北嶺炎上
薫の推察通り、茜の報告を受けるなり二条院を出た東宮は、山狩りに向おうとしているにも拘らず、極めて奇妙な出で立ちをしていた。
そもそも山狩りとは、山中に逃亡した罪人を、大勢をもって捜索し捕らえる事がその目的の筈である。だが、出立した東宮は軍を連れず、検非違使を伴わず、見た目におよそ百に満たない手勢を率いただけであった。しかも奇異な事に、東宮を始め少数の手勢は皆、あたかも鷹狩りに興じるかの様な格好で、著しく軽装であった。都の大路を出立した東宮の一行を、京の町人達は、いつもの光景とばかり、何の疑問も持たずに看過していた。
時は、半刻ほど遡る。茜の報告を受けた東宮は、自分の直属である諜報員と信頼、信頼の配下を呼び寄せた。東宮の眼下に一同が揃い、恭しく一礼すると、東宮が口を開いた。
「……茜の報告により、薫が公済と共に、延暦寺にいる事が判明した。……俺はこれより延暦寺に向かい、公済とその一味である僧兵共を討つ」
「はっ」
東宮の言葉に、しんとしていた一同が、はきとした顔で頷いた。
「……だが今回は、相手が寺領だ。討つのが僧兵とはいえ、神仏を祭る寺に対して、弓引く事になるのは間違い無い。……そこで、お前達に言っておく」
東宮が順次、各各の瞳を深く見遣ると、威厳のある口調で言葉を続けた。
「……お前達各個人の、信仰がある筈だ。……俺は、それを否定もしないし強制もしない。今回の作戦において、己の信仰を犠牲にする事は無い。自らの信仰を理由に、今回の作戦に関与しない事を、俺は尊重こそすれ、咎めはしない。お前達自身の胸に手を当て、よく考え、今回追従するか否かの結論を出せ」
思いも寄らなかった東宮の言葉に、一同が思わず呆気にとられた。東宮の側近く仕え、その人となりを良く知っている筈の諜報員達でさえ、東宮の発した言葉は全くの想定外である様だった。諜報員達は、お互いに顔を見合わせると、その全員が大きく顔を綻ばせた。 やがて一同を代表して茜が進み出ると東宮に跪き、威儀を正して東宮に応えた。
「私達は……皆、貴方様に救われました。かつてそれぞれの境遇において、神仏が私達の辛苦を救ってくれた事があったでしょうか。私達には、貴方様の存在こそが己の存在意義なのです。いついかなる時も貴方様に付き従い、地獄の底まで喜んでお供致します」
東宮に侍立する信頼が、愉快で堪らないといった様子で噴き出した。
「……実に面白い御方ですね、東宮様! 普通……いと高き存在であられる御方は、我々下々の者達に、そんな配慮などなさいませんよ。道具の様に使いこなし、意のまま当然の様に操り、鋼の様に己の意思を断行する。全く……これだから敵いませんね、貴方様には!」
信頼の言葉に、その場に居た全員が、思わず声を上げて哄笑した。
東宮が口角を上げ、にやりと笑った。
「揃いも揃って、貧乏くじを引きたがるとは……馬鹿ばかり、か! 全く……どうしようもない阿呆だな、お前達は!」
東宮が鷹の様な鋭い双眸で見渡すと、威風堂々と命令を下した。
「では、お前達に命じる。今回、山狩りに向うのは、ここにいる者のみとする。そして今回、都の人間には、宗教上の禁忌である延暦寺攻めを、一切気取られてはならない。彼らの心理的不安を煽らせない為にも、全員、鷹狩りの格好で都を出立する」
こうして東宮は、途中で密かに知らせを受けた葵と合流すると、都を出るなり疾風の如く駆け抜け、鬼神の如き速さを以って、一路、延暦寺を目指した。
東宮一行が潜行し、隠密に延暦寺に着いたのは夕暮れの事だった。
東宮は、手勢と共に延暦寺を囲む鬱蒼とした千古の深い森に身を潜めると、寺内の様子を瞻望した。声を潜めて影従する茜に問い、寺内の配置を確認する。
延暦寺は、南都の東大寺や高野山と並び、名実共に日本に於ける仏教の中心地であり、古来より霊峰として尊ばれて来た比叡山全体に点在する伽藍の集合体であった。数多くの伽藍の内、その中心的役割を担っていたのは、初代天台座主である最澄が創設した根本中堂を擁する東塔で、山内には他に、二世円澄が開いた西塔、三世円仁が建立した横川が、東塔と合わせて寺内の求心的役割を担っていた。
先に偵察した茜によると、薫が居た場所は、寺内に五十程ある堂坊のひとつで、公済に与えられた坊であり、それは公済が統べている僧兵の堂坊と共に、東塔にある根本中堂を囲む様に点在しているとの事であった。
東宮が無言のまま手を挙げ、信頼を呼び寄せた。
「……信頼、寺内の配置については、今聞いた通りだ。……隼と共に密かに潜入し、奴らが保有している例の爆薬の所在を探し出せ。……そして場所が分かり次第、お前の手下と共に危険な硫黄を僅かに残し、運び出せ」
信頼がニヤッと笑い、拝命すると、主に問うた。
「……という事は、火計をお考えですか」
東宮が、聡い信頼に満足するとフッと笑い、頷いた。
「……そうだ。お前の時と同じだ。ならば……何処に運べばいいか、分かるな?」
「勿論です。……相変わらず、慈悲深い方でいらっしゃいますね」
信頼が恭しく一礼すると、さっと踵を返すや否や、片腕である隼を伴い、疾風の如く行動を開始する。晩照が僅かに残る昏々とした下草を瞬く間に猫の如く剽軽に駆けると、音も無くその姿を掻き消した。
今回東宮に随従した要員は百にも満たぬ手勢と雖も、これ以上無い手練の精鋭部隊に他ならなかった。忍びの先祖は斯くやあらんと思わせる諜報員や、熟練の間者としても最高峰の信頼と隼、そして命運を共にした配下達……東宮は、闇に溶け込む信頼を満足そうに見遣ると、残る手勢に指示を出した。
「信頼が任務を遂行次第、火計を用いる。公済と、奴の手下が立て籠る堂坊全てを燃やしてしまえ。いつもの通り、脱出経路をひとつだけに限定しろ。その準備を急げ」
黄昏の最後の残照が伽藍に遮られ、辺りは急速に薄暗くなっていた。諜報員達は、好都合とばかり微笑むと、主命を迅速に実行するべく、某某が夜陰に乗じてその姿を消した。
迎撃の準備が整ったとの報告を受け、公済が薫を誘い、堂坊を預かる僧兵と共に堂坊内を巡回する。堂坊は回廊で繋がれ、本堂にあたる根本中堂を中央に守護するかの様に、周囲を取り囲む形で建立されていた。
「回廊には全て竹槍を配し、万一進入された場合に備え、熱湯や煮え油の用意もある……どうだ、薫? ……何か気になる点はあるか?」
ふと足を止め、公済が薫に向き直ると問い掛ける。薫が淡々として答えた。
「……いや、確かに侵入できないでしょうね。貴方の、思惑通りだと思います」
公済が上機嫌で頷くと、薫の顔を見つめた。
「お前が苦しがらない所を見ると、どうやらその感想は本音の様だな」
薫がふっと笑うと冷ややかな顔を上げ、尋ねた。
「……私の言動が、そんなに気になりますか?」
微笑した公済が前を向き、再び回廊を歩き出した。薫が公済の一歩後ろを歩きながら、ふと慌しく準備に追われる僧兵達を見遣り、哀感込めて公済に問うた。
「……此処にいる僧兵達は皆、貴方と志を同じくする同志だと伺いましたが……。革命や強訴という手段では無く……貴方と共に朝廷に出廷し、その窮状を訴え、国の失策を堂堂と指摘した上で己の主張を正正と標榜し……今後、同じ一国民として私と共に、政治改革に尽力する訳には参りませんか?」
先を歩く公済が振り返り、苦笑を浮かべると薫を見遣った。
「……まだその様な、ぬるい事を言っているのか? この軍備を見ただろう? ……今更、何を言い出すかと思えば……」
足を止めた薫が、鋭敏な瞳で呟いた。
「……今ならば、間に合います」
「何? ……一体、どういう事だ?」
驚いた公済が、薫の深遠なる瞳を食い入る様に凝視する。
「確かに東宮と雖も……これだけの軍備で迎撃すれば、此処への侵入は難しいでしょう。ですが敢えて申し上げるなら、東宮が来れば、貴方方は間違いなく殲滅される事でしょう」
「何!」
思いも寄らない薫の言葉に、公済が目を剥き眉を吊り上げた。剛強として自信に満ち溢れた双瞳を叩き付けると、薫をしげしげと睥睨する。
「……馬鹿を言うな、薫。此処をどこだと思っている? 此処は、比叡山……延暦寺だぞ! 神仏のおわす神聖なる土地であり、宮中の貴族を始め皇族の信仰は特に厚く、その尊崇を極めた聖地だぞ? 天皇と雖も憚る我等に、東宮がどう相対するというのだ? ……我等に争議を仕掛ければ、返り討ちに遭い敗北し、仏罰により死ぬのは東宮の方だぞ!」
