一周忌
久しぶりに四作目です。また暗いデス。ホントは長編の最後に付ける為に書いたものを書き直しました。内容が苦しくて挫折しまシタ。いつか完成できるといいんですケド…。読んでやってくだサイ。
光陰矢のごとし
少年老い易く
学成り難し
彼女が死んでから一年が過ぎようとしていた。
僕が住むこの町では盆地という底の深い皿の上に寒空という蓋が覆い被さり、辺りを張り詰めた白に染め、やがて緩やかに春という風が全てを生命力に溢れた緑に洗い流す。それが終わると生暖かく不快で憂鬱な雨がすべてを濡らし、意地悪な夏の日差しが皿の中身を灼熱の光の中に縛り付ける。そして気がつけば辺りの色は徐々にではあるが確実に朽ちていく色へと向かい、いわゆる女性の気持ちに例えられるような変わりやすい空が浮かぶこととなる。
この空、白いキャンバスに汚れた水をこぼしたようなくすんでぼやけた空の見える去年のそんな日の午後に、大きな大きな病院のある病室で僕は彼女に出会った。
そして今また寒空という蓋が僕の頭上を覆おうとしている。
彼女が消えてしまった日と同じ日までもうまもなく。
彼女が死んで一年が過ぎようとしている。
僕にそのことを教えてくれたのは季節の流れでなく、日々の生活でもなくただ携帯に映るデジタルな数字だけであったように思う。僕の生活は動くことなくただ流れていた。
何も考えることが出来ないでいたのでその一年は大学へは殆ど行かなかっように思う。3年の前期終了後、早々と僕の留年が決定した。それでも何もしないというわけではなかった。
僕はただ体を必要以上に動かすことに従事していた。サークルへは毎回出て日の暮れるまでボールを蹴っていた。サークルが終わるとそのまま友達を家へ連れてきて、夜が明けるまで騒いで疲れるとそのまま眠った。サークルのない日は市営プールに行き体が鉛のようになるまで泳ぎ続けた。その後いつも帰ってすぐ酒を飲み出し、吐き気と腹痛の中で気を失うように眠りについた。部屋のカーテンはいつも閉じていたので、目を覚ました時は決まって携帯の時計を見ないと自分がいつからいつまで寝ていたのか、あれから何日経ったのか体に認識させることは出来なかった。運動による疲労感と二日酔いの気だるさに僕はまどろみの中に何度も顔をつけ、うとうととする。そしてまた、浅い夢の中へと僕は帰っていくのだ。
そんな中、決まって僕は彼女の夢を見た。
正直に言って悪夢という種類の夢に入ると思う。
その恐怖に冷や汗を掻き寝覚めの悪い思いをすることがたびたびあった。
だからといって、その不規則な生活は僕の体に対して今だ特別な歪みをもたらすこともなく、何事もないまま広がり続け、僕の意識の居る場所と刻々と流れる現実との間を綺麗に埋めていくのだった。この時間が人生の浪費というべきものに当たることは自分でも分かっていた。これほどの自堕落な生活はないと思った。
随分と時が過ぎた。
それでも彼女の細く骨のように白い体は僕のまぶたの裏に深く刻まれているし、僕が彼女に何をすることが出来たのか、彼女のそばに居続けていたらどうなっていたのか、彼女の影ともいうべきものが僕の頭で同じ道をぐるぐると回り続けている。もちろん、たどり着ける場所なんてない。死んだ人間は何もしゃべらないし、何を訊くことも出来ない。自分がこれからどうすればいいかなんて自分にしか決められない。それでもただ、先を考えることが出来ないでいた。
答えのないようなことに悩み、煮詰まってしまった僕はある日彼女の居た病院を訪れた。
概観をみても一年前との違いはどこにも見出せない。
大きな白い建物はあの時と変わらずそこに建ち続けている。
彼女と寝た日、独り月を眺めた窓が見える。今では他の病人が使っているようだ。
そのことに気付いただけで何故か少し寂しい気持ちになる。
卒業した学校を訪れる時に似ていた。
一時期とはいえほぼ毎日通っていたので看護婦の一人が僕を覚えていて、こちらに気づくと話し掛けて来た。この看護婦は彼女の死をとても残念そうに話した。病院関係者は彼女が助からないことをずいぶん前から知っていたのではといったような疑問が浮かんだが、こんな状況でそんなことをいうような度胸も無神経さも持ち合わせなかったので、その疑問を僕は沈黙で飲み込んだ。何か場を繋ぐように僕は彼女の家のことを聴いてみることにした。
