第六話 ロア
同居が決まってから、夏樹は爛に良いように振り回されていた。
狙ったような風呂場の突入に始まり、ノックもなしの訪問。
何かと気を動転させられていると思っていた。しかし、阿冶と接するときも変わらなく動転する自分に、自分にも直すべき点がある事に気がついた。
仲良くしたいと思う一方で、どこか遠慮している。そんな自分を反省した矢先クロに出会う。
夜中に光るクロの目。そこからは、恐怖の色が見て取れた。
あれから数日が経った。
阿冶さん、爛さん、クロちゃんの三人と一つ屋根の下生活は、やはり色々と問題があった。主によみがえってくるのは爛さんについてなのだが、それはこの際天災のように考えることにした。だが、それでも特別一つ気がかりなことが俺を悩ませていた。
「はぁー」
「どうかしたんですか、ため息なんてついて」
横で、食器を洗っている阿冶さんが心配そうに声をかけてきた。
現在、俺は阿冶さん隣で食器を拭いている。
この家に住む上で、阿冶さんがメインで家事をして、クロちゃんはその補佐、爛さんは力仕事という風に、みんなそれぞれ役割分担をして生活をしている。対して俺は、情けない話だが爛さん程力が強いわけでもなく、阿冶さん程家事も出来ない。この家に置いて、主戦力として働ける役割はなかった。阿冶さん達は、気にしなくても良いって言っていたけど、もちろん何もしないのは申し訳なかったし、力にもなりたかった。だから、食器拭きを申し出た。クロちゃんの身長だとキッチン台は高く、自由が利かない。そんなところを俺がサポートする。いわば、クロちゃん代理――家事の補佐の補佐だ。
「いえ、クロちゃんの事で」
「クロちゃんですか?」
そう、今一番の問題はそのクロちゃんなのだ。
初めて会ってからずっとクロちゃんは俺を避けている。初日の夕食で、嫌われてはいないことは分かっているのだが、話しかけようとしたら脱兎のごとく逃げ出したり、物陰に隠れたり――タンスの上に逃げ込んだ時もあったっけ。まともに対面するのは、食事時ぐらいだった。
だが、それだけが気がかりなのではない。
あの日、あの夜に見た。恐怖に満ちた目がどうしても俺の脳裏から離れないでいた。
「嫌われていないのは分かっているんですが、何て言うんですかね。……怖がられているように感じるんです」
怖がっている。そう発した瞬間に阿冶さんは手をピタッと止めた。
「そうですか。夏樹さんも気が付いたんですね」
「阿冶さんたちも経験があるんですか?」
「はい。私たちは、ここに来るまでに一年ほどみんなで共同生活をしていたんですよ。そのとき初めてクロちゃんに会ったんです」
「こっちに来るまでにそんなことがあったんですか?」
「はい、人間界の知識や常識などを勉強しながら、人間界の生活に支障が出ないようにっていう試みでした」
そうだったんだ。阿冶さんたちも各世界の代表として、慣れない世界へ適応するために色々苦労したんだろうな
「ここに来るまでに色々大変だったみたいですね」
「いえ、そんなことないですよ。とっても楽しかったですよ。……特に、私たちにとっては」
「えっ、最後なんて言いました?」
「いえいえ、たわいもない事ですよ」
何か小声で言ったような気がしたんだけど
「それよりクロちゃんの事ですよね……当時はもっとひどかったです。ビクビク隅で震えて、怯えた目で私たちを見ているだけで……」
「そんなに……」
人見知りな部分も確かにあるけど、もっと他の部分でクロちゃんは俺を怖がっているのかもしれない
「……しかも、唯怖がっているわけじゃないみたいなんです。窮鼠猫を噛むじゃないですけど、普通恐怖が到達点に達したら何か行動を起こすと思うんです。でも、クロちゃんにはそれがなかった。絶対に抵抗しなかったんです。まるで、自分が完全なる罪の塊であるかのように」
クロちゃんの事を語る阿冶さんのトーンはだんだんと下がっていった。その手も、食器を洗っているようで遊んでいるだけで、自分の事のように眉をひそめている。
「……阿冶さんたちは、どうやってクロちゃんと仲良くなったんですか?」
「……時間ですかね。後は、幼狐様たちの助力も大きかったと思います。直接私達とクロちゃんの間に立ってくれましたから。夏樹さんも幼狐様に助力を願うのはどうですか。私では、あんまり役に立つことが言えなくて」
「いえいえ、十分です。ありがとうございました」
幼狐か……確かに、クロちゃんは妖界の代表としてここにきているのだから、妖界の統治者である幼狐に聞くのは当然か。
でもなぁ、幼狐と連絡とるのかー、気が乗らないなー
「………」
気づけば阿冶さんの手が再び止まっていた。
不思議に思い阿冶さんを見ると、ポケーッと俺の方を見たまま呆けている。
「阿冶さん? 俺の顔に何かついてますか?」
「あっ! いえっ、何でも」
阿冶さんは、ふいっと顔を下に向けて皿洗いを再開した。
阿冶さんの顔はほのかに赤くなっており、わざとらしく音を立てて食器を洗う。
