忍び寄る恐怖
朱雀門を潜った瞬間、常状と異なり慌しい宮中の様相に驚いた薫が、打って変わって足早になると、朝堂院へと急行した。
「内大臣様!」
入室しようとした矢先、後ろから来た若い官吏に声を掛けられ、薫がふと振り返る。
「随分と騒がしい様ですが……。何か、ありましたか?」
脇に抱えた資料の山を急いで運び込もうとした官吏が足を止めると、口速に答えた。
「あれ、まだ御存知ありませんでしたか? 実はつい先刻、事件が発生しまして……」
「事件? ああ、薬草が盗まれたという件ですか?」
例の薬草盗難事件かと推察した薫が、問い返す。
「いえ、そうではなくて……」
官吏が答えかけた時、中からいらいらとした叱声が鳴り響いた。
「全く! 頼んだ資料は、まだ来んのか!」
若い官吏が戦戦恐恐として首を竦めると、薫に入室を促した。
「出仕早々、皆、借り出されて大騒ぎです。まぁ、早く中に入りましょう」
言い置くと、若い官吏がばたばたと駆け込んだ。
――あれ以外にも、何か起きたのか?
訝しんだ薫が入室すると、目聡く薫を視認した殿上人達が一斉に振り返り、四方八方から嬉嬉とした歓声が上がる。
「あっ! 内大臣殿!」
「薫殿!」
「お待ちしておりました!」
薫が執務席に着座するなり、息吐く暇も無く方々から人がどっと押し寄せ、陳情の嘆声が一斉に湧き上がった。
「内大臣殿、一大事ですじゃ! 何者かに、大蔵が破られ申した!」
「大蔵が襲われるなど、あってはならん重大事が発生したのじゃ!」
「ぼやが発生しましてな、傷病者が出ている模様なのですが……」
我先にと怒涛の如く訴え掛けると、矢継ぎ早に捲し立てては某某が陳述する。
「大蔵の宝物、税を全て奪われたんじゃ! あれが無くなれば、我らはどうすれば……」
老臣が不運を嘆き、我が身の行く末を憂いて涙ぐむと、血気に逸る公達は、強硬な姿勢で今後策を論じていた。
「嘆いている場合ではないでしょう! 軍を派遣し、一気に追うべきです!」
「手を拱いている時間が無駄だ! 追撃の手を緩めず、幾重にも追手を掛けないと!」
もどかしさに立腹する者もあれば、中道の立場で、おろおろ蠢くだけの臣も大勢居た。
「あああ……もう、儂等はどうしたら良いか……。薬も盗られたと聞くし……。何て老人に冷たい世間なんじゃ……」
朝堂院が愕然として、言葉の応酬で溢れ返る。暴言、飛言、流言が縦横無尽に飛び交い、周章狼狽した某某が手前勝手な思惑で罵り合っては足を引っ張り、全体の方針が定まらず、ただ徒に時間を費やしていた。軈て大納言が歩み寄ると、これまでの経緯を薫に報告した。
「何者かに大蔵が破られ、中に納められた庸調をはじめとする税が、ごっそりと盗まれました。一体どうすれば良いか、先程から皆で論議しておるのですが……。こんな凶事は、宮中始まって以来でしてな。ちっとも結論がでませんのじゃ」
続いて、参議が現状を説明した。
「本日は太政大臣様が御不在ですので、只今、留守を預かる左大臣様が、皇后様に事の次第をご報告する為、清涼殿に向っておられまして……。橘右大臣様は、つい今し方、大蔵卿と役人を伴い現場に向われ、被害状況を確認しておいでです。残る我々は今の所、左右大臣様の御指示待ちをしている状態ですが……。今後の事を協議しようにも、こうして意見が悉く噛み合わず、無為無策のまま混迷しておる所です」
黙諾した薫が静黙する。内心、酷く驚いていた。
――大蔵が、破られた? それはとても信じ難い事態に他ならなかった。
大蔵とは、全国から集められた庸・調税の保管庫であり、納められた税は大内裏後方に数多く建造されている大蔵に、その種類別に分類され貯蔵されていた。この内、調税とは、地方特産物や絹布、また代納された貨幣で構成され、それは都や宮中官吏の給与部分として充当されるべきものであった。大蔵には、この他にも宮中が持つ膨大な財物も数多く貯蔵されていた。
