28 夕闇の影
断らなければ。
相手を傷つけるとわかっている言葉を口にするのは勇気がいる。
バニラが意を決して開いた口は、声を出す前にやんわりと閉じられてしまった。
エドガーがバニラの唇の前にたてた人差し指によって。
「気が早いな。デートのはじまりに返事するなら、いい返事でなくちゃいけないぞ。俺は三日はへこむ」
クーリアが昨夜言っていた、友達でいいから楽しく出かけてきてほしいという言葉が頭をよぎる。
バニラが視線をそらすと、エドガーは切なげに笑みを浮かべて肩をすくめた。
「ご安心を。手を繋ぎたいだとか抱きしめたいだとか、そういうことは言わないように我慢するよ。だから、今日は友達としてでかけよう。そもそも今日はお詫びのために誘ったんだから」
「な?」と爽やかに言ってバニラの顔をのぞき込んでくるエドガーに頷かない理由はない。
「うん!」と返事をしてから、ふたりは湖の方へと歩き出した。
エドガーが言っていた湖近くのカフェは本当にデートのためにあるような場所だった。
きらめく湖を見下ろせるテラス席はエドガーが予約してくれていたらしい。
美しい景色にバニラが「わぁ」と声をあげると、エドガーは「ふはっ」と噴き出した。
「え? へ、変な顔した?」
「いや? 友人から紹介してもらってこのカフェにしてみたんだけど、あまりにザ・デートって感じだから引かれたらどうしようって思ってたんだ。喜んでくれて安心した」
エドガーのこちらを見る目は、とても甘やかなものだ。
視線に愛情がこめられているのを感じると照れくさい上に、この後断らなければならないとなると胸も痛む。
バニラが複雑な心境で机に視線を落とすと、エドガーは静かに声をかけてきた。
「あのさ。ひとつ聞いておきたいんだけど」
「なに?」
「俺……その、敬語の方がいい、か? ……ですか?」
「へ?」
そわそわしている様子のエドガーにバニラはきょとんとしてしまう。
机に肘をついて視線をそらすエドガーは頬が少し赤い。
「いや、勢いで告白しちまって。そのまんまの勢いで、距離詰めちまえって考えてタメ語で話してるけど……。バニ、ラッカウス様はクーリア様のご友人ですから。気に障るようでしたらと思いまして」
「そんなこと気にしてたの?」
「気にしますよ。あなたに嫌われたらと思うと気が気じゃない」
肘をついた手に顎を乗せたまま、ちらりとエドガーが様子を見てくる。
バニラはふふっと笑って首を横に振った。
「そんなこと私が気にすると思う? なんせ、エドガーと同じスラム暮らしを経験した人間よ。そんなちっさいことでうだうだするもんですか」
「そ、っか。よかった。あんな状況で告白して、敬語もなくして、無礼な奴だと思われてたらって不安だったんだ」
素直に気持ちを吐露して、まっすぐに感情を表に出すエドガーは見ていると新鮮な気持ちになる。
何かをいつも押し隠して苦しそうにしているリオンの横顔が一瞬浮かんだ。
「あのときは、本当に申し訳なかった。本当に怪我はしてなかったのか? 怖くて眠れなかったとかは?」
「へ? へっちゃらへっちゃら。ほんとに怪我もしなかったよ。エドガーが呪いにあらがってくれたからだって、クーリアも言ってた」
あの呪術は相当強力な呪術だった。
実際に呪術にかけられた被害者の内ひとりはバニラを殺しかけ、ひとりはロイアを殺した。
人を狂わせる呪術に抵抗するには相当強い精神力が必要だったはずだ。
「勘違いしないでほしいが、俺はバニラに死んでほしいなんて思ったことはない。ただ、クーリア様がフラメル様のことを愛しておいでだったので、傍にいる女性であるバニラが邪魔になるかもしれないと、初対面のときに思ったのは確かだ」
「その『邪魔になるかも』って感情を殺意として増幅されたってことだよね」
「クーリア様もそうおっしゃっていた。俺がそんなことを思ったこと自体愚かだと怒ってもいらっしゃったけどな」
苦笑いしてエドガーは頬を掻く。
