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決別

二条院に戻った東宮は、広大な庭園で、もっぱら弓術の修練に勤しんでいた。

片袖を脱ぎ垣間見える体は何とも逞しく、引き締まったしなやかな筋肉は、未知なる力を内包して、殊の外美しかった。一射を終え、弓の調整をしていると、侍従がひとり、息急き切って馳せ参じた。

「東宮様!」

弦の調子を確認しながら、東宮がちらと顔を向ける。

「何事だ?」

東宮の足元に平伏すると、侍従が奏上した。

「はっ。大至急、謁見の間へお越し下さい。早朝より、多くの方がお待ちです」

豪奢な矢筒から閑閑として一矢を選び取った東宮が、ゆったりとして的を見据え、平然と放言する。

「待たせておけ。……いつもの様に」

……そのうち諦めて帰るだろうと無茶な講釈を宣うと、東宮が余裕綽綽として矢を番え、大きく引き絞る。困惑した侍従が、必死の形相で哀願した。

「……そっ……それが、今日はやけに人が多く……控えの間は、もう満員なのです。……どうか、今すぐご出座を!」

舌打ちした東宮が不愉快千万に嘆息すると、うんざり顔で指示した。

「面倒だな。……左右大臣か、薫に会わせておけ」

果たさねばならない務めがありながら、趣味である筈の弓術を、一向にやめる気配が無いという東宮の勝手極まる態度に、侍従が今や、泣き出しそうな顔になる。

「東宮様! ……そんな無茶苦茶な……!」

困り果てた侍従が両手を組み、最早拝む様な姿勢で哀訴する。

「大津っ!」

突如として背後から掛かった声が葵のものであると気付いた東宮が、番えた弓を下ろすなり背後を振り返る。駆け寄ってきた葵の様相に見るなり度肝を抜かれた東宮が、思わずたじろいだ。葵の髪はボサボサで、結い上げた筈の髪は半分傾き、そして顔中の穴という穴からは液体が流出していた。

「……薫は何処?」

「……?」

葵の言葉に驚いた東宮が、即座に問い返す。

「……朝、出仕したまま……朝堂院に居るのではないのか?」

首を振った葵が答えた。

「……何処にもいないんだよ。僕は薫の指示通り、医師の名簿を調べたんだけど……やっぱり該当する様な人物は見当らなくて、僕の心当たりもなかったから、それを報告しようと朝堂院に顔を出したら……皆混乱したまま、薫を方々捜していて……。薫の従者達も、誰も行方を知らないんだ……」

東宮がハッとするなり、未明の薫との会話を思い起こした。

『もし……私の様子がおかしくなったら……。……私を、殺せ』

東宮の眼光が、見る間に鋭くなる。

「――そうか」

東宮が得心した様に、ひとつ頷いた。

『……何故か今日は、謁見が多く……』……先程の侍従の言葉は、薫が忽然と姿を消したからこそ発生した事態に、他ならなかった。瞬時に事態を理解した東宮が、近侍する従者に弓矢を渡すと、平伏したまま嗚咽していた侍従に凛然と向き直る。

「……よし、謁見するぞ! 控えの間にいる輩を全員、此処へ通せ!」

東宮の態度撤回を強く望んでいた筈の侍従が、東宮より発せられた突然の命令に驚くと、思わず顔を上げ瞳を丸くしたまま問い返す。

「……は? (ここ)へ……ですか?」

「つべこべ言うな! 俺の気が変わらんうちに……早くしろ!」

「はっはい!」

業を煮やした東宮が叱責すると、慌てた侍従が主命を最速で実行するべく、一礼と同時に走り去る。


半刻も経たない内に、中庭は溢れんばかりの人混みで騒々しくごった返した。暫定的に設けられた柵内に順順と導引された大勢の人々が、連連として犇めき合う。

東宮に侍立して佇む葵が、気圧された様子で肩を竦めると、声を潜めて耳打ちした。

「――うわ……凄い人数だよ、大津! どうするのさ、こんなに大勢……」

流石の東宮も、その圧倒的多数を見るなり、眉を顰めてげんなりする。

……まさか、こんなに居たとは……。……日頃から、薫はこれだけの人数の陳情を聞き、対処していたと見える。……初めて経験したが、やれやれ……あいつも苦労な事だな……。東宮が大いに嘆息して苦笑すると、庭の中央に設えられた壇上の椅子に悠然と座り、声高らかに宣言した。

「……いいか、お前達! 今からこの東宮が、整理券の順番毎、ありがたくも直々に話を聞いてやる! ただし、下らない話はするな! 取るに足らない話をした者は鞭刑! 要点不明で冗長な話をした者は杖刑! ひとりあたりの持ち時間は十秒だ!」

酷くざわめいていた総容が、東宮のとんでもない放言に色を失い、一斉に静まり返る。

東宮の提示に著しい疑問を感じた葵が、当惑顔で苦言を呈した。

「大津! ……何考えてるか分からないけど、いくら何でも酷過ぎるよ! ひとり十秒で一体、何が言えるのさ? ……皆、せっかく此処まで足労したのに、可哀想だよ!」

東宮がふんと鼻であしらい、涼しい顔で言い返した。

「煩いな。名前と、話の題名ぐらいは言える筈だ」

頑として耳を貸さず、断固として有言実行した東宮により、東宮御所に押し掛けた者達の陳情が、聖徳太子も恐懼する程の辣腕を以て、迅速果断に処理される。

無論、右から左に次々と仕分けされ、本質的には解決されないままではあったが……。

もっとも、東宮の道理を無視した滅茶苦茶なやり方と、凄まじい気迫と勢いに圧倒され、訴える事無く帰る者が半数近くは居た。

そして、整理券最後の人物が現れた。薄ら笑いを浮かべる若い男は、前方に進み出ると、従者に持たせた重そうな荷を慎重に足元に置き、恭しく拝礼して東宮を仰ぎ見た。

「私が、最後です。我が主よりの親書と、貴方様への荷をお持ちしました、東宮様」

足を組み椅子に片肘を突いたまま、東宮が傲岸不遜に男を見遣ると、冷淡に口を開いた。

「……名は?」

男が舌を滑らかに、饒舌になる。

「東宮様は、先程からどうやら……ある事件と、さる御方についての情報に興味をお持ちの御様子……。きっと、お心に叶うと思います」

諂笑した男が、傲慢至極に東宮を見上げた。

眉を上げた東宮が、不愉快な様子で男に問い質す。

「……貴様、何者だ?」

何とも薄気味悪い笑いを満面に浮かべると、男が東宮に向き直った。

「名乗る必要は、ありません。……これから死ぬ人間が知っても、仕方ない事でしょう?」

「……? 大津!」

 男の言葉に不安と恐怖を感じた葵が、思わず東宮の袖を引き注意を促そうとした瞬間、男が不吉な言霊を言い終えるや否や、足元の箱を蹴り開けようとして、足を振り上げた。

刹那、男が胸に深々と刀子を受け、その場にばたりと崩れ落ちる。

 男の胸には、東宮の刀子が刺さっていた。

戦慄した総容が兢兢として凝結すると、恐怖に駆られて檀上の東宮を仰視する。

泰然として動ぜず、その長い足を悠然と組み、椅子に片肘を突き、上腕を伸ばし投げ終えた姿勢のまま、冷酷無情に睥睨した東宮が、冷冷然と言い放った。

「……悪いが俺は、名乗らない奴を信用しない。……死ぬのなら、お前独りで死ね!」


 突然起きた惨劇に、その場が一瞬に凍り付いた。

東宮侍従が一斉に駆け寄り、倒れた男を取り囲む。周囲で目撃していた陳情客と同様、一部始終を目の当たりにした葵が、衝撃的な惨事に吃驚すると真っ青になる。

「大津? ……なんて……なんて事を……! ……人を……人を殺めるなんて!」

 震える声で東宮をきっと睨み付け、猛然と抗議するが早いか、葵が壇上から飛び降りた。全速力で倒れた男に駆け寄ると、青ざめた顔で、直ちに倒れた男の容態を確認する。

東宮の命により、倒れた男が持参した木箱に大量の水を掛けていたひとりの侍従が、葵に歩み寄り片膝を突くと、背後から口を顰めて耳打ちした。

「……葵様。お気持ちはお察し致しますが、どうか、東宮様をお責めにならないで下さい」

 黙止したまま、葵が倒れた男の損傷程度を確認する為、男の衣服を手早く緩める。背後に侍座した侍従が、水を掛けた木箱を暗に示しながら、周囲を憚る様に一層声を潜めると、葵に囁いた。

「それとなく、御覧下さい。男が開けようとした箱から、黒い粉が僅かに漏れています。只今、東宮様の命により水を掛けましたが、薄らと湯の花の臭気が漂う黒粉は……昨日、東宮様が私にお話された、爆発的に炎を起こす事が可能な代物……爆薬とでも呼ぶべき危険な代物です。男は何らかの形で、これを爆発させるつもりだったのでしょう」

 瑞々しい黒髪を結い上げた端麗な面立ちの侍従が、ふと顔を上げ周囲の気配を敏感に察し目を配りながら、小声のまま話を続けた。

「周囲には未だ……我々を含め、陳情に訪れた者達もかなり残っていました。爆発でも起きれば、どれ程の被害となった事か……。東宮様は咄嗟に、最も犠牲の少ない手段を選ばれたのです」

 言い終えると、侍従にしては妙に粋で美麗なる男が、感極まった様子で声を震わせ東宮を仰視する。驚いた事に、この美丈夫は……かつての事件の首謀者で、今は名実共に東宮の下僕に貶められた筈の……西九条信頼であった。

 倒れた男の診察に集中していた葵が、男の傷を診るなりハッとして顔を上げると、背後を振り返り、大声で叫んだ。

「これは……救護班! ……担架を、早く!」

 葵の命を受け直ちに担架が用意されると、応急処置を受けた男が、処置室へと迅速に運ばれる。手当てを終え、男を目送した葵が目を側めると、敬慕の眼差しで東宮を仰ぎ見る信頼を温柔に見つめた。目を転じると、今度は東宮に目を配る。遠目に、倒れた男が持参した書状を受け取り、目を通している様子の東宮をじっと見つめると、葵が優しい瞳に安堵の色を浮かべて微笑んだ。