平安京の中枢である大内裏にあり、幾重にも厳重に防衛されている筈の大蔵が、こうも容易く破られるとは……。まず、有り得ない事であった。
薫が机に両肘を突くと手を組み、暫し黙考した。前代未聞の事件に際し、怜悧な薫が意識的に自らを律し、なお一層沈着になる。
「各々方、まずは、それぞれの席にご着席下さい」
玲瓏に響いた薫の一声に、広大な朝堂院が一瞬にして、嘘の様にしんと静まり返る。
凛然としながらも決して威圧的では無く、声高に発せられた訳でも無い薫の声色は、たとえ囂囂とした殿上であっても心地好さを覚え、無条件に耳に留まる美声であった。
殿上人は勿論、下級官吏に至るまで、聞き惚れた総容がすんなりと着席する。整整とした院内を見渡すと、薫は起こった事実を、この場に居る全員の共通認識として正確に把握し、かつその経緯を明確にする為、瞭然として問い質した。
「大蔵が破られた、と聞き及びました。まず、その発生日時と被害状況を報告して下さい」
挙手があり、近衛府中将が一礼し、答えた。
「只今、左右近衛府大将は、帝の行幸に追従の任に就き、都を留守にしております。私が代理で近衛府を一任され、総じて宮中警護の責にありますので、回答致します」
薫が黙諾すると、続きを促した。
「まず先立って発生した典薬寮においての火災から、順序良く説明致します。本日未明、寅の刻に、典薬寮を発端とするぼやが発生致しました。当初、典薬寮に勤務していた者達の手により初期消火されましたが、小規模の火災ながら中々消し止められずに、隣接する右兵衛府、右近衛府に消火の応援要請がありました。右兵衛府、右近衛府が総出で消火しましたが、典薬寮に保管された薬物が共に燃えたせいか、倒れる者が続出し、隣接する造酒司にも引火する勢いとなった為、左兵衛府に応援を要請しました。その間、万一の事態に備え、左近衛府は内裏の護衛に当たっておりました。左右の兵衛、近衛府共に、行幸の随伴要員が多かった為、通常より少ない人員でございましたが、こうして卯の刻には、無事鎮火と相成りました」
近衛府中将が、最初に発生した異変である典薬寮の火災について、ひと息で注進した。静かに聞き入っていた薫が、顔を上げると続きを促した。
「鎮火を確認し、五衛府合同で失火の原因を探るべく調査を開始した所、大宿直にある番所より、大蔵が破られているとの一報が入った次第です」
聞き終わると、薫が頷いた。近衛府中将の対応は、その様子を聞く限り適正で、落ち度が無い様に感じられた。より詳細を尋ねたい部分はあるものの、まずは一連の時系列的な流れを把握する方が優先であると思い至った薫は、次に大宿直番所を統括する役人に問い質した。
「番所で大蔵の宿直をしていた者が、大蔵の異変に気付いたのは、いつですか」
宿直の任にあった役人の長が、一礼して回答した。
「一刻に一度の割合で、大蔵全体を巡回しておりますが……。寅の刻の見回り時には異変が無く、卯の刻限の見回りをしていた者が、異変に気付いた様です。破られた大蔵は十ある大蔵の内のひとつで、偉鑒門横にある大蔵です。大扉が破られ、中身がすっかり無くなっておりました。直ちに他の大蔵の状態を確認し、検非違使に応援を要請すると同時に、左大臣様に、早馬でお知らせした次第です」
今現在、時刻は卯の刻から辰の刻に差し掛かった頃であった。宿直の証言が真実であれば、定刻の警備に生じた僅かな間(約二時間)で大蔵がひとつ破られ、中身がすっかり運び出された事になる。
……馬鹿な……有り得ない話だ。犯人は、大宿直の役人どころか、宮中に仕える他の者達にも一切気付かれないまま、鬼神の如き速さの上首尾で事を運び、門を素通りして夥しい荷を運び出した事になる。……では、どうやって?