驕矜とした笑みを浮かべ、公済が尊大な態度で薫の発言を一笑に付すと、期せずして二人の会話を耳にした僧兵達が、公済の言葉に大いに賛同して傲慢に大笑した。割れんばかりの嘲笑に、薫が氷の様な冷笑を浮かべると、艶然として口を開いた。
「……そうでしょうね。貴方がそうお考えになるのも、無理はありません。……従来までの東宮でしたら、当然そうであった筈でしょうから……」
冷冷淡淡としてあまりに艶やかな薫の微笑に、付近に居た僧兵が総じて凍て付き胆を冷やすと、慄然として震え上がる。公済が俄かに憮然として眉を顰めた。
「……どういう事だ?」
「東宮には……聖域である延暦寺が世間的にどういう存在であろうが、皇族を始め貴族達の思惑がどうであろうが、そんな事は一切関係無いという事です。東宮は、歴代の皇族と全く異なり、激烈なまでに……明瞭な己の意志ある存在です。東宮の行動準則には、一切の世間的常識が通用しません。東宮は唯……その炎の様に熾烈な己の意志によってのみ、行動される御方です」
悠然と答えた薫が、瞳柔らかく微笑んだ。
「……それは、公済様が東宮と邂逅された時に、自らお感じになった事では無いのですか?」
実に肯綮に中った薫の言葉に……公済は、閉口せざるを得なかった。
確かに……あの時の人物が東宮であるとしたら……今の話は、嘘偽り無い真実である様に感じられた。……馬鹿な。こちらが不利になる可能性など、およそ考えてもみなかった。
「……残念ながら、貴方方に……勝機はありません」
黙考する公済に、鋭利な薫の言葉が冷冷と突き刺さる。
「……公済様。……こんな所で全滅しては、元も子も無いのではないですか? ……貴方様の理想は……実現させる為のものでは無いのですか?」
静かに口を開いた薫が深き慈悲に満ちた瞳を向け、諭す様に語り掛けた。
「……私の胸の内は、先程貴方様にお話した通りです。このままでは……貴方様がお救いになった黒杉殿を始め……ここに居る僧兵達……皆が、犬死の憂き目に遭う事になります。……それは決して、公済様が望まれる事では無い筈です」
衷心に沁み入り、意を尽くして切切と語り掛ける薫に、公済を含め、周囲の僧兵が胸奥深く胸を打たれると揺揺として、思わずしんと静まり返った。
その時だった。
回廊を猛然と駆けながら、ひとりの僧兵が馳せ参じると、上擦った声で叫号した。
「こ……公済様! 大変です! ……火が! 火が!」
蒼然とした僧兵が恐怖に瞳を見開いたまま、信じ難い事態を報告した。
「……敵の姿は一切見えませんが、寺内を囲む森林の四方八方より火矢が飛び……、堂坊に次々と刺さり、火が掛けられました!」
公済の顔色が、一瞬にして蒼白になる。
敵の侵入を想定して万端に籠城していた筈の寺内が、突如として仕掛けられた想定外の火計に恐怖すると、俄かに浮き足立った。付近の僧兵が、逼迫した事態に競競として我を失い凍り付くと、辺りは恟然として混迷を極めた。
瞬息、逡巡した様子の公済であったが、ハッと我を取り戻すと、驚愕した面持ちのまま回廊の手摺に走り寄り、今や深淵の濃き闇と化した幽翠の森を見遣った。
奈落を思わせる昏冥の夜陰から、耿耿たる炎を上げて、夥しい火矢が射掛けられていた。姿見えぬ敵が放つ火は雨の如く、あたかも天から罰として降りたる断罪の炎に思われた。
伽藍に射掛けられた火は燄燄として燃え上がり、煙炎は一瞬にして天に漲った。炎威は見る間に凶暴として熱風が巻き上がり、うねりは渦を為して天へと逃れ、さながら火竜が昇竜となり天に帰るかの如く、凄惨な光景でありながら、どこか幻想的にさえ思われた。
「馬鹿な……馬鹿な……馬鹿な……!」
無防備な天より降り注ぐあまたの火に……最早、為す術はなかった。瞬く間に火焔に侵襲されていく伽藍を目の当たりにしたまま、呻いた公済が叫喚した。
「何故……何故、攻め入って来ない? ……相対もせず、いきなり炎をもって炎上させるとは……! そんな馬鹿な事が……! ……薫! ……お前が居ながら……お前が此処に居ながら、炎を浴びせるとは! 東宮は、お前を見殺しにするつもりか? ……馬鹿な! ……有り得ない! ……信じられん!」
絶叫しながら、公済が背後を振り返る。
「……申し上げた筈です。貴方様の計画は完璧で、東宮であろうと侵入できない……と。しかしながら東宮が来れば、皆殺しになるでしょう……とね」
淡淡として答えた薫に、公済が絶句した。
そして脆くも一瞬にして崩れ去った、遠大なる己の計画の破綻を目の当たりにし、思わず絶望の色を浮かべると、その場にへたりと座り込む。
辺りは今や、昼間の様に煌々と照らし出された。薫は伽藍を嘗める様に広がる炎を静かに見つめながら、穏やかな微笑を浮かべたまま平然として佇んでいた。
漆黒の深い森に黙然と座した東宮は、焼き討ちに遭い炎に巻かれる伽藍を微動だにせず見つめていた。容赦無く射掛けられる火矢を見ながら、傍に控える茜が不安に満ちた表情で東宮を見上げると、口を開いた。
「東宮様……。堂坊にはまだ……薫様がいらっしゃいます」
炎上する堂坊を見据えたまま、東宮が短く答えた。
「構わん。……心配無い」
茜が俯き加減に、自分の憂慮を打ち明けた。
「……いつも通りの薫様でしたら、何の心配も要りませんが……。今回、薫様は強力な暗示を掛けられ……思考も行動も、敵に制約された状態でいらっしゃいます。……東宮様。……薫様を、どうお救いになるおつもりなのですか?」
聞き置いた東宮に、茜が俯いたまま、言葉を続けた。
「私が蒼王と共にお会いした際も……東宮様に思い至された瞬間に、正視に耐えない程に悲痛なお苦しみ様でした……」
沈黙していた東宮が、ふと口を開いた。
「……延焼を、防ぐ手立てはしてあるな?」
主の問いに、茜が答えた。
「はい、それは勿論です」
頷いた東宮が猛火の伽藍から目を離し、泰然として茜に向き直った。
「……では、残された脱出経路の出口に、俺を案内しろ」
東宮が、席を立った瞬間だった。
東宮と茜が一瞬にして、仲間の諜報員とは異とした気配を敏感に察すると、蒼古の樹林の奥を見遣った。茜が短刀を手に東宮の前に躍り出るなり、主を庇い短剣を翳す。
東宮が毅然と片手を差し出し茜を制止すると、闇然とした樹幹を睨み、威厳のある低い声で問い質した。
「……お前等は、誰だ?」
東宮の問いに応じ、闇からぬっと姿を現したのは、十数人を数える程の僧兵であった。
見た目に屈強な体格の僧兵達が膝を折ると皆一様に頭を下げ、刀を東宮の眼前に出し、敵意の無い事を示すと、口を開いた。
「……東宮様には、お初にお目に掛かります。……我等は貴方様をお守りする為、桜姫様の密命を受けた園城寺(三井寺)の僧兵でございます」
「……何?」
東宮が、自らに傅き、その主命を口上した屈強なる僧兵を見つめ、心外な顔になる。
「……桜が?」
眉を顰めた東宮に、僧兵のひとりが事情を説明した。
「……はい。桜姫様は今回の事態に、大変お心を痛められ……東宮様と薫様に大事無き様、陰ながら守護する様にと仰せられ、我らが拝命した次第です」
東宮が極めて不愉快な顔になると、チッと舌打ちした。
「チッ……。桜の奴、余計な事を……」
自らの助勢となるべき筈の申し出を喜びこそすれ……面倒事とばかり、煩わしく感じている様子の東宮に、桜姫の密命を受けた僧兵と茜が思わず顔を見合わせると、狐につままれた顔になる。両者の意など微塵も介さず、憤然とした東宮が苛苛した口調で叱咤した。
「……帰れ! ……俺は、延暦寺でなくとも、概して僧兵共は大嫌いだ! 誰がお前等と手を組むものか! お前等の手を借りる程、おちぶれたつもりもない! それが分かったら、俺の視界から直ちに消えろ! 今、すぐだ! いいな!」
突然の東宮の咆哮に、暫時呆気に取られた茜が、思わず笑みを漏らすと噴き出した。
東宮の励声に落胆すると思われた園城寺の僧兵達が、予想に反し、互いに顔を見合わせると愉快至極に失笑する。やがて、両膝を突いたまま東宮を見上げると口を開いた。
「……桜姫様の仰る通りの御方とは、驚きました」
「何?」
東宮が怪訝顔で僧兵を見遣る。僧兵のひとりが畏まると、答えた。