当時はそんなことはまったく気付かなかったのだけれど、その看護婦は入院当初から彼女を担当していたので彼女とはとても仲がよく話しをしていたのだそうだ。といっても僕が訪れるようになる前までは手が付けられないほどわがままを言ったり、ヒステリックな行動が目立っていたらしい。
僕とであった時でさえ軽い欝の状態でいたり、突然涙を流すことがたびたび会った。
看護婦から聞いた住所を調べて僕は彼女の家に行くことにした。
彼女の家は僕の住む町より京都の中心地に近く、住宅街の中にあった。
緩やかな長い坂道に沿って並ぶ家の中に小さな庭のついた彼女と同じ姓の書かれた2階建ての一軒家を見つけた。彼女の家は別段変わってもおらず、なにげに周りの家並みに呑み込まれていて普通に歩いていれば目に付くところもなかったのだが、僕がその家の庭を覗いた時はひどくどきりとした。人工的に植えられた植物のほとんどが人工的な手入れをまったく行われていなかった。そこにはナチュラルに鬱蒼と生えだした野生の緑と、抜け殻のような人工的に植えられたのちに枯れた茶色のコントラストがあった。この家に住む人達の心情は丁度この景色のようなものなのだろうか。何も考えられないまま枯れていたら、周りを雑草に覆われてしまった。彼らも頭の中は一年前のままなのだろうか。
この家を訪れようと決めた気持ちの袋が破れてそこから不安がこぼれ出して来た。
何の気なしにここまで来たが、家のドアを前にしていつもの人見知りが僕を後ろから羽交い締めしている。家族の人(彼女の母)は僕が葬式もこないでと怒っているだろうか、それとも何で赤の他人のお前なんかが家へ来るのだと思うだろうか。
まあいいさ、それで何かが変わる訳じゃない。どうせみんな泣いているのだ。
息を一つ大きく吐いて僕は背後にへばり付く気の重さを振り払い彼女の家へ入ることにした。彼女の母はさすがに戸惑ってはいたが、すぐに取って付けたような明るさで僕の訪問を受け入れてくれた。一度見た限りだが、この一年近くの間にひどく老け込んで見えた。
きっとこう言う状態でいれば人は老け込むのであろう。そう妙に納得したが、それでも白髪が増えているのかな、家を出ないでいたため、肌が青白くなったのだろうかなどと僕の視覚は無駄な詮索のための情報ばかりを取り入れて行くのだった。その母親に対して彼女の父親は一度としてあったことのない僕に怪訝そうな顔をして見せたが、妻との小声でのやり取りの後、硬い表情のままではあるが僕を彼女の位牌のある部屋まで招き入れてくれた。この人は僕と彼女の関係をどこまで知っているのだろうか。彼女の話ではかなり仕事の忙しい人だと聞いていたのだけれど、今はどうしているのだろうか。どれも必要ない考えばかりだった。
彼女の位牌のある部屋で僕は彼女に線香を立て、家族の手前しばらく拝むフリをした。この時の僕はまったくの空っぽといっていいほど何も考えてはいなかった。いったい僕は彼女に何を言えばいいのだろう。
誰の為にここに来たのだろう。その答えがでないままにこの家の間取りとか、供えられている物であるとか、意味のない情報だけが頭の中に流れ込んできた。どうも僕は位牌に向かって話す気になれなかった。言うべきことも見つからなかったのだけれど、それ以前にここでそうすることで彼女と繋がっていられるとは思えなかったからだ。
そこでは誰も口を開かなかった。
十分ぐらいそこで拝んでいただろうか。
空気は重く、沈黙が喧しかった。その喧しさに耐え切れなくなったのか、彼女の父親は自分の体重以外に何か他に重い物を抱えているような感じでゆっくりと立ち上がり沈黙を斬って部屋を出ていった。階段を上る重い足音が随分遠くに聞こえた。
彼女の父親が席を外した隙に彼女の母親が僕に数冊の彼女の日記を僕に持ってきてくれた。彼女が入院してから欠かさず書き続けてきたものであるらしい。
きっと僕と出会った頃から彼女が亡くなる間までのことも書かれているはずである。
