あの日のベンチ。
えっと、え、なんて?
いや、わかってるはっきりと聞こえた。
聞かなかったことになんて出来ない、こんな耳元でささやかれてそれをスルーできるほど俺の耳は遠くなければ、しっかりと話を聞こうとして集中していたため、寝ていたなんてことはない。
部屋の中は再び静寂に包まれる。俺の心臓の鼓動はこれを予感していたのか、余計に鼓動を速める。普段がバラードでよくあるBPMだとして、今は疾走感があふれるロックにあるようなBPMくらいの速度はある。
止まったように感じたときは動き出し、時計の秒針が動く音が聞こえ、刻一刻と時が経っているのがわかる。
気付いたら、俺はベルトで肩に抱えていたギターから手を放していた。
どうすればいいんだ……。想定外すぎることが起きて俺にはどうすればいいかわからない。
答えを今すぐ出す方がいいのだろうか……。
「はい、これで私のお話は終わりです。今、こんなこと言われても困りますよね、わかってます」
と少しか細い自信のないような声が俺の耳元に届く。
冬菜は俺から離れ、再び自分のベッドの上に座る。
俺は未だに何も冬菜に言えずに、冬菜の顔を見つめてしまう。
「あ、あの……、さすがに今そんなに見られたら恥ずかしいです……」
冬菜は俺がじっと見つめているせいか、左斜め下に目線を向けて少し顔を伏せる。
耳まで赤くなっているのがよくわかる。
「わ、わるい」
俺もいたたまれない気持ちになりつつ、顔を逸らしてしまう。
俺の心臓はその冬菜の態度を見て俺の身体から離れたがっているのだろうかと思うくらいに跳ねる感覚を感じる。
とにかく、やはり今すぐには答えが出せない。バンドのこともあるし、何よりも俺自身が今は答えを出してよいのか俺自身もわからない。少なくとも俺の理性が今はそのときじゃないと言っている。
「冬菜の気持ちはわかった。だけど、今はバンドの再結成が最優先だと思ってる。だから、もう少し待ってほしい」
「はい! もし、壮馬くんが同じ気持ちでいてくれるなら、あのその……、お付き合いしてほしいです。お返事はいつまでもいいので、いつかは答えを聞かせてほしいです」
俺の顔はこれまでにないほど、熱くなっている気がする。
小春と一緒にいたときでさえ、そういう瞬間はあっても、小春からそういう言葉をもらったことがないのだから、当然の帰結なのかもしれない。
今、俺は過去の俺が欲しがっていた愛は誰もが大切な人やものへ向けているのだから、大切に思う気持ちが本質的には愛だ、と思っている。だが、冬菜が俺に向かってささやいた言葉はそれだけで説明がつくのだろうか。
正直、よくわからない。
頭が夢を見ているようにぼやぼやとする。
だが、ハッキリと覚醒しているのだけはわかる。今すぐ眠れといわれても眠ることが出来そうにない。
「あ、そろそろ時間です。壮馬くん、お話を聞いてくれてありがとうございます」
冬菜が先に時計の時間に気付く、まもなく22時になることを指していた。
「そ、そうだな。よし、じゃあ俺は帰る。また、明日な」
「はい」
俺は冬菜の部屋を急いで出て、玄関で靴を履く。
冬菜は玄関まで見送りに出てくれる。
そして、俺が部屋を出て、ドアの方に目を向けると、冬菜は照れくさそうな笑顔で手を振ってくる。
俺もそれにつられて手を振ってしまう。
なんていうか、俺が俺じゃないみたいだな……。
そのまま階下に降りるためにエレベーターの前に行く。
今日は夜でも夏らしく、外の気温は高いらしく身体が熱を帯びている。
エレベーターがやってくると、二人組の大きなエナメルバッグを持った女子生徒が出てくる。
その二人になぜ男子生徒がいるのだろうか、という怪訝な表情をされるのがわかる。
俺は急いでエレベーターに乗り込み、ゆっくりと降りるエレベーターに身を任せる。
エレベーターが落下する速さとは対照的に俺の心臓の鼓動は未だに落ち着きを取り戻さない。
おそらく、先ほどの女子生徒たちとすれ違ってしまったことでもう一度俺はそれを意識してしまったのだ。
あの二人は顔なんて知らないが、間違いなく冬菜のルームメイトだろう。
彼女らは先ほど自分たちの部屋で行われたことも知らずに冬菜に迎えられる。俺と冬菜の二人だけがその秘密を共有してしまったかのような不思議な感覚がある。
女子寮を出ると、俺はどうしようもない衝動を抑えきれずに、走り出してしまう。
その途中で視界に映るあの日、冬菜が来るのを待ったベンチ。
俺にとってここはひとつのターニングポイントだったかもしれない。
俺はせっかく走り出したのに足を止め、そのベンチに座り込んでしまう。
俺は俺自身の周りにはたくさんの大切な人がいて、そして、冬菜もそのうちの一人になるという予感がしていた。あの時なぜそう思ったのか、そのときはわかっていなかったが、なんとなく理解してしまった、のかもしれない。
あの日は冬も終わりを告げ、春の訪れを感じていたのに、寒気の影響で雪が降るほどの寒さだった。ここで冬菜を待って、でもやってきたのは沙由菜だった。
沙由菜の言うことも聞かずに、俺はなんであんなに必死だったのか。
きっと、俺は誓ったからだ。あの雪の日に、大切なものを大切にする、二度と手放さないと。
俺があの日手放したのは小春への未練だ。だから、俺がやはり小春を選ぶということはない。
俺が悩むべきは……、右手を選ぶか左手を選ぶか、そういうことに等しい気がする。
そして、その二つをそれぞれに想う気持ちは驚くほどに対照的であることもわかる。
そう思っていると、俺の頭の中で何か弾けるような、思いついたようなすっきりしたような感覚が出てくる。
今考えていたこととは全く別だが、これが降ってきたという感覚なんだろうか。
曲を作れと言われて、そこに向き合いすぎていた。俺が小春に何かを伝えたくて書いた歌詞、それを元に作った曲すらある。つまりは、歌いたい歌詞から曲を膨らませたというものだ。
上手く曲を形作れない理由の一つに、どんなことを歌いたいか、そういうイメージすらなかったというのも理由の一つなのだ、と今気づいた。
俺が今、歌いたい事。
きっと、それはここにある。
俺があの日、誓ったこと。俺たちが再結成するのにふさわしい曲。
それは、大切なものをもう二度と手放さないという決意そのものだ。
それはバンドのメンバーにもファンだって言っていた人たちにも言えることだ。
どんなバンドにもありあえる話の一つとして、ファンの人たちが求めるバンド像と解離して、ファンが離れてしまうような話とは別次元の話なんだ。俺がそういう人たちも裏切って手放してしまったからこそ、もう一度やり直させてほしいという気持ちを伝えなくてはならないのだ。もし、もう一度それでも好きでいてくれるならもう二度と手放さない。
そして、小春にもこの気持ちを伝えられる曲。
きっと、俺はもう小春との未来を選ぶことはない。でも、俺が手放してしまった大切な人にもう一度一緒にいようと言えるような曲。もしも、もう一度一緒にいてくれるなら、もう二度と手を放すことはない。それは小春も一緒だ。
最後に、沙由菜と冬菜に感謝を伝えられる曲。
あの時がなければ、今の俺はない。俺がこうしたいと思えた理由を作ってくれた二人に俺の想いを伝えられる曲。
俺の彼女たちへの想いは驚くべき程に対照的であることに気付いた。真逆でもその二人が同じだけ大切であることは言及する必要さえない。だが、そのありったけをぶつけられるような言葉で、そしてその気持ちはみんなに対しても持っているということを、そしてもうそれを二度と手放さないようにするということを俺は歌いたい。
ならば、俺のやることはもう決まった。
俺は冬菜のぬくもりを思い出す。まだ、背中に冬菜の体温が残っている気がする。目には見えないけれど、そこにある。感じられる。
沙由菜の心の温かさも思い出す。俺のことをずっと一番近くで見守ってくれて、根気強く俺にエールを送ってくれた。言葉には出さなくてもわかる。伝わっている。
二人は俺に力をくれる。明日の練習の時に二人に協力してほしいと伝える、そして、残り少ない時間で智也を納得させられるような曲を作る。
俺は一度気合を入れなおし、自分の部屋へと足を進めた。




