無職から助手へ その2
その探偵事務所は都心に近い場所に居を構えていた。
テナント料だけで月何十万とかかるような小奇麗な五階建てのビル。
その三階の窓にでかでかとこう書かれていた。
『葉桜探偵事務所』
何回も確認したから間違いないのだけれどまさかビジネス街の中心に、しかも駅から五分、近くにはコンビニまであるという立地の良さは信じられなかった。
これだけの好条件のビルだったらどれだけ利益を上げなければならないのか、想像もつかない。
「時間は……十時だったかな」
始業時間が十時からだから、その三十分程度に合わせて来てほしいと連絡があったのが三日前。
その三日前というのは片倉さんから話を伺った当日のことだ。
というよりハローワークから出る前に連絡があった。
しばらく待つように言われて十分もしない内に面接が決まった。
しかしハローワークに来た日が金曜日だったため、土日を挟んで月曜日に面接する旨を伝えられた。
「本当にいいんですか? 後悔しても知りませんよ?」
片倉さんの念の入れように多少は不安になったけど、まあなんとかなるだろうと能天気に思っていた。
だから、面接練習もろくにしていなくて、ぶっつけ本番の気持ちで、受けるつもりだった。
けれど、ここまで豪華なビルだとは思わなかった。
社会人の常識としてリクルートスーツとビジネスバックで来たが、どこか変な感じになっていないかチェックする。
よし、大丈夫。
「もうそろそろいいかな……」
スマホを見ると十時五分。
この時間ならいいだろう。
一階がロビーになっていて、正面にエレベーターが一基あったので乗り込む。
隣に階段があったけど、エレベーターのほうが楽だし、履きなれていないローファーで足が痛くなっていたのでちょうど良かった。
すぐに三階へ着いた。出るとすぐに扉があり、窓にかかれていた『葉桜探偵事務所』の表札がつけられていて、その下に『ご依頼は午前十時から午後五時までです』と書かれていた。
また、扉の真ん中に取っ手があって、『ただいま依頼募集中』という札が掛けられていた。
一度、深呼吸して、扉の隣にあったインターフォンを押した。
ピンポーンという音と共に誰かが近づいてくる音がしてきた。
ガチャリと扉が開く音。
「……えーっと、あんたが今日面接に来た、砂原めぐみさんか?」
現れてきたのは、機嫌の悪そうな青年だった。
短くまとまった髪型。黒髪。身長は私より頭二つ分高い。百七十五以上あるが百八十はないだろう。濃紺スーツで赤いネクタイ。会社員みたいな服装。不健康そうな印象で少し痩せている。色も白い。
顔つきは整っているのだけど、特筆すべきは目つきの悪さだ。まるで何も信じていないような眼。睨まれたら射竦んでしまいそうな鋭い目線。タカの目と評したほうが妥当だと思われる眼球だった。
「えっと、違ったりする? それともお客さんか?」
「あ、その、面接の砂原めぐみです。本日はよろしくお願いします」
めんどうくさそうに言う桜川さんに私はたどたどしく自己紹介する。
第一印象が悪くならないように一礼もいれて。
「そうか。まあ立ち話もなんだから事務所に入ってくれ。コーヒーと紅茶、どっちが好きなんだ?」
「あ、できたら紅茶のほうが……」
「分かった。じゃあ入ってくれ。葉桜探偵事務所にようこそ」
そっけなく言うと扉を大きく開けて中に向かい入れる桜川さん。私は「失礼します」と小さく言って中に入る。
内装は綺麗に整っていた。
二組の茶色いソファーの間にガラス製のテーブルが設置されていた。
その奥に書類が乱雑に置かれた大きな木製の机と安楽椅子。
