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翠の鳥居と渡り人 ー1

どれだけ走っただろう。


足を止め、荒い息で後ろを振り返る。

夜の闇が深く、闇に染まったような樹々の葉に覆われ、来た道もすでに判断できない。灌木の茂みが分かる程度だ。


千紗は、ゼイゼイと鳴る喉に手を当て、大きく深呼吸を繰り返した。


腕や足にピリと引き攣るような痛みを感じる。

父から聞いていた逃走路を示す印の付けられた木を、目を凝らし見つけながらも無我夢中で走っていたのだ。枝か何かで傷つけたのだろう。

着崩れてしまった小袖は千紗の気に入りの物だったが、今は判断できないものの、土に汚れていることだろう。


千紗は手早く小袖の裾を直して、再び走り出した。


逃げなければ。生きなければ。


千紗は口を引き結び、頭の中で呟く。


私は卑怯者の娘なのだから。




京と近江の境にある山に、千紗は暮らしていた。

正確にいえば、山の頂上を少し下ったところにある堅固な山城が、千紗の暮らす場所だった。


山城は加田城と呼ばれ、山の麓に暮らす父の盟友ともいえる配下たちは、農業、林業や狩猟の傍ら、京の貴族や裕福な商人たちの護衛も行なっていた。

勇猛果敢の衆と褒め称えられていた。


だが、それは今や過去のこと。



難しい時勢だった。

京の威信は失われつつあり、地方からは勢い抜きん出る者が現れ始めた。


優秀な集団であったが故に、父に求められたのは、どの勢力に付くかということだった。

そして、父が選んだのは、どちらつかずの蝙蝠のような存在になることだった。


どの勢力にも乞われれば助力した。それはつまり、昨日味方であった者たちを、今日は裏切るということだ。


そして、それは実際に何度も行われたらしい。


「卑怯者」


勇猛果敢と讃えられた加田の衆は、すぐにそう呼ばれるようになった。


盟友たちは父を諌め、決断を変えようとした。だが、父は決してその意志を変えなかった。


「卑怯者と呼ばれようと、我らが生き残るのは、その時々の権力者に媚びることのみ」


そうきっぱりと宣言した父に、盟友たちは何も言えなかったと聞いた。


所詮、山城の集団だ。

兵力など、微々たるもの。一つの勢力に付けば、すぐにその敵対勢力に制圧されるだろうことは想像に難くない。



千紗にとっては優しい父であった。

だが、その父は世間では卑怯者として、何度も何度も人を裏切り、殺して来たのだろう。



今、そのツケを払えとばかりに、岐阜を支配する一族が差し向けた者たちにより加田城は崩されようとしていた。


夜陰に乗じて、岐阜の一族は襲いかかって来た。門を破り、男衆を殺し周り、女子どもは捕らえられていった。



「生き残るのですよ」


そう言ったのは母だ。

山城には相応しくない、雪のような儚さを持った母は、その時ばかりは強い視線で千紗を射た。


「父上は生きようとなさいました。私たちを生かそうとなさいました」


これまで何度も繰り返した言葉を母は口にした。


これがその結果ではあるが、誇れと言う。


「おそらく父上の首はすでに身体と繋がってはいないでしょう。千紗はお逃げなさい」

「母上はいかがなさいます」


母の手に縋れば、母はその手をやんわりと払った。


「母はこの場で自刃いたします。母は父としか生きられませぬから」


そう言って母は微笑んだ。透き通った氷のように鋭く、美しく儚い笑みだった。



四十を超えた今でも美しい、自慢の母である。そんな母が生き残れば、敵方の慰み者になることは必定。その未来を、母が許すはずはないのだ。


「貴女は必ず父上の望みを叶えなさい。生き残るのですよ」


母から守り刀と貨幣の入った巾着を渡され、それを受け取ると同時に背を押された。


生き残る。


それだけを胸に、千紗は夜闇深い道なき道を下り始めたのだった。




あとどれくらい下れば麓に着くのだろうか。夜明けまでには着いてしまいたい。

そう思う反面、未来の不透明さに麓に着くなと思ってしまう。


それでも止まってしまうことの方が恐ろしい。

千紗はただ走り続けた。


と、その時突然道が拓けた。

目の前には草原が広がっていた。

明るい太陽の光が青々とした草原に差している。


おかしい。

千紗は足を止めた。恐れていた行動をとってしまうほどの異常が目の前に広がっていたからだ。


夜が明けている。


勿論夜は明けるものだが、空の太陽はすでに正午に近い位置にある。


「夜明けも朝も超え、昼になっている?どういうことなの…」


一人呟けば、さらに恐ろしさが増してくる。思わず後ずされば、カツンと右の踵に何かが当たった。


確認すると、そこには鳥居があった。

掌位の大きさの小さな鳥居だ。

だが、一般に見るような朱色や石造りの鳥居ではない。翠色をした鳥居だった。


その鳥居を見た瞬間、千紗は血の気が引いた。


「翠の鳥居は異界の入り口。けっして近づいてはいけませぬ」



誰の言葉だったか。だが、千紗は確かにその言葉を知っていた。



慌てて顔を上げ、元来た道を振り返って見る。


だが、千紗が来たはずの山はそこになく、ただ草原が広がっていて。


「ここはどこなの?」


腰が抜け、ぺたんと間抜けな音を立てて草地に尻が落ちた。

そして、呆然としていた千紗に追い打ちをかけるように届いたのは馬の蹄の音だった。


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