待ち合わせ
やってしまった。そう思いながら全力で走る。
着ているスーツは乱れ、ネクタイもほどけかけているが、構っている暇はない。重たい足を動かし、少しでも早く走る。
今日の仕事は楽なものが多く、早く帰れる予定だった。そのことを彼女に連絡したら「じゃあ待ってるからいっしょに帰ろう」と返事がきた。彼女は今頃、会社近くの喫茶店で僕のことを待っているはずだ。
もう三時間も前から。
課長が緊急の会議なんて開くからいけないんだよ。来週の事案についての会議なら明日でも間に合うんだよ。どうして残業してまで、明日間に合うような仕事しなくちゃいけないんだよ。そもそも会議の内容がどーでもいいんだよ。スケジュールくらい把握してるし、予算関係は会計がやってくれてるだろ。専門外なんだよ。
腕時計を確認すると、短針がちょうど十一時を回ったところだった。彼女には八時頃に待ち合わせと伝えてあったのに……
今いる辺りから喫茶店は、そう遠くない。全力で走れば、五分もあれば着く。
しかし、彼女にはなんて言おう。素直に謝るのは確定としても、三時間も待たせてしまったのだ。許してくれるだろうか? 彼女は優しくて、俺が約束の時間に遅刻しても大体は許してくれる。しかし、今回ばかりはそうはいかないかもしれない。
もし喫茶店に彼女がいなかったらどうしようか。可能性は大いにある。俺に嫌気がさして、そのままどこかに行ってしまって、そのまま帰って来ないかもしれない。最悪、別れ話を切り出されるかもしれない。
ああ、嫌な考えばかりが思い浮かぶ……
とにかく今は急がなければ。
走るのは久しぶりだ。元々運動は得意ではないから、数分走っただけで僕の足は悲鳴をあげて、疲労を通り越して痛みさえ感じる。胸の中が焼けるように熱い。靴ズレを起こしていてヒリヒリと痛む。
それでも僕は全力で走り続ける。
喫茶店に着く頃には、僕の体力は限界を迎えていて、膝に手をついて立っているのがやっとだった。息切れが全然収まらない。冬で外は寒いのに、汗が滴る。太ももの裏から痛みを感じる。明日はきっと筋肉痛だ。
息を整え、乱れていた服装を直して店内に入ると、女性店員が笑顔で出迎えてくれた。
「待ち合わせをしているんだけれど……」
「あ、はい。あちらのお客様ですね?」
店員の視線の先には、珈琲を飲んでいる彼女がいた。それを見た瞬間、安心感が溢れ出してきた。
よかった。まだ居てくれた。
店員に礼を言って、僕は彼女の席へと向かった。
「お、やっと来たね」
彼女は僕を見ると、笑顔でそう言った。
「あ、あの! ごめん! えっと、会議があって、それで遅れて、走ってきたけど間にあわなくて…………」
「まあまあ、落ち着いて。取り敢えず座りなよ、ね?」
僕は彼女の言う通り、彼女と向かい合って席に座った。椅子に腰を下ろした瞬間、疲れがどっと湧き上がってきた。
「汗凄いね。そんなに急いで来たの?」
彼女はハンカチを僕に渡しながら言った。僕はそれを受け取って、額の汗を拭く。
「君を待たせてたから、出来るだけ早くと思って」
「君、運動苦手でしょ? 大丈夫なの?」
「明日は筋肉痛だよ」
僕が苦笑いすると、彼女はクスクスと楽しそうに笑った。笑窪と細い目が可愛らしい。
「その……本当にごめん!」
「いいよいいよ。詳しい事は分からないけどさ、仕事頑張ったんでしょ? なら私は怒らないよ」
彼女は珈琲のマグカップを傾けながら言った。
「それに、待つのも嫌いじゃないしね。こうして美味しい珈琲も飲めたし」
彼女は笑っていた。やっぱり可愛くて、そんな彼女をこんなにも待たせていた自分に罪悪感が止まらない。
「ほんとにごめんな。この埋め合わせは絶対するから」
「分かったから、もう謝らなくていいよ。私から誘ったわけだしさ。ほら、珈琲でも飲みながら話、聞かせてよ。なんで遅れたのかとかさ」
彼女はウエイターを呼び止めた。僕はウインナー珈琲と、夜食と彼女へのお詫びを兼ねてフレンチトーストを頼んだ。蜂蜜が沢山かかっていて、上にはバニラアイスが乗っかっているやつだ。
僕はそれらを口にしながら、事情の説明を彼女にした。
結局仕事の話は直ぐに終わって、上司への愚痴や最近のことについての話に花が咲き、三十分ほど話し込んだ。
□■□
「うー、寒いね」
「ほんとだね」
喫茶店を出ると、外は凍える寒さだった。風が冷たくて、刺すような刺激を感じる。顔や手先から熱が逃げていくのが分かる。
彼女も寒いようで、ピンク色のマフラーに口元を埋めていた。
「君、こんな寒いのにあんな汗かいてたんだね」
「走ってたから」
スーツの下には何枚か着込んでいるから、こんなに寒くても走れば身体は温まる。
「それにしても寒い! 寒いから君にくっ付いちゃう!」
「うおっ」
彼女は甘えたがりの猫のように、僕の懐に潜り込んで身体を密着させた。肩に頬擦りしてくる。彼女と面している部分から体温を感じる。
「マフラーも二人で掛けちゃえ」
「え、それはちょっと恥ずかしいな……」
「なに女々しいこと言ってるの。いいから、いいから」
彼女になされるがまま、マフラーを巻き付けた。少し長すぎるくらいのマフラーは、二人で巻くぶんにはちょうどいい長さだった。
「んー、これぞ幸せって感じ。私、今凄いリア充してるわ」
「そうだね、僕もだ」
この光景を他人が見たらどう思うだろうか? やはりバカップルとか思われるのだろうか?
まあ、それでもいいか。今が幸せなら、それで。こんな可愛いくて優しくて、最高の彼女が隣にいるんだ。これ以上何を望むだろうか?
「で、もう遅いけど。駅までは距離あるし、タクシーでも拾う?」
僕は彼女に聞いてみた。地下鉄の駅まで歩ける距離ではあるけれど、十五分ほどかかる。彼女はヒールを履いているようだし、あまり歩かせたくはない。それに、今日は財布に余裕がある。タクシーくらい乗っても問題はないだろう。
しかし、彼女は首を振った。
「この後何もないし、明日は休みでしょ?」
「うん、そうだね」
「なら歩いて帰ろうよ。二人でゆっくりさ」
「え? でも、二時間ぐらいかかるよ?」
「いいんだよ、別に。のんびり帰ろうよ」
彼女はニッコリ、無邪気に笑って言った。
「二時間のデート、これで遅刻チャラにしたげる」
「……………………そうだね」
僕達はゆっくり、冬の街を歩いていく。
お互いに繋いだ手に、温もりを感じながら。
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