老夫婦
『仲町・甲斐谷家』という一文を私は穴があくほど見つめた。
うちのご先祖様が人魚を捕まえた? それで、たぶん人魚の肉を売って大金を手に入れた?
そんなの父が話しているの、一回も聞いたことがない。それに、一緒に書かれている海沼と初山のどちらも聞いたことのない苗字だ。甲斐谷は澄川ではありふれた苗字だ。
それに、江戸の終り頃の話と言っても今から百五十年以上前のことになる。いくら今より非科学的なことが信んじられていたとしても、人魚なんて現実離れしすぎだ。
ましてや、それが甲斐谷の家にあったなんて。でも、奥座敷の欄間の彫刻には人魚があった。体を反転させ漁師を見る人魚、人魚に狙いを定め森を構える漁師。あれはどう説明する?
たぶん、澄川の言い伝えを彫り上げただけでしょ?
私は本文の内容は、間違っていると思う。
「ありえない」
「何が、ありえないって?」
突然の返しに振り返ると、すぐ後ろに小柄な白髪の老人が立っていた。
「えっ、あっ、へんっ」
へ、へんしつしゃだっ。驚き慌てふためいて後ずさった私は床の出っ張りに足を引っかけて転んだ。悲鳴より、痛さで声が詰まる。
小さく女性の悲鳴が聞こえて、男性の後ろから男性と同年代の女性が姿を見せた。なんとか起き上がると、私がつまづいたのは床に貼り付けられたコードのカバーだった。
「だから、急に声をかけちゃダメだって言ったのに、お父さんたら」
女性に叱られ、男性は頭をかいた。
「ごめんなさい、驚かせてしまって」
男性は私に素直に頭を下げた。いい年して、いたずらは止めて欲しい。
私は腰をさすりながら立ち上がった。今日はスカートじゃなくてよかった。
「だいじょうぶ? ほんとにごめんなさいね。若い女性がおひとりでいるのに、びっくりしたでしょう」
首に薄いスカーフを巻いた老婦人が私に詫びた。
「い、いいえ……さして若くもないので」
皮肉のひとつも返して立ち上がると、男性も女性も私よりも小さく、なんだか可愛らしい老夫婦だった。
各々、五六冊の本を抱えている。よほどの読書家なのだろう。
「人魚のことを調べていたのですか」
キャビネットの上に広げていた冊子を見たのだろう、男性が私に尋ねてきた。
「ええ、でももう終わりですので」
私は冊子を片付けようとしたが、男性は胸元から取りだした眼鏡をかけて熱心に読み始めた。
「澄川の人魚は特殊だからね」
「そうですね」
返して、と言うのも変なので私は眉間にしわを寄せて、迷惑をアピールしたが男性にはまったく意に介さないようだ。
「何か気になることでも書かれてましたか」
私の表情など気にする風でなしに、男性は質問してくる。
「ごめんなさいね、この人、学校の先生だったのよ。退職して十年経ってもまだ気質が抜けなくて」
奥さんであろう女性が横から詫びてくる。無視して帰るわけにもいかず、私は天井を見上げた。
「人魚を捕まえて持っていた家の名前のなかに父方の実家と同じ苗字があったので、ちょっと気味悪くて」
ふむ、と元先生は眼鏡をくいっと中指で押し上げた。
「人魚の存在の有無は置いておいてだ。これに記されている海沼と初山と甲斐谷ついてだが。海沼は昭和の初期まで小さいながらデパートを経営していた。初山は現在も土建業を営んでいる。甲斐谷は本家分家の数軒で海産物を取り扱っていた」
「家の名前は全部実在じゃないですか」
甲斐谷が海産物を商っていたのは、事実だ。何軒もあったことは初耳だけど。
「確かにそうだ。この本がまとめられたのは半世紀以上前だが、元になった資料は江戸末期から明治初期のころのものらしいね」
ほら、と男性は冊子の終りの方に書かれてある参考文献のリストを指でしめした。
「ときに、『六部殺し』というのを君は知らないだろうか」
「知りません」
思い切り口がへの字になる。なんだか気味の悪い言葉だ。耳に残したくない響きをしている。
「六部というのは霊場をめぐる旅人のことだ。昔のことだから、旅をするための金をそれなりにもっている。その六部を家に泊めて殺す。六部が持っていた大金を手にして、六部を殺した家は栄える」
「うちの先祖が人殺しをしたというんですか」
思わず食って掛かりそうになる私を、待て待てと老人は胸のところで両掌を私に向けた。
「いや、違うんだ。つまり、金持ちの家は周りから僻まれていたんだよ。裕福なのは、六部でも殺して大金をせしめたんだろうって、勝手に噂されていたんだ」
「え?」
いかめしい顔をしていた私が、ぽかんと口を開けたので老人は愉快に感じたのだろう。にかっと笑って見せた。
「そう、たんなる僻みだ。どこにも人魚はいない。財を成した家は真面目に働いたんだろう、浪費などせずに」
伯父も生真面目だったと聞く。伯父のイメージが江戸の商人たちと重なる。人魚などいないのだ。私は肩から力を抜いて大きくため息をついた。
「ほっとしたかね? 君のご先祖様は勤勉だった。それだけだよ。もっとも、六部殺しにはきちんとした話の型があって……」
さらに話し続けようとする老人をご婦人が制止した。
「お父さん、もういいから。お騒がせしてごめんなさいね」
奥さんが冊子を閉じて、ワゴンへと持っていく。片付けに手馴れている。学校の先生だったという旦那さんと、郷土資料室へもよく来るのだろう。仲睦まじいな。
「勉強になりました」
私は二人に軽く頭を下げて資料室を後にした。二階に降りる階段に上階にいる二人の声がわずかに響く。
――ほら、お父さん。早くしないと、雨が降りそうよ。
仲のいいご夫婦だ。何十年と連れ添っているんだろう。二階に降りた私は、ほんの少し足を止めて老夫婦のかすかな会話に耳をすませた。
終わらんので困惑しています。