「桜姫様は、貴方様に断られる事を承知の上で、我等に命じられました。東宮という立場で居られる貴方様が、神仏に弓引くことは、あってはならない恐ろしい大罪です。……貴方様がご存知かどうかは分かりませんが、実は延暦寺天台座主三世に当たられた円仁様と五世であられた円珍様の、仏法における解釈の違いが、それを継承する弟子達の間で争点となり……現在、劣勢にある我等円珍派の僧兵は、園城寺の手厚い庇護の下にあります。そんな我等にとりましても、現在円仁派が多数を占める延暦寺僧兵は、目の上の瘤であり、機会があれば、これを滅しようと考えておりました。……貴方様が手をお下しになるまでも無く、これより先は、我等の手に結末を委ねて頂ければ、それがひいては貴方様の御為にもなり、我等の益にもなる所でございます」
僧兵が自信に満ちた瞳を東宮に向け、その同意を促した。大儀を翳し、己が使命に驕矜として勇躍する僧兵を見遣り、嫌悪を募らせた東宮が、見る間に峻厳になる。怒り心頭に発した東宮が、僧兵を激烈に糾弾した。
「……この阿呆共! だから俺は、お前等の様な僧兵が、虫酸が走る程嫌いなんだ! 俺は、誰の手も借りるつもりは無い! ……この俺が、お前等の思惑に乗り、卑怯な手段で事を運ぶとでも思うのか? お前等同士の下らない諍いなど知った事か! ……今すぐ、俺の眼前から失せろ!」
自分達の自己利益が東宮の御為にもなり、もって桜姫様のご意向にも添う事になる……そう信じて疑わなかった僧兵達の矜持は、東宮により見るも無残に切り裂かれ、こなごなに打ち砕かれた。烈火の如き東宮の怒りを前に木端微塵に砕破された大義名分を顧みて、最早桜姫の命すら果たせそうにない事態に、愕然とした園城寺の僧兵達が斉一に項垂れる。
悉く肩を落とした僧兵達が失望を胸に、一礼すると立ち上がる。悄然として帰路に就いた彼等の後姿がまさに視界から失せようとした刹那、東宮が背後から静かに口を開いた。
「……お前等に、できる事がひとつだけある」
僧兵達が、ハッとして振り返る。
「……ある意味、僧兵であるお前等にしか、できない事だ」
東宮が凛然と口を開いた。
「……現在火のついていない堂坊、伽藍、根本中堂を含め、東塔付近に居る僧侶や僧兵共を一刻も早く、またひとり残らず避難させろ。……同じ僧兵のお前等ならば、怪しまれずに皆、その意に従う筈だ」
およそ想定外の東宮の言葉に、僧兵達が甚だ吃驚する。東宮が冷厳に僧兵を睥睨した。
「……思想は違えど、同じく仏道を志す仲間ではないのか? ……ならば、眼前に迫り来る、俺という恐怖から逃れさせてやれ。……いがみ合うなら、その後で勝手にすればいい」
桜姫の密命を受けた僧兵達が、総じて東宮を茫然と凝視した。
桜姫から聞き及び、初めて接した東宮という人物を目の当たりにして深く感じ入り、各各がその幽玄なる心眼を呼び覚ますと、しげしげと熟視する。やがて誰とはなしに深深と頭を下げると、衷心から平伏した。
東宮が鮮やかに踵を返すと茜を伴い、足早にその場を立ち去った。
「……時間が無い。茜……早く案内しろ」
東宮は途中、負傷者の処置に専念していた葵と合流すると、火計により限定された唯一の出口へと急いだ。
唯一の出口には、未だひとりの僧兵の姿も現れなかった。
……あまりに、遅過ぎる……。
今や崩れ始めた伽藍を注視しながら、東宮に侍立する諜報員がちらと東宮を仰ぎ見る。両腕を組んだまま泰然と構える東宮に向かい、焦慮を抑えながらも不安気に尋ねた。
「……もしや……絶望した敵は、このまま自刃という手段を取るのでしょうか……」
炎上する伽藍を静観したまま、東宮が聞き置いた。黙止した東宮に代わり、別の諜報員が静かに首を振ると、若干の焦りを顔に滲ませたまま、努めて冷静に否定した。
「……まさか。……中には、薫様もいらっしゃる……。あの薫様が居られるのに、その様な手段を選択されるなど……まず、ありえない」
更に別の諜報員が東宮の御前に進み出ると片膝を突き、進言する。
「しかし、東宮様……。これではあまりに遅過ぎます。このままでは確かに、我らが逮捕する以前に、敵が自滅するという懸念も払拭できません。……薫様の安否も気になります。ここはひとつ、私が出口より潜入し……中の様子を探って来ましょうか?」
「……いや、それには及ばない」
緘黙していた東宮が炯眼を欹てると、はきと制した。
厳然とした東宮の制止に、忠烈極めた諜報員達が流石に沸沸とした憂慮に焦燥すると、はらはらと東宮の動静に傾注する。
東宮が出口を黙視したまま、極めて短い言葉で、初めてその真意を口にした。
「今回は……薫に、けりを付けさせる。もう暫く、待て」
東宮の言葉に、その深い心中をことごとく察した諜報員達が斉一に静黙すると、固唾を呑んで出口を見守った。
やがて、出口に大勢の人影が現われた。慴然と姿を現した人間は、驚く程の人数の僧兵達であった。
諜報員が投降した僧兵を順に捕縛すると、全く火の気の及んでいない根本中堂前に引き立て、次々と座らせる。不思議な事に、決死の抵抗を想定していた荒々しい僧兵達は、不意の火計に度肝を抜かれて竦然としたのか……素直に縛につき、何の抵抗もしなかった。
最後に、一見して僧ではない白衣姿の男と公済、そして薫が現われた。
遠目に元気な薫を視認すると、東宮に侍立する葵と茜が安堵にほっと胸を撫で下ろし、無事なる帰還を心から喜んだ。諜報員が愁眉を開いて顔を綻ばせ、一斉に歓喜する。
唯ひとり、東宮が不愉快極めた顔になると、怒りを露に励声を発した。
「……薫! ……どういう事だ、これは!」
薫の生還に欣喜していた総様が、怒髪衝天に憤慨した東宮に驚くと恐恐として緘黙する。総様が憚りながら東宮を凝視すると、次いで薫の挙動に注目した。
薫が東宮を真っ直ぐ見つめると柔和に微笑み、口を開いた。
「大津! ……私は、彼等を助けたい」
「……何だと?」
東宮が峻酷になると眼光炯炯として、射る様に薫を睨み付けた。
「……ふざけるなよ、薫! ……一体、どういうつもりだ?」
ギリッと歯噛みした東宮が荒ぶる怒りをたぎらせ、ぐっと拳を握り締める。峻烈な双眸を容赦無く薫に叩き付け、凄烈に薫を責め立てた。
「お前……自ら潜入し、内部から奴等を再起不能に崩壊させ……最後に、お前ひとりが、この出口から出て来る筈では無かったのか?」
恐るべき東宮の言葉に、捕縛された僧兵達は勿論の事、東宮の側近である葵、茜を始め諜報員に至るまで、総並が度肝を抜かれると唖然として、思わず自分の耳を疑った。
東宮が冷然と薫を見据えると、辛辣に非難する。
「……強力な暗示が掛けられていようが、殊この点においては、そんな事は全く関係無い筈だ。お前の技量ならば……制約が発動し、卒倒する様な頭痛が起きたその瞬間に、その気になりさえすれば、本来殺れない相手など無い筈だ、違うか?」
薫がふっと笑い、静かに頷くと、それをいともすんなり肯定した。あまりに恐ろしい二人の会話に、辺りがしんと静まり返る。艶麗に微笑んだ薫が口を開いた。
「……確かに、そう思っていた。……だが、彼等の言い分を聞いてみた所、彼等の主張にも一理あると思ってね……。そもそも、彼等は政府である朝廷の失策に強い不満を持ち、どうにも逼迫した上の詮無き手段として、今回の事件を画策した背景がある」
東宮が偉容険しく苛烈な気を発すると、薫の瞳を睥睨した。
「……馬鹿を言うな! ……奴等は、謀反どころか革命を目論んだ重罪人だ! 盗難事件の首謀者共でもある。極刑以外無いだろう! 当然の事だ」
薫が冷静に頷き、東宮の詰難を正面から受け止める。
「確かに、朝廷としては許し難い罪だ。……だが革命については、こうして未然に事無きを得、不発に終わった。無論、盗難事件の罪は償うとして……目下、焼き討ちにして皆殺しにする必要は無いだろう?」
薫の言葉に、いよいよ激昂した東宮が猛然と怒号した。
「……いいか、薫! 奴等は自分の欲求に対し、強訴という手段に訴え出る輩だ。そしてこの俺は、公然と暴力主義を唱え……その手段により、人を恐怖により自在に操る輩など、絶対に認めない! ましてや人に暗示を掛け、その人格を否定して操り、無差別かつ大量殺人を計画するなど、言語道断の行いだ! ……そんな奴等の、何が理想だ! ……人皮畜生な輩の馬鹿げた妄想の上に、善意の人間が何人死んでもいいのか? 神仏の名を騙る大義さえ掲げれば、何をしても許されるとでも言うのか? ……お前、まさかとは思うが、奴等の詭弁に陥落したのか!」