僕は卑しくもその日記の内容が見たくて仕方がなかった。この時、彼女の母親に対して最後の一冊をどうか貸してくれと頼み込んでみた。彼女の母親は快くそれを承諾してくれた。どうやら最初からそのつもりであったらしい。貸すというかその日記の彼女が僕のことについて書いている部分を持っていって欲しいそうだ。彼女の父親にまだ見せていないので、友達であるとしか言っていない僕のことが書かれている可能性のある所を出来れば見せたくないのだそうだ。やはり父親はそう言うことを知りたくないものなのだろう。まだ家庭を持たない僕にもその感情は分かると思う。
僕は母親の願いを聴き入れ、最後の一冊を借りて彼女の家を離れた。
近くの公園で原付を止め、ベンチに腰掛け彼女の日記を開いてみた。
彼女の日記には僕の望んでいた内容のことは何一つ書かれてはいなかった。
結局、彼女のいた病院を訪れても、彼女の家に行ってみても、彼女の日記を読んでみても、僕の欲しい答えはどこにもなかった。僕はどこへも辿り着けない袋小路へと迷い込んだようだ。そして何も考えないでいいようにと体を酷使することも止め、諦めにも似た気持ちで部屋の中で蹲った。
それから毎日僕は眠りに落ちると必ず彼女の夢を見た。
彼女はいつも病室で着ていたパジャマを着て僕の前に立っていた。それが悪夢であることを無理にでも知らせようとするかのように彼女の白い肌は不気味に灰色で染まり、不快感を色で表したような色をしていた。そして彼女は鬱になったときのような目標を射抜くような鋭い目で僕を見つめていた。あの時は恐怖で見られなかったあの顔で。彼女はゆっくりと口を開きぶつぶつとささやく。彼女の声は聞こえなかったけれど、何故か言っていることは僕に伝わってきた。言う言葉は決まっていた。
こっちへ来て、と。
死んでくれ、と。
僕はいつも決まって恐怖をこれ以上ないほどリアルに感じ、腰が抜けたように倒れ込み彼女から目が離せない。僕はそこで思う。死にたくない。死ぬのが怖い。そう思いながら僕は彼女にかけるべき言い訳を必死で口から吐き出そうとするのだけれど、頭は働かず声は少しも出すことが出来なかった。それでも考えていると、彼女の顔が僕の方へ近付いて来る。後ずさりしたいが、体は一向に動かない。そして一瞬、僕は目の前に彼女がいないのに気づく。それと同時に彼女の顔が僕の耳元にあることに気づく。僕の横目には彼女の目は見えず、ただあの黒く長い髪だけが見える。彼女の口元がさらに近づいてくるのを感じその恐ろしさに皮膚が鳥肌を立て始める。そして彼女は同じように繰り返す。
その恐怖に耐えられなくなって僕は叫ぶ。
そして夢は覚め、現実のいやな汗を肌に感じるのだ。
僕は限界だった。死に方、死に場所を考える時間が次第に増えていった。
それでも変化は訪れた。
何を見たのか、何が変えたのか、僕はいつの頃からかこれからの自分を考えることを止め、彼女とであった頃のこと、彼女と出会う前のことを思い出そうとしていた。そこには恐怖というものが確かに存在する。僕が彼女と出会い彼女が死ぬまでの僅かな間に起こった出来事、それらはあまりに都合良く出来すぎていたということが第一にある。友人の事故、見舞に行く僕の行き場所を求める動き、彼女との出会い、僕はその偶然と
突然の始まりに期待し胸踊っていた。どこかドラマみたいだと自分に酔っていたのだろう。
彼女を始めてみた時の恐怖もどこか麻痺していたように感じる。マンネリ、自分の将来の狭さ、そういったものを打ち消したかった。自分という殻の中から逃げ出したかった。いつもそうだった。他人からどんなに見えたって、僕は自分を不幸だと思っていた。何をやっても中途半端で優柔不断、最後まで何かをやり遂げたことなど一つもなかった。いつの頃からか自分の思い描くことは全てうまく行かないのだと思い込むようになっていた。そんな自分が嫌でしょうがないのに、それでも自分を変えられない現実。
僕は優秀な誰かになりたかったのかもしれない。
今とは違う自分を頭に描いていた。現実逃避、僕はその真中に居た。
そんな時に彼女と出会った。
彼女は僕に全てをくれたといっていい。
彼女の僕に対する接し方は僕の思う自分自身の像を変えてくれたように思う。
情けない自分やさえない見た目、そういったものを感じさせないで、僕に僕自身を病気の寂しい一人の女性を優しく見舞う男として感じさせてくれていたのだ。
けど、僕はそういったことにまったく気付いていなかった。