最近こうしてぼーっとしている阿冶さんを見ることがある。もしかしたら風邪をひき始めているのかもしれない。よくよく考えたら、まだ人間界になれていない阿冶さんに家事のほとんどを任せているんだ。疲れもたまっているんだろう
俺もしっかりしないと、とりあえず明日辺りに幼狐に連絡を取ろう
俺も再び食器を拭き始めた。
翌日俺は阿冶さんとクロちゃんが買い物に行ったのを見計らって、幼狐と連絡を取ろうとしていた。
「えっと、このボタンを押せばいいんだっけ」
居間に置かれたテレビ。幼狐と初めて話したテレビである。
このテレビでの連絡手段は、妖界から人間界への一方通行ではなく、こちらからも妖怪へ発信することができるらしい。
普段使うリモコンとは別にもう一種類のリモコンがあり、その中の赤いボタンが妖界へと繋がると阿冶さんは言っていた。
もしかしたら、他のボタンを押したら他の世界に通じるのかな……
好奇心はあるものの押しはしない。何が起こるか分からないから。
砂嵐の中、数秒待ち受け音が鳴って無事につながった。
「はい。こちらは妖界です」
丁寧ではっきりとした口調だがロボットのような抑揚のない声は、聴いただけでも相手が幼狐ではないのが分かった。
テレビに映し出されたのは、正座をした黒いスーツに身を包んだ黒髪の女性だった。ここに来た初日に幼狐の隣にいて、幼狐に拳骨をくらわし、お仕置きと言って幼狐を引きずっていった人だ。
この人少し怖いんだよな。無表情で何を考えているのか分からないし
「えっと、幼狐……さんは居ますか」
「いえ、幼狐様はお仕置きちゅ……コホンッ、所用のため現在取次が出来ません」
……また、幼狐は何かやらかしたのか
「えっと、じゃぁ……あなた? に少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
「そういえば、まだ名乗っておりませんでしたね。私は、たま……」
たま?
女性は、コホンと再び一つ咳払いを入れて言い直す。
「失礼。私は、幼狐様の秘書をしております。ロアと申します。因みに、妖界ではなく怪物界出身の人狼です」
ロアさんって言うんだ。怪物界出身なのに妖界にいるのには何か理由があるのかな。それと――
「………」
「どうかしましたか?」
「あっ、いえ、ロアさんは耳とか生えてこないのかなと」
「あれは幼狐様の趣味で、パフォーマンスみたいなものです。実際は、皆耳や尻尾を隠すようなことはしていません」
「そうなんですか」
てっきり正体が分かったら姿もしっかり認識できるようになるのかと思ってた。
「それに私は、人狼――完璧な人化状態も普通の姿の一つです。どうしてもというのであれば半獣化しますが」
「……いえっ、いいです」
ホントはちょっと見たいけど、今はそんなことよりも大事なことがあるから
俺は、座り直して本題に入った。
「あの、今回連絡させていただいたのはクロちゃんの事で」
クロちゃんの名前を出すと、ロアさんの眉がピクリと動き、若干声色が重くなった。
「クロが何かなさいましたか」
「いえ、何かしたってわけじゃないんです。ただ、クロちゃんとうまくコミュニケーションが取れなくて、阿冶さんに聞いたら幼狐……さんに助力を仰いではどうかと言われまして」
「そうでしたか」
少し安心したようにロアさんは声色を戻す。
やっぱり自分の使えている世界の代表の事には敏感なのかもしれない。あれだけ、無表情に見えていたロアさんの表情が慌ただしく変わっているように感じた。実際は、全く変わってはいないんだけど。
「阿冶さん達の時は幼狐……さん達が直接間に入ったんですよね」
「幼狐様というよりは、私が一時的に阿冶さん達と一緒に住んでバランスを保っていました。しかし、今は人間界で起こっているため同じようなことをするのは難しいでしょう」
難しい――おそらく、出来ないことはないのだろう。ただ、ロアさんも幼狐の秘書である以上妖界の重鎮。そうやすやすと人間界と妖界を行き来するわけにはいかないのだろう。あるいは、もっと別の意味が――
直接的には言わなかったが、そういう含みを持った言葉に俺は感じた。
「そうですか……」
「……夏樹様は、あの子の行動をどう見ていますか」
「クロちゃんの行動ですか?」
「はい、クロが何を思ってあんな行動に走っているのか」
「……最初は唯の人見知りだと思っていたんです。恥ずかしいだけ、人と接するのが苦手なだけ。でも、今は怖がっているように見えます。俺をっていうより、初めてあった人をっていうより、もっと根本的な事で怯えている。クロちゃんの瞳を見ててそう感じました」
結局何に怖がっているのかを具体的に言うことは出来なかった。俺が感じているのは、言葉に表せないような大きくて深い何かであるのだと思う。おそらく、その何かは、当事者であるクロちゃんしか言葉で言い表すことができないのだろう。
ロアさんは、俺のそんなあやふやな話を聞いて納得したようにうなずく。
「怖がっているですか……あなたはクロを良く見ていますね」