東宮から発せられた紛う事なき正論に、薫が何とも嬉しそうな顔で清麗に微笑むと、その清澄なる瞳を真っ向から東宮に向け、颯爽と応えた。
「……断じて、その心配は無い。お前の言う通り、確かに彼等は重罪を犯した。罪は罪で勿論、それ以上の報いを以って償って貰う。……だが、その罰自体も、お前が決めるのではなく……律に照らし、万民が納得する上の処罰として、公に決めたらどうだ?」
「……何?」
断然として東宮の疑念をしりぞけながら、自らの見解を凛として述べた薫に、東宮は勿論、周囲に控え、二人の会話に聞き入っていた皆が驚くなり顔を上げる。
薫がやんわりとした清涼な瞳で、灼熱の炎を思わせる東宮に真っ直ぐ視線を合わせると、幽艶なる微笑を浮かべた。
「私は、常々思っていた……。いずれ訪れるお前の治世に、今の政治を根本的に変えられたら……と」
東宮が炯眼を欹て、怜悧な薫の奥深く……揺るぎ無い深淵をじっと見つめる。薫が清静として東宮に胸奥を開くと、心奥からの言葉で応えた。
「私は……今の政治も、それなりに良くされていると思っていた。だが、それはまだ種を捲き始めたばかりの荒涼とした素地に過ぎないという事実を目の当たりにした。現状は、未だ艱難辛苦に満ち、黎民の逼迫した窮状を救済するに至っていない。……岌岌とした国勢なればこそ、今回の様な事件が起きたのだ。腐敗した貴族社会、天皇の威光を背景に君臨する朝廷、強訴に及ぶ狂気の聖職者に、犠牲にされる黎民達……。この狂った社会体制を流血無くして破壊するには、誰かが大鉈を振るわなければ……。……私はそれが、お前にしかできない事だと思っている。……東宮という存在でありながら、人としての心を持ち、人として生きているお前だからこそ、為し得る事だと……信じている」
辺りはしんと静まり返った。
一陣の清籟が吹き抜ける。塵埃がざあっと舞い上がると、天空に四散した。放散された塵芥が熱風に煽られ煌煌として塵灰に帰すなり、瞬く間に中空に隠滅する。
気紛れな風に翻弄されては煌然と燃焼して消滅するあまたの塵埃を見つめながら、周囲は実に粛粛とした静寂に包まれた。
暫時静黙していた東宮が、薫をじろりと睨み付ける。
「お前の言い分は……良く分かった。……だがこの俺は、お前の指図は一切受けないし、奴等の暴挙を徹底的に全否定する事はあっても、取引して罪を軽減するつもりは毛頭無い。……だがお前が、公の場で裁判に掛けたいというのであれば、止めはしない。断罪の場所が、公になるだけの話だ。その場で徹底的に糾弾し、犯した罪を骨の髄から償わせてやるまでだ。……お前がその場において、勝手に助けたいというのであれば、精々弁護してやればいい。……そして言い出したからには、公の処断がたとえどういう結果になろうと、お前が最後まで責任を取れ」
薫にきっと言い置くなり踵を返すと、東宮が僧兵に向き直った。
「今、聞いた通りだ。お前等の処遇は、公の場にて決定する。それまで雁首並べて待ち、辞世の句でも書いて、覚悟しておくんだな」
根本中堂の前にて捕縛された僧兵が、皆一様に項垂れた。
「……ふふ……東宮、貴方も薫同様、何とも甘い方ですな」
不意に、薫の背後に佇立していた公済が高慢な笑みを漏らすと、不遜にも口を開いた。
「……何だと?」
東宮がゆっくり背後を振り返ると、鋭利な鋒鋩で公済を見据えた。それは、遥か高みから睥睨するかの様な、非情なる視線であった。
怪訝に眉を顰めた薫が、屹然として公済を見遣る。公済が傲岸無礼に放笑した。
「……貴方が焼き討ちした部分は、冷静になってみれば、寺領の中でも堂坊部分のみ。口では我等を断罪すると豪語しながら、貴方は心中に仏罰を恐れていると見える。……それに、薫は未だ俺の暗示の術中にある。……貴方が心中で危惧している通り、薫は俺に対して不利な事は言えないし、俺の命令に逆らう事はできない。……薫が、貴方の意に反して俺達の助命を願い出たのは、その影響かもしれませんな」
東宮の後方に控えていた葵が、思わず唇を噛み締めた。茜を始めとする諜報員達が、こぞって太刀の柄に手を掛けると、きっと激しく公済を睨み付けた。
「……何て、卑怯な手を……」
公済が委細構わず傲然と東宮を凝視すると、尊大な態度で挑発した。
「貴方が薫を真に解放するには、俺を殺すしかない筈だが……。それは、仏罰を恐れる貴方の本意ではないと見える。怖気付いた貴方は……はなはだ腑甲斐無い事に、薫の意を汲み俺を助命する事で、いつか俺の意により薫の暗示が解かれる機会を、消極的に望んでいるに過ぎないのだ」
峻酷極めた東宮が、太刀の柄に、その手を掛けた。
「……分かっていないのは、お前の方だ。……やはり、死に急ぐか」
公済が傲慢な顔に、ニタリとした笑みを浮かべると錫杖を構え、薫に命じた。
「薫! ……お前は、手を出すな」
総様が息を呑んだその瞬間、東宮が目にも止らぬ速さで公済に迫ると、猛然と跳躍するなり抜刀し、公済に襲い掛かった。公済が渾身の力を込め、東宮に錫杖を突き出した。
刹那、公済の前に、影が走った。一瞬にして東宮と公済の間合いに飛び込んだ影は、上空より襲い掛かる東宮の太刀の軌道を見極め、その流れる様な動作で、太刀を握る東宮の鍔際を手刀で横に逸らすと、太刀を取り落としたまま着地する東宮の全身を庇う様に屹立した。東宮の手から弾け飛んだ太刀が、公済の後方の地面に深深と突き刺さる。同時に、しなやかな動作で着地した東宮が、驚きの声を発した。
「……薫! ……お前、……どういう事だ?」
両手に確かな手応えを感じた公済が、自らの手元を見つめ驚駭すると、眼前の光景を凝視する。自分と東宮の間に……薫が平然と立っていた。公済の錫杖は、背後から薫の左肩に突き刺さり、公済の両手には、錫杖から伝わる薫の血が滲んでいた。
「……馬鹿な! ……これは一体?」
飛び込んだ影は紛れもなく、公済の暗示により一切の行動を制約された筈の薫であった。公済の命に逆らえば最後、卒倒するかの様な頭痛に苛まれ、悲劇的な様相を呈する筈の薫が……錫杖を肩に受けたとは言え、悠然と立っている……。その場の一同が驚愕したまま、唖然として固唾を呑み、事の成り行きを見つめていた。
公済が愕然として、薫に問い質した。
「……馬鹿な……手を出すなと命じた筈だ……。俺の命に反したというのに、お前が苦しんでいない……という事は、お前が、俺の暗示を破ったとでも言うのか……?」
薫が左背に右手を添えると、錫杖を静かに引き抜いた。錫杖が、がらんと空虚で甲高い音を立てて落ちると、地面に転がった。薫の直衣に、ゆっくりと血が滲む。
泰然として佇立する薫が、怜悧な瞳に冷笑を浮かべると、答えた。
「……破った訳ではありません。……無効にしたのです」
「……?」
総様が、薫の発言に傾注した。
「貴方が私に施した暗示は、私の中の東宮を否定し、貴方が私の新たな主となる様に仕向けられたものでした。暗示の全容さえ解れば……破れずとも、無効にすれば良いのです。……つまり、貴方が私に強制した暗示が、私の真意と矛盾しなければいい。私の本意と貴方の命に乖違が生じた時に、激しい頭痛が罰として齎されるのですから、こうした頭痛による行動制約を失くす為には、論理的に逆らわなければいい。……即ち、私の取る行動は貴方の為にもなり、ひいては私の真の主である東宮の為であると私自身が思えば、それでいい訳です」
あたかも流れる水の如く……暗示による制約に逆らい、断固として打ち破ろうとするのでは無く、寧ろ流れに従い……自然な形でゆだね、柔軟に融化する事で暗示を己に取り込み無効とする……。まさにそれは柔能く剛を制すという……薫という人となりそのものを、鮮やかに体現した解決手段でもあった。
薫という人物を知る周囲から、期せずして感声が湧き上がる。
「貴方が私に施した暗示は……私の中でとうに失効しています。ですから……先程までの私の発言は、全て私の本心です」
凛と響いた薫の言葉に、公済が絶句した。
馬鹿な……。では、薫は本心で……この俺を助けたというのか……。
東宮の言う通り、俺を一瞬で殺れる技量がありながら……真の主である東宮の意に反してまで、助けたというのか? ……朝敵であり、許されざる大罪人の俺を……何故だ?