 大津……。投げた刀子は、驚く程鋭利で……おそらく君にしか出来ない芸当で、少しも臓器を傷つける事無く胸を貫通していた。お陰で、倒れた男の命に別状は無いよ。

……やっぱり君は、凄い人だね。……ありがとう。


 倒れた男が持参した書状は、東宮の機嫌を大きく損ねるものであった。舌打ちすると、東宮が怒りの余り、片手で白紙の書状を握り潰した。

「チッ……。ふざけやがって……!」

 周囲の侍従達が、烈火の如く怒りを露にしている主を見上げると、自らに降りかかる八つ当たりという名の火の粉を恐れ、戦戦恐恐と首を竦めた。

「東宮様」

 ふと片膝を突き現れたのは、公済について詳細を調べる様に命じていた茜であった。

東宮が怒りを鎮め、冷静な口調で茜に尋ねる。

「……ご苦労だった。……それで、公済の居所は掴んだのか?」

 茜が静かに首を振る。

「……特定はできていませんが、一連の出来事について、詳細なご報告があります」

 眉を顰めた東宮が周囲の様子を鋭敏に見極め、口を開いた。

「……ここでは、まずい。……中で聞こう。……用が済み次第、信頼も来い」

 言い置くなり踵を返し茜を伴うと、何事も無かったかの様に淡淡として足早に、自らの私室に引き上げた。


 陳情に訪れた者達は、一連の出来事に一斉に刮目したまま……すっかり心胆を寒からしめていた。倒れた男を見つめ、陳情する内容によっては……どうやら東宮の癇に障り次第、一瞬で抹殺される様だ……と感じて恐れ戦き、次いで、自らも命がけの陳情だったのかもしれないと思い及ぶと、足元がおぼつかない程の恐怖を感じて竦み上がった。

ややあって担架が運ばれ、どうやら男の命ばかりは助かった様だとほっと胸を撫で下ろすと、倒れた男が持参した箱に、大量の水が掛けられた様子を見つめ、これは……どうやら東宮には、袖の下は全く通用しないらしいと感じて、その陳情手段を考え困惑した。

やがて某某は、やはり陳情には東宮ではなく……内大臣である薫に訴えた方が心身共に良さそうだと感じ取ると、ようとして行方の知れない薫に哀愁に満ちた思いを寄せ、その早期帰還を切望して長嘆した。

 こうして……倒れた男が持参した危険極まりない箱は、東宮の密命を受けた信頼により、周囲にその恐怖を一切気取られる事なく、いつのまにかそっと運び出され、二条院地下にある武器庫に秘密裏に収蔵された。


「……報告を聞こう」

 私室に戻るなり、東宮がいつもの場所に颯然と座ると茜に向き直る。

静かに頷いた茜が一礼した。

「検非違使の捜索状況と合わせてご報告致します。まず、偉鑒門より綿々と続く轍を追跡していた検非違使ですが……山城国と近江国の国境付近で、大量の轍が渾然一体として追跡困難となり、現在も捜索が難航している模様です」

 茜の報告に、東宮が極めて厄介な表情で苦笑した。

「……近江国国境とはまた……いやらしいな。……それで?」

 茜が、報告を続けた。

「公済という人物は、記録によりますと、薫様と同期に留学されていた高僧で、薫様より十五歳程年上の人物です。公済は、この期に留学していた者達の統率者的立場にあり、殊に幼く留学された薫様とは公私一般にわたり世話役として寝食を共にし、また高僧という立場から学問の指導に当たった人物でもあります。薫様は、予定を早めて三年半で唐より帰国されましたが、公済は予定通り六年間の留学の後、帰国しています。そして帰国後は、何故か公の立場からは姿を消し……その消息は不明です」

 茜の報告に、泰然自若とした東宮が、珍しくも御気色深く難儀を表した。

「……やはりな。……薫にとって、縁深い立場の人間だとは思っていたが……」

 ふう……と大きく溜息を吐くと、沈黙した東宮が暫し深遠として物思いに耽る。軈て、緘黙していた東宮が口を開くと、話題を転じた。

「……公済……奴の行方は、掴めずじまいか。……他に、何か分かった事はあるか?」

 茜が頷いた。

「薫様が検非違使に命じて捜索させていた目撃者についてですが……。やはり、只一人の目撃者も現れていないようです。この様な大規模な事件にも関わらず、目撃者がいないという事は初めてで……こちらも検非違使による追跡捜査が暗礁に乗り上げている様です」

「……だろうな」

 東宮が口角を上げると、鼻であしらった。

「……どういう事でございましょうか?」

 解せない様子の茜が思わず尋ねると、眉を上げた東宮が口元を綻ばせた。

「あれだけのおびただしい荷を運んだ際に、目撃者が居ないなどという事は、絶対に無い。……単に、居る筈の目撃者が、名乗り出れていないだけだ。……何故だか分かるか?」

 茜が、狐につままれた顔をした。真剣に考えているにも拘らず思いあぐねる茜を見遣り、東宮がくっくと笑った。

「茜……やはりお前は、根が善人とみえる。……疑う事を知らない様だな。目撃者が現れないのは、至極当然だ。彼らは圧倒的な宗教権威によって、事実を曲げられている。……見なかった事を強要されているのさ」

 東宮が鼻の先でせせら笑うと、辛辣な口調になる。

「今回の主犯は、僧侶共だ……。事件からしても間違いなく、大規模な僧兵の集団だろう。圧倒的な宗教権威を背景に……神仏の名を騙り、強訴という手段で、自らの暴利貪る理を突き通す輩……。この俺が、虫酸が走る程大嫌いな連中だ。強盗事件に使用された車の痕跡が、近江国付近で消えたというのがいい例だ。付近に住む住民共は、重々それを承知していながら、恐怖のあまり口を割らないだけに過ぎない」

 東宮が、その鷹の様な鋭い双眸を炯炯と欹てるなり冷笑する。

「強訴を繰り返す僧兵共が屯する寺は、南都の興福寺か東大寺……それか北嶺の延暦寺、或いは園城寺だ。……公済が留学前に居た寺は、どこだ? ……おそらく、近江の延暦寺か園城寺(三井寺)だろう。違うか?」

 茜が蒼白になると、うわずった声で答えた。

「……延暦寺です」

 東宮が軽く頷くと、嘲る様な笑いを浮かべた。

「……やはり、そうか」

 茜が薄らと冷感を覚えると、抱いた懸念を東宮に尋ねる。

「……まさか……まさか。……延暦寺をお疑いですか……東宮様」

 頷いた東宮が、ふと気付いた様子で眼光鋭く廊下を見遣ると、凛とした声を掛けた。

「信頼か、入れ」

「失礼致します」

 襖が音も無く開き、信頼が現れた。平伏していた信頼が顔を上げ、その黒く端麗な瞳で東宮を見上げると一礼し、入室する。

「信頼、ご苦労だった」

東宮が満足そうに信頼を労うと、茜に向き直り話題を転じた。

「茜。……実は今朝、薫が行方を晦ませてな」

 色を失った茜が、信じられないとばかり瞠目する。

「……そ……それは、東宮様。……どういう事でしょうか。……何があったのですか?」

 俄かに蒼惶した茜を見遣り、東宮が淡淡として言葉を続けた。

「……詳細は、何も分かっていない。誰にも知らせず、その姿を隠した様だが……」

 茜が蒼白のまま聞き入ると、当惑顔で東宮を見上げる。

「……おそらく、公済と共に居る筈だ。行き先は、公済が留学前に居たという延暦寺が最も怪しいが……園城寺の可能性も否定できない。……そこで、お前に公済共々、薫の居所を掴んで来て貰いたい」

「はい……」

 命を受け、頷いた茜が緘黙した。噛み締めた唇を震わせ視線を落とし、俯き加減に頭を垂れる。消沈した茜を見て取ると、東宮が瞳を和らげ、静黙したまま立ち上がる。悠然として庭に面した簀子に歩み寄ると、凛と大手を翳し、一声を発した。

「蒼王、来い!」

 刹那、日を遮る大きな影が現れたかと思うと、東宮が差し伸べた見事な腕に、蒼王が舞い降りた。東宮が眼差し深く見つめると、蒼王の背を愛撫しながら語り掛けた。

「蒼王! ……育ての親を覚えているな? ……そうだ。俺の許に来る以前、お前を育てていた薫だよ。あいつの行方を捜してくれないか。お前にしか出来ない事だ。分かるな」

 あたかも人に接するが如く、蒼王に事情を言い含めた東宮が、腕を差し伸べたまま振り返る。

「茜、この蒼王を連れて行け。……今、聞いた通りだ。延暦寺と園城寺付近で放てば、蒼王がきっと、薫を捜し出す」

 茜が顔を上げると、はきと答えた。

「はい。蒼王と共に、必ずや……薫様と公済の居所を突き止めます」

 東宮が片手を上げ促すと、瞬く間に蒼王が滑空し、茜の肩に悠然と舞い降りた。

「気をつけて行け。……頼んだぞ」

 東宮が鷹揚に笑った。東宮を見上げた茜が微笑み一礼する。背後の信頼に軽く目礼すると、茜が蒼王と共に退出した。


 部屋に残ったのは、信頼であった。紗霧殺害事件の際に謀反の首謀者として断罪され、死刑に替わる極刑として人権を剥奪され、最早東宮の下僕と成り果てた筈の信頼であったが、先程の庭での一件といい、またこうして東宮の招喚を受け、悠々とした態度で東宮私室に控える様子から見ても……その姿は無理矢理貶められた惨めな奴隷というよりは寧ろ、あたかも自らの意志で東宮に仕え、また厚遇されている腹心……といった様相であった。


 紗霧事件の公開裁判終了直後、東宮の手により、訳の分からない混乱した状態のまま、二条院に強制連行された信頼は、不思議と二条院に入るなり縛を解かれ、何の説明もないまま、侍従達が控える部屋の一室にひとり通された。

部屋には見張りも居なければ錠も無く……奇妙な事に、逃げようと思えばいつでも可能である程に、出入りは全く自由な様子であった。その夜になると、食事が部屋に運ばれた。 

東宮の実妹である(あたる)(よの)(いちの)(ひめ)(みこ)の懇願により辛うじて命を長らえたものの、本人には全く存命の意志が無かった信頼は、逃げ出す事もせず、無言で部屋に座したまま……出された食事にも一切手を付けず、自らの死という固い意志を貫き通していた。