眉を顰めた薫が、次に衛門府の責任者を名指しした。指名を受け、衛門府大将が一礼すると、顔を上げる。憂慮を浮かべた薫が、問い掛けた。
「宿直の話が真実だとすれば、犯人は偉鑒門を素通りして夥しい量の荷を運び、逃げおおせた事になる。偉鑒門の門番は一体、何をしていたのか。まさか……皆、殺害されたのではあるまいな?」
衛門府大将は、酷く困惑した顔になると、ためらいがちに口を開いた。
「……おらぬのです」
「何?」
朝堂院が俄かに不穏な空気を漂わせると、殿上人達が一斉に響めいた。
片手を挙げた薫が静粛を要請すると、衛門府大将を見つめ、説明を促した。
「いない……とは、どういう事かな?」
衛門府大将が消沈として、包み隠さず正直に答えた。
「実は……。衛門府が今回の件を知ったのは、大宿直から報告を受けた左大臣様の問い合わせによるものでして……。大蔵が破られたと知り、慌てて偉鑒門担当の役人を問い糺そうとした所、その任に預かっていた者達が、まるで神隠しにでも遭ったかの様に、ひとりとして影も形も居なくなっている事に気付いたのです……。そして未だ恥ずかしながら、どうしてこういう事態になってしまったのかも……何も、判明しておらぬのです」
不可解な表情を見せたまま、薫が暫し緘黙する。
行方不明の門番達……。彼らが事件後に消息を絶ったのではなく、もし事件前から不明であったと仮定するなら……。犯人は、無人の門を易々と抜けていった事になる。
……いくら何でも、門番と犯人が出会い頭にひと悶着すれば、宮中の人間がその騒ぎに気付くだろう。……という事は、門番は当初から不在だったか、或いは事前に犯人と結託していて、犯行後にその姿を晦ました事になる。
……そういえば、私の体調が悪く話が中断されていたが、葵の診療所の薬草盗難も、管理する側の門番が、犯人と共謀して盗んだらしいと言っていたな……。
怜悧な薫がこれまでの情報を整理すると、考えられる推量を導出する。
まず大掛かりな財物の盗難だけに、犯人は間違い無く大規模な集団を擁していると思われた。経緯から察するに、犯人はぼやを起こす事で、宮中警備を火災に釘付けにした。その間に、本来の目的と思われる大蔵を破り、荷を運び出した。
だが未明とはいえ、あれだけの財物を全て運び出すなら、見回りの一刻では不可能だ。行方不明の門番達が当初から不在であったとするならば、大蔵はもっと以前に破られ、中の荷が夜を徹して運ばれた可能性もある。しかしそうであるなら、それは寅の刻の番所役人の証言と矛盾する事になる。
……では、どうするか。……それに、他に幾つか気になる点もある……。
朝堂院は今や、水を打った様に静寂していた。総容が冷静に思い巡らせながら、薫の動静に傾注する。長い沈黙を破り、薫が口を開いた。
「検非違使は、追手をかけていますか。都の内外で、事件の目撃者を調べましたか」
検非違使佐が進み出ると、明確に答えた。
「左大臣様の御指示により、既に追跡中でございますが、現在の所、早馬による知らせも無く、また、目撃者の情報も入っておりません」
頷いた薫が、これで方針が定まったとばかり顔を上げると、はきと指令した。
「ひと通り報告を聞き、置かれた現状が良く分かりました。其其の御役目、御苦労です。さて、今後についてですが、まず大蔵ひとつ分という膨大な財物を、最短で一刻、そして最大でも一晩で運び切るとなれば、事件は大人数を擁する集団の犯行であり、その逃亡も、かなり長大な列となったであろうと予想されます。夜半の出来事とはいえ、必ず目撃者がいる筈ですから、至急探して下さい。それと引き続き、偉鑒門守護の門番の行方を全力で捜して下さい。また先日、榊診療所で発生した薬草盗難事件と、今回の件は何か関係があるかもしれません。共通点がないか、並行して捜査して下さい。又、双方の事件について、盗難に気付いた第一発見者と、昨日夜半から卯の刻まで番所にて見回りをしていた役人全員、それと事件前最後に大蔵と製薬所に入った者に会わせて下さい。……少し、聞きたい事があるので。目撃者と門番達は、見つかり次第、連れて来て下さい」
薫が極力分かり易い言葉で、今後の対応について明瞭な指示を出した。
「はっ」
「直ちに。畏まりました」