床には品の良い絨毯が敷かれていて、部屋全体の高級感を高めていた。
壁には絵画が掛けており、作者は分からないけど四季折々の風景を描いていた。
他にも大型液晶テレビやノートパソコン、空気清浄機、エアコンが完備されていた。
面積は広く、十人ぐらいは余裕で入れるだろう。
こんな部屋にいることが場違いに思えてきて、なんだか恥ずかしくなってきた。
「そこのソファーに座っててくれ」
そう言い残すと奥のほうへ行ってしまう桜川さん。
私は下座に座り、あたかも借りてきた猫のように小さく身を縮めた。
ソファーはふかふかで身を任せるとどこまでも沈んでいきそうだったから、前のめりで座った。
すっごいなあ。探偵ってかなり儲かるんだろうか。
もしかしてとんでもないところに就職しようとしているのかも――
「お待たせ。紅茶は淹れ慣れてないから味は保障しないけどな」
お盆にティーカップを載せて持ってきた桜川さん。先に受け皿を置いて紅茶を置く。
「どうぞ。口に合えばいいが」
「ありがとうございます。いただきます」
私は左手に受け皿、右手にティーカップを持ってゆっくりと飲む。確かこれがマナーらしい。取っ手に指を通さないように気をつけて。
「あ、美味しいです」
だけどなんだか物足りない気がする。
「そうか。それは良かった。ハロワから君のプロフィールを聞いたが元家政婦らしいな」
向かいのソファーに座るやいなや訊ねてくる桜川さんに私は急いで紅茶を置く。
もうすでに面接が始まっているらしい。
「はい。福井家政婦紹介所で三年間働いていました」
「辞めた理由はすでに聞いているから割愛するとして、家政婦として君は何ができて何ができないんだ?」
難しいことを簡単に訊いてくる。私はなるべくオーバーにならないように言う。
「できることは掃除、洗濯、料理などの家事の一通りできます。できないことは……特にありません」
「そうか。では訊くが、この部屋を掃除するにあたって、まず初めに何をする?」
質問の意図は分からなかったけど、間を空けずに答えた。
「まず、桜川さんに触れてはいけないものを訊ねます」
「ほう。触れてはいけないもの」
どこか感心したように私の言葉を繰り返す桜川さん。
「ええ、誰しも触れてほしくないものがありますので、把握しておかないといけません。たとえば宝石のある戸棚などですね」
「ふむ、そうか。それは重要なことだな。ではこの部屋で触ってはいけないものがあるがそれはどれだと思う?」
予想だにしない質問に面食らいながらも私は辺りを見渡して、今までの経験から正解を導き出そうとする。
「そうですね……机の上にある書類とかですか?」
「それはどうしてだ?」
「今の段階で重要かそうでないかの判別ができないので、処分が難しいから、ですね」
もっともらしいことを曖昧に言う。家政婦の頃に身に付けた処世術だ。
「そうか。分かった。それでは最後の質問をする」
正解かどうかも言わずに次々に進む。なんだか試されているようで緊張してきた。
いや、品定めされているのかも。
「さっき飲んだ紅茶の味を高めるにはどうしたらいい?」
わざと物足りなくしたんだと納得して、すぐさま答える。
「お湯の温度を八十度で淹れましたよね? 緑茶ならそれでいいのですが、紅茶の場合は必ず沸騰直前の高温で淹れないといけませんね。ですからこの紅茶は物足らないのでしょう」
これも家政婦の頃に身に付けた知識だ。気づいていなかったけど、こうした知識は私を助けてくれる。私は恵まれているなあと思った。
「そうか。これで面接は終わりだ。結果は今すぐ言おう」
えっ? 早くない?