「……何? 信頼が、一切食事を摂らないだと?」

 翌日、東宮私室にて諜報員からの報告を受けた東宮は、侍座する薫と視線を交わすと、くっくと笑い、何やら愉しそうに語り掛けた。

「……成程、自らの意志を貫くか。……抵抗もせず、餓死を選ぶとは……。全く、面白い奴だな!」

 頷いた薫が東宮を見遣り、ふっふと笑うと悪態を吐いた。

「お前も……何も説明しないで放置するとは、相当人が悪いとみえるな」

 愉快千万に大笑する二人に、報告した諜報員が困惑しきりに閉口する。当惑した諜報員を敏感に察した薫が、柔和な顔を向けて微笑むと、言葉を掛けた。

「分かった。……心配はいらないよ。私が様子を見に行き、話をしよう」


これで五食目を拒否した頃だった。スッと襖が開くと、信頼の前に薫が姿を現した。

優雅な足取りで枯坐する信頼に歩み寄り、その眼前にふわりと座る。

「……食べていない様だね。……処遇に納得が行かないからか?」

薫が穏やかな海の様な瞳で、信頼をじっと見つめた。

信頼は黙然としたまま、何も答えなかった。沈黙を貫く信頼を見遣り、微笑した薫が懐から懐剣を取り出すと、淡雅な仕草で信頼の前に差し置いた。

「まず最初に、これを君に渡しておこう。……処遇に納得がいかないのなら、あれだけ大それた事をしでかした君の事だ。絶食という消極的な抗議で訴えるのではなく、剣を取り全力で向って来たまえ。一向に構わないよ」

 艶麗なる微笑を浮かべながら、何とも不可解な申し出をする薫に、緘黙していた信頼が怪訝顔になると口を開いた。

「……もともと公開裁判を提案したのは、貴方だと聞いています。公衆の面前で、裁判という形により私が死刑になる事を望んでいた筈の貴方が、今、死を選ぼうとしている私の行動を制止する……。何故こういう矛盾した真似をなさるのか、私には理解できません」

 薫が、ふふっと温和に笑うと、答えた。

「東宮と帝は、非常に似た気質をお持ちでね……。量刑を決める際などには、お互いに引っ込みがつかないから、常軌を逸した極刑が飛び交い、非常に厄介な事になる。……君の命を助けるには、公で処遇を決定する方向で持っていくしか無かったのだよ」

 想定外の薫の言葉に驚き目を瞠ると、信頼が酷く狼狽えた。

「……私の命を助ける? ……そんな馬鹿な……」

 薫が微笑を浮かべたまま、清雅な瞳で穏やかに答えた。

「……政治官としての私は、死刑は、極刑として無くてはならないものだと信じている。……しかし私個人的には……死刑という選択肢は、できるだけ回避したいと思っている。……人は、もとより完全なものでは無い筈だ。誤った考えを持ち、簡単に道に迷い、罪を犯す事だって当然にしてある。安易に死刑を連発すべきではないし、犯罪者といえども更生の余地があるなら、願わくば犯した罪以上の社会奉仕を以て、人の為に貢献すべきだと思っている」

薫がふと、漆黒に輝く信頼の瞳をじっと見つめた。

「……君は、直接沙霧殿を殺めた訳ではない。それに、一計を思い付いた経緯をみても、情状酌量の余地はある。君は非常に大胆で、狡猾で、俊敏な才覚の持ち主で、実に面白い。そんな君が断罪され死刑となり、露と消えるにはあまりに惜しいと思ってね……。私は、常々有能な人材は、ひとりでも多く欲しいと思っていた」

 薫がやんわりと信頼を見つめたまま、口元を綻ばせると話を続けた。

「そんな君に、東宮が興味津津である事は、よく分かっていた。裁判で東宮がどう出るかと思っていたら……人権剥奪で君を下僕にすると決めた。成程そう来たか……と笑ったよ。東宮も私も、公の立場がある。公人としての我々が、公の場で私人としての恣意的な思惑により勝手な行動を取る事は、断じて許されない。しかし……君が、東宮の提案により、公然たる事実として、東宮の下僕になった。公に人権剥奪され、東宮の下僕と化した君が、二条院にて東宮にどういう待遇を受け様が、もはや一切問題無い筈だ」

 薫が温雅な瞳を向けると、真摯に信頼に向き直った。

「信頼という人物は、謀反を計画した大罪人として、公には人権を奪われ、断罪された。……だがそれはあくまで公の事……。今後はこの二条院にて、下僕としてでは無く一個人として、我々と共にその力を尽くし、東宮を支え、守る立場の人間になって貰いたい」

 想像もしなかった薫のひと言に、息を吞んだ信頼が絶句する。

薫が、眼前の懐剣を示しながら、言葉を続けた。

「最初に言い置いた通り……あくまで君が心から納得し、得心したらで構わない。逆に、君への処遇が気に入らなければいつでも剣を取り、向って来るがいい。何度でも、君の気が済むまで相手になろう。……まずはよく話し合い、総意としての結論を出して貰いたい」

「……総意としての結論?」

 薫の言葉に、眉を顰めた信頼が問い返した。

「……そうだ」

 薫がふっと微笑むと、優雅な仕草でふわりと立ち上がった。そしておもむろに壁に歩み寄り、静かに押すと、壁と思っていた部分がハタハタと……見る間に折り畳んで収納され、眼前に広大な空間が広がった。

その広大な空間には、大勢の人間が安座し、飲食していた。突如として壁が開き、空間が抜けた事に度肝を抜かれた大勢の人々が、驚いた顔のまま一斉に此方を注目した。同時に、あちこちから割れる様な大歓声が湧き起こる。

「信頼様!」

「……信頼様! ……ご無事で!」

 辺りは一瞬で喜びに溢れ、騒然となった。何人もが目に涙を浮かべ、信頼の許に駆け寄り飛び付いた。某某は、東国からはるばる信頼に随従して上京し、信頼の屋敷で信頼と共に暮らし、運命を共にしてきた仲間達に他ならなかった。事故とはいえ……紗霧をその手に掛けた張本人である隼が、肩に白布を捲いた姿で信頼に歩み寄ると、その肩を抱き寄せ、啜り泣いた。信頼が信じられないといった顔でただただ言葉を失い、立ち尽くす。

信頼が、思わず背後を振り返る。温和な微笑を浮かべた薫が、清静と佇んでいた。

「何故……。……どうして……?」

 信頼の両眼から、ぶわっと涙が溢れ出た。隼の肩を抱えたまま……力無く地面に崩れ落ちた信頼は、自分でも良く分からないまま……声を限りに泣いていた。涙など……計算以外の涙など……およそ持ち合わせていない自分だと思っていた。……何故……以外に、言葉が出なかった。自分は死刑を免れない大罪人の筈……。企謀していた謀反が公に暴露され頓挫し、断罪され……自分のせいで紗霧を失い、親友であった当代一皇女様を監禁して傷付けた。朝廷に唾吐くというこの上無い重罪を犯し……最早自分も仲間もとうに命は無いものと……当然の様に思っていた。それが何故……。

『総意としての……結論』

 先程薫が発した言葉の意味を悟った信頼は、自分を慕う仲間と共に肩を組んだまま崩れ落ち、ひたすら慟哭していた。信頼は今、生まれて初めて……心からの敗北を感じていた。

ああ、……東宮。……貴方は、私などが、とても敵う相手ではなかった。

私は貴方の愛する者達を傷付け、奪い、貴方が守るべきものを怒りの向くまま蹂躙し、簒奪しようと画策した……。それなのに、そんな私を……貴方は……許すというのですか。貴方は灼熱の炎の様な激しさで怒り、私を断罪する一方で……大罪人である私が守ろうとしていたもの……敵である筈の私の大切な者達迄も、こうしてことごとく守ったというのですか……。

 信頼は寛猛相持つ東宮の懐深さに感銘し、その器の大きさにしみじみと驚嘆すると、ひとしきり激しく涙した。


 やがて信頼は仲間と話し合い、半刻後……薫に従い、東宮私室に現われた。

 信頼が深く平伏すると、薫から渡された懐剣を東宮の御前に差し出した。

「東宮様……。この度は、私の様な大罪人に過分の御厚情を頂き、恐縮至極に存じます。この信頼……受けましたご恩を生涯忘れる事無く、この後は仲間と共に、不惜身命の覚悟で貴方様の御為に、忠実な下僕として尽力したいと思います」

 信頼の決意に、東宮が鷹揚に笑うと応えた。

「信頼。……下僕という立場は、表向きに過ぎん。……お前は、お前の意志で立つがいい。……そして、お前がその仲間と共に俺の配下になるというのなら、歓迎しよう」

 こうして信頼は東宮に心服し、その忠誠を永久に誓ったのである。


 茜が蒼王と共に退出した後、珍しく無言のまま庭を見つめ、佇んでいる様子の東宮に、信頼が尋ねた。

「東宮様……。薫様はやはり誘拐され、敵に連れ去られたのでしょうか……」

 東宮が簀子に腰掛けると、薄くその色を変え始めた庭木を眺めたまま、答えた。

「いや……。違うな」

 端座した信頼が、東宮の背中をじっと見つめる。

「……では、どうお考えなのですか?」

 不意に東宮が庭の小石をひとつ拾い上げると、天に向かいビュッと投げた。小石は無音のまま眩い陽光に溶け込み姿を消すと、暫くしてカンッと地に落ちた。

「……あいつの事だ。……敵による不透明な暗示が掛かった今の状態で俺の許に居続ければ、皆や俺に迷惑が掛かると思って、自ら行方を晦ましたのだろう」

 東宮が別の玉砂利をひとつ拾い上げると、今度は庭木に向かいビュンと投げた。玉砂利が木に当り、庭に囀っていた小鳥が驚いて一斉に飛び去った。信頼が、再び尋ねた。

「薫様は、今……敵地に於いて、公済により囚われの身でいらっしゃるのでしょうか……」

 掌上で小石を弄びながら、東宮がふと半身を向け、信頼を見遣った。

「……いや、それも違うな。あいつは軟でないし、極めて怜悧だ。……おそらく自分に掛けられた暗示を逆手に取り、単身敵地に乗り込んで、内部から敵を崩壊させるつもりで、自ら敵の手に落ちたんだろう」

