ゆうだち
カウンターへ郷土資料室から退出したことを伝えに行くと、利用者カードを作ることをすすめられた。
本にはあまり親しんでこなかったけれど、図書館の本で勉強しようかな。ランチを食べたカフェの料理を思い返すに、もっとレパートリーを増やさないとダメだと思った。料理の本が借りられるなら便利だろうから、作ろう。それによく考えたら料理だけじゃない。これからお店を開くんだから、いろんな知識が必要になる。
実際、どんなふうにリフォームしたいか、それからインテリアや食器。ネットで調べられることも多いけど、手に取ってじっくり読むには本のほうがいい。
私はカードを作ると、料理の本がある棚を教わった。洋菓子・和菓子を問わず手に取った。小夜子さんに教わる和菓子の基礎が知りたくて初心者向けのを探して二冊ほど見つけた。この間、ごちそうになったのは柏餅だったなあ。作るとなると蒸し器が必要かな、家にないから用意した方がいいかな。
あれこれ考え、本を見ているうちに、気づくと外が暗くなっていた。館内の時計で時間を確かめると、まだ四時過ぎだ。日が暮れるには早すぎる。窓越しに空を見上げたら、今にも雨が降り出しそうな雲行きだった。
本を持って雨には濡れたくない。私はカウンターで本を借りて、一階へ降りた。同じように考えたのだろう。玄関を小走りに駆け抜け、駐車場へ急ぐ人たちがいる。
でも私が玄関をくぐらないうちに、冷たい風が吹いてきて雨がアスファルトを強くたたき始めた。
「もう、お父さん! だから早くしてって言ったのに」
玄関の庇の下に、郷土資料室で会った老夫婦がいた。そろいのリュックをしょっている後ろ姿が、なんだか愛らしい。どうやら、二人は歩きで来たらしい。それに傘も無いらしい。
雨は激しさを増し、地面に水煙が立つ。二人のことをなんとなく追い越しづらくしていると、ご婦人の方が振り返った。
「あら、さっきの」
私は軽く頭をさげた。ちょっとの沈黙があって、私は思いきって声をかけた。
「狭い車ですが、ご一緒しませんか?」
私の提案に、二人とも目を丸くした。
「そんな、悪いわ。タクシーを呼ぶから大丈夫よ」
「雨になったら、町の少ないタクシーなんてみんな出払って待ち時間がかかります。構いませんよ。私、あわてて帰る必要もないですから。お住まいはどちらですか?」
心臓がばくばくとしている。一気に言わないと、くじけそうだった。老夫婦は眉を少しよせて目配せしあっている。
「仲町なの」
町名を聞いてほっとした。お互い、負担にならない。
「私もです。ついでですから、お気にならさず」
あっ、と旦那さんのほうが目をぱちりと開いた。
「仲町の甲斐谷さん、か」
「父方の実家ですけどね」
個人情報、こんなふうに開示されちゃうんだな。私は観念した。
私の小さな軽自動車の後部座席に、老夫婦はちんまりと収まった。私の荷物は助手席に全部移動させた。
図書館から仲間方面へ行くには、掘割にかかった橋を数本わたる。道幅が狭いうえに橋だらけ。一方通行の多い澄川は、ぼんやりしていると、すぐ渋滞に巻き込まれる。
今、すでに巻き込まれてしまった。土曜日の夕方、出かけていた人たちも帰る時間だ。夕飯の買い出しに出る人もいるだろうし、おまけに雨。傘を差した人が歩道を行き交う。
「そろそろうちの息子も仕事から帰ってくるころだけど」
ルームミラーに歩道の人波を見つめている奥さんが映る。
「今日はご出勤でしたか」
「いいえ、ねえ……休みなのに仕事を片付けてくるって。融通がきかないの」
頬に手を当て、ふうとため息をついている。このご夫婦の子どもなら年のころは四十代だろうか。
「そういえば、あいつ、自転車で行っただろう」
「そうだったわ」
車外は相変わらずの雨だ。自転車で帰宅するとなると、びしょ濡れだろうな。
「ほんと、手がかかるのよ。いまだに結婚していないし、仕事ばかりで浮いた話の一つもない」
「いつだったか、毎日ウキウキしていた頃があったじゃないか。クラスに好きな子がいたんじゃないか」
「そんなの、小学生の頃の話でしょ」
奥さんがピシャリと言うと、旦那さんは肩をすくめて舌をペロリと出した。
「食事も好き嫌いが多くて。魚が苦手だからせっかく海が近いのに、食べられなの。ハンバーグやスパゲッティとかそんなのを食べたがるの」
思わず私も吹き出す。いわゆる子ども舌? 確かに、新鮮な海の幸を食べられないのは、もったいない。
「私、前は内陸に住んでいたからわからなかったんですけど、澄川に来て、お魚ってこんなに美味しいのかって思いました」
「だろう、だろう? 甲斐谷さんは、酒はいけるくちかい? 家で飲んでいかんか?」
旦那さんが生き生きとした声で、身を乗り出してくる。
「お父さん、車で来ているのよ。無理は言わないで」
奥さん、ナイス。今日会ったばかりなのに、宅飲みは重いお誘いだ。私から断らずに済んだ。
「そこを左にお願いします。ありがとう、とても助かったわ」
生垣で囲まれた、こぢんまりした家だ。古めだけれど、手入れがよく行き届いている。窓は磨かれているし、玄関先には花の寄せ植えが二鉢、左右に置いてある。赤い屋根に緑色の雨どいがアクセントになっている。
雨はいくらか小ぶりになったみたい。門の前に車を寄せて止める。二人とも降りる準備をしていると、通りの向こうから自転車がやってきた。
「息子だわ」
奥さんが車から先に降りて、手を振った。
「善郎」
ん? ヨシロウ?
自転車の男性は、見慣れた作業着姿だった。自転車から下りると、雨でぬれた眼鏡をはずして服の裾でふくと顔をあげた。
「誰に送ってもらったの」
と、運転席の私を見て絶句した。市役所の五十嵐さんだった。
いや、そこはまず「ありがとうございます」だろうと突っ込みたかったが、お互いに顔を見合せあたふたするばかりだ。
なんで、どうしてと五十嵐さんは続けたかったのかも知れないが、私も気が動転して言葉が出ない。
「図書館から乗せていただいたのよ。善郎、甲斐谷さんと知り合いなの」
「こ、こんにちは」
「江間さん、なんで」
なんでと聞かれても、成り行きとしか。私は運転席の窓を開けて、助手席の箱を五十嵐さんに渡した。
「お口に合えばいいんですけどっ」
カップケーキの箱を五十嵐さんに押し付けた。試作品です、試作品なんです、と早口でまくし立てると、老夫婦もとい五十嵐さんのご両親への挨拶もそこそこに、車を出発させた。
二個目の信号で赤につかまり、ブレーキを踏むと汗がどっと出た。
五十嵐さんのご両親だったなんて。
そう思ったとたん、笑いが込み上げた。
手がかかる、魚が苦手。
セミナーで話すときには、そんな風にはみじんにも見えないのに。
クスクスと笑いが止まらないまま、私はハンドルを握った。
雨は止んで、かすかに夕空が見えた。