検非違使、衛門府を始め大宿直など、該当する役所の責任者が順次拝命すると、次々と声高に承諾して朝堂院を後にする。次に大蔵省役人に向かい、薫が指令した。
「橘右大臣が戻られましたら、その被害額の見積りに基づき、損害部分の補填は、各荘園と貴族の私出挙から臨時的に税を徴収し、賄います。その計算を急がせて下さい。基本的には、検非違使の今後の功労により、奪われた物は全て取り返す事を前提でおりますから、その説明を良くする様にして下さい」
「はっ」
的確な指示を与えられた大蔵省の役人が、意気昂然として直ちに走り出る。残った総容に目を配ると、薫が最後に締め括った。
「留守中の全権は、左大臣様にあります。左大臣様が戻られましたら、皇后様の御意向を踏まえて、その御指示に従って下さい。伊勢に行幸されている帝と太政大臣様には、定期的に早馬を出し、現状をお伝えして下さい。東宮殿下には、私から御報告致します。では諸君、これで各々方の仕事に移って結構です。近衛府中将だけ私と暫し残って下さい」
どこからともなく、深い感嘆の嘆声が湧き上がる。先程まで狼狽して闇雲に喧噪していた百部百官は、悉く自らを恥じ入り、薫の辣腕に半ば陶然として感じ入ると、尊敬の眼差しを向け心酔した。やがて彼らは心中に、流石、未来の宰相だけはある! ……とばかり、
甚だ勝手に決め込み満足すると、自らの仕事に一意専心、遣る気を取り戻して奮励した。
薫の招喚によりその場に留まった近衛府中将が、椅子を勧められると着座する。過度に緊張した中将を見て取ると、薫が瞳柔らかく微笑した。
「安心し給え。別に、君を詰問しようと呼び出したのではない。先程の典薬寮にて発生したぼやの事だが……少し気になってね。より詳細を尋ねようと思い、残って貰ったのだよ」
安慰された中将が、ほっと胸を撫で下ろす。
「消火活動に当たり、体調を崩したという者達は、その後どうしている? 聞きたい事があるので、もし可能であれば、会わせて欲しいのだが」
想定外の申し出に、些か驚いた様子の近衛府中将が目を瞬かせると、薫を凝視した。
「……幸いにして、死者は出ておりません。全員、典薬寮の別棟にて救護し、休ませておりますが、お召しであれば……連れて来させましょうか?」
薫が片手を上げると表情を曇らせ、直ちに制止した。
「いや、それには及ばない。……勿論、私の方から訪ねるつもりだよ。では、少々話すには差し支えない容態なのだね? 私としては現場も見ておきたかったから、丁度良かった」
薫が席を立つと、朝堂院を後にする。幾分表情を強張らせながら、近衛府中将の案内で典薬寮に向った。
典薬寮では、夜勤の任にあった医師数名と、消火活動に当たって倒れた右兵衛府、右近衛府の者十数名が、事件を聞いて駆け付けた典薬寮の医師団の手当てを受けていた。
入室してきた人物が、内大臣である薫と近衛府中将である事に気付いた数人の医師が、慌しい様子ながらも軽く目礼する。意外な事に、寝ていると思われた十数名の傷病者達は皆座り込んでおり、時折出る激しい咳に苛まれている様であった。
薫は、医師達にまず労いの言葉を掛けると、懸命に治療する葵の姿を認め、声を掛けた。
「葵、皆はどういった症状で、軽重の程度はどうなのだ?」
葵が手にした薬湯を置いて振り返ると、薫の訪問に喜びつつも深刻になる。
「薫! 出仕したという事は、体調がいいんだね。良かったよ! 僕も事件を聞いて直ぐ来たんだけど、皆の症状は一様で、喘息に近い酷い咳と、流涙が主症状かな。これでも大分治まって来たんだけどね……。話を聞いたら、火災の折、湯の花の様な匂いがしたっていうから……もしかすると、軽い硫黄中毒かもしれないと思って」
「何?」
中毒の可能性と聞き、近衛府中将が顔を青変させると、恐れ慄いた。静黙した薫が眉を顰めると、極めて厳しい表情を垣間見せる。葵の言葉を受け、別の経験豊富そうな中年医師が言葉を継いだ。
「当初は、我々も単に、消火時にしばしば起る、火災煙の吸入過多による喘息症状を疑いました。ましてやここは典薬寮……。保有する劇薬成分の中には、火災により燃焼した際にその強毒性を発現するものや、また鎮火作業中、加水によりその毒性が流出する性質の薬草も多々あります」