 信頼が敬服すると、にやりと笑った。

「……大した御方ですね」

 ……そして貴方様も、そんな薫様を誰より理解し……そして、深く信頼されていらっしゃるのですね……。信頼は何とも温かい感情を抱き、内心ふっと微笑むと、東宮の背中をじっと見つめた。

東宮が弄んでいた玉砂利を放り投げ、ゆったりとした足取りで簀子に立ち戻る。信頼に背を向けたまま座ると、庭を眺めたまま、不意に呟いた。

「……だが今回の敵は、どうやらあいつにとって大恩ある人物らしい……。……果たして、あいつが情に絆されず、暗示を打ち破り、敵を断罪する事ができるかどうか……」

 東宮が閉口すると庭を見つめ……静かに腕組みをして無言になる。

剛毅果断で名高い東宮が、静黙したまま深く物思いに耽る姿に……その胸奥を慮ると、信頼が妖麗に微笑み、口を開いた。

「……今度は、神仏に喧嘩を売るおつもりですか、東宮様」

 自分の心中を敏に察した信頼に、東宮が静かに振り返ると、快然と笑った。

「神仏ではない。……虎の威を借る狐共だ」

 信頼が痛快とばかり笑い出すと、東宮の真意を確かめた。

「僧兵に喧嘩を売るなど、前代未聞です。……大事になりますよ」

 東宮が再び庭に降り、両腕を後ろ手に組むと、足元の小石を軽く蹴りながら頷いた。

「……だろうな。……お前も、無理に付き合う事は無いぞ」

信頼が好戦的な双眸に冷笑を浮かべると、冷めた口調で答えた。

「……私は郡司でしたから……僧侶も僧兵も、もとより寺領は大嫌いでしたよ」

 東宮が鋭利な双眸を欹て信頼を見遣ると、愉しそうにフッと笑った。

「……そうか」

 信頼が深黒の瞳を妖と輝かせ、淡淡とした口調ながらどこか昂然として東宮を仰視する。

「……面白そうですから、私も貴方様と最後まで……ご一緒させて頂きます」

 東宮がくっくと笑うと、答えた。

「……貧乏くじを引いたな、信頼」

 信頼が東宮につられて笑いながら、口を開いた。

「……これを知ったら、きっと……薫様が嘆かれますよ」

「……構うものか。……もとはといえば、勝手に家出したあいつが悪い」

 断言した東宮が爽快に笑うと、信頼の憂慮を一刀両断する。

東宮が信頼に向き直り、凛とした姿勢で命令を下した。

「……倒れた男が回復次第、口を割らせて奴らの居場所を探り出せ。……まあ、そちらが無理でも早晩、茜が戻るだろう。……特定され次第、行動に移る。山狩りの仕度を急げ」

 意気込んだ信頼が恭しく一礼すると、主命を受け機敏に行動を開始した。



 翌日――。宮中では、昨日の二条院での一件がすっかり知れ渡り、帝と太政大臣が不在の状態のまま……内大臣である薫の不明が、殿上人の不安な心理に更なる負の拍車を掛け、総じて清涼殿は大恐慌に陥っていた。薫の行方は依然として知れず……流言飛語が飛び交い、悪化の一途を辿っていた。


「……冗談じゃないわよ! 全く!」

 貞観殿にある当代一皇女の居室では、参内の帰りに顔を出した紅蘭が遣る瀬無い怒りを爆発させていた。

「……頭に来るわ! ……よくもたった一日で、そんな噂が立つものね!」

 紅蘭が容赦無い剣幕で口を尖らすと、怒りを露に握った拳に力を込める。

紅蘭を姉の様に慕う当代一皇女(通称といち)が、困惑頻りに紅蘭を見つめると間合いを測り、おずおずとお茶を勧めた。

「紅蘭姉様、……とりあえずお茶でも……いかがですか」

「あ……ありがと」

 ほんの一瞬怒りを鎮めた紅蘭が素直に感謝すると、茶碗を受け取った。

「……それで、紅蘭姉様……」

「……ん?」

 皇女が当惑した様子のまま、おそるおそる紅蘭に尋ねた。

「……実は私、宮中で最近何が起きたのか……何も知らないのです。皆、何かと忙しくしていて……誰も、私にはまだ……一切、話してくれないのです」

「えっ?」

 吃驚した紅蘭が、思わずしげしげと皇女を見つめた。

「紅蘭姉様! ……教えて下さい。何故、皆騒いでいるの? ……そして姉様は、何をお怒り遊ばしていらっしゃるの?」

呆気にとられた紅蘭が皇女を凝視したまま顔を顰めると、思わず盛大な溜息を吐いた。

「といち……」

 ……駄目だわ、こりゃ。……或る意味、恐れ入ったけど……。……()が付く程の箱入り娘で、話にならないわね……。

呆れ果てた紅蘭が長嘆すると出されたお茶を置き、昨日までの経緯を一気に説明した。

「……一連の事件の発端は、典薬寮で起きた火災により判明した大蔵盗難事件なんだけど、葵の制薬所の盗難事件とどうやら犯人が同一みたいで、現在検非違使で捜査中なの……。残念ながら、ろくな成果が無いと父(橘右大臣)が嘆いていたわ。……それで、宮中が右往左往してうろたえている……まさにそんな時、恐慌の原因となったのが薫よ!」

 紅蘭がひと息吐くとお茶を飲み、再び饒舌に話を続けた。

「……昨日朝、薫が誰にも知られず行方不明になっちゃったのよ。いつもの(東宮)じゃなくて、あの律儀な薫が忽然と消えたものだから、薫の部下をはじめ、宮中は大混乱よ! ……何せ、薫と太政大臣様でほとんどの陳情を引き受け、政治を見ていたからね……」

……残念ながら、私の父はそんなに才覚無いから役立たずだし……などと謙遜自嘲すると、紅蘭が苦笑した。

「そっ……それで?」

顔色を変えた皇女が思わず身を乗り出し、紅蘭に話の続きを急かした。

「……そう。……それでね、仕方無いから大津が、大津なりに陳情を引き受けたんだけど……変な男が現われて、呪いの言霊みたいな暴言を吐いて、大津が激怒する様な手紙を渡して、ぶち切れた大津に切り捨てられたらしいわ。……本当に馬鹿というか……変な男よね。……自殺願望あったのかしら? でも……どうやらその男は、薫の居場所を知ってる様な事を、言葉尻に臭わせたらしいわよ」

皇女が息を吞み、絶句したまま蒼白になる。皇女を見つめた紅蘭が、おもむろに茶碗を茶托に戻し、打って変わって静かな口調になると口を開いた。

「でもね……といち。……本当の問題はこれからよ。私が怒っているのも、まさにその点なんだけど……。恐慌が進行して、根も葉もない風評が流れ出したのよ」

「……風評?」

皇女が思わず固唾を飲むと、食い入る様に紅蘭を見つめた。

「薫と東宮が最終戦争規模の衝突でもして、到頭あの冷静な薫が、堪忍袋の緒を切らして東宮を見限り、新たな新興勢力に加担するつもりじゃないかとか……。これから抑止力を失った東宮による暴走が始まって、恐怖政治を展開加速させるつもりなのでは、とか……」

およそとんでもない内容に、思わず声を大にするなり、皇女が叫んだ。

「……なっ……何ですって?」

紅蘭が、自ら発した言葉に再びその怒りを沸騰させると、机をパシッと叩いた。

「……分かってるわ! ……皆も、不安なのよ! そもそも日頃から何でも薫に頼り過ぎているから、それが今回裏目になって大恐慌になったって! ……だけど、あんまりよ! ……これだから、無知の一般大衆って嫌よ! ……あの二人の事何も知らない癖に、勝手な事ばっかり邪推して、ひどい流言をでっち上げ、まことしやかに言うなんて!」

紅蘭が眉間に皺寄せ青筋を立てると、わなわなと拳を震わせた。

「誰が何と言おうと、傍目にどう見えようと、薫と大津はこれ以上ない親友同士なのよ!幾ら喧嘩や衝突を繰り返しても、本質的に陰と陽なの! 本気を出せる知己なのよ! それが分かんないのかしら? 水魚なのよ! ……何があっても離れるもんですか!」

もとより多弁な上、大層な早口である紅蘭が、殊の外発奮すると怒りをまくし立てる。遣り場の無い悲憤に慷慨する紅蘭を、哀哀と歩み寄った皇女が掛ける言葉を見付けられず、ただ手を握ると抱き締めた。

「……姉様、落ち着いて、姉様」

なすすべ無い自分に焦燥しながら、悲哀に満ちた皇女が懸命に慰める。魑魅魍魎の浮言に、せんない憤激をしていた紅蘭が唇を震わせると、悔し涙が零れ落ちた。


ふと何かしら気配に気付いた様子で、皇女が紅蘭の背後にある几帳をじっと見つめる。

几帳から顔を覗かせたのは、三井寺(園城寺)にて出家中である筈の桜姫であった。

「……桜お姉様?」

親しい従姉である桜姫の姿を見出すなり、皇女が席を立つと嬉しそうに駆け寄った。

我に返った紅蘭が、胸奥深く悲愁を閉じ込め桜姫を見上げると、思わず吃驚した。

「桜様? ……そのお姿は、一体?」

紅蘭が驚いたのも、無理は無かった。何故なら出家している筈の桜姫が髪を伸ばし、神に仕える巫女の姿で佇んでいたからである。

桜姫が穏やかな微笑を浮かべると、二人に向き直った。

「……次期斎宮に決まっていた女王が急逝された為に……他に、年頃で未婚の女王や皇女が居られない事から、急遽私が呼び戻され、次期斎宮に決まったの。これから一年……嵯峨野の野宮にて潔斎に入るご挨拶に、久し振りに清涼殿に来たのだけれど……」