戸惑う私に桜川さんはあっさりと言う。
「合格だ。是非明日から働いてもらいたい」
「ほ、本当ですか?」
「なんだ? 嬉しくないのか?」
いや、嬉しいというより戸惑いのほうが勝っていて、混乱してきた。
「あの、理由を教えてもらえませんか? そんな簡単に決められても、こっちが困惑しますよ」
「まあそうだ。当然のことだな。では理由を説明しよう」
桜川さんは表情一つ変えずにどうでも良さそうに話し出す。
「まずはマナーだ。これは漫画から得た知識だけどな。君の紅茶の飲み方は文句のつけようのない完璧なものだった。次に掃除についての心構えも、俺が想像していた解答と違っていたが、おおむね納得のいく考え方だった。あと紅茶は上手く淹れられるかのテストだ。依頼人に不味い紅茶は出せないから」
「それが助手の採用にどのように繋がるんですか?」
特に最後の紅茶は別に関係ないと思うけれど。
「繋がるさ。助手に必要なのは品格と心構えと誠実さだ。品格がなければ依頼人に信用されないし、心構えはそれ自体が覚悟に繋がるし、誠実さは言わずもがなだ。この誠実さは君が三年間してきた仕事のやり方で判断させてもらった」
「仕事のやり方? 辞めた経緯についてはハローワークで話しましたけど、それでも信用できるとは限らないんじゃないですか?」
私の疑問に桜川さんがふふっと笑った。
「君は俺の職業を知ってるはずだろう? 俺は探偵だ。すでに君が勤めた雇い主すべてに調査を行なっている」
「えっ? 全部ですか!?」
土日ですべての家を調査って……助手一人採用するためにどれだけの労力を費やしたのか想像もできない。
それもたった一人でするなんて、なんだろうこの人は。
「俺は仕事意識の高い人間は好きだ。プロフェッショナルほど信用のできる人種はいないというのは持論なんだ」
評価されているのは素直に嬉しかったけど同時に気味悪く感じる。
まるで性質の悪いストーカーに迫られている感覚。
引いてしまう。
「理由はそんなところだ。俺は基本的に女性が嫌いだが、君は信用できると判断した。君に不満がなければ、明日から仕事をしてほしい。どうだろうか」
信用されたらしいけど、こっちは逆に信用できなくなってきた。
これなら面接のときに断る人が出てもおかしくない。
だけど――なぜか私は断ろうと思わなかった。
評価されたことが原因ではない。
心情的には引いてしまっている。
それなのに、辞退する気持ちは起こらなかった。
自分でも分からない感情が沸々と湧き出してくるのを感じる。
その感情がなんだか分からないまま、私は導かれるように「分かりました」と答えた。
答えてしまった。
「そうか、ありがとう」
桜川さんはぱんと手を鳴らし、にっこりと笑った。
「じゃあこれから契約してもらおう。契約書を持ってくるから待っててくれ。印鑑は持参しているか? なければ明日でも構わない」
「えっと、その、はい、あります」
「良かった良かった。これで掃除しなくて済むな」
ソファーから立ち上がり木製の机の上にある書類から無造作に一枚の紙を取り出した。
「これが契約書だ。じっくり読んでくれ。後から話が違うなんてことはないようにな」
テーブルの上に置かれた契約書に目を通した。待遇や給料で誤魔化されないように隅々まで読む。
契約書に書かれた内容で気になったのは以下の通り。
その一、時間給ではなく日給であること。ただし日を跨いだ業務の場合、追加でその分の給料が支払われる。
その二、基本的に仕事内容は家事業務から探偵業の二つであること。それ以外の仕事の場合は追加でその分の給料が支払われる。
その三、探偵業において有益な働きをしたときは報奨金が支払われる。ただし普段の家事業務で報奨金は一切出ない。
その四、報奨金などは基本的には来月の給料に上乗せされる。しかし期限までに報奨金などが支払われない場合、罰則として再来月の給料を倍額とする。
その五、もし自主退職する場合はその月一杯まで働いてもらうこと。しかし申告が下旬(二十日から)だった場合は来月一杯まで働いてもらう。
その六、被雇用者の業務に不備が発生した場合、給料の一割を天引きさせること。
後は細かいことが書かれていたけど、納得はいくものだった。
「まあ、とりあえずこんなところだろう」
