23 犠牲者の手記
空っぽになっている隣を見てバニラが思い出したのは、スラム街での記憶だ。
青い長髪のいつも自信がなさそうにしていたあの子。
一緒にいた期間は数日間と短い間だったが、ものを奪われることが常のスラムで言葉を交わして共に眠ったのはあの子だけだった。
心細かったバニラがその存在にどれだけ救われただろう。
生まれもった優しそうな顔を柔和にゆるめて笑うあの子の顔を思い出すのと同時に、あの子がいなくなった日も思い出した。
そう。ちょうど今のように眠りから覚めたら、隣は空っぽになっていたのだ。
「先輩っ。先輩!」
「どうした!」
半泣きになりながらリオンを呼ぶと、あわてた様子でリオンが書庫の隙間から顔を出す。
リオンの姿が確認できて、バニラは脱力して「よかった……」と呟いた。
「魔物でも出たのかと思うだろう。なにをそんなに大声を出しているんだ」
「起きたら、先輩がいなくなっちゃってたから……」
「子どもか、おまえは」
呆れた調子なのに、その声が優しさに満ちているところがリオンのずるいところだ。
へたりこむバニラの隣に歩み寄ってきて、どっしりと座ると、リオンは口を開いた。
「怖い夢でも見たのか」
「昔にも、目が覚めたら友達がいなくなってたことがあって……」
「友達? 父君と旅をしていたときのことか?」
「スラム街にいたときのことです」
「スラム?」
繰り返してきょとんとしているリオンに、バニラは過去を語った。
隠しているわけでもない過去だ。
だが、リオンに話すのは少しだけ緊張した。
リオンがこんなことで軽蔑をしたりする人間ではないということはわかっている。
それでも、スラムで暮らしていた過去があるという事実をリオンがどう受け取るかは怖かった。
「その友人とは、それっきりなのか?」
「はい。たぶん奴隷商に連れてかれちゃったんだと思います。スラムではよくあることなので。あのときのことが、ちょっとだけトラウマで……」
「そうか。だが、俺に関しては心配することはない」
ふっと口角をあげたリオンはからかうような笑みをこちらに向けていた。
「なにせ、俺は最強魔術師だ。寝込みをおそわれようとも何の問題もない」
「あはっ。もう、なんですか。昨日なんておねむだったくせに」
「おまえも大分おねむだっただろうが」
お互い眠すぎてほぼなにを言っていたか覚えていないことをくすくすと笑いあう。
やっぱりリオンはバニラの過去を聞いて態度を変える様子はない。
そう信じてはいても、スラム街に行くことになった理由までは、まだ伝える勇気が持てなかった。
「さて、本題に入ろう。『蒼い結晶』については、今朝早くに起きて探していたところ幸いなことに見つかった」
リオンが手にしていた本をバニラの前に開く。
そこに書かれている古代語は確かに『蒼い結晶』と記されている。
「すごい!」とバニラは喜びの声をあげた。
「さすがすぎます、先輩! ありがとうございます!」
「ああ。捜し物がひとつ見つかったことについては喜ぶべきだろう。だが、もう一点が見つからないことが問題だ」
足下にあるこの移動術式が記された魔法陣を起動させるためには、膨大な魔力がいる。
探さなければならない術式は、転移術式を動かす魔力量を根本から減らせるもの、もしくは自身の魔力量を増やせるものだ。
だが、その術式がどういったものかもわからず、魔術だとしても名前がわからない。
この巨大な書庫の中から、その情報を捜し当てることは一筋縄ではいかないだろう。
「ぐだぐだ言っていても仕方がないな。探し続けるしかないだろう」
地面に手をついて立ち上がり、リオンがぐっと伸びをする。
リオンの細い腰が反る様がなんとも綺麗だと眺めていたバニラは、その後方。
まだ調べていない本棚に、ある名前を見つけて「あ」と声をあげた。
「先輩先輩! すごいの見つけましたよ!」
「なんなんだ、おまえは」
「ほら! フラメルって書いてあります!」
バニラが指をさす先を気だるげにリオンが振り返る。
リオンの背後にあった本棚の中に、『メリーベア・フラメルの手記』という古代語か書かれた背表紙が見えた。
「確かにフラメル家は代々続く家だ。だが、こんなところに保管されているはずが……」