皇女が驚いた顔で桜姫の手を取ると、静かに見上げた。

「そんな急に……ましてや遠く……いずれ伊勢に行かれてしまわれるのですか」

肩を落とした紅蘭が、口を開いた。

「そんな……桜様……。何もこんな……宮中が大混乱の時分に、潔斎に発たれるなど……」

桜姫が口元を綻ばせると、爽やかな瞳で微笑んだ。

「……お気遣いどうもありがとう。でもこれは……先程清涼殿にて、皇后様や中宮様、そして左右大臣とも話し合って、決めた事なのよ。大恐慌だからこそ……普通でいようと。全ての予定と決定は、一切変更無しで行われる事になったの……。それに、安心してね。帝と太政大臣様も、明日夜にはお戻りになるわ」

桜姫が不意に視線を落とし、ふと哀しそうな面持ちになった。

「ただ……大津と薫殿の事が気掛かりで……それで、ここに寄ったのよ。残酷な流説も耳にしたわ……。大津が清涼殿に姿を見せなかったから、心配になって。大津……暴走しないといいのだけれど。……あの二人の事だもの。何も心配ないとは思うけれど……。何分、こんな事は初めてだから……やはり少し、気になるわ……」

桜姫が顔を上げ、皇女と紅蘭をじっと見つめた。

「……私はこれで発つけれど、あの二人の良き理解者である貴女達に、あとの事をくれぐれも宜しくお願いするわ……。薫殿が不在の間は……どうか貴女方と皆で、大津の支えになってあげて頂戴ね」

皇女と紅蘭が涙ぐむと、何度も何度も頷いた。

二人を優しく抱擁した桜姫が微笑むと、皇女の部屋を退出した。


後宮――。皇后の御座所では、ひとりの蔵人が呼び出され、皇后の御前に平伏していた。

「……以上、根も葉もない噂は悪しき噂を呼び……依然として宮中は混乱状態のまま、事態はますます悪化の傾向にあり、収束の兆しはありません。薫様の足取りは全く掴めず、東宮殿下も昨日発生した二条院での一件以来、二条院に篭られたままの状態です」

皇后の命により参上した蔵人が、順を追って清涼殿の様子を皇后に言上する。傾聴していた皇后が、報告をひと通り聞き終えると、静かに口を開いた。

「左様か……。大儀でしたね。……では、私の出番ですわね」

皇后が毅然として、強い口調で蔵人に命じた。

「百武百官、宮中の女官全てに命じます。半刻後、清涼殿へ緊急召集です!」

「はっ」

強い意志として凛と鳴り響いた皇后の命令に、蔵人が身の引き締まる思いで畏まると、直ちに退出した。


半刻後、清涼殿は騒然として響めいていた。

「緊急召集など初めてなのでは……?」

「誰が一体、呼び出しを……?」

「帝も太政大臣もご不在の今……東宮様も居られぬと聞くが……」

 深く下ろされた御簾を見つめ、殿上人達が浮き足立って憶測する。

「陛下が入御されました」

……陛下? ……中宮様か?

 百武百官が整整として恭しく平伏すると、御簾の奥に人影が見えた。同時に、音も無く御簾が巻き上げられる。異例中の異例の出来事に、総容が一斉に玉座を凝視した。

「!」

殿上人が思わず声を呑む。姿を現したのは、帝の片腕として共に政治に携わる中宮では無く……常常、朝廷儀礼以外は後宮深く座し、まず滅多に姿を現さない皇后であった。

「……皇后様……!」

 固唾を吞んで見つめる殿上人を見渡すと、皇后がその足労を労った。

「皆の者、大儀でした」

 皇后が粛粛として口を開いた。

「召集をしたのは、他でもありません。……皆も、良く分かっておるであろう」

ひと息吐き、深く長嘆した皇后が、謹厳に語気を強めると問い糺した。

「あまりにも情けない……! ……そなた達は、それでも日本の国の中枢ですか?」

 やんごとない御方の手厳しい叱責に、瞬刻に震慄した清涼殿が、呼吸の音さえ憚られる程に静まり返る。厳かな皇后の声が凛として、殿内に染み入る様に響き渡る。

「……薫殿ひとり無くては狼狽し、全てが滞り恐慌に至るとは何たる事です! 嘆かわしい……そなた達は政府の重鎮なのですよ! 聞いて呆れます」

 皇后がきりりとした態度で居並ぶ百武百官を叱咤すると、慈愛を込めた眼差しで、銘銘の瞳を順に見つめた。

「……そなた達が取り乱して政治を滞らせ、一番困るのは、国民なのですよ! くだらぬ流言飛語に耳を貸す暇など無い筈です。主上、太政大臣が不在の今、そなた達以外の誰が国政をみるというのですか」

 皇后の重い言葉に、清涼殿が静粛を極めて恥じ入った。

「……解った者から、順に役目に戻るが良い」

 皇后が簡厳に話を締め括った。音も無く御簾が下ると、やがて、おのが役目を思い出した百武百官が無言のまま平伏し、各各一礼すると順次退出して行った。

静寂なる玉座に単座した皇后が、静かに瞳を閉じるなり、心中深く呟いた。

 ……これで、宜しいですわね……薫殿。宮中こちらの心配は、ご無用よ……。

 皇后の手許には、薫の失踪前に、薫が自らの手で認めた書状が五通、纏めて届けられていた。書面には、現在までの簡単な経緯と、万一自分が失踪した場合の対処策が書かれていた。自分の失踪後の朝廷を気に掛けた薫は、上司に当たる左右大臣、父である太政大臣、そして帝、皇后陛下の其其に宛てて書状を認めていた。そして書状の最後には、万一自らが失策し、朝敵に値する行為や人道に反する行いに及んだ場合は、直ちに自分を誅殺する様に……との請願が明記されていた。

 皇后は、書状を受け取るなり左右大臣を呼び寄せ、薫の書状の内容について、一切の口外を固く禁じると、左右大臣と共に、この切実で重大な事態を惨然と悲嘆した。殊に皇后は、幼少より東宮の側近として常に共に在った薫に、何より強く深い慈愛を抱いていた。

国母として……またひとりの母親として……。皇后が殊更惨憺としてその胸を痛めると、心中で深く慟哭した。



 冥冥とした漆黒の夜空に、冷たく皓皓として冴え渡る月を見上げていた薫が、ふと襖の奥に人影を感じると、静かに振り返る。

襖を開け、僧侶らしき人物が現れると薫に声を掛けた。

「……薫、こちらへ来て、久し振りに酒でも一緒に飲まないか」

 薫が、その蒼氷の冷たい瞳を向けると、淡淡と答えた。

「……ええ、そうします」

 隣室の襖を開け、薫がふわりと端座する。

僧侶らしき人物が鋭意に五感を研ぎ澄まし薫を注視すると、おもむろに口を開いた。

「……月を見ながら、何を考えていた?」

 懸盤に乗せられた提子から自酌すると、薫が冷冷と答えた。

「――今頃、宮中は混乱しているのでは……と思いましてね」

「……ふふ……気になるか?」

 僧侶らしき男が杯を取りひと息に飲み乾すと、煌煌として意志の強そうな瞳を向け、薫の胸奥深く詮索する。

「薫……お前も、食えん奴だな。どうせ俺の催眠に掛かったふりをして、此処に来ているのだろう? ……何を企んでいる?」

 明け透けに放たれた猜疑をすいと受け流すと、薫が冷笑を浮かべた。

「……さて、どうでしょうね……。公済様、貴方こそ……自分の術に自信が無いのですか?」

 公済と呼ばれた僧侶が、不遜に答えた。

「勿論、自信はある。……お前は、完全に俺の術中にあると言っていい。……だが、お前は恐ろしい奴だ。……昔から一を知れば十を知り、百の先を見通す性質だったお前を、俺は決して過小評価したりはしない」

 薫がやんわりとした瞳で公済を見遣ると、冷艶に微笑んだ。

「――安心して下さい。……貴方の催眠は、完璧です。だから私は……こうして貴方に逆らう事無く、おとなしく控えているのです」

 公済が杯を置き、おもむろに立ち上がると薫の正面に歩み寄り、薫の顎に手を当て、きっと上に差し向ける。薫が無言のまま、公済の瞳を射る様に見据えた。

「……美しく冷たい氷の瞳。無邪気な少年だったお前が……この俺に、この様な瞳を向けるとはな。……心身共に、大きくなったな、薫。今や、すっかり一人前だ」

 公済が満足そうにふっと笑い、手を放すと踵を返した。

「明日より、軍議だ。来たばかりで慣れないだろうが、早めに体を休めておけ」

 言い置くと、公済が振り返る事無く襖を開け退出する。

眉を顰めた薫が、深く溜息した。

 ……流石に、まだ何も尻尾を出さないか……。

……ここへ来て分かった暗示は、今の所二つ……。公済の命令には逆らえない。そして、彼の不利になる事は考えられない。

……禁忌を考えようとする度、痛酷な頭痛に襲われ、頭が霞んで割れそうになる……。やれやれ……あと一体、どれだけの制約があるというのだ……。

 寂静とした薫が再び庭に面した襖を開け、凍て付いた月影を見上げた。

鬱蒼と茂った樹木の梢を風が淅淅として揺らし、白白とした清かな月光が、夜露に引き締まり始めた草木を冷冷と照らしていた。

自邸や二条院の庭とはあまりに異なる寂寞とした光景に、薫が一片耿耿と隠憂ある様子で遠望する。

 ……まずは彼らの組織を暴き出し、瓦解させる為の弱点を探し出す事だ……。

……しかし私には、多くの制約が施されている……。

その全容は未だ分からないが……何か、打つ手はある筈だ……必ずな。

……いずれにしても、断じて奴らの思い通りにさせる訳にはいかない……。 

 厳酷な迄に寂寂とした庭を見つめながら、怜悧な薫が、あらゆる手段を考え抜いていた。


 有明の空が白んだ頃、薫は、部屋から見える鬱蒼とした針葉樹林の森に響く鷹の一声を聞いた。庭に面した襖を静かに開け、外を見ると、影暗く深深とした杉林に、眩いばかりの朝日が差し込み、その燦燦と陽光当たる一枝に、蒼王が留まっていた。

 ……蒼王!