了然と頷いた薫が、それを肯定する。例えば大陸伝来の薬用植物である夾竹桃、また鈴蘭の様な水溶性の毒性成分を持つ薬草等、危険因子を持つ薬物の類いは、枚挙に遑が無かった。薫が次の言葉を促すかの様に、中年医師を静かに見遣る。
「……しかしながら、今回出火した部分と延焼した部分には、本来薬草は保管されていない筈ですので、こうした薬害による喘息であるとは、まず考えられませんでした。それに何より患者自身の嗅覚による証言もあり、我々医師団がそれぞれの診断結果から総じて類推した結果、ほぼ硫黄中毒に間違いないと断定した次第です。現在、重度の喘息患者のみ、鎮該薬として少量の麻黄を処方しています」
黙諾した薫が、中年医師に尋ねた。
「その硫黄についてだが……。本来薬用として一部保管してある筈の硫黄が、保管庫から遺失し炎上したのか?」
事情に詳しい別の医師が、代わりに答えた。
「我々も直ちに薬品の在庫を確認しましたが、硫黄を含め、紛失したものは何もありませんでした。これらの薬品は現在、近衛府から応援を頂き、厳重な管理下に置かれています」
医師達の適切な対応に満足した薫が皆を労うと、葵に向き直る。
「一番症状の軽そうな中毒患者に、無理でなければ少し、聞きたい事があるのだが」
葵が頷くと、部屋の片隅で薬湯を飲んでいる壮年の男性に、薫を案内した。
男性の傍らに歩み寄った薫がふわりと座ると、ゆっくりとした口調で話し掛けた。
「……災難だったね。体の調子は、如何ですか?」
壮年の男性は、この言葉にかえって恐縮した様子であった。
「だ……大丈夫です。はじめは、随分目が沁みて開けられなくなり、呼吸が苦しくなりましたが、もうほとんど全快しました」
薫が柔和に微笑むと、彼の労苦を労った。
「職務とはいえ……難儀だったね。体を労わる時期にも拘らず、誠に申し訳無いが、出火当時の話を詳しく聞かせてくれないか」
壮年の男性は、優雅な薫に見惚れるなり陶然として、気圧されてしまった様であった。薫に侍立し、男性の上官でもある近衛府中将が、男性の心中を慮ると軽く苦笑を浮かべ、男性にやんわりと回答を促した。ややあって、壮年の男性が訥訥と話し出した。
「わ……私は、右近衛府前にて守衛の任にありましたが、寅の刻でしょうか……。宿直をしていた医師のひとりが、慌てて隣の典薬寮から飛び出して来たのです。そして、消火出来ないので応援を頼むと要請され……私は、仲間と共に駆け付けました。私が来た時には、医師達が何とか鎮火を試みながら煙に捲かれ、酷く咳き込んでおりました。辺りは湯の花の匂いが立ち込め、私も水を運び消火しましたが、同様に激しく咳き込んで……。後は、口を押さえながら無我夢中で……。気付いた頃には既に鎮火して、救護されておりました」
壮年男性の隣で静座していた医師が半身を向けると、時折咳き込みながらも口を挟んだ。
「私は、彼に増援を要請した医師ですが……。私を含め、当直していた三人の医師が出火に気付いた時点では、ほんの小火だったので、咄嗟に着ていた服で消そうとしたのです。しかし脱いだ服を叩き付けて消そうとした際、その服が脇に置いてあった壺に当たり、それが割れた途端に中から黒い粉が飛び散り、湯の花の様な匂いがしたと思うと、一気に燃え上がったのです。後は……よく覚えていませんが……気付いたら、ここにいました」
「……良く分かった。どうもありがとう」
二人の話に大きく頷きながらも、薫が酷く顔を曇らせた。立ち上がった薫が温容に微笑み二人を慰労すると、その場に居た傷病者にも等しく温語を掛けて回った。
慈愛に満ちた薫が寮内を一巡すると、ふわりと立ち戻る。打って変わって冷厳になると、近衛府中将に向かい、促した。
「……では次に、焼け落ちた現場を見に行くとしよう」
焼け跡の現場に至ると、深黒の灰燼と帰した光景に悲涼を覚えた薫が、しばし凝立する。やがて侍立する近衛府中将に向き直ると、口を開いた。
「君は……。以前、唐で発刊された『真元妙道要路』という本を、読んだ事があるか?」
近衛府中将が、聞き慣れない本の題名に、薫の真意を計り兼ねると首を傾げる。
「いえ……残念ながら……。初めて聞いた書物ですが……」
