俺が“僕”だった時の話②
「それで、壮馬君はなんで学校に来ないの?」
と明石小春はお茶碗を手に持ちながら、箸も動かさずに目を輝かせたように僕に突然問うてくる。
その前に、僕はいきなり僕のことを突然下の名前で呼ぶ見知らぬ同級生に驚愕を覚えてしまう。
どこから手を付けよう。僕のことをいきなりにも名前で呼んでくるこの子に対して、下の名前で呼ばないでほしいとでもいうか?
いや、僕は別に下の名前で呼ばれることに関しては特に何も思わない。突然過ぎて驚いているだけだ。
それよりももっと突っ込まなければならないのは、失礼にもずけずけと僕のことを詮索してこようとするこの感じだろう。もし、僕がいじめなどを苦に不登校をしている生徒だったらどうするのだろう。こんなに目を輝かせて聞くことではない。
それか僕は僕で気が向いたときに学校にいくから不登校児としてはみなされていないのか。もしかして、明石小春は不良ではなくても僕が何か一般然としないミステリアスな男だとか思っているのだろうか。
もう、もはや無視するのが正解な気がしてきた……。
せっかく出していただいた白米を僕は一口、口にする。
ちょうどいい塩梅の炊き加減。硬くもなく、柔らかすぎもしないもっちりとした触感、ふくよかな舌触りで咀嚼するたびに米の甘味が口いっぱいに広がる。
これは、美味しいな。白米だけでもこの美味しさなら、このカレイの煮つけと一緒に食べたらどれだけ旨みのハーモニーが口の中で広がるのだろう。想像しただけで、口の中の唾液腺から大量の唾液が分泌されてくるのがわかる。
正直、この子に関わりたくはないけれど、このご飯だけは毎日でも食べたいかもしれない……。とても現金な舌だな、僕の舌は。
「お、お父さん、壮馬君が無視する……」
「おい、てめぇ、家の小春を泣かせようってのか??」
おい、おじさん……、その子の口元をよく見てください、笑っていますよ。
面倒くさいなぁ、この親子。
「はぁ……。いえ、大した理由はないです。行く気にならないから行かない、それだけなんです」
と僕は実際に思った通りのことを言う。
学校に行っても仕方ないとしか思えないし、それで母親が僕のことを気にするならいいけど、行っても行かなくても変わらない。それなら、行かなくたって問題はない。
勉強だって暇なときにすることもあるし、その辺のまったく勉強していない中学生よりは勉強はできる自信がある。
しかし、僕のその言葉に対して、二人は両極端の反応を示す。
明石小春に関しては目の輝きがさらに深まる。
いや、だからなんでそこで目の輝きが深まるの?
と突っ込みたくなるけれど、その前におじさんが鬼のような形相になっているのが見える。
「舐めたこと抜かしよる。お前さんがそう思うのは勝手だ。お前さんの母親と会話して、お前のような考えに至るやつがいてもおかしくないのもわかる。だが、学校だけは絶対に行け」
「勉強は自分でやっているので、そこはお構いなく。それに僕がどういう進路を選んだって、母親は何一つ文句も言わないので」
僕はおじさんに反論を試みる。僕の意見は間違っている部分もあるかもしれないけれど、それでも僕は筋を通しているつもりだ。高校だって母親のお金で行くくらいなら行かなくたっていい。さっさとどこかで働き始めて、自分だけで生活していくと決めたのだ。
「話だけを聞くと、今のお前さんが今のまま行くところまで行くと、お前さんは死ぬぞ?」
何を言っているのだろう、このおじさん。僕にははっきりと何が言いたいのかわからない。
それはつまり、中卒で働き口がないからお金を稼げなくて、どんどん悪い方に行って結果的に死ぬってことなのだろうか。
「ちょっと、何を言っているか意味がわかりません。中卒で働けないとかそういうことですか?」
「ふむ。それがわからないんじゃ、話にならん」
「は? 全然意味がわからないんですけど」
「ま、まぁまぁ! お父さん、壮馬君もそんな喧嘩腰にならないで? 別に行く理由は後から探せばいいんだよ、今はわからないならわからなくてもいいから、自分のペースで、ね?」
「はは、明石さんは大人だね」
「え、そんなことないよ」「お、そう思うか?」
いや、あんたじゃないよ……、おじさん。
ふたりは僕のその漏れ出た一言に対して同時に反応してくる。どれだけ仲いいんだ、この親子は。というか、おじさんも照れているけど、あんたが大人じゃなかったら一番困るはずだ。
でも、少しうらやましいな。僕も、もっと母親とこうやって仲良くご飯を食べて、少しでもいいから僕の話を聞いてほしい、ただそれだけなのに。
不意に、僕の目がしらが少し熱くなってきてしまうのを感じる。
ここで泣いてはいけない。