 驚いた薫が周囲の様子を冷静に観察する。辺りに人影の無い事を確認するや否や、縁側に出て片手を高く翳した。

差し出された薫の手を目掛けてスッと、音も無く蒼王が滑空する。手許に舞い降りた蒼王を引き寄せると、薫が穏やかな瞳で見つめ、その背を優しく愛撫した。

「蒼王、よく来たな。大津の命により、私を捜しに来たのか?」

 やんわりとした瞳で、薫がゆっくりと蒼王に話し掛ける。

「……だが、私の心配はいらないよ。こうして元気だ」

 蒼王が、薫の頬を軽く小突いた。気付いた薫が、蒼王の顔を見遣る。

蒼王が未だ薄暗い杉林の木立に顔を向けると、じっと凝視した。薫が蒼王の視線の先を静かに追うと、木立に溶け込む様に潜んでいた茜が、その姿を現した。

薫が再度周囲を注意深く窺い、安全を確認すると茜を招いた。

 茜が速やかに薫の足許に近付くと、嬉しそうな顔で一礼する。

「……お捜し致しました、薫様。御無事で何よりです」

 薫が柔和に微笑んだ。

「……迷惑を掛けたね。済まなかった。皆、元気か?」

 茜が、表情を曇らせ報告した。

「貴方様がお姿を隠された時分とほぼ同刻、公済の手の者と思われる男が、二条院にて例の爆薬を用いて、東宮様を含め……近くに居た民間人達を無差別に狙い、自爆を試みました。ですが、いち早くお気付きになった東宮様により、未然に事無きを得ました」

 薫が一瞬にして顔色を失うと、その声を震わせた。

「……何と……。……それで、東宮は? 他の者は? ……皆、大事無いのか?」

 茜が、声を潜めて頷いた。

「ご無事です。東宮様の御身も、皆も、一切何の御心配もありません。……東宮様は、私には何も胸の内をお話になりませんが……貴方様をとても案じていらっしゃいます。私は、公済共々、貴方様のお行方を捜す様命じられ、蒼王と共に、ここに辿りついた次第です」

 薫が安堵の色を浮かべると、ほっと胸を撫で下ろした様子で頷いた。

「……そうか、皆、息災か。良かった……本当に」

 寸陰を惜しんだ薫が茜に向き直り、冷静な口調で言付けた。

「……だが、茜。君もこうして知った通り……今回、公済がその本拠としている場所は、此処(延暦寺)だ。東宮が表立って糾弾し、断罪できる相手ではない。だからこそ、こうして私が潜入した意味がある。万一私が失敗した場合は、朝敵として私を討つという名目で朝廷軍を派遣し、公済もろとも殲滅して頂く様に手配してあるから心配無い。……くれぐれも東宮には、事を起こさず、静観して待つ様に伝えてくれないか」

薫の言葉に、茜が唇を震わせ噛み締めると、目に薄らと涙を浮かべて応えた。

「……薫様。……そんな悲壮なお覚悟を……。薫様……東宮様は……貴方様無くしては、その御心のまま自由に振舞う事が叶いません。……それは誰より貴方様が……ご存知の筈では無いのですか……。……他に手は無いのでしょうか、薫様……。こんな事は……哀し過ぎます」

薫を見上げた茜が、今にも泣き出しそうな顔になる。瞳を和らげた薫が微笑を浮かべると茜の肩にそっと手を置き、優しくそして力強く言葉を掛けた。

「……勿論、私も諦めずに、全力を尽くすつもりだよ。背水の陣とはいえ、失敗するつもりも毛頭無い。……でもね。……諜報員として、東宮に絶対の忠誠を誓った君なら解かる筈だ……茜。こうする事が東宮の為であり、ひいては私の為でもあるという事を……」

深く誠実な瞳を真っ直ぐに向けると、薫がやんわりと茜を見つめた。

茜には……痛い程、薫の気持ちが良く分かった。

茜が漣漣と涙したまま……言葉を失った。

 薫が静かに蒼王を促すと、茜に渡した。茜が細かく肩を震わせ、声を殺して嗚咽する。茜を安慰するかの様に、薫が穏やかに微笑んだ。

「大丈夫だ。……どんなに遠く離れようと、私の心は、いつも東宮と共にある」

 言い終えるや否や、薫の脳裏に何故か公済の映像がちらと映り込んだ。……と同時に、激しい頭痛を感じると、薫が思わず両膝を突き、その場に頭を抱えて蹲った。ギリギリと締め上げる様な頭痛が、容赦無く襲い掛かる。薫の顔色は一瞬にして蒼白になった。

薫の様子に驚いた茜が、思わず我を取り戻すと緊張した声で動転する。

「……薫様! ……どうなさったのですか?」

 まさか……これも、制約か。東宮に強く思いを馳せると、全身を貫く様な激痛が走り、何故か公済の映像が脳裏に浮かび上がる。そして頭の中に徐々に鮮明な映像を結びつつある公済の事を考えようとすると、頭痛が和らぎ、痛みから解放され、爽快になる気さえする。……完全に、おかしい。……自分が、自分で無くなる様だ……。

 卒倒するかの様な痛みに苛まれながら、薫が途切れ途切れの口調で茜を促した。

「……心配無い……。……早く行け……。……後は……頼んだぞ」

「薫様……!」

「……早く……気付かれない内に……」

 頭を抱え……蒼白な顔色のまま痛みに耐え、何とも苦しげな薫の様子に……茜は、張り裂けそうな悲痛で胸が一杯になった。

……だが、如何せんここは敵地……。寸陰と言えど、いつ敵に発見されるか分からない。主命を帯びた身に、まごまごしている暇は無かった。茜は、後ろ髪引かれる思いで一瞬、薫を見つめると、蒼王と共に全力でその場から逃げ去った。暗い森に溶け込む様に、鬱蒼とした樹木の陰から影へと渡りながら、茜が溢れる涙に濡れたまま、全速力で二条院を目指した。


 凄まじい疼痛に襲われながら、薫は、その怜悧な頭脳を限界まで酷使させていた。

……私にとって、唯一無二である筈の東宮の存在が否定されている。

……どうやら、この凄絶な痛みによって徹底的に東宮が否定され、逆に公済が、あたかもこの痛みから私を解放させる救世主の役割で設定されている様だ……。

薫の指先は氷の様に冷たくなり、痛酷極めた割れる様な激しい痛みは、もはや眼前の景色さえ仄暗く変えていた。自身を襲う壮絶な痛みと闘いながら、明敏な頭脳の持ち主である薫は、朦朧とする意識の中で、はっきりとした結論を導き出していた。

……そうか。いくつもの制約がバラバラに課された暗示だと思っていたが……どうやら、そうではない。……私に課された暗示は、たったひとつの単純なものだったらしいな。

……東宮を捨て、公済が私の新たな主となる様に……。

……これでようやく、暗示の正体が……見えた。

知覚した薫が明快な結論に至るなり、その場にばたりと倒れ、意識を失った。



 ……どれ程の時間が経ったのだろうか……薫がふと目を開けると、傍らに公済が座り、自分の顔を覗き込んでいた。寝かされた姿勢のまま、薫が瞳を上下左右に動かすと、黙然として部屋の様子を窺った。

どうやら自分はこの部屋に運ばれ、寝具に寝かされている様であったが、はて……その間の記憶が全く無い。……恐らく、あのまま意識を失っていたのだろう。

薫が目覚めた事に気付いた公済が、薫の額に手を当て熱が無い事を確認すると、背後に控える白衣姿の男性を振り返った。

「黒杉! ……薫が目を覚ました様だ。大事が無いか、診てくれ」

 黒杉と呼ばれた男が黙諾すると、薫の枕元に歩み寄った。

薫が無言のまま、白衣姿の男をじっと見つめた。黒杉と呼ばれた昏冥の瞳の男は、自分を凝視したまま抵抗する様子も無く、されるがままの薫をひと通り丁寧に診察すると、公済に報告した。

「……先程の鎮痛薬が、上手く効いた様です。心配ありません」

「そうか」

 公済が満足そうに頷くと、薫に向き直った。

「……意識を失うとは、余程激しく抵抗した様だな、薫。……手っ取り早く本能に従ってしまえば、楽だったものを。……想像を絶する痛みだった筈だ、大丈夫か?」

 薫が半身を起こすと、無言のまま頷いた。そして起き上がり、静かに公済に向き直ると、その真っ直ぐな蒼氷の瞳を向けた。

「……公済様。軍事力を保有し、食料と医薬品を手にした貴方が、革命という形で政権の簒奪を謀っている事は、容易に推察できます。……ですが、あえて凄惨な戦禍を引き起こしてまで、その後に追い求める理想とは、何なのですか?」

 鋭く深く……心の内面に分け入るかの様な深青の瞳、そしてそもそもの始まりを問い、秋霜の如く切り込み事の本質に迫る薫の追及に、さしも豪然とした公済が、思わずニヤッと相好を崩した。

「……今更、そんな事を聞いてどうするつもりだ?」

 皎潔極める薫の凛とした瞳が、公済を正面から捉え、見据えていた。

「はぐらかさないで、真面目に答えて下さい。……それに私を洗脳し、こうして強制的に巻き込んだからには、貴方には……私に納得できる理由を説明する義務がある筈です」

 公済が、尊大に薫を見遣った。

「……いいだろう。お前の言い分も、至極もっともだ。だが聞けば……おそらく清廉潔白なお前は心中深く傷付き、己を呪い……激しく後悔する事になるぞ」

 公済は自分を見つめる薫の瞳に、いささかの迷いも無い事を確認すると、話し始めた。

「俺達の望みは、今の政治を……独裁政治を止めさせる事だ。政権を我々庶民に奪回して、俺達で政府を樹立する。その為には、貴族も皇族も……全てを滅ぼし、無に帰せてやるつもりだ」

 公済は薫の心中が動揺のあまり遑遑と定まりなく揺れ動く事を期待して、薫を睥睨した。だが予想に反し、蒼氷の瞳の深淵から放たれる理知的な光は、公済の言葉に全く臆する事なく、冷冷としたまま自分をじっと凝視していた。

 公済が、ふと顔から表情を消し、話を続けた。

「貴族や皇族……。朝廷という名のもとに暴利を貪る奴らの姿勢が、黎民の膏血をすすり、骨の髄まで搾り取り、我らを蹂躙する……。それがどれほど万民を苦しめ、辛酸を舐めさせて来た事か……。厳しい税は、時として私荘園と国司の双方から請求され、容赦なく搾取される……。高価な医薬品も、そして学問さえも、限られた一部の人間に与えられた恩恵に過ぎず、黎民は一生、その恩恵を受ける事は無い」

