07 古代の魔術
空中で飛んだままのウルフが垂れ流す涎も糸を引いたまま止まっている。
今にも術を放とうと上方に手を向けたリオンも動かない。
『氷結する世界』、そう呼ばれるこの魔術こそがバニラの『奥の手』だ。
魔力を大量に消費するこの魔術は使用難度が高く、扱える者はいないとされている古代魔術のひとつ。
そんな魔術をバニラは日常的に使用していた。
勉強も依頼クエストの移動時間もこの魔術で時間を止めた世界の中で終わらせてきた。
簡単に使える魔術ではなく、消耗も激しい。
だが、バニラはリオンと結婚するためならどんなことだってする気でいた。
だから、今ここで時を止めているのもリオンのためだ。
「よいしょ」
伏せていた体を起こして、バニラは鞄の中から短剣を取り出す。
しびれ薬を塗ってある短剣で空を飛んでいるウルフの首をザックリ裂き、ついでに茂みの奥に潜んでいたウルフ五匹の首にも短剣を突き立てておく。
長い間時をとめておくことは非常に苦しい。
魔力切れが近づくと、おぼれそうな苦しみを味わうことになる。
長時間魔術を使用し続ける場合は、息苦しさを感じる一歩手前で一度術を解除してからまた魔術を使う必要があるが、戦いの場面では一瞬が命取りだ。
万が一に備えて、しっかりと周囲に魔物がいないかも確認してから、バニラは術を解除した。
「ッ……は?」
世界が時を動かすと、ウルフは血しぶきをあげながらリオンの頭上を飛んでいき、茂みからもウルフの断末魔が聞こえた。
茂みの横に短剣を持ってたたずんだバニラは、呆然とするリオンを見つめる。
この魔術がバレたらどう思われるんだろう。
『氷結する世界』を使える者はこの世には存在しない。
それが現代の常識だ。
凄絶な努力の末に手に入れた力だが、強力な故に恐れられても仕方がない。
今までは父であるヘリオスとシャルル以外にはバレないように使っていたこの魔術をあえてバレてもいいように使用したのは初めてのことである。
緊張しながら見つめていたリオンは、上空に向けていた手をおろしてゆっくりと立ち上がる。
驚愕に見開かれた赤い目は相変わらず美しいのに、今だけはその目から逃れたい思いがした。
「おい、今のはなんだ? さっきまで、おまえはここにいて……。まさか、……『氷結する世界』、か?」
ほぼ独り言のように言葉を発する博識なリオンは、すぐに正解にたどり着いた。
「さすが先輩。古代魔術に関しての知識もすばらしいです」
にこっと笑顔を浮かべた、つもりだ。
どうか、嫌いにならないで。
先輩だけは、どうか。
祈るような想いで見つめていたリオンは、驚愕の表情をぱっと変えた。
想像していた嫌悪の色ではなく、予想外の興奮の色に。
「すごい……! すごいじゃないか! 毎度毎度古代語の本を開いては閉じているとは思ったが、まさかおまえあのときも『氷結する世界』を使っていたというのか? そんなに日常的に使用しても大丈夫なものなのか!?」
「え!? えっと、やっぱり魔力を大量に消費するので日常で長い間使用するときは、息継ぎみたいに少し時を止めては、また動かす感じで使ってれば大丈夫です……」
「薬草を食べまくっていたのは、魔力切れ対策か。おまえの魔力は人並み以下だからな」
「ちょっと! 事実ですけど、失礼です!」
「どうやって使用できるようにした? おまえは魔力量も少ない。使用する魔力量が減っているということは、やはり術式改造をしたんだろう? どの文献を使用した? いつの時代の古代語だ?」
「ちょっ、もう、質問責めしすぎです!」
ずいずいと詰め寄ってきたリオンはバニラを抱きしめるくらいの勢いで近くにきていた。
あまりの近さに心臓が爆発しそうになったバニラが真っ赤な顔でリオンの胸板を押すと「ああ、すまん」と、まだ興奮気味にリオンが少し距離をとってくれた。
「いや、しかし、頭は回るほうかと思っていたが、まさか術式改造でここまでできる奴だとは思わなかった……」
いつもより早口に言いながら、ひとり頷いているリオンをぽかんと見つめていたバニラは思わず声に出していた。
「あの、気味悪くないんですか? 古代魔術を扱ってるなんて」
幼い頃に浴びた大好きだった人からの嫌悪の視線を思い出す。
努力の成果だった『氷結する世界』は今は失われたと言われている古代魔術のひとつだ。
大好きだった人のために様々な文献を読み漁り、実験を重ねた末に使えるようにするまでの道のりは果てしないものだった。
ただ褒めてほしい。大切なものを守りたい。
その思いだけだったのに、大好きだった人からもらったのは嫌悪に染まった視線だった。
バニラの呆けた声を聞いて、リオンは「何を言う」とむっとした表情を見せた。
「おまえの努力の成果をなぜ気味悪がる必要がある。尊敬こそすれ、嫌悪することなどありえない。おまえは努力した。その結果として力を手に入れたのはすばらしいことだ」
力強く言ったリオンは、柔らかくほほえむ。
「本当によくがんばったな」
大好きだった人に嫌悪され、努力は思った形で報われず、孤独になってひとりで泣いていた。
そんな幼い自分をまるごと包んでくれるような、あたたかい言葉だった。
バニラは目の奥が熱くなるのを感じる。
ぐっと涙をこらえて、バニラは「ふはっ」と噴き出すように笑った。
「やっぱり私、先輩のこと大好きです」
「バニラ、後ろ!」
シャルルの声にバニラが振り返ったのと、リオンが魔術を放ったのは同時だった。
爆風と共に何匹ものウルフが弾け飛んだのが見える。
風で舞い上がった砂の向こう。
「ひっ」
見えた光景にバニラは、思わず声をあげていた。
「なんだこれは……。いくらウルフとはいえ、異常だ」
砂煙の向こう側。
そこには、数え切れないほどのウルフが迫り来る壁のようにうなりをあげていた。