両腕を地に突き茫然として、公済が食い入る様に薫を凝視した。
答えを求める公済の視線に気付いた薫が、その双瞳を静かに向けると、公済の双眸をじっと見つめる。公済が、はっとして瞳を大きく見開いた。
……およそ初めて目にする程、穏やかな……ぬくもりに満ちた薫の瞳だった。そしてそれは同時に、罪を知り……深い哀しみを知る人の……慈悲に満ちた瞳でもあった。
ふと薫が口元に、柔らかな微笑を浮かべた。薫の瞳に引き込まれていた公済の脳裏に、薫の言葉が鮮明に甦る。
……私は、一切の流血を望んでいません……。
思わず公済が、言葉を失った。
……まさか。
……俺が、綺麗事と一笑に付した、あの言葉……。
……あれこそが、お前の紛う事なき本心であり、お前はそれを……その白雪の如き高潔な理想を、まさに身をもってこの俺の眼前で実行し……貫いてみせたというのか……。
公済が刹那、穏やかに佇む薫を遼遠に見つめた。幽艶なる薫に皓然と秘められた強烈なまでの意志を深く感じ取ると、ただただ驚嘆した。
静観していた東宮が豪然と太刀を引き抜くと、切っ先鋭い鋒鋩を冷然と薫に突き付けた。
「……邪魔をするな、薫。そこをどけ!」
両手を広げた薫が首を振ると、東宮の前に立ち塞がった。
「……駄目だ、大津。 ……お前は東宮だ。それに公済を始め僧兵は、公にて処遇を決めると、先程合意した筈だ。そして延暦寺にはこれ以上、一切手を出してはならない」
東宮が峻厳過酷な険相になると、冷淡に凄んだ。
「……東宮だからこそ! ……俺にしか振るえない刀がある。俺にしか使えない刃がある。奴の、厚顔無恥な態度を見たか? ……この期に及んで仏罰を盾に、唯我独尊とばかり、傲岸無比に振舞う態度を見たか? 俺は、許せん。……やはり、お前のやり方では温い!奴等の様な危険分子を輩出する寺は、一度浄化の炎に焼かれ、塵埃に帰したほうがいい」
宛ら地獄の業火の如く、大いに憤激した東宮が太刀を突き付け、耽耽として寸隙を狙う。薫が一歩も怯まず、懲悪に傾注する東宮の双眸を、冷静に見つめた。
「……ならば、側近としての私の役目は、いかなる粛清の名の元においても犠牲が無い様、最善の策を講じ、忍耐強く進言して、それを実行する事だ」
東宮と薫は対峙したまま、双方、一歩も退かなかった。
両手で制止したままの薫が、凛然として東宮を諌める。
「……何度でも言う。……この延暦寺は、貴族皇族に限らず国民の信仰を一心に集める、祈りの聖域だ。そして天台宗に限らず……広く遍く仏教の本源を学ぶ、学の場として……大学としての性格も担っている。こうした延暦寺の寛容な姿勢と、容赦の無い厳しい修行が、仁徳高い高僧を世に多く輩出させてきたという現実もある。木を見て森を見ず……は許されない。……断じて、お前の手により、灰燼に帰してはならない」
東宮がギリッと歯噛みすると、劫火の様な灼熱の双眸で薫を鋭く睨み付けた。
刹那、手にした太刀を轟然と大地に突き刺し、励声を発した。
「……弓を貸せ!」
東宮の後方にて、はらはらとした面持ちで控えていた諜報員が、主命を受け弾かれる様に反応すると、直ちに弓と矢筒を東宮に手渡した。
東宮が強弓を取り、薫に向け鏑矢を番えると、豪然と引き絞りながら口を開いた。
「……ならば、俺の答えは、これだ!」
言うや否や、瞬時に矢を虚空に向けると、勢いよく鏑矢を放った。鏑矢は、炎が噴き上がる伽藍の上空を遥かに越え、やがて昏冥の夜空に消失した。
突如、轟轟とした大音響が天地を揺るがすと、爆音と共に、夜空に巨大な火柱が上がった。
「……!」
数ある堂坊の一角が、あたかも鏑矢の号音に呼応するかの様に突然激しく炎を噴き上げ、瞬く間に炎上した。足元を揺るがす確かな鳴動を感じながら……その場に居た総様が竦然として戦慄するなり絶句する。炎逆巻き渦を為し、今や漆黒の夜空を容赦無く焦がす爆炎を、なすすべなく傍観した。
さながら迦楼羅の吐く炎の如き猛火を背に、東宮が、静かに薫に向き直った。
「……お前の言にある様な……万民の欣求浄土を願い、万世不易の祈りの場としての聖域には、本来全く不要なものだ」
東宮が、その凛とした不動の瞳で、薫の瞳を凝視した。
……迅雷の如き爆発に、地鳴りが発生する程の火災……それは、公済が持つ爆薬が全て、灰燼に帰したという事実に他ならなかった。危険極まる未知なる兵器は、あくまで密やかに処理されなくてはならない……。そんな東宮の真意を拈華微笑に汲んだ薫が、やんわりとした穏やかな瞳を東宮に向けると、心から微笑んだ。
「流石だな……。これで、私も安心した」
薫の言葉に、東宮が口角を上げ、にやりと笑った。
薫が背後を振り返り、項垂れている公済を促し、立たせ様とした時だった。
不意に、公済が激しく咳き込んだかと思うと血痰を吐き、その場に蹲った。
「……公済様?」
驚いた薫が思わず屈むと、公済の顔色を窺った。薫の負傷を心配して駆け寄った葵が、公済の急変に驚くと、薫と共に公済の容体を確認する。
公済の傍らで慴然と肩を震わせ項垂れていた黒杉が、急変した公済に顔色を変えると、俄かに東宮の足元に平伏するなり哀願した。
「……と……東宮様」
静観していた東宮が、恐怖に震えながらも必死に進み出た黒杉に目をくれると、その炯眼を欹てた。深深と平伏した黒杉が顔を上げ、おそるおそる東宮を仰視すると、聳然として口を開いた。
「私は……今は亡き弟と共に餓死寸前でさまよっている所を、公済様により救われました黒杉と申します。私は、その後……公済様の並々ならぬ御厚情により、この身に余る大恩を受けました。そんな私の恩師である公済様は……」
言葉に詰まった黒杉の両瞳から、ぶわっと涙が溢れ出した。薫と葵により、診察の為、仰向けに寝かされていた公済が、哀泣した黒杉に気付くと震える片手を上げ、制止した。
「……駄目だ。……黒杉……言うな」
涙止らず嗚咽していた黒杉が、公済を振り返った。黒杉が唇を強く噛み締めると、居た堪れない顔で公済から視線を逸らし、大地に突いた両手をえぐる様に震わせると、軈て、その苦患に満ちた悲愴な顔を公済に向ける。
「……公済様っ……お許し下さい……!」
刹那、公済に確と瞳を合わせた黒杉が、詫び入るなり東宮に向き直った。苦渋に満ちた様相で、東宮に哀訴した。
「……公済様は……死の病に……蝕まれておいでです。そして……誠に身勝手な申し出でございますが……もし……もし、東宮様のお許しが頂けるのでしたら、……せめて、これから都に趣くまでの薬を持参し……出来得る事ならば、私が……側でお世話させて頂きたいと思い……本来、こんな事をお願いできる身上ではございませんが、こうして伏してお願い申し上げる次第でございます」
決死の覚悟で奏上した黒杉に、青天の霹靂とばかり驚いた薫が、思わず公済に問い質した。
「……公済様……本当ですか?」
公済を診察していた葵が、公済の僧衣の胸元を開くなり蒼然として、思わず絶句する。
葵の顔色に気付いた薫が、葵の瞳をじっと見つめた。葵が愕然として薫を見つめると、目を伏せ唇をぎゅっと噛み、静かに首を左右に振った。
葵の示唆に、公済の重篤を察した薫が瞠然とする。公済の上半身を静かに抱き起こすと、哀哀として公済に尋ねた。
「……そんな……いつからですか……公済様……」
公済が静逸に……そして観念した様子で、口を開いた。
「……俺が、胸にしこりの様なものがあるのに気付いたのはいつだったか……。今となっては、もう忘れてしまったが……。これが不治の病であり……俺に残された命がもう無い事は……よく分かっていた」
薫が居た堪れない顔になると静黙する。公済が訥訥と話し始めた。
「……薫。……人は、自らの命数を悟った時、本当の自分の為すべき事が……己の役目が見えてくる……」
公済がひと息吐くと、ふと遥かなる虚空を見つめた。
「俺は……自分の命が風前の灯であると悟った時に初めて……強烈に自らの天命を認識した。俺にはもう、時間が無い……。ならば、残された余命全てを注ぎ込み……この己の手により、確かな泰平の世を掴んでみせると。この窮地にある黎民をことごとく救うには、革命という方法より手段が無いと……。待てなかった……」
辺りは時折熱風が吹き付け、今や燃え尽きようとする堂坊から巻き起こる風は、焦熱を孕んだ旋風と化し、陰暗とした針葉樹の森に瀏瀏と吹き抜けていた。
静寂する周囲が傾注して見守る中、寂静とした公済が薫に視線を戻すと、呟く様に口を開いた。
「……変わったな……薫。……昔のお前は、どこか超然としている聡明な子だった。兎角清介になりがちのお前は、俗世の不条理に慷慨し、理想の実現に情熱を傾け、一意専心に励む孤高の存在だった。かつてのお前ならば……種を蒔き、それが育つ時を待つなどという悠長な事は、間違っても口にしなかった。……ましてや不安定な未来に思いを馳せ、自分の手により実現不能であれば、次世代に効果の発現を期待するなどという、不確実な理想を口にする人間ではなかった……。寧ろ、凄惨な現実をしかとわきまえ……常に、清絶極まる己の理想との乖離に、凄烈なまでの葛藤を見せていた」
哀愁を帯びた薫が、公済の瞳を深く見つめていた。傾聴する薫にゆっくりと向き直ると、公済が幽闃の中にも余情深い、枯淡なる微笑を浮かべた。
「……何故、お前が変わったのか……疑問に思っていた。そして、ようやく結論を得た。……お前は、変わったのではない。……安定したのだ……と。お前は……諸行無常であるこの世の泡沫に、確たる希望を……東宮という存在を見出したのだな。……だからこそ、お前は安心して自らの理想を語り、その実現に向け邁進し……そして、洋洋たる未来を信じる事ができるのだ」