 煌煌として慄然させる双眸を薫に向け、感情を高ぶらせた公済が声を荒げた。

「薫! お前は、それをおかしいと感じた事は無いのか? 不条理だと思わないのか? お前は政治の中枢にいて、見て見ぬ振りをすると言うのか? ……それともまさか、自分が貴族生まれだから、関係ないとでも血迷ったのか?」

 今や雄弁に自身の主張を標榜しはじめた公済は、伏目がちに端座したまま微動だにせず、じっと話に傾聴している薫を峻険な眼差しで見据えると、饒舌になった。

「……ここにいる黒杉はな……。越中の生まれだが、かつて国学に於いて国医師から見込まれ、直接教授を受ける程の俊逸な学生だった。だが、調庸の人頭税があまりに厳しく、やむなく口減らしの為に両親と別れ、弟と共に出国して諸国を放浪し、やがて山城国に辿り着いた。俺と出会ったのは、まさにその時だった……」

 公済が半身を黒杉に向け、峻厳極めた視線を薫に投げ掛ける。

「俺は唐から帰国後、かねてお前に公言していた通り万民に分け入り、この末法の世に仏の智慧と慈悲を以て悩める衆生を悉く救済するべく諸国を綿々と歩き、理想に燃え、布教と啓蒙に全精力を傾けていた。……そんな俺が或る日、黒杉兄弟に出会った……。二人共に、明日をも知れぬほど痩せ衰えて、栄養失調が甚だしい状態だった。俺は、ほとんど口も利けない状態だった二人を延暦寺に連れ帰り、篤志家である多くの僧侶と共に、熱心に看護した。……だが、長期間の放浪生活により病を患っていた弟は、間も無く息を引き取った。俺は、兄の黒杉の回復を待って、仔細を聞いた。黒杉の話は、俺には衝撃的なものだった」

薫は俯き加減に視線を落とし……公済の話をじっと聞いていた。

「……黒杉の家は、郡司の傍系だったらしいが、地方の国が財源とする租税の正倉は年々激減し……財政困難に陥った国が、国司や郡司の指揮の下、貴族や皇族共の私荘園に税の徴収に奔走するものの、私利私欲に塗れた奴らの掲げる不輸不入の権により租税が徴収出来ず……国によっては国司と私荘園の間で、戦火が絶えないそうだな?」

公済の指摘に、薫が無言のまま静かに頷き、それを肯定した。公済がフンと鼻を鳴らすと、傲岸な様子で話を続けた。

「こうして戦禍により疲弊しきった人民に、追い討ちを掛けるかの如く……朝廷に忠実な犬である国司は、人頭税という悪しき仕組みで課される庸調税を、国民から容赦無く取り立てる……。そして過酷極まる取立てに怯えた黎民が、税の軽減と口減らしの為、男子を手放し、こうして彼らは各国を彷徨い……行き先を失った彼らが生きる為に辿り着く先は、はなはだ馬鹿げて本末転倒な事に、不輸不入の権により国司が立ち入れない私荘園か、朝廷より独立した存在である寺領しかない……。何たる矛盾! 朝廷の愚策だ! 聞いて呆れるというものだ」

公済が憤慨すると、更に熱弁を奮った。

「地方によっては、国における唯一の教育機関である筈の国学でさえ、維持継続が危ぶまれているというではないか……。その過酷な地方事情の中で……この黒杉は、先程述べた通り、国学を本来主席で卒業できた筈の秀逸な学生だった。卒業後は、天下の俊英が集う中央の大学寮に進み、やがてこの国を背負う官吏となれた筈が……思わぬ境遇により生命の危機に瀕し、明日をも知れぬ状態に追い詰められ……無実の弟に至っては、世を嘆き、怨みを残したまま病死していった……。……この国は、本当にどうかしている」

静黙している薫を一瞥すると、公済が言葉を続けた。

「……俺は、志半ばで学を諦めざるを得なかった黒杉に、俺の知力全てを傾注して学を教え、鍛え上げた。もともと国医師の許でその才能を開花させていた黒杉は、殊に医学の分野でその俊異な能力を発現し、俺が唐から持ち帰った本草学に関する文献を悉く制覇し、自身の熱心な探究心も相俟って、今や一流の医師となった。……そして、各各の境遇は違えども……こうして寺領に逃れ込み、この延暦寺にて救済された人間は今や、三千人を越える。彼らは僧兵として日々寺領を自衛しながら、無為無策の朝廷に対し不撓不屈の精神で、神仏のみをその心の拠り所として、生きているのだ」

俯いた薫の両手が僅かに震えているのを見遣ると、公済が薫に向き直り、不意に穏やかな顔を見せた。

「薫……。俺と共に唐に留学したお前は……幼くとも胸に崇高な理想を抱き、より良い社会の実現を目指して、誰より熱心に勉学に勤しんでいた。生来より怜悧であるお前は、同期の留学生の中でも抜きん出て……恰も乾いた砂が水を吸うかの如く、目を瞠る聡明さを以て、あらゆる学問分野に精通していった。そんなお前は……常々俺に、言っていたではないか。貴族出身と雖も……藤原や橘といった有力な貴族の出では無いお前は、お前の父同様、己の才覚によってしか上には上れない。権力を手にしなければ正道を行えないという不条理なこの世の中で、お前は……万民が幸せに暮らせる世を実現させる為に学を修め……尽力したいと。……そしてそんなお前に感極まった俺は、お前に約束したのだ。……ならば俺は、仏の道で……闇に迷える衆生に、仏の智慧による救済を説き……仏の慈悲を以て、必ずや末法の世を救済してみせると」

公済が薫の肩に手を添えると、熱く語り掛けた。

「俺は……布教しながら、黎民達の窮状を否応無く知る事となった……。そして俺は、悟ったのだ。消極的な姿勢では世は救えない。待った無しの困窮した人間達が目の前にいる……。そんな彼らを救済するには……社会の膿である腐った貴族と朝廷を廃絶し、神仏の深い智慧と慈悲による理想社会を構築するより無いという事を……」

薫の手に、静かに涙が零れ落ちていた。公済が薫の肩に優しく手を置いたまま、慈愛に満ちた顔になる。

「……泣いているのか? 薫。……お前は俺と同じ様に、差別や欺瞞溢れる貴族社会を憎んでいたではないか……。何を疑問に思う必要がある? ここにいる黒杉も、延暦寺にて神仏を守護する僧兵達も、皆が自らの手で泰平の世を勝ち取る事に意義を見出し、その実現を切望している。共に同志となるには、申し分無い存在だ。……それに、俺はやはり、お前が可愛い。お前の心の中には……今も、純粋無垢な少年であった昔同様のお前がいる。俺には、分かる。……だからこそ、こうして仲間に引き入れたのだ」

俯いていた薫が、静かにその顔を上げた。薫の深青の瞳からは、清静と涙が流れ落ち、その哀哀とした表情と相俟って、息を呑む程その天性の麗質を際立たせていた。

公済が思わず過ぎ去った日々を懐かしく思い出すと、昔よくそうしていた様に、慈しみの顔を向け、薫の頭を優しく撫でた。

「……辛いか? 薫。まあ崇高な理想の実現の為とはいえ……俺のやろうとしている事は、お前にしてみれば、慣れた故郷や友人、そしてお前の主人であった東宮を始め、敬愛する父等全てを捨て去り、全て殺める事に他ならない。……だからこそ、お前には辛い思いを味わせぬ様に洗脳をかけ、その心理的負担を減らしたというのに……自ら理由を問うから、こうして苦しむ事になる」

公済が薫を見つめると、苦笑を漏らした。公済の言葉に、沈黙を守っていた薫が、その涙に濡れていた美しい瞳を向けると、おもむろに口を開いた。

「……辛さ故に、泣いた訳ではありません」

「……何?」

全く思いも寄らなかった薫の言葉に、公済が酷く驚いた顔を向ける。薫が凛然と顔を上げ、冷徹な瞳で真っ向から公済を見つめた。

「……やはり、貴方と私の間には、如何ともしがたい明瞭なまでの鴻溝があると思い、それを嘆いていたのです」

「何だと?」

檄した公済が、かっと瞠目するなり薫を見据える。目を剥く公済に微塵も怯まず、薫が冷静に口を開いた。

「確かに私は、この腐敗した貴族社会を打破し、いずれは身分制さえ崩壊させたいと考えています。それは、かつて貴方にお話した昔も今も、何ひとつ変わらない私の本懐です。……ですが、崩壊後の理想と、実現させる為の手段が、私と貴方では決定的に違います」

公済が倨傲に満ちた顔になると、鼻であしらった。

「……ほう? ……言ってみろ、薫」

「私は、一切の流血を望んでいません。誰ひとりとして犠牲となる事ない改革を……無血での社会刷新を成し遂げたいと思っています」

真摯な薫を傲然と見遣り、冷笑を浮かべた公済が鼻で笑い飛ばした。

「何とたわけた綺麗事を……」

薫が公済にひたと向き直ると、誠実な姿勢で言葉を重ねた。

「……いいえ、決して綺麗事ではありません。寧ろ、断じてそうしなければ……真の社会改変はできないとさえ信じています。私は、かつて貴方に公言した様に、あらゆる学問分野は社会をより豊かに、人により幸せをもたらす為に在るべきだと考えています。私は、まずこうした学問を広く国民に浸透させ、教育する事により、仁徳豊かな良民を育成する……これこそが、何より重要な国策だと思っています」

薫が公済の後方に座している黒杉に目を配り、視線を戻すと話を続けた。

「……先程、国により、国学の運営が困難な状態にあるとの指摘がありましたが、高野山の弘法大師は、かつてこの事態を重く見て、大学や国学に入れない身分の庶民の為に、京に最初の私学である綜芸種智院を創設しました。その崇高な精神は、今も確かなものとして我々に受け継がれています。そして現在、政府の奨励により教育に熱を入れ始めた大貴族が、こぞってその私財を注ぎ込み、私学や大学寄宿舎にあたる大学別曹を続々と建てています。大規模なものから例を挙げれば、藤原氏による勧学院、橘氏による学館院、和気氏による弘文院など……またこの様な規模ではなくとも、同じく教育の重要性を深く理解し、情熱を傾けている歴代博士の家では、菅原、清原、中原、大江、坂上に代表される各博士が広くその門戸を開放し、私塾を創設して実学を教え、門下生の育成に励んでいます」