「開発された術式は財産ですもんね。でも、とりあえずここにあるのは確かです! 読んでみましょうよ!」
パタパタと本棚に駆け寄り、手記を手にしたバニラはリオンに手渡す。
リオンがバニラにも見えるように床に置いて、その古い手記を開くとそれは日記のようだった。
「あれ? 表紙はよく見る古代語だったのに、中身は見たことない古代語ですね……」
「これは、フラメル家で使われていたものだな。他の古代語より難解で暗号的な要素もある。表紙は探しやすいように一般的な古代語を使用していたのだろうな」
「う~ん。ぜんぜん読めない……。先輩、ぜひぜひその美声で読み聞かせてください」
「……私はメリーベア・フラメル。双子の妹だ」
読んだリオンが何かに気がついた様子で唇を噛む。
「先輩?」と問いかけると、リオンは気を取り直した様子で口を開いた。
「朗読するには長すぎる。要は彼女はフラメル家に生まれた双子の妹だった。研究に没頭し、屋敷から出ることもほとんどなかった彼女は世間に認知もされていない。だから、この手記で彼女自身の存在を表明するということが書かれている」
「このあたりは研究記録ですか?」
「ああ、そうだ。この本は当たりかもしれんぞ」
「ほんとですか!?」
「ああ。メリーベア・フラメルは魔力量を倍にする術式を考案していた」
ぱらぱらとページをめくっていたリオンの手があるページでぴたりと止まる。
「あったぞ!」
リオンが指さす先に描かれた魔法陣も術式もバニラには読むことができない。
フラメル家独特のその古代語を前に興奮しているリオンにバニラも「やった!」と声をあげた。
「すごいです! なんていう魔術なんですか!?」
「魔術名は……『犠牲者の足掻き』だ」
魔術名は基本的にその魔法陣を開発した人間が名付ける。
バニラの『氷結する世界』も『蒼の結晶』も古代魔術の本にそう記されていた名であり、効果に関連づいた意味がこめられている。
『犠牲者の足掻き』というのは、この魔術の効果からすると不思議な名前に感じられた。
「先輩のご先祖様は不思議なネーミングセンスをお持ちだったんですね」
「魔術名はいいだろう。魔力が倍増すれば、ギリギリ転移術式を起動できるかもしれん」
覚え立ての魔法陣をリオンが宙に描き出す。
光で描かれた魔法陣をそのまま胸に押し当てると、魔法陣の取り込みは完了。
これで魔力消費量はあがるが、いちいち魔法陣を描いて魔術を使用しなくてよくなる。
『犠牲者の足掻き』の場合は使用する魔力量よりも増える魔力量の方が圧倒的であるため、魔力消費量が増えることはあまり関係がないのだろう。
「魔力量二倍で動きますかね?」
「動かなければ、もう一度『犠牲者の足掻き』を使うまでだ。増える量は少しずつ減るだろうが、理論上可能ではあるだろう」
魔法陣はそこに記されている術式の古代語を理解し、理論を理解していないと動かない。
移動術式は解読できても、フラメル家特有の古代語が解読できないバニラには『犠牲者の足掻き』の使用は不可能だ。
「先輩!」
『蒼い結晶』を抱えて、バニラは床に描かれた魔法陣に手を当てようとしゃがみこんだリオンを見つめる。
バニラの声に振り返ったリオンは、ふっと笑んだ。
「大丈夫だ。そんな不安そうな顔をされたら、やる気が失せるだろう」
古代魔術には、その強力さ故にリスクがついてくるものもある。
魔力量を倍にするだけなんて、都合のいい術式があるのかということがバニラは不安だった。
「体がおかしかったら、絶対やめてくださいね」
「ああ。わかった」
頷いたリオンは『犠牲者の足掻き』を使用する。
リオンの頭上に浮かび上がった透明な玉がパリンと割れると、リオンの魔力量が上昇したのが感じられた。
「すごい……。さすが古代術式」
「フラメル家が魔術師一族として名を馳せる理由がわかるだろう」
感情のない声で言いながら、リオンは移動術式の魔法陣に両手をつく。
ぼんやりと光るもののまだ起動はしない。
バニラもリオンの隣にしゃがんで、魔法陣に魔力を送ったが微力でしかなかった。
「この術式が旧式のだからですかね? ぜんっぜん動く気配ないです!」
「動くまで送るだけだ」
リオンの頭上でまた透明な玉が割れる。
ぐんとリオンの魔力量が上昇し、魔法陣の輝きが増した。
「あと少しです!」
ぐっと歯を食いしばったリオンが、三度目の『犠牲者の足掻き』を使用する。
苦しげな横顔に、なにが起きているのかと怖くなったが、バニラが止める前にリオンは最大出力で魔法陣に魔力を送り込んだ。
カッと魔法陣全体が輝き、術式が起動する。
完成した外の世界への扉を前に、リオンががくりと座り込んだのを見てバニラはあわてて駆け寄った。
「先輩! 大丈夫ですか!?」
「ああ、やかましい。おまえの声が頭に響く……。問題はない」
「問題なくなさそうですけど!?」
声のうるささを指摘されたため、小声で声をかけると額を押さえたリオンが観念した様子で汗を拭った。
「『氷結する世界』ほどの強力さではないにせよ、『犠牲者の足掻き』も古代魔術のひとつだ。魔力を少量使って魔力量を二倍にする。その代わりに体力を根こそぎ持って行かれる。こうして意識を保っていられるのは三度が限界だっただろうな」
リオンの呼吸が乱れている。
魔法陣に相当量の魔力を送っているため、魔力量も減っていることだろう。
ぐったりとしているリオンにバニラは余っていた薬草を急いで差し出した。
「ありがとうございました、先輩。先輩のおかげで外の世界に帰れそうです」
「ああ、そうだな。帰ったら、今度はあのチビ竜を探さなければならんな。そろそろ腹をすかせている頃合いだろう」
「ほんとですね。シャルはくいしんぼだから」
薬草を苦そうに頬張って、呼吸を整えたリオンが立ち上がる。
それを待ってから、バニラは輝く魔法陣へと目を向けた。
この魔法陣に一歩踏み入れれば、禁断書庫ともお別れだ。
「少しの間でしたけど、先輩とふたりっきりの世界っていうのも悪くなかったです」
「俺はやかましくてうんざりしたがな」
「もう、先輩ったら!」
「ふざけていないで、行くぞ」
リオンがバニラの手を握ってくる。
ふたりで同じ場所に間違いなく転移をできるように手をつないだのだとわかっても、肌がふれあうことにドキドキしてしまう。
「せーのっでいきましょ。いきますよ~。せ~のっ!」
バニラのかけ声で、ふたりは一緒に魔法陣に足を踏み入れる。
視界が歪み、白く染まる。
瞬きをすると、そこは地下書庫に通じる隠し通路の前で、そこにはクーリアとエドガーが立っていた。
「ッ……バニラ!」
バニラが突然現れたことに涙ぐんだクーリアが駆け寄ってくる。
バニラは飛び込んできたクーリアの体をよろつきながら受け止めて、ぎゅっと抱きしめた。
「クーリア! 会いたかったよぉ!」
「無事でよかったですわ。本当に、もう会えないかと思っていましたのよ!」
「『蒼い結晶』も見つかったんだよ、ほら」
クーリアと体を離して、持って帰ってきた魔術書を手渡す。
クーリアは、大切そうに受け取って浮かんだ涙を拭った。
「魔術書、ありがとうございます。ですが、私はあなたが無事に帰ってきてくれたことの方が今は嬉しいんですの。せっかく見つけてくださったのに、感動が薄くてごめんなさい」
「ううん。私もクーリアとエドガーにまた会えてすごく嬉しい」
「バニラからは、リオン・フラメル様の魔力を感じていましたから、きっと彼女を守ってくれると信じていました。私の大切な友だちを守ってくださって、ありがとうございました」
クーリアはきっとリオンがバニラにかけていた守護の呪いに気がついていたのだろう。
まだ回復しきっていないリオンは、気だるげに頷いた。
「バディとして当然だ。犬死にされては困るからな。こいつは想像以上に阿呆なものでな。いつどこで死んでいるかわからんから恐ろしい」
「先輩! ひどいですよ!」
「誠におめでとうございます、クーリア様! これもまた運命の再会ですね」
エドガーがクーリアの後ろで拍手を送る。
もう見慣れた光景。
エドガーの大げさな祝福癖。
クーリアが「やめなさい」といつもの調子で振り返ったが、そこには既にエドガーはいなかった。
「エドガー……?」
気づけば、喉に冷たいものが触れていた。
手は背中に回されて身動きがとれない。
なにが起きたのかと振り仰いだ頭の上には、エドガーの困惑した顔があった。




