第五十六話 悪意
背後に視線を向けると、なおも草むらは動き続けている。
猫か、それとも鳥か。
何らかの動物を思い浮かべるも、そこから覗くものは俺の知る動物のどれにも当てはまらなかった。
草むらから漏れる黒い靄。瞬間噴き出すように、それは全身を表した。
人を覆い隠せるほどの黒い靄。その中心には二つの赤く発光する目玉のようなもの。
頭が認識するより先に俺は走り出していた。
「何なんだよあれは!」
俺は、阿冶さんの手を引いて道なき道を駆け抜ける。
木から伸びる枝がビシビシと顔や腕を叩くがそんなことなど構いやしない。
それほど俺は後ろの黒い霧のようなものを恐れていた。
「夏樹さん。手を放してください。私がおとりになります」
俺が内心で焦りを覚えていると、不意に阿冶さんがそう言った。
「何言っているんですか! そんなこと出来るわけないでしょう」
「でも……このままじゃ」
「絶対この手は放しません」
振りほどけないようにギュっと力を入れて阿冶さんの手を握る。
しかし、本当にまずいな。わずかに向こうの方が早い。
その上、ここがどこかも分からない。
後ろの靄はやはり実態がないのか木々の間ををスルスルとすり抜けてくる。
それがまた、この世のものではない何かなのだとゾッとさせられる。
「どうにかして開けた場所に出ないと」
不安定な足場は足に負担をかけ、呼吸はだんだんと苦しくなる。
「夏樹……」
「離しませんよ! って、うわっ!」
俺が必死に打開策を考えていると、なぜか後ろから抱きかかえられるように持ち上げられた。
顔をあげるといつの間にか阿冶さんが永遠さんに変わっていた。
「むしろ離すなよ……」
短くそう言った永遠さんは、その赤い瞳を険しくさせて辺りを見回す。
まるで、暗闇の先を見通しているかのように。
そして、一点に視線を止めると跳躍した。
体が浮いた感覚を感じた後、木々が後ろへと流れていく。
「すごい。まるで風になったみたいだ」
視線の先にやっと見えた小さな光が次第に大きく広がっていき、息をつく間もなく光をくぐり抜ける。
眩さが晴れた先には広大な広場に辿り着いていた。
人の手が加わっているかのように木々も無ければ草はくるぶし丈しか生えていない。
そんな広場を突き抜け、反対側の端っこまで来てから永遠さんは俺を降ろした。
足はまだ宙に浮いているかのようで頼りなさげによろめきへたり込む。
そんな俺に見向きもしないで永遠さんは視線を来た道へと集中させる。
「さて、どうしたものか」
月夜の下照らし出されたそれはやはり何にも形容しがたい黒い気体の何かだった。
「怪か……」
永遠さんが漏らした言葉に俺はひどく驚いた。
なぜなら、俺が今まで見てきた怪はこれほどの意思――殺意を向けてはこなかったからだ。
「あれが怪ですか」
「怪も人間と同じだ。無害のものもいれば有害なものもいる」
吐き捨てるように言う永遠さんからはなぜか憎悪を感じた。
なぜそんな風に言うのだろうか。なぜ苦しそうなのだろうか。
そう思っていると、ふと幼狐が言っていたことを思い出した。
怪は、こちら側に迷い込んだ異世界の生き物だと。
だとしたら永遠さんは、同族かもしれないものに対しての敵対認識を宣言したのかもしれない。
人が人を意図して傷つけるという行為は、今の世の中確かにある。しかし、それとは根本から違う。
それは、娯楽でもなければ快楽でもない。使命や宿命と言ったものからくるものだ。
そんな立場の永遠さんが今どんな思いなのか、俺には想像することもできない。
「この場で応戦する。お前はそこでじっとしていろ」
それは、完全な戦力外通告だった。
本来、否が応でも彼女に何かあるかもしれない事態に黙っているわけにはいかない。
それなのに、言葉が喉を通って行かない。
永遠さんと靄の間に交わされる殺意の応酬に身がすくんでしまったのだ。
そして俺の答えを待つまでもなく靄は動き出し、永遠さんも地を蹴った。
丁度広場の中腹までをお互いが一気に詰める。
そして、一瞬交錯する。
永遠さんは拳を振りかぶると勢いよく靄に向かって振りぬく。
ただ単調な攻撃だが、そのイメージを帳消しにするかのような速度とキレのパンチ。
それは殴打というより刺突のようで、靄は無抵抗に振りぬいたところから真っ二つに裂いた。
「やった!」
その銀髪から覗く口元が僅かに綻んだのを見て俺は安心し漏らした。
一瞬の決着。両者の間には圧倒的な力の差があった。
しかし、異形のものの闘いは単純な腕力では決着しないことを俺は思い知った。
次の瞬間永遠さんの笑みが曇る。
一度真っ二つになった靄は、再び結合しそして一切の速度を落とすことなく俺の方へと向かってきたのだ。
切り返す永遠さんだが、一度停止してからの再加速するには間に合わない。
「逃げろ夏樹!」
焦燥の声は一層俺を硬直させる。
靄はまるで波のように押し寄せて、俺を飲み込もうと飛びかかってきた。
目の前に広がる絶望と暗闇。その先から聞こえてくる永遠さんの声までも飲み込まれていくかのように聞き取ることは出来ない。
抗いようのない不条理に俺は死を覚悟する。
「駄目だ……」
俺がそう零した途端に、空から光が降ってきた。
「あきらめるな!」
何も聞こえくなったはずなのに、はっきりと聞こえたその声からは不思議な力強さを感じた。
活力のような、勇気のような。
抱きしめられたかのような温かさを胸に感じた。
眩い光を背に浴びて現れたのは、甲冑を身に纏った守璃さんだった。
こんにちは、五月憂です。
今回は、バトル突入。とはいっても、そんなに激しいものではありませんでしたが……。
バトルの描写は今まで書いたことがあまりないのでまだまだなれませんね。
次回は守璃VS怪お楽しみに。
最後になりましたが「突如始まる異種人同居」を読んでいただきありがとうございました。
今後とも「突如始まる異種人同居」をよろしくお願いします。