公済の言葉を粛粛と傾聴していた薫が、その天性の麗質に、幽玄なる微笑を浮かべた。深遠なる薫に、公済がふっと口元を緩ませる。
「だが……薫。この世には……残念ながら、美しい理想だけでは解決できない事柄が沢山ある。人には本来、理屈や善性だけでは説明できない、闇の……負の感情があるのだよ。だからこそ、不条理なこの世に……人は神仏を求め、その智慧と慈悲に縋ろうとするのだ。光ある場所には必ず影が生まれ……それは天地の理に他ならず、どうする事もできないのだ。なればこそ……平和と雖も、必ず終焉が訪れる……盛者必衰の理があるのだよ」
いつしか公済の口調は、学を繙き優しく諭す高僧としての……嘗ての姿になっていた。公済がふと薫に視線を合わせると、その怜悧な瞳の深淵をじっと見つめた。
「いつか……理想に生きるお前の前に、大きな壁が立ちはだかるだろう。……それは、お前の清烈極める姿勢では解決できずに……お前の意に沿わずと雖も、剣を振るわねばならない時が来るだろう……」
公済が慈愛に満ちた顔になると、その両手を伸ばし……自分を見つめる薫の頬に、優しく添えた。
「……俺は、どうにもそれが気掛かりだった。……だが、安心したよ。……お前に無い、その気骨を……絶対の禁忌である筈の神仏にさえ、真っ向から立ち向かう勇気と、何者にも恐れず怯まないという断罪の剣を……東宮が持っている」
謙虚な姿勢で、素直に公済の言葉を静聴していた薫の双瞳から、静かに涙が零れ落ちた。弁才優れ、能弁家である筈の薫がひたすら静粛を守ったまま……ただ泫然と、涙した。
暗暗冥冥とした秋夜の闇に、渾渾と吹き上がる紅蓮の炎が、時折天を焦がしていた。熱を帯びた風が樹幹を吹き抜け、昏冥の木立が悲涼凄楚に打ちひしがれる。涼やかな秋の虫の奏でる音は疾うに吹き飛び、人声は絶え……唯、淅淅とした風のみが耳に切切と哀泣していた。
東宮の足下に深く平伏したまま、あまりの悲痛に言葉を失い、慟哭していた黒杉が顔を上げ、ようやくの思いで東宮を仰ぎ見ると、口を開いた。
「……死期を悟られた公済様は、我等黎民の早急なる絶対救済を奉じる傍ら……その崇高な精神により自らを犠牲に……被験者となられる道を選ばれました。公済様が冒された病は、触れればそれと解る程の腫瘍が体内のあちこちに生じ、死ぬまで拡大していくという……それは恐ろしい病です。死に至るまで……鎮痛薬が無くしては、平穏な毎日さえ過ごす事が困難という……時として、壮絶な痛みに苛まれる病でもあります。公済様は、古来よりある大麻や阿片といった鎮痛薬が、誤った処方のもとに引き起こす慢性中毒等の酷い副作用を憂慮され……何とかこうした鎮痛薬の適正なる使用量を見つけ出し……また可能であれば、他の薬効成分により鎮痛できないものかとお考えになりました。こうして公済様は、同じ病で苦しむ人々の未来の為にも……その適切な処方量を探るべく、敢えて危険を顧みず、自らの余命を投げ打って、献体されたのです」
黒杉の口から発せられた重い告白に……薫は勿論の事、医師である葵が瞳を大きく見開くと蒼白になる。
「……こうして、公済様により私は……麻薬と雖も、それが専門の医師による厳密な管理下におかれ、その適量を適正に処方するのであれば、鎮痛のみの効果が得られる事を突き止め……また河豚より得られた鎮痛薬と、莨菪による鎮痙薬を併用した調薬をする事により、麻薬に代替でき得る鎮痛効果が得られる事を発見したのです」
黒杉の言葉に、青ざめた顔で話を聞いていた葵が、きっと険しい表情になると黒杉を激しく睨み付け、叫んだ。
「貴方は、それでも医師なの? ……だとしたら、貴方が診ているものは何? 貴方は、人を診ているのではないの? 医師は病やけがを治せば、それでいいとでも思っているの? 未来に多くの人間が救われれば、その礎として犠牲になる人間は、どうでもいいの? ……生きている人間を献体として治験に使うなんて、狂気の沙汰だよ! 貴方がやっている事は、治験という名の……殺人だよ! 医師が診るのは、血が通って生きている人……人、そのものなんじゃないの? 人は……心と体があって、初めて人なんだ! 僕達医師は人の為に存在し……その人自身が豊かな生を送る為に、寄り添うのが役目なんじゃないの? ……貴方と公済は、自殺した二人の衛士に薬を盛り、心を蹂躙して死に追いやった! そして薫に薬を盛り、その意のままに薫の心を弄んだんだ! 体が何とも無い程の処方量なら……致死量でなければ、こうした処方をしても許されるとでも思ってるの? 偉そうな顔で、大義を振り翳さないでよ! 僕は医師として、そんな君を絶対認めない!」
いつも温厚篤実、極めて穏和な葵が、およそ目にした事が無い程壮絶に激昂すると、溢れる感情を止められないまま、その瞳から涙を溢れさせた。
ありのままに発せられた葵の強烈な直情を激しく叩き付けられた黒杉が、あまりの勢いに言葉を失い、……ううっと強く唇を噛み締めると、その場に声を殺して突っ伏した。
痛烈極まる葵の批判に、公済が薫の手を借り上半身を起こすと、葵に静かに詫び入った。
「……貴方の仰る事は、至極もっともだ……。だが、どうか……これ以上、黒杉を責めないでやって欲しい……。黒杉は、死に直面した俺の……まさに真意を酌み……それを叶えようと誠心誠意、全力を傾けただけに過ぎない……。全ては俺の……望んだ事なのだ」
深き謝罪に悲哀漂う瞳で自分を見つめる公済の視線に敏に気付きながらも、葵は意識してその視線を逸らしていた。
……動物、人間を問わず繰り返される治験と、崇高なる献体の精神……。
また自他共に発生するあらゆる危険や恐怖を顧みず、ひたすらより良い未来を目指して全身全霊を込め、病に立ち向かおうとする医師たる者の本分としての飽くなき探究心……。これ無くしては、医学の発展はありえない……。
それは、医師である葵には、身に染みて……充分過ぎる程理解している事でもあった。先程黒杉に激怒した事は、言うなれば……常に自分の中に存在する医師としての葛藤に他ならなかった。
……正直な所、医師としての自分には、黒杉や公済の立場や考えが、よく分かる部分があった。……それでも断固、糾弾せざるを得ない自分が居た。
……人として。……人を診る医者として。そして……薫の親友として。
揺揺とした自身の葛藤を深く胸に秘めたまま、葵が沈黙した。
「……去れ!」
長く沈黙を保っていた東宮が、不意に口を開いた。
突如として発せられた東宮の言葉に、驚いた総様が一斉に顔を上げると耳を疑い、揺らめく炎に煌煌と照らし出された東宮の、威風堂堂とした姿を仰視した。
今や大分下火になった炎を背に、東宮が公済を静かに見遣った。
「……去るがいい」
恩容に満ちた東宮の思わぬ言葉に、項垂れていた黒杉が顔を上げると、辺りを憚らず、呦呦と声を上げて泣き崩れる。驚愕した公済が、息を呑み言葉を失った。
東宮が公済に向き直り、勇猛の内にも寛容な態度で臨んだ。
「……俺が奪わなくても、いずれ、病がお前の命を奪うだろう。……やがて天の命数尽きるその日まで……僧侶として生き、ひとりでも多くの衆生を救うがいい。そして……もう、迷うな」
東宮の温語に、事の成り行きを穏やかに静観していた薫が温容な顔で微笑んだ。
茜を始め諜報員達が静かに顔を見合わせると、互いに柔らかな顔で頷いた。
そして葵が満足そうに頷くと、婉容に顔を上げ満面の笑みを浮かべた。
公済が、思わず東宮を仰ぎ見た。
……強悍な中にも義侠に満ちた、豪侠なる人物とお見受けしていた。
……だが、どうやらこの御仁は、それだけでは無い。
……全く、計り知れない器の御方なのだ……。
炎の如く激烈な東宮のうちにある、人としての確かな仁愛を強く感じ取ると、公済が自ら深々と……地に頭を擦り付ける程に深く平伏した。
「……お見逸れ致しました。……斯くなる上は、どうか黒杉を……お願い致します。彼は、極めて有能な医者です。このまま消え入るには……余りに、惜しい。……彼に無いのは、身分だけです」
無言のまま公済を見つめていた東宮が、悠然と背を向ける。
「……勘違いするな。……処遇を決めるのは、俺ではない」
今や東宮に深く心服し、衷心から平伏し続ける公済の頭上に、東宮の言葉がはきと響いた。
「……だが、約束しよう」
静観していた薫が、温雅な瞳で柔和に微笑した。
宮中では、伊勢より戻った帝が清涼殿にて臨時の朝議を開き、百武百官より留守中の報告を受けていた。
突如、清涼殿の広廂を慌しく蹴りながら、ひとりの衛士が飛び込む様に注進に上がった。
「……帝! ……大変です!」
宮中に侍していた百武百官は勿論、帝の傍らに控える中宮萩の方、太政大臣を始め左右大臣が一斉に注目する。息急き切って、衛士が事の危急を報じた。
「……たっ……只今、都より北東の鬼門にあり、京を鎮護する聖域であります北嶺が、火柱を上げ、炎上しております!」
「なっ……何!」
北嶺が炎上……という俄かに信じ難く、あまりに衝撃的な内容に、殿上人達が思わず我が耳を疑った。暫時の沈黙の後、宮中は嗷嗷と周章狼狽し、騒然となった。
薫の失踪直前、薫により認められた書状を受け取っていた左右大臣を初め、後から手紙の内容を知った帝、太政大臣、中宮は、思わず驚いた顔を見せながらも、瞬時に視線を交わすと、冷静な様子を見せた。
殊、空惚ける事に関しては、卓越した技能を誇る太政大臣友禅が、しれっとした顔になると、衛士に問い質した。