桜川さんは私が読み切った頃合を見て、確認してきた。
「あの、一つ疑問に思ったんですけど、業務の不備ってなんですか?」
こういう曖昧な文章は後々に影響を受けるから注意しておかないといけない。
「業務の不備は無断欠勤だとかだな。心配しないでくれ。その例をまとめた契約書も用意してある」
そういうと桜川さんは立ち上がり、また机の紙の束から一枚の紙を取り出す。
「無断欠勤、遅刻、早退……なんだか学校みたいですね」
他にも家具の破損などもあったけど、これまた理解の範疇だった。
「遅刻ってありますけど、業務開始時間は何時からですか?」
「九時からだ。葉桜探偵事務所は十時から営業開始だからそれまでに掃除をしてくれればいい。一時間もあればこの部屋を綺麗にできるだろう」
「掃除はこの部屋だけでいいんですか? 楽と言えば楽ですけど……」
そんなので大金を貰っても逆に困るのだけれど。
「この部屋――応接間以外は俺のプライベート空間だから入って来ないでくれ。ああ、調理室は別だな。鍵を後で渡すから確認してくれ」
「それって、家政婦を雇う意味があるんですか?」
「うん? 家政婦?」
不思議そうな顔をする桜川さんだけどすぐに「まあいい」と思い直した。
「他に質問はあるか?」
「いえ、ありません。条件も申し分ありませんし」
「じゃあ、契約書にサインと印鑑を押してくれ」
二枚の紙をもう一度、目を皿のように見通して最後の確認をしてから、サインを記し、印鑑を押した。
「よし。これで君は我が葉桜探偵事務所の助手となった。これからよろしく頼むぞ」
契約書を片付けながら形だけの歓迎の意を示す桜川さん。
「はい、よろしくお願いします」
私も一礼をして答える。
私はこのとき、とある感情に支配されていた。桜川さんに対する感情だ。好意でも愛情でもない、反対に負の感情でもないけれど、なぜかこの人を助けなければならないような積極的な感情が芽生えた気分がした。
私のこの感情の正体が判明するには時間がかかってしまった。
とある事件を解決するぐらいの時間が必要だった。
「では明日から出勤してくれ。鍵はこれだ」
「分かりました。午前九時ですね」
玄関と調理室、二種類の鍵を手渡された。
「午前九時の十分前後に来てくれ。それと服装は自由だが、節度を保ったものにすることが条件だ。そうそう、ハロワには俺から言っておく」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
バックを持って立ち上がり、出入り口へと向かう。
「本日はどうもありがとうございました」
最後に一礼すると桜川さんは「ああ、また明日」と言って手を振った。
扉が閉まり姿が見えなくなるまで頭を下げた。完全に閉まって頭を上げるとそのまま階段を下りて外に出る。
「ああ、良かった――良かったのかな? まあいいや。なるようになるでしょ」
楽天的なことを口に出してみる。そうしないと心の中のよく分からない感情の整理がつかなかったから。
「明日から頑張りますか。あ、院長に報告しないと」
職を失ったことを言うと「大丈夫かい? しばらくはここの手伝いでもして就職活動の資金にしないかい? 少しだけなら援助できるよ」と優しく言ってくれた。
思い出したら早速電話しよう。スマホを取り出し、児童養護施設に電話をかける。いつまでも玄関の前にいたら迷惑なので少し移動する。
三回目のコール音の後、電話に出たのは小島さんだった。
「もしもし、こちら桔梗学院です」
「あ、小島さんですか? 私です。砂原めぐみです」
「ああ、めぐみちゃん! 久しぶりねえ、どうしたの?」
「再就職が決まったので報告したいんですけど、院長はいますか?」
小島さんは「今、席を外しているのよ」と困った声を出した。
「私から伝えておこうかしら?」
「ああ、それでしたら直接向かいます。えっと――」
腕時計を見ると十二時を越えていた。
「そうですね、五時ぐらいに行きます。大丈夫でしょうか?」
「その時間なら確実に居るわ。じゃあ待ってるから」
「はい。失礼します」
電話を切ってしばらく見つめ、バックの中にしまい、駅の方角へ歩みを進める。
子供たちにお菓子でも買っておこうかな。
就職が決まってテンションが高まってきたのか、そんな風に考えていた。




