俺が“僕”だった時の話③
おじさんが先にお風呂に入り、明石小春は僕に次にお風呂に入るように促してきたが、僕はただの客人であるため、そこは遠慮して、先に明石小春に入ってもらうことにした。
おじさんはお風呂上りにまだ飲み足りないのか、ビールを一本飲み、それを空にするともう寝ると言い、床へ就きに自分の寝室へと向かった。
僕は改めて一人になることが出来た。今にして思えば、急展開すぎてあまり事態を飲み込めていない。
なぜ、僕がこんな目にあわされているのか、まったくわからない。
だが、僕は気付いてしまう。今、このタイミングなら、この家を抜け出すことが出来るかもしれない。そうだ。明石小春が今お風呂に入っているこの状態であれば、間違いなく抜け出せる。
いきなり全裸でお風呂から出てこない限り、タオルで身体や髪の毛を拭き、着替える時間まである。すぐに気付かれてもこれは確実だ。
よし、そうしよう。今抜けよう。
しかし、僕の体は不思議と動くことがなかった。
結局、僕もなんだかんだ人に興味がないとか言っておいて、簡単にほだされてしまっているのだろうか。
それから、しばらくこの家を抜け出すか抜け出さまいかを考えていると、
「ふぁぁ、気持ちよかった。それじゃあ、壮馬君もお風呂、どうぞ」
と明石小春が居間に戻ってきたしまった。結局、行動に移すのが遅くなってしまったようだ。
まだ少し濡れた髪の毛は乾燥している状態よりも艶が増す。湯上がりで体温が上昇しているのか、少し上気した頬は僕たちがまだ中学生であるということを忘れてしまうくらいには色気のようなものを感じてしまう。
「壮馬君?」
「あ、いや。なんでもない。僕、着替えとか持ってなくて」
「あ、それなら、大丈夫。この間お父さんのために下着とか寝間着とか新調して、まだ開けてもいないやつがあるから、それ持っていくね?」
もちろん、僕は実際にそんなことを気にしていなかったわけだけれど……。明石小春はタオルで髪の毛をポンポンとしながら、その心配はいらないということを説明してくる。
「そっか、じゃあ……」
とおじさんがお風呂に入っている間に教えてもらっていたお風呂場へと僕は向かうことにする。
「あ、そうだ、壮馬君。私を先にお風呂に入れたからって、残り湯とか飲んじゃだめだよ?」
「は?」
全然、意味が分からない。なぜ、僕が明石小春の入った後のお湯を飲まなくてはならないのだろう。そんなことをするのはおそらく変態だけだ。
だが、なぜか明石小春は上気させた頬をさらに紅潮させ、本気で恥ずかしがっているように見える。
「そんなことしないけど……。というか、むしろそんなの汚くて出来ないよ……」
「だって、お父さんが男ならば女の入った後のお風呂のお湯を飲むのが礼儀だって」
「酔っ払いの言葉を真に受けても仕方ないでしょ……」
なんだろう、明石小春の常識のない、なんというか型破りなところはある意味ではあのおじさんが変なことを吹き込むからこんなことになっているのだろうか……。
「飲まれるのも恥ずかしいけど、それはそれでなんか傷つくなぁ……」
と反論してくるが、僕は無視をして、お風呂場へ向かうことにした。
脱衣所で服を脱ぎ捨て、僕は先にシャワーを浴びる。そして、身体中の汗をひとたび洗い流し、僕は湯船へと浸かる。
明石小春の趣味なのか、柑橘系の入浴剤の溶けだしたお湯は身体を芯からしっかり温めてくれる。
「壮馬君、外にいろいろ置いておくね」
そのとき、明石小春の声が脱衣所の方から聞こえてくる。
僕は、別にみられているわけでもないのに、くつろいだ姿勢から少しシャキッと姿勢を直し、
「あ、うん、ありがとう」
と明石小春へお礼を言う。そして、明石小春が髪を乾かすためにヘアドライヤーで髪の毛をしっかりと乾燥させる音がしてくる。まだ、明石小春はそこにいる。少しの緊張感と共にお湯につかる。
「あ、そうだ。壮馬君のお洋服とかお洗濯しておくね?」
と髪を乾かし終わったのか、明石小春がそう言う。
「え、あ、いや別にそこまでしなくても!!」
と僕の反論の前に、明石小春は僕の服を回収していたのか、