表情こそ変わらなかったが、一瞬ロアさんの声色が柔らかくなったように感じた。
「そうですね。直接間に入れない私からヒントです。クロは、知性あるすべての者から嫌われていると思い込んでいます。人間に、妖怪に、怪物に、幽霊、全ての者からです。それこそ、自分が殺されるほど嫌われている思っています。そして、それが当たり前であり、それほど嫌われているのは自分に原因があるとも思い込んでいます。だからこそ、あの子はすべての者を怖がり、無抵抗に逃走を繰り返すのです」
全ての者から嫌われている。だから、怖がり逃げ惑う。クロちゃんにそう思い込むほどの何があったのか。聞きたいけど、聞くのが怖くもあった。
「今私が話せるのはそれぐらいです」
厳しい目でロアさんは加える。
まるで、それ以上の事は聞くなと言わんばかりに。
「最後に、私からのお願いです」
ロアさんは、スッと俺に頭を下げた。流麗で美しい角度、心からのお願いなのだろう。
「夕月夏樹様、どうかクロをよろしくお願いします。あの子は人を怖がってはいますが、人を嫌っているわけではありません。だから、あなたの好意はクロに必ず届くはずです――」
その言葉は、まるで母親のような慈愛に満ち溢れていた。
俺がクロちゃんに抱く好意か。
ロアさんとの会話を終えた俺は、一人廊下に座り中庭を眺めながら考えていた。
俺がクロちゃんに抱いていたのは、ただもう少し仲良くなりたいっていう漠然とした小さく弱い気持ちだった。けど、ロアさんの話を聞いてそれは確固とした大きなものになりつつあった。
対して、クロちゃんは別に俺を嫌っているわけじゃないと聞いたとき、あの初日の夕食を思い出した。頬を赤らめながら、阿冶さんを間に挟んででも俺に渡したかった気持ち。クロちゃんは、「ごめんなさい」としか言ってなかったけど、もっと「仲良くしてね」って気持ちもあったんじゃないか。その小さな体で、健気に、一生懸命に訴えていたのかもしれない。そう思うと、俺はその覚悟と勇気に見合うだけの気持ちを持っているのか。伝えられるのか。その不安が俺の決意を少なからず鈍らせてもいた。
俺、どうしたらいいんだろう
「ただいまー」
一人で苦悶していると、阿冶さんの声が聞こえて来た。
「阿冶さん達もう帰って来たのか」
気づけば、阿冶さんたちが出かけてから数時間が経っていた。
俺は、阿冶さんを出迎えに行く。
「夏樹さん。ただいま帰りました」
阿冶さんは、両手に袋を下げていた。四人分の食材を買って来たのだから当たり前である。
「阿冶さん、袋持ちますよ」
「いえ、私よりもクロちゃんをよろしくお願いします」
阿冶さんの後ろには、大きめの袋を両手で抱えるようにして持っているクロちゃんがいた。
プルプルと限界寸前の様子が異様に愛らしいなと和みつつ俺は手を差し伸べる。
「クロちゃん、袋持つよ」
フルフルとクロちゃんは首を横に振って後ずさる。
「でも、重いでしょ。これも、俺の仕事だよ。ほら、クロちゃんの補佐の補佐なんだから」
できるだけ柔らかい口調と優しい表情を心がけてそう言うと、やっとクロちゃんは渡してくれた。そして、渡した後はこの後どうしたらいいのか分からないといった様子で、忙しなく辺りをキョロキョロすると逃げるように去っていた。
「やっぱり、うまくいかないな」
「幼狐様は何か言っていましたか?」
昨日力になれなかったのを気にしていたのか、少し心配そうに阿冶さんは聞いてくる。
「ロアさんが出たんですけど、現状こっちに来て間に入るのは難しいそうです」
「そうですか……」
「でも、少しだけヒントを貰いました。頑張ってみます。……これ、キッチンですよね。早く持っていきましょう」
「は、はいっ」
阿冶さんにもこれ以上心配をかけまいと、俺は阿冶さんの背中を押すように促した。
夜になって布団の中で改めて考えていた。
俺は、これからクロちゃんとどんな顔でどう接したらいいんだろうか
今日出迎えた時、俺は一体どんな顔でクロちゃんを出迎えたんだろう。意識した表情が出来ていたんだろうか。
自分でもわからない。ただ、俺が迷っているのは確かだ。そして、その気持ちにクロちゃんが気づくのもそう時間はかからないだろう。そうしたら、クロちゃんとの距離を縮めることは出来なくなる。
俺は本当にどうしたらいいんだろう
悶々とした夜は続く。
皆さん明けましておめでとうございます。五月憂です。
第五話を投稿してから、まだ6時間しかたっていませんね。
皆さんは今どこにいるでしょうか。家でまったりしている人、初詣に行っている人たくさんいると思います。
おそらく私は、初詣に行っていると思います(予約投稿だから分からないけど)。
今年も良い年になるように。充実した執筆活動ができるように願ってきます。
最後になりますが、皆さん今年もよろしくお願いします。
【改稿後」
第六話は、誤字脱字の修正が主になっています。
これから、クロ編終わりまでは主に内容の変化はありませんが、よりスムーズに読めるようになっていると思うので是非読んで見てください。