「はて……延暦寺が炎上……とは、一体、何が起きたのじゃ?」
十中八九、薫が延暦寺に居り……それはつまり、東宮が居ると見て間違いないという事を重々察していながらも、平然と惚けた様子で事実を問い質す友禅を見遣り、狸顔負けの演技力よと心中深く感心しながら、衛士に向かい、帝が尋ねた。
「太政大臣の申す通りじゃ。……何故、炎上しているのか?」
帝の追及に、衛士が瞬間、困惑極まる顔を向ける。当惑した衛士の様子を敏感に察した右大臣が、小声でやんわりと衛士を促した。
「……帝のお尋ねじゃ。……何事も正直に……包み隠さず、申し上げるがよいぞ」
右大臣の安慰に、意を決した様子の衛士が恐る恐る顔を上げると、帝に向かい、勇気を振り絞って申し上げた。
「そ……それが……あれは、どうやら……東宮様が放った火により……炎上している……との事です」
喧喧とやかましかった筈の宮中が瞬時に度肝を抜かれ、静まり返った。
……信仰篤き、祈りの聖地に……焼き討ち……。
想像すら困難な、驚天動地の忌まわしい凶事に恐れをなすと、殿上人が悉く蒼白になり絶句した。仔細を知らぬ百武百官が、恐怖で名高い東宮の……その神をも畏れぬ凶悪な暴挙にすっかり心胆を奪われると、全ての思考と挙動が停止する。
左大臣に侍座して朝議の記録を取り続ける大外記が、前代未聞の大凶に思わず筆を止め、奏上した衛士の顔を凝視した。
……しかしながら、報告を受けた帝の反応は……誰もが予期しないものであった。玉座から立ち上がった帝が、瞬時に玉簾を巻き上げその玉体を露にすると、やおら手にした扇で自らの膝を嬉嬉として叩き、したり顔を見せるなり、かっかと大笑した。
「……畏れを知らぬ、罰当たりが! ……やりおったか!」
意気揚揚とした帝の御気色は、宣った言葉と全く正反対のものであった。
平素から強訴を繰り返す僧兵に悩まされ、いまいましく思っていた帝が、天誅宜しく暴挙に出た東宮に、思わず千載一遇の爽快感を覚えると、鬱憤晴らしの心情を露に快絶になる。いまいち狸顔に徹し切れない帝に、内情を知り尽くした上で本音と建前を巧みに使い分ける中宮、左右大臣と太政大臣が斉一に顔を見合わせると、著しい苦笑を浮かべた。
上機嫌な帝が大層悦に入った様子でその場を歩き回ると、おもむろに足を止め、得たり顔でちらと衛士を振り返った。
「……北嶺が……火事とな?」
朝議の記録を取り続けている大外記が、玉音を聞き、ふと筆を止めると静かに顔を上げ、恭しく申奏した。
「……いえ、陛下。報告に拠りますと、東宮殿下による焼き討ちとの事でございますが」
刹那、帝がさながら猛虎の如く獰猛な双眸を欹てると、大外記をぎろりと睨み付けた。
「……火事じゃな?」
帝に気圧され、蛇に睨まれた蛙の心境で、今や自らの命さえ薄氷を踏むかの如く危ぶんだ大外記が、自らの正義心に悖って窮地に追い込まれ、哀願の眼差しで上司に助けを懇請する。気息奄奄として死地に瀕した官吏に、その悲哀を酌んだ左大臣が、低い声でそっと耳打ちする。
……玉意じゃ。……解らぬか。……逆らうでない。……記録を火事に、訂正せよ。
左大臣に内内に促され、記録の改竄に困惑した大外記の耳に、不意に玲瓏な嬌笑が鳴り響く。玉簾の奥におわす、やんごとなき御方……中宮の呟きが、殿内に冷冷と響いた。
「……ほほ……火事とは。……はて? ……天の雷にでも遭うたのであろうか……」
天の雷……とは天意であり、また天子の下した罰とも取れる……。強訴を繰り返す僧兵に、ほとほと手を焼いていた帝の真意を酌み、暗に痛烈な嫌味を宣うことで決着を図った中宮に、殿上にいた総様が、背筋も凍る程の恐怖を感じると閉口する。
中宮が艶然と微笑むなり壮麗な衵扇を閉じ、優雅に立ち上がると、ご機嫌麗しく帝に奏上した。
「……恐ろしい事もあるものです。わらわは、これより皇后様に拝謁し、早速失火による被害を受けた北嶺の……即時再建に見合う、速やかな寄進の相談をして参ります」
最早、東宮による焼き討ちうんぬんが問題では無かった。失火による焼失を既成事実として寄進の即時提案をした中宮に、殿上が半ば凍り付いた様子で深深と平伏する。
麗麗とした中宮の退出を恭しく奉送すると、軈て殿上は延暦寺再建の具体策を練るべく、夜通しの協議に入った。
翌日――。二条院の東宮私室前に、浮かぬ顔の葵が現われた。
「……大津、いる?」
瞬時に室内から、凛とした声が響いた。
「……葵か?」
「……うん。……入ってもいい?」
幾分落ち込んだ様子の葵が入室すると、朝餉を終えた東宮が尋ねた。
「どうだ、薫は? ……目覚めたか?」
いつもの席にすとんと座ると、溜息を吐いた葵が短く答えた。
「うん。……その事なんだけど」
机に両肘を突き、何とはなしに両手を弄びながら、葵が尋ねた。
「今……時間ある? ……今日は、出廷しなくていいの?」
何かものが挟まった様な葵に、東宮が眉を顰める。
「ああ。……いつも通りだ。例の、裁判の件は延期になった」
葵が伏目がちに手許を見つめながら口を開いた。
「そう……。実はね、薫の事なんだけど……。……どうも様子が、いつもと違うんだ」
東宮が耳を欹てると、葵を見遣った。
昨夜……落着した所で、葵が薫の傷を診ると、左肩の背に受けた傷は、衣服が巻き込む形で大層複雑に食い込んでいた。傷は深くはない様であったが、体内に入り込んだ異物を取り除くのに専用の器具が無かった為に、とりあえず応急処置を施すと、急ぎ二条院に帰還した。異物を取り出すには激痛を伴う事が予想された為、局所麻酔の要領で鎮痙薬の莨菪を酒と混ぜ、患部に掛けて手術した。手術は短時間の簡単なもので、薫も元気な様子でそのまま床に就き、就寝した筈であった。
葵が両手を組み、不可解な顔で東宮を見つめた。
「……あの程度の傷なら、薫にとっては大した事は無い筈だし……。いつもなら、もうとっくに起き上がってる頃なんだけど……。今朝になっても、何だか夢現つというか……。発熱してるし朦朧としていて……。何か、様子がおかしいんだよ。……体力は、充分ある筈なのに……」
葵が深い溜息を吐く。
「僕……紅蘭もそうだけど……。今思えば、事件の発端に、変な悪夢ばかり見たせいか、何だか余計に気になっちゃってさ……」
「……やはり、そうか」
「……えっ?」
頬杖を突きながら聞いていた東宮が、不意に頬杖を解くと立ち上がる。摩訶不思議な顔で見つめる葵をちらと見遣り、促した。
「……夢うつつとばかり、様子がおかしいのだろう? ……薫の所へ、行くぞ」
「……様子はどうだ?」
葵を伴い、気配少なく姿を現した東宮に、先刻葵と看護を交替した医師が振り返る。二条院の中で最も閑静な奥の間に、薫が静かに寝かされていた。
「……これは、東宮様」
若い医師は一礼すると、薫の容体を手短に報告した。
「……昨夜の手術は滞りなく成功し、技術的には何の問題もございませんが、術後の経過が良好とは言えず、発熱した上に……今朝になり、何回か軽い吐血がありました。このままですと感染症になる恐れもあり……依然として、予断が許されない状態です」
東宮が薫を一瞥すると、淡然として医師に命じた。
「……よし。……薫の上半身を、起こせ」
東宮の無謀な要求に驚いた医師が、思わず異を挟んだ。
「……えっ? ……しかし高熱があり、意識が完全では……」
医師の言葉を遮り、東宮が語気を強めて厳命した。
「……構わん。……起こせ!」
若い医師が東宮の叱声に戦くと、慌てて薫の上半身を丁寧に助け起こした。
東宮の乱暴な注文に顔色を変えた葵が口を挟むと、声高に制止する。
「大津? 待ってよ……無理だよ! 薫は今、そんな状態じゃないんだから。やめてよ! ……何する気なの?」
薫はその高熱により、濛濛としている様であった。
「薫! ……起きろ!」
東宮が薫の枕元につかつかと歩み寄ると、すっと屈み、薫にひたと視線を合わせた。
「……大津?」
自分に向けられた東宮の視線に、気付いた薫が漠として応えた。
生気を失い朦朧とした薫の双瞳を目の当たりにすると、東宮がいまいましく舌打ちする。突如、むんずと薫の胸倉を掴み上げた。
「……馬鹿野郎!」
東宮が、罵声と同時に薫の頬に、強烈な平手打ちを喰らわせた。
「!」
尋常ではない東宮の乱暴に、弾かれた様に驚いた若手医師が思わず薫の顔を覗き込み、その容体を慌てて確認する。東宮の平手をまともに喰らった薫が、激しく咳き込んだ。
咄嗟に東宮の眼前に飛び込んだ葵が、両手を広げて立ちはだかると、薫を庇った。きっとした険しい顔で目を剥き、非難の視線を厳然と東宮に向けると詰難した。
「大津! 何するのさ!」
冷厳極めた姿勢で、東宮が葵に命じた。
「どけっ! 葵!」
「どかないっ!」
葵が怒りに燃える激しい眼差しを向け、東宮を容赦無く睨み付けると、激越に詰った。
「何で、薫を殴るの? ……薫のこの傷は、大津を守る為に受けた傷じゃないか!」
生来温厚な葵が、激怒に満ちた瞳で射る様に東宮を見遣ると、唇をぎゅっと噛み締めた。
「……あの時、大津が公済を斬ろうとした時に……。……薫は、公済を守ったんじゃない! 東宮である大津が、人を殺めない様に……神仏に対して刃を向けさせない為に……飛び込んだんじゃないか! 大津が全力で向かってくれば、薫も全霊を傾けて防ぐしかない! そうして薫は……相打ちになって、太刀を削がれた大津を公済から守る為に……敢えて、この傷を受けたんじゃないか! ……そんな薫の気持ちが分かんないの? ……どうして、弱っている薫をぶつのさ!」
涙まじりに仁王立ちして、怒り心頭に発した葵が猛然と東宮に抗議する。