些細な嫌悪を殺意へと変化させ、実際に行動に移させるほどの狂気へ導く呪術があること。
そして、その呪術を使う相手とリオンが繋がっていることが恐ろしく感じられた。
「本当に怖い呪術だね……」
「ロイアが殺された事件を覚えてるか?」
「もちろん」
「彼女を殺して自殺したジェルトって奴が、この店を紹介してくれた友人なんだ。いつか、ロイアをこのカフェに誘いたいって」
エドガーが湖に視線を投げる。
湖面に反射する光に細められた青い目がキラキラと輝いていた。
「あいつは、人を殺すような人間じゃなかった。穏やかでおとなしくって、一途な奴だった。だから、ロイアを殺してしまった自分を許せなかったんだろうな。俺も、きっとバニラを殺してたら、同じ道をたどってた」
湖から吹きあがってきた風がエドガーの髪を揺らす。
彼の言うことは、間違いなく事実になっていただろう。
エドガーは、きっとバニラを殺してしまったら自分も死んでしまう人間だ。
「よかった。エドガーが私を殺しちゃわなくって」
「え?」
「エドガーが私を殺さなかったから、今ここで私たちはお話できてるし、エドガーも生きてる。それがすっごくよかったなぁって」
やわくほほえむとエドガーの頬が赤く染まる。
「そう、ですか」と咳払いをしてから答えたエドガーは気を取り直すようにお茶を飲んだが、その動きはぎこちなかった。
「それはそうと、一連の事件がバニラの周囲で起こってることが気になってるんだ。心当たりはあるか?」
心当たりなら、ある。
リオンだ。
古代魔術を使えるバニラの身を狙うものはいるだろうが、殺してしまってはその知識を奪えない。
命を狙っているということはバニラの知識ではなく、他の何かが目的なのだろう。
一連の事件とバニラの繋がりは、リオン以外にはあり得ない。
だが、それをエドガーに伝えて、リオンが疑われることは避けたかった。
「ちょっと、わかんない」
嘘を吐くとはどうしてこうも難しいのか。
自然に装ったつもりだったが、視線はおよぐわ声は上擦るわで我ながらひどい出来映えだった。
エドガーの様子をちらりと見ると、エドガーは一瞬目を見開いてから脱力した。
「わかんないかぁ」
「わ、かんないんだよ。ごめんね」
「いいさ。俺の手の届く範囲で君を守るだけだから。クーリア様のためにもね」
にっとエドガーが口角をあげる。
優しい顔に浮かんだいたずらっぽい笑みはかわいらしく感じられた。
今日はじめて会ったときの緊張感も忘れて、ふたりはウェイターが届けてくれたケーキを堪能した。
カフェを出た後には湖の傍でふたりで語り合った。
甘いもの好き同士、おいしいお菓子屋トークで盛り上がり、スラム街での苦労をねぎらいあい、気付けば日は傾いていた。
「あ、そろそろ帰らなくっちゃ」
「門限あるんだ?」
「う~ん、そんな感じ」
告白してくれたエドガーの前でリオンの話をするのは気が引ける。
苦笑して座っていたベンチから立ち上がると、エドガーがバニラの手首をつかんだ。
今日のエドガーは意識してバニラと距離をとってくれているのがわかっていた。
隣を歩くときも手が触れ合わないように少し距離を開けていたし、触れかけた手をさっと引っ込めているところも見た。
だからこそ、いきなりつかまれた手首は熱く感じられた。
「え、エドガー?」
夕焼けがふたりを赤く照らしている。
エドガーはベンチに座ったまま、バニラをじっと見つめていた。
「バニラ。朝聞けなかった返事を……ッ」
「エドガー!」
バニラの叫びにエドガーがハッと振り返る。
背後から現れた何者かは、ふたりが反応する前にエドガーの頭を殴りつけた。
握られていた手首が離れて、エドガーが倒れ込む。
彼に手を伸ばしたバニラの頭部にも衝撃が走った。
ぐらりと視界が歪んで倒れたバニラは、周囲に集まる複数の足をぎろりと睨みつけたが、なにもすることはできなかった。
意識がとぎれる瞬間、目の前を白い光が包んだ。