僕は自分を律する努力をする。大丈夫、今は単純にそう、なんとなくこの二人を見ていて、感傷的になってしまっただけだ。
「壮馬君、ごめんね、ご飯口に合わなかった? それとも、お父さんが言いすぎた、かな?」
明石小春は僕のその様子を見て、何かを感じ取ったのか、僕を心配するような声をあげる。
本当にこの子はなんなのだろうな。別に、僕のことを心配する意味なんてまったくないのに。
「いや、明石さん。どっちでもない、大丈夫だよ。ご飯も、美味しい……」
「そっか、それならよかった!」
僕は中断してしまっていた、ごはんの続きを食す。やはり、カレイの煮つけとこの白米の相性も抜群に優れている。
おじさんは何杯かの日本酒の肴としてカレイの煮つけなどを食している。
酔っぱらってきたおじさんはさらに絡んでくる。
「それより、坊主。お前、友達いねーのか?」
また、唐突だし、それを面と向かって聞いてくるあたり、このおじさんは本当にすごい人だな……、いろんな意味で。
僕に友達がいないのは事実だ。否定する理由もない。
「えぇ、いません。それがどうかしましたか?」
「てやんでぃ、べろぼうめぃ!!」
「…………」
僕はなにもいえなかった。いや、ちょっと意味が分からなかった。
「あの、明石さん、この人は江戸時代の人か何かなの?」
「あぁ、壮馬君。ごめん、お父さん酔っぱらうと、馬鹿だから。気にしないで? あとお父さんは江戸時代の人なんかじゃなくて、平成が嫌いなおじさんなの。だから、本当に気にしないでね……」
「小春、今日からおめぇが友達になってやれ! 坊主!! どうせ、帰っても母親がいねぇんだ、今日は家に泊まっていけぇ!!」
「え、いいの、お父さん?! ほんと?!」
「は?」
明石小春に酔うと馬鹿だからと言われていたおじさんのことは無視するので別にいいとして、なぜ明石小春が急に僕が家に泊まることに賛成し、しかも喜ぶんだ。
それに、僕がそもそも賛成していない。僕は家に帰って一人で寝たいのだ。
「なんだ、坊主文句あんのか? ならば、わしと勝負じゃ。腕相撲でわしに勝てば、見逃してやろう」
「いや、それ絶対勝負にならないですよね。あんたたち、めっちゃ謎の腕力があるじゃないですか」
「なんだぁ、勝負する前から諦めるのかぁ? おめぇ、それでも本当に男か?」
こんなくだらない挑発に乗る必要はない。だが、結果的に僕はここで勝負しない限りは僕の主張は通らない。
こんなひどい勝負あるわけない。仮に勝負を拒否して、不戦敗になって、それを無視しようにも結局この親子の謎腕力によって僕は家に帰ることを許されないだろう。
僕が素直にうなずくか。勝負をするか、どちらかしかない、というかおそらく勝負をしても負ける。勝ち目があるとしたら、酔ったおじさんの腕力が弱まっている可能性に掛けるしかない。
よし、それだ。それしかない。
「わかりました、受けて立ちましょう」
僕のその一言は食事後すぐに果たされることになる。
食事が終わり、明石小春がシンクにいったんすべての食器たちを片付け、食卓を拭くと、すぐにおじさんは腕を伸ばしてくる。
僕もそれに従い、右腕を伸ばし、がっちりとおじさんの手を握る。
明石小春がすぐにその場に駆けつけ、
「レディー、ふぁいっ」
と掛け声を上げた刹那。
コンという食卓と拳がぶつかる音が鳴る。
「はい、わしの勝ち」
僕はいったい何が起きたかすらわからなかった。
腕の痛みのみが一瞬にして右腕をおじさんに持っていかれたことを教えてくれる。
……やっぱり、まったく勝ち目なんてないじゃないか、こんなの初めから僕がこの家に泊まる前提の話になっていて、僕に拒否権なんてない。いや、もしさらに勝ち目があるとしたら、僕は誘拐されているというしかない。だが、そんな嘘をついてこの親子に迷惑をかけるほどこの親子のことを憎んだりしていない。
「じゃあ、坊主。今日はゆっくり小春の話し相手になってやってくれ。お前さんの話も小春ならしーっかり受け止めてくれるからなぁ」
「お父さん? 余計なこと言ったらだめだからね?」
「おーん、小春たん、ごめんよう、可愛い可愛い小春たんちゅー」
「お父さん、さすがにそれは気持ち悪い。お客さんの前なんだから、少しは酔いを醒ましてきてください。お風呂も沸いてます」
おじさんは酔っぱらうとキャラ崩壊系のおじさんらしい。実際に僕も見ていて少し恥ずかしい。おそらく明石小春が一番恥ずかしいのだろうが。
おじさんは明石小春の指示通り、少し赤くなった顔のまま食卓を離れた。
でも、大丈夫なのだろうか、酔っぱらったままお風呂に入ると危険だと聞いたことがあるけど……。だが、とりあえず嵐は過ぎ去った……。