聞き置いた東宮が冷然として葵の鋭鋒を受け流すと、ひとしきり糾弾し終えた葵を傲然と見遣り、鼻であしらった。
「ふん……つくづくめでたい奴だな! お前、薫が……この傷のせいでまいっていると、本気で信じているのか?」
想定外の指摘に、驚いた葵が怒りを収めると目を瞠り、東宮を見上げた。
「えっ……? ……どういう事?」
東宮がちらと薫を見遣り、その口元に冷笑を浮かべた。
「……身体の傷など、関係無い。……今回の件で、公済や黒杉を始め、奴等と深く接した薫は……奴等に深く同情し、自らの罪の意識に苛まれているのさ」
「……えっ?」
葵がひと際大きく目を見開くと、咄嗟に薫に目を配る。双瞳を伏せ、熱く細かな吐息に何とも辛そうな薫を見遣り、東宮が淡淡と口を開いた。
「……罪の意識に囚われたまま、積極的に回復しようという気力が、本人に無い。だから致命傷でもないのに、容態は悪くなる一方だ」
葵と若手医師が思わず唖然として閉口する。委細構わず、東宮が再び屈むと正面から薫に向き直り、叱咤した。
「約束を違える気か? 最後まで責任を取れと言った筈だぞ! 随分と勝手だな! この俺が、それで納得するとでも思ったのか?」
東宮の叱声に応じて、薫が薄らと瞳を開けた。
東宮が薫と視線を同じくして凛と見据える。
「……いいか、よく聞け。……お前、奴等が革命まで目論んだ重罪人にも拘らず、何故、助けた? お前の罪悪感が、それで少しでも救われる……とでも思ったのか? しかも、助けた責任も取らずに、こうして勝手に放棄するつもりか?」
「……」
朦朦として沈黙する薫に、東宮が深き眼差しを向けると、熱を帯び混迷する瞳の深淵に寄り添い、蕩蕩と包容する。
「……奴等を助け、その未来を与えた様に……。何故、自分の罪も許してやれないんだ?」
東宮の言葉に、揺れていた薫の双瞳が、瞬間ふっと定まった。
葵が、はっとした顔で東宮を見つめる。若手の医師が顔を上げると、静かに東宮を仰ぎ見た。東宮が自嘲に満ちた微笑を浮かべると、薫を見遣った。
「大体、……お前の様に、罪の意識を持つ善良な政治官が、世にどれだけいると思う? おそらくほとんどいない筈だ。その貴重とも言える政治官が、もし、お前の様に己の罪の意識に目覚めた先から世を儚んで隠棲し始めたらどうなる? 誰も、政治ができなくなるぞ」
あたかも雲霞の中の如き薫を見つめると、東宮が真っ向から薫に向き直る。語気を強め、意気阻喪とした薫に語り掛けた。
「お前は、政治官だろう? 国富追及にその身を捧げたのではないのか? ……お前の政策で救われた人間だって、大勢いる筈だろう? ……全ての罪と業を背負いながら、それでもひたすらより良くしようと前を向き、実践躬行するのが使命だろう? ……ましてやお前は、率先垂範しなければならない立場だろうが?」
剛毅な東宮が凛然として、曖昧模糊とした薫の深潭に分け入り導引する。毅然として熱く初心を呼び起こすと、東宮が、しかと薫の胸倉を掴んだ。
「途中で投げ出す様な、中途半端な仕事をするな! ……それこそ、民への背徳行為ではないのか? それこそが何より憎むべき、許されざる罪ではないのか!」
喝、とばかり叱咤激励すると、東宮が薫の胸倉から手を放す。
踵を返し、つかつかと部屋の出口に歩み寄った東宮が、不意に柱に手を掛けるなり、肩越しに振り返った。
「……薫! ……それにまだ、聞いていないぞ」
「……?」
突如発せられた謎掛けの様な東宮の言葉に、静観していた葵と若手医師が狐につままれた顔を見合わせた。高熱により朦朧とした薫がふと虚空を見上げると、ゆっくりと思考を巡らせる。いらいらした東宮が、寸陰を待てない様子で舌打ちすると薫を睨んだ。
「……何か、忘れてないか?」
駄目押しする東宮に、刹那、はっと気付いた薫が漠然と虚空に向けていた視線を瞬時に戻し、何やらばつの悪そうな双眸を東宮に向ける。
「……ただいま」
薫を見遣り、ふんと鼻を鳴らした東宮が口角を上げ、満足そうに答えた。
「……ようやく思い出したか。……おかえり」
言い置くなり襖を開けると、東宮が部屋を後にした。
「……待って! ……大津!」
勢い良く廊下を歩いていると、背後から駆け寄った葵が慌てて呼び止める。
「薫――いつもは、あんなに弱気にならないんだけど」
追い付いた葵に背を向けたまま、東宮がふと足を止めた。
「――分かっている」
振り返った東宮が、珍しく困惑した顔を見せた。
「普段のあいつは、もっとずっと強気だ――」
東宮がやれやれと嘆息する。
「……俺もお前も、そして朝廷も……。正直、少しばかり、あいつに頼り過ぎたな……。今回ばかりは流石の超人も……心底疲れたと見える」
自嘲気味に苦笑すると、東宮が再び背を向け、葵に言伝した。
「……あいつには、労災を申請する様に言っておけ」
「うん」
満面の笑みで、葵が頷いた。
「……大津! ……ありがと」
「……何だ?」
溌溂として礼を述べた葵に、東宮が不可解な顔になる。
「……薫の代わりに、お礼を言ってるの」
爛漫とした葵に、東宮がふっと微笑する。
「……快復するまで、世話してやれ」
「うん」
葵が元気満満に意気込むと、大きく頷いた。
「流石は大津だね! 大津のお蔭で、薫も随分食欲が出て来たみたいで嬉しいよ! 僕のお粥が食べたいって言ってたから、僕、これから急いで作ってくるね!」
あっけらかんと言い終えるなり、気分爽快の葵が東宮を置き去りにすると、るんるんと弾む様に踊躍しながら廊下を走り去った。
「……何?」
意気揚揚とした葵が去った静寂な廊下には、葵の問題発言に衝撃を受けた東宮が、ひとり呆然と佇んでいた。
……葵のお粥が食べたい? ……まさか、そんな馬鹿な……。
東宮が心中深く呟くと、その顔色を、これ以上無く深刻に豹変させた。かつて無い程に真剣な眼差しになると、ひとり黙考する。
もしや……薫は本当に……どこかがおかしいのかもしれない。
……深刻な心理状態に追い込まれ、自殺願望でも生じているのではないだろうか。
……暗示による悪影響が残っているのだろうか?
……それとも、劇薬を処方された後遺症なのだろうか?
……いや、この際、原因はどうでもいい。それよりこの先……料理上手なあいつの味覚が狂ったら……。それだけで自分の人生における、食に関する楽しみが奪われそうな気がした。
お先真っ暗な境地に立たされると、東宮がおよそはじめて薫の身の上を真摯に心配した。……まずい。あいつには、どんな事をしてでも、正常に戻って貰わねば……。
東宮が私利私欲に塗れた自己都合で、あくまで薫の快復を心願した。
――数日後、二条院奥の間に、葵が姿を現した。
「薫! お饅頭持って来たよ! 気分は、どう?」
いそいそと手にした菓子箱を開け、嬉嬉として小皿に取りながら、葵が薫の枕元に近寄ると、その顔を覗き込んだ。
「何だ――……寝てるの?」
まあいいやとばかり呟くと、葵が厨子の中から茶道具を取り出し、お茶を淹れる。寝ている薫に向い、嬉しそうに話し掛けた。
「……あのね、大津が労災を申請して、くれぐれもゆっくりしろって言ってたよ」
薫の分とばかり、茶碗二杯のお茶を注いだ葵は、寝ている薫に視線を移し、その何とも端整な美しい顔を見つめると、顔色が良い事に大層喜んでお茶を飲んだ。
「薫、……早く良くなってね! 僕、薫がいないと何もできないし」
葵が菓子箱から饅頭を手に取ると、ぱくっとひと口噛り付いた。ゆっくり堪能すると、揚揚として饒舌になった。
「政治は帝と友禅様がいらっしゃるから心配無いよ。紅蘭は、一連の事件と薫が倒れた事で、悪夢のせいじゃないかと落ち込んで、方違えに石山寺詣でに出かけたし……」
葵が嬉しそうに饅頭を頬張ると、二つ目を手に取った。上機嫌に、思わず口が軽くなる。
「大津は『お目付け役の薫が倒れたという事は、俺に何もするなという事だろ?』とか言って、無期限休暇に出掛けちゃったし」
二つ目の饅頭をひと口に食べ終えると、葵が至幸の笑顔で薫を見つめた。
「大津が無期限休暇なら、薫もゆっくり無制限に休めるし! 良かったね、薫! 大津の言う通り、凄い名案だね! いや全く、感心したよ。万万歳だね!」
ああ良かったとばかり、幸福に大団円を迎えたつもりの葵の耳に、ブチっという音が聞こえた気がした。思わずきょとんとした顔になり、周囲を見回す。空耳かと思って向き直った瞬間、寝ていた筈の薫が苦虫を噛み潰した憤怒の形相で起きていた。
「あ――っ薫! ……急に起きたら駄目だよ!」
葵の制止を振り切って部屋を出ようとする薫に、思わず葵が全力でしがみ付いた。
「……駄目だって!」
秋霜の如く冷たい顔で怒り心頭に発した薫を、葵が必死で取り押さえた。
「……大津の行き先? ……とっくの昔に出発したから、分かんないよ!」
奥の間から、困惑しつつも何とも賑やかな葵の声が二条院全体に響き渡る。
奥の間の喧騒など露知らず、悠悠閑閑とした二条院の庭には色とりどりの小鳥が舞い降り琅琅と囀り、声高らかに実りの秋を祝福していた。真紅色に染まった紅葉が水路に流れ落ち蒼翠の冷水と織りなす姿は殊の外美しく、見事な紗綾を思わせた。
遥かに望む山々は、今や極彩色に彩られ、天地を染めるあらゆる彩りは、生とし生ける万物をあます事なく寛容に許容し、抱擁していた。
外は、蒼蒼とした秋晴れであった。浩浩と雲ひとつ無い空はどこまでも広く、穏やかな陽光が燦燦と降り注ぎ、眩しい程の日の光は寝殿の奥深くまで差し込むと、確かな温もりとなって、豊かな秋の恵みを齎していた。
終