公済が、ふんと鼻で嘲笑った。

「それは……今上帝の御世に限った隆盛ではないか。綜芸種智院は弘法大師の死後、一旦廃絶の憂き目にあっている。昨今復活を遂げたのも、どうせ学問好きのお前の父と、お前による啓蒙効果が大きいのだろう? それに今、お前が挙げた私学の内、当初から万民を受け入れ可能としている所は、その綜芸種智院とお前の家である綾小路が創設した私学だけではないのか? ……勧学院などは、最たる矛盾例ではないか。藤原氏であることが入学要件とは、お前のいう学問のあるべき姿からすれば、はなはだ言語道断の存在ではないか。……それが、どうして存続している? ……手前勝手な貴族の傲慢が、罷り通るからではないか」

公済の鋭い指摘に、薫が静かに頷いた。

「勧学院は、今の左大臣様が藤原氏の長になられてから、藤原氏以外の氏姓にも門戸を開きつつあります。……ですが、改革を始めたばかりの現状ですから……確かに公済様の仰る通り、当代限りの改変と思われても仕方無いかもしれません……。しかし、そもそも学問と教育の醸成とは人を育てる事に他ならず、それは一朝一夕に結論の出るという問題ではありません。改革を始めてから政策の効果が発現するまでに、少なくとも数十年は掛かるという長期施策です。国学を含め、教育に関する事については、徐々に宮中の意識が変わりつつあり……この点においては、私はさほど現状を憂慮していません」

公済が頷くと、まあいいとばかり、薫に話の続きを促した。

「私は、真の国力とは……決して経済的な富裕のみを指すのではなく、国民が如何に人としての幸福感を享受できる社会であるか……この二点が相即不離の関係にあって、初めて形成されるものだと考えています。豊かな恵みを享受する事の感謝と、生み出す事の喜び、そして人と共存する確かな幸せを感じる人としての心無くしては、いかに物質的に豊かであろうと、心虚しい限りです……」

静聴する公済の双眸深くじっと見つめ、薫が誠心から公済に向き直る。

「そして富を得た人間は、その恵みを社会に還元し、施す事の喜びを知り、もって感謝の気持ちを忘れない。……今の貴族は、そんな人として当たり前の事を、確かに忘れ去っているのかも知れません。私利私欲に駆られ……その欲望の向くまま政策を捻じ曲げ、権威によって他を蹂躙して自分の欲求を突き通す……。そんな貴族は根絶やしにしてしまった方が良い……貴方の気持ちも、私は良く分かります」

薫が一旦言葉を切ると、俄かに冷厳になる。冷冷とした双眸で、公済を凛冽に見据えた。端麗な顔には秋霜が降り、あたかも蒼蒼とした草木が凍て付き枯死する様な冷淡さを以て、薫が口を開いた。

「……ですが、貴方はそんな憎悪の対象である筈の貴族と、同じ手段で自らの理想を貫き通そうとしているではないですか。貴族は、天皇の威を欲しいままに利用し尽くし、自らの欲望を充足する。そして貴方は……神仏の威を借り、神仏の名の許に自らの掲げる理想を実現させようと、罪無き人々の人格を奪い、煽動によりその命を自ら惜しまず捧げさせ、嗷議という手段に打って出る。……貴方は、万民を救うと口では言いながら、救うべき筈の人間を貴方の勝手な裁量により限定し、救済の対象となるべき良民の意思を制約して、犠牲にする事を厭わないという、あってはならない暴挙に出ている」

秋霜烈日の厳しさを以って、薫が公済を容赦無く断罪すると、冷冷然と糾弾した。

「……人を、人として見れていない貴方に、絶対に人は救えません。貴方の理想社会は、神仏が齎す恩恵社会では無く、貴方という偽善者の下に創られる、従来社会と何ら変わりの無い、支配者が貴方に代わっただけの、血塗られた世界です。流血は流血を呼び、暴力は更なる暴力を生み出します。流血は……それがどんな正義や大義の元に語られようとも、必ず将来への禍根を残します」

薫は清絶極める言により公済の掲げる正義を退け、清然とした面持ちで峻拒した。

「私は、貴方と同じ泰平の世を求めていますが……何があっても、断じて流血は望まない。国の本は、いつの世も……人です。時間は掛かるかもしれませんが……私は、教育という種を捲き、慈しんで育て、人心と正面から向き合い、そして相互に高め合う事で、社会を確かに……そして根底から、変容させて行きたいと思っています」

凄烈な程に高潔な、偽り無き薫の本心だった。

公済は、眩いばかりに純粋な薫の清心を目の当たりにし、思わず満足そうに顔を緩めた。

「……変わらないな、薫。俺は、お前のそういう所が、好きだ。……そして、そんな白雪の如く皎潔なお前が、いつまで理想のうちに振舞えるか……が、実に興味深いよ」

公済が、言い終えた時だった。

不意に襖を軽く叩く音が聞こえたかと思うと、ひとりの僧兵が入室して来た。

僧兵がちらと薫を一瞥すると、公済に向き直り報告した。

「……公済様。たった今、情報収集の為、京の都に潜入していた者が戻りました。二条院にて東宮を事件に見せかけ爆殺するという作戦は、どうやら東宮の手により、一切の犠牲を出さず未然に頓挫したとの事です。……それだけではありません。二条院の様子がことのほか慌しく……どうやら、我らがこの延暦寺に本拠を置いていると嗅ぎ付けた東宮が、明日にも山狩りに向うとの事です」

「何?」

驚いた公済が、背後の薫を振り返る。僧兵の報告に驚きもたじろぎもせず、平然として端座する薫に、度肝を抜かれた様子の公済が、焦った様子で問い質した。

「……お前ならば、爆薬の正体を事前に掴むかもしれないと、踏んでいた。……だが、東宮に罠を仕掛けたのは、お前が此方に来てからだ……。俺は、東宮という人物を良く知らないが……あれが爆薬だと見抜ける程の知力があり、犠牲者無くして防ぎ切るだけの深慮に優れた技量を備えた人物だとでも言うのか……?」

冷笑を浮かべながら、薫が答えた。

「……そうです。……人としての貴方が、今、東宮に本能的な恐怖を抱いた……。そして貴方は、私の寝所で、まさに直接……東宮にお会いしている筈です」

 薫の言葉に、公済が、東宮との深夜の邂逅をありありと鮮明に思い出した。

あの夜……完全に気配を殺したまま音も無く俺の背後に忍び寄り、易々と俺の首に刀を突き付けていたあの男が東宮……。……奴さえその気になれば、あのまま自分はとっくに絶命していた筈……。やむなく計画を中断し、瓢箪を落としたまま……逃げるのが精一杯だった。暗がりで、はきとは見えなかったが……鷹の様な鋭い双眸を持ち、驚く程敏捷で、剛毅かつ鋭敏な様相の堂々たる人物に見えた……。

公済がハッとして我に返ると、薫を振り返った。

「……馬鹿な……あれが東宮だと? ……本来、深簾の奥にある筈の東宮ともあろう者が、何故臣下であるお前の屋敷に、当たり前の様に泊まっているのだ? ……ましてや、臣下であるお前を守りに現われるなど……全く有り得ない話だ」

 薫がふふっと顔を綻ばせると、穏やかな顔で頷いた。

「……でしょうね。ですが、それが……ありのままの東宮です。公には君臣ですが、私的には東宮と私は、無二の親友なのです」

 君臣で親友……だと? ……馬鹿な……何を言っている? 艶然とした薫を見遣り、公済が一抹の不安を抱くと怪訝顔になる。やがて、厳然と口を開いた。

「……明日にもその東宮が山狩りと称して、ここに来る。お前には不本意な結末だろうが、東宮の出方によっては、東宮を血祭りに上げ、革命の口火を切る事になるだろう」

薫がふと虚空を見上げ、深遠に静黙した。

ややあって双眸を転じ、公済を見遣ると、哀惜の瞳で問い掛けた。

「……考えを、改める気は無いのですか? ……革命という形では無く、……昔の様に、私と理想を語り合い、よりよい世界の構築を目指してともに手を携え、尽力する事は……叶いませんか?」

 剛強として、公済が答えた。

「この期に及んで、まだ甘い事を……。截然とした隔たりを目の当たりにし、相容れない事が分かったのではないのか? ……そんな事より、せいぜい自分の身の上を心配しろ。お前に施した洗脳は、そう簡単に破れない。……それはお前が、身をもって分かった事ではないのか? ……意に沿わないまま、お前は……俺と来るより無い筈なんだぞ」

 薫が俯いた。

「……分かっています」

 公済が、黒杉を振り返る。

「皆を集めろ。明日、東宮が山狩りに現われる。あちらの出方によっては……神仏に仇なす敵として、東宮一行を殲滅する。軍備を急げ」

 不意に、背後の薫が口を開いた。

「……明日、ではありません。今日中……。恐らくは、夜陰に乗じて……です」

 藪から棒の薫の発言に、吃驚した公済と黒杉が背後を振り返る。

「……何? 何故、そう断言できる? ……まさか、仲間が偽の情報を掴まされたとでも言うのか? ……どういう事だ、薫」

 公済が矢継ぎ早に問い詰める。冷艶な瞳で薫が答えた。

「東宮は……決して自らの作戦を人に公言しません。全て胸の内……独断で決定します。東宮がこうして自ら情報を流すのは……情報操作を狙う時だけです」

「何……?」

 冷然とした薫を見遣ると、公済がその真意を推し量る。やがて、傲岸な冷笑を浮かべた。

「……お前が苦しがっていない所を見ると、どうやらそれは本当らしいな。……そしてお前も、事ここに至り、ようやくその覚悟を決めたと見える。……結構な事だ」

 公済が、再び黒杉に指示を出した。

「急ぎ、軍備を整えろ。軍備が完了次第、俺と薫で見て回る」

 寺内は、俄かに慌しくなった。

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