漆黒に炭化した木片を踏み締めながら、著しく燃え尽きた焼け跡に佇み、部分的に残る無惨な建材を見つめていた薫が、ふと壊滅的な猛火に見舞われたと思われる闇黒の焦土を凝視すると、沈深として頷いた。
「そうか……」
幾分和らいだ瞳で微笑むと、薫が中将に礼を述べる。
「……ありがとう。案内、御苦労だったね。君はこれで、元の職務に戻って構わない。私はこれより朝堂院に戻り、番所役人の尋問に専念するつもりだ。何かあれば、遠慮なく声を掛けて構わないよ」
「はっ。では、直ちに職務に戻りますので、これで失礼致します」
近衛府中将が畏まって一礼すると、薫を残し、その場を後にした。
朝堂院に戻るなり、薫が質疑開始を宣告した。朝堂院の一角を几帳で仕切って席を設けると、まず尤も疑わしいと感じた人物……寅の刻に見回りを勤めた番所役人を呼び出した。外記を伴い自ら向かいに座ると、薫が尋問する。
「君が、番所で宿直の任にあり、寅の刻に大蔵の警備を担当した役人だね?」
小柄で小太りの男性が、両手を組みながら薫の顔を見上げ、答えた。
「はい、そうです」
薫が軽く頷くと、薫に侍座する少外記が、質疑応答の全てを記録しようと筆を走らせる。
「では、君の名前と役職は?」
問い掛けた薫が瞳を据え、番所役人をじっと見つめた時だった。
役人の双眸が急速に虚ろになると、青白い顔のまま大量の冷汗が淋漓と流れ出る。突として、口を魚の如くぱくぱくと動かしたかと思うと、薫の言葉を空虚に復唱した。
「名前? ……名前……名前……名前……」
突如として異様な行動を取り始めた役人を、眉を顰めた薫が警戒する。役人の不気味な様相に恐れをなした少外記が、思わず手を止め震え上がった。
「!」
ブシッと鈍い音が響いたと思うと、辺りに鮮血が迸った。
一瞬の間に、舌を噛み切った役人が机に突っ伏し、前のめりに倒れ込む。
とっさの機転で少外記を袖に庇い、自らも退避した薫であったが、眼前で突然発生した惨事に思わず目を瞠ると、肝を冷やして蒼白になる。
「……自殺、するとは……」
薫の背後に匿われた少外記が、自殺と聞いて恐る恐る垣間見ると、凄惨な現場を目の当たりにして、呆然と絶句する。
「内大臣様! ……どうかなさいましたか?」
突然の物音に気付いた朝堂院の官吏が、薫を案じて大挙するなり駆け付けると、一斉に几帳を捲り上げた。否応無く眼前に飛び込んできた惨劇を目の当たりにすると、思わずごくりと息を呑み、悉く言葉を失うと立ち尽くした。
ややあって、我に返った官吏達が、それぞれ現場の後始末に奔走し始める。大内裏で起きたありえない凶事に、朝堂院が恐怖に戦き、震撼した。
……と、その時だった。不意に外で夥しい蹄の音が鳴り響いたと思うと、その音が止んだ瞬間、今度はバンッと勢い良く朝堂院の扉が開いた。総容が一斉に振り返る。現れた姿に、吃驚した一同が瞠目するなり、大いに響めいた。
「東宮様!」
「何と……東宮様じゃ!」
珍しく朝堂院にその姿を現した東宮が、入るなり声高に一声を発した。
「薫! 居るのか――?」
場の雰囲気など何のその、周囲の視線など全く気にも留めず、東宮が豪然と睥睨すると奔放に薫を呼び付ける。呆れ果てた薫が、迷惑千万に嘆息した。几帳から顔を出した薫が、眉を顰めて東宮を見遣り、睨み付ける。目を据えたまま視線を意図的に転じて執務席後方の扉に流すと、東宮を暗黙のうちに誘導した。
薫の示唆に、いささか気分を害した様子の東宮がふんと鼻を鳴らすと、辺り構わず豪然と闊歩するなり扉を開け、中に入る。続いて入室した薫が、はたりと扉を閉め振り返った途端、怫然として口を開いた。
「……鷹狩りに行っていたんだろう? 二条院ではなく、内裏に直接帰って来るとは珍しいな。一体、どうした?」
東宮が、にやりと笑った。
「お前に鷹狩りに行くとは言っていなかった筈だが……流石だな。お見通しか」
薫がふっと微笑する。
「蹄の音に混じって、猟犬の声がすれば誰でも分かる事だ。……それより、何があった?」
東宮が小気味好く笑うと、ふと真顔になり話を切り出した。
「実は、不破の関近くまで鷹狩りに行っていたんだが、ちょっと事件が起きてな」
「……どんな事件だ?」
禁断の行為である『出奔と越境』は露も気に