「へぇー、壮馬君って、中学生にもなってブリーフなんだぁ。へぇー」
「ちょ、ちょっとまって! 別に中学生がブリーフ履いててもいいじゃない! というか、パ、パンツは洗わなくていいから!」
僕は驚いたあまり立ち上がろうとするも、風呂桶の中にダイビングしてしまう。
「えー、でも幼馴染の子はブリーフ履いてるって茶化されて怒って、トランクスにしてたけどなぁ。それに、下着こそちゃんと一回はいたら洗わないとばっちいよ?」
という声も聞こえていたが、それより、僕の口の中には湯船のお湯が奔流してくる。
そして、お風呂の中でおぼれるとかいう意味の分からないことにならないように、冷静に、僕はもがきもせず、ゆっくりとお風呂から顔を上げる。
「げほ、ごほ……」
驚きのあまり、本当に湯船のお湯を飲んでしまうところだった……。
何というか散々すぎる……。
もう、さっさとお風呂からあがって、しっかり髪の毛や身体を洗って上がってしまおう。
「じゃあ、壮馬君、先にお布団敷いてくるから、お風呂あがったら、居間で待っててね? 新品の歯ブラシとかもここにおいておくからー」
といい、明石小春の気配は消える。
そういえば、さっきから新品のものが備蓄されているようだけど、あまりにも用意が良すぎる。それは置いておいても、新しいものを開けてくれるわけだし、しっかり後でお金は渡しておかないと。先ほど、家計が厳しいとかそんなことを言っていた気がするし。
僕は髪や身体をすみずみまで洗い切り、お風呂を上がる。
脱衣所に出ると、綺麗に折りたたまれた服や下着などが置かれ、洗面台には確かに新品のような毛並みの美しい歯ブラシが置かれていた。
普通なら、ここまで僕と同い年にも関わらずここまで気が回る同級生に頭が上がらないのだろうが、僕はなぜか少し恐怖心すら覚えてしまう。
さらにはそこそこガタがきそうになっているのか、激しく揺れ動く洗濯機が僕の服たちを思い切り嬲っているかの如き印象を与えてくる。
僕は……もしかして、変なところに迷い込んでしまったのでは?
ほ、ほらよくあるじゃないか。世にも奇妙ななんとか、とかサスペンスとか。
そうだ、そもそも明石小春の母親はどこに行った?
例えば、明石小春の母親を殺した現場を僕が気付かぬうちに見ていて、それを知ったおじさんが僕をとっつかまえるためにわざと間違えたふりをして僕を拉致した、ということはあり得ないか……?
いや、万に一つもない。億が一すらありえないと思う。だが、ありえないなんてことはありえない。だからこそ、現実は小説より奇なり、などという言葉すら生まれる。
「壮馬君、って、壮馬君、お風呂あがったなら、下着、下着、早く履いてよ、もう!!」
と僕の意味も分からない非現実的な被害妄想を吹っ飛ばすように後ろから明石小春の声が聞こえる。僕は振り返ってその明石小春を見ると、本気で恥ずかしがっているように、両目を手で押さえている、ように見えるが片方の目を抑える手だけ隙間が開いている。
僕はパンツを履くよりもまだ身体すら拭いていないため、タオルで下半身を隠した方が早いと思い、タオルで急いで下半身を隠す。
「ど、どうしたの、明石さん」
明石小春は耳まで顔を真っ赤にしつつ、両手の目隠しを外し、僕をまじまじと見る。
いや、それでもまじまじと見つめられると僕も恥ずかしいのだけれど。
「あ、あのね。明日、土曜日でしょ? だから、一緒にお出かけしようよ、って言おうと思ったんだけど……、どうかな?」
ここでこのままの格好でいるよりも、ここでさっさと頷いて出て行ってもらう方がいいだろうか。
いや焦るな、違う。とりあえず、それは保留にして、今すぐここから出て行ってもらうことの方が最優先だろう。
「それはまた後で話そう。着替えてから、すぐ居間に行くよ」
と僕が言うと、明石小春は言葉を発せず、二、三度うなずき、脱衣所から出ていく。
いらぬ妄想をした、けれども、実際、明石小春もおじさんもあまりにも突然僕に気を許しすぎている。正直、僕はそんな得体のしれない何かを信じられるほど、人を愛して育ってきていない。僕にはまだ二人を信じることが出来ない……。