いや、実際僕は気付いていたのだ。僕は彼女の優しさや幼稚な行動を愛し、想像通りに運ぶ状況を楽しんでいた。ただ、今までの自分への軽蔑と幼稚な妄想を抱くことへの羞恥が過去の失敗と重なり合ってそれを認めることを拒否してしまっていた。それでもあの夜はやって来た。そして夢の中に一つのリアルな感情が入り込むことになった。
あの時の僕は卑しくも彼女の体を抱くことに欲望の全て向けていたのだと思う。
僕は大学に入って以来、女性と関係を持つことはなかった。
過去の出来事から女性不信にもなりかけていたし、日々のリズムを壊してまで他人のために時間を使うということがひどく億劫になっていた。
それでもぼくの欲求は絶えず蓄えられてきていた。だからこそ僕は彼女を抱くことが出来た。
死を覚悟した女性のささやかな望みを欲求不満という卑しい欲望が犯したのだ。
その後でこれから自分の抱えなかければならない事態の大きさに恐怖し、僕は彼女から逃げ出した。
そして好きでもない他の誰かを抱くこと、そばに居ることで誤魔化そうとしていたのだ。
僕は最低だ。
いつものように胃の痛みを感じながら目を覚ました。
僕は去年の今と同じ頃に彼女に出会った。
あの日感じた彼女への恐怖というものを僕は今も感じている。
でも、それは触れる前のものではなく、その内側にいる感情だった。
僕はどこか知っていたように思う。
僕が彼女に触れることになれば、それが必ず訪れることを。
ただ、今思うのは彼女を抱いた日の違和感、彼女が死んだ日に感じたこれからの自分への苦しみ、そういったものは、やはり日々薄らいでいるということだ。
それらが既に過ぎてしまったものである、ということ。
僕にはそれが悲しい、とても。
ただ、悲しい。
僕が彼女の後を追わず生きているということ、これからも死にたくないと思いつづけ生きていくということ、そんなどんなことよりも苦しいことがある。大事なものがある。
彼女を通じて僕が得たものは、形としてうまく表現の出来ないとても柔らかい部分を削り取られた時のどうしようもない喪失感という傷である。
それは誰に見せることも出来ないし、誰とも共有できないもの。
孤独という色に含まれるものである。けれど、それはきっと自分だけのものである。
それは幸せなものではなくとも、ただの孤独な感情に近いものであっても、世界で唯一自らがもち得るもの。僕は自分というものが一つの肉の塊、焼かれた白い塊になろうともそれが決して変わらない永遠という言葉に足るものであると思える。
だからこそその悲しみを抱えたまま僕は生きていたい。彼女が僕を深く暗い場所へ引きずり込むような夢をみようと、僕が彼女を憎むことになっても忘れないでいたい。
重く閉じたままのカーテンの形がはっきりとしだした。
僕は朝が訪れていることを感じた。
布団の外の寒さに迷いを感じながらも僕は勢いを付けて起き上がる。
頭痛と吐き気で平衡感覚を失いながら風呂場を目指した。酔いを覚ますために、湯船にお湯を溜め、しっかりとそれに浸かり、体に染みついた悪夢の汗を洗い流した。風呂から出て外の寒さに耐えうるべくしっかりと服を着こんだ。
髪を乾かした後で、一見泥棒にでも荒らされたかのような雑然とした部屋の中から手帳を発掘し、時間割を調べ、その日の授業の用意をした。部屋を出ると、刺さるような朝日から視覚に一撃をくらう。それと同じくして真冬の尖った寒さが首元に巻き付いてきて、僕は震えながら首を出来る限りジャンバーの中に引っ込めた。エレベーターを待つ間、目の縁に軽い痛みを感じる。しっかりと目を閉じ、瞼を指で押した。
エレベーターがゆっくりと開いた。
久しぶりに乗る原付はエンジンが掛かりにくく、何度もキックをして体が熱くなってきた。
僕の体があったまった頃ようやくエンジンが掛かってくれた。
原付にまたがり僕は行き慣れた大学への裏道をいつもより心持ゆっくりと走った。
妙に景色がくっきりと見えるのがこの寒い空気のせいであると思いたくなかった。
いつもの裏道を抜け、大学までの長い坂道を迎えた時、もう一度眩しく上り出した朝日と対面することになった。オレンジ色に輝く朝日は僕の体を温め、二日酔いの頭の痛さや、これから受ける長い退屈な授業の憂鬱さを僕に思い出させた。
また長い一日の始まりだった。
完読感謝。
時間があれば、長編書きたいなぁ…。