にサインする瞬間に初めて君は自分の意思をハッキリと現した。震えていただろう? やっと聞けた声も泣きそうだった。失礼とは承知の上だが安心した。感情が伝わってきたからな」


 言葉を切ったテオドハンはもう少しだけホリカに近づくように移動して座り直すと、今度は先程してくれたようにホリカの頭を優しく撫でた。


「挙式を終えてすぐに君を先にこの家におくった後、俺はマセル族長の屋敷に行っていた。そこに来訪者があった。君の父親のファミナ族長とファミナ族の戦士達、縄で縛られたペトラ嬢だ」

「…………!」


 込み上げた涙が堪えきれずに落ちてしまう。テオドハンは頭を撫でていた手がそのまま顔に触れ、不器用に涙を拭ってくれた。

 姉のしてしまった事に気がついた父親はどれほど激怒したことか。

 自我を取り戻したのにも関わらず冷静な判断が出来ず、誓約書に姉の名をサインをしてしまった自分に対して、ファミナ族もマセル族の人々もどのように受け止めてしまったのだろうか。


「君はペトラ嬢に薬で操られていたそうだな。自我の無い状態で花嫁となり、誓約書にサインする時に意識を取り戻した。しかし両族の事を考えて、ペトラ嬢と偽ったまま花嫁となる事を決めてサインをした。そうなんだろう?」

「…………申し訳ありません」

「謝る必要はない。ファミナ族長から正式な謝罪を受けている。結婚は取り消しになって、ペトラ嬢はレクトエム修道院に入る事が決まった」


 遠い北の地方にあるといわれるレクトエム修道院は厳しい場所として知られている。そして一度入るとどんな状況であろうと、二度と俗世には戻れない、と。しかし身の安全は確保出来る場所だ。

 おそらく父は修道院に入れる事など考えていなかったはずだとホリカは思う。本気で勘当してその辺りに放り出していた可能性が高い。そういう人だ。


「ペトラを……姉をそのような寛大な処置で許してくださったのはテオドハン様ですか?」


 テオドハンを見上げて尋ねると、彼は瞳を見開いたかと思えば視線をそらされてしまう。

 不躾に見つめてしまった事を不快に思われてしまったのだろうか。焦ったホリカが謝る前に、テオドハンが「そうだ」と言い切った。


「確かに修道院は俺が提案した。だが寛大とは言えない」

「いいえ。父の独断だけでしたら姉の命は危険に晒されてしまっていたに違いありません」

「提案には理由があった。ファミナ族長は当初、俺がペトラ嬢とも君とも結婚をする必要なく薬草の優先納品を約束するとマセル族に誓ったんだ。サイン済みの誓約書を持参していた。もし誓いを破ったらファミナ族の名は消滅させマセル族に忠誠を誓うとまで明記されていた。ファミナ族長は誠意を持って詫びてくれたし、ペトラ嬢に対しても命を失いかねない厳しい罰を与える覚悟を持っていたのは十分に分かっていた。マセル族長はその誓約書に納得してサインをしようとしたが、俺が異議を唱えた」


 テオドハンは視線をそらしたまま、一度がしがしと自分の頭を掻いた。そして、とても気まずそうにもう一度こちらに向き直った。


「俺はホリカ嬢と結婚したいと言った。その代わりペトラ嬢は放り出さずにどこかの修道院に入れて身の安全を確保してほしいと頼んだ。姉のペトラ嬢を愛する君を悲しませる誓約はやめてほしかったからとはいえ、両族長に異議を唱えた俺は不敬者だろう。だが、マセル族長は俺の意思を尊重してくれとファミナ族長に言ってくれたんだ」

「…………なぜ…………」

「なぜ、って」


 彼はみるみる渋い表情を浮かべたかと思うと同時に、耳だけではなくついに首まで赤くしていた。


「君の事を好ましく思っていたからに決まってる」


 しん、と再び沈黙が落ちる。ホリカは言葉を失った。

 結婚式で初めて出会ったテオドハン。しかし布越しで相手の顔もよく分からない状態だった。

 顔を会わせたのも会話をしたのも今が初めてで、テオドハンが自分を好ましく思うキッカケも理由も無い筈だ。


「説明をさせて欲しいが、今から話す事は他言しないで欲しい。マセル族長と筆頭戦士達以外は知り得ない事情を話さなければいけなくなる。約束してもらえるか?」


 驚愕と困惑で言葉を失っていたが、そこまで念押しをされると本当に聞いても大丈夫な事なのかと不安を覚えしまう。しかしやはり、自分を好きだと言い放ったテオドハンの言葉の真意を知りたかった。


 ホリカは無言のまま頷くと、彼は安堵した様子で穏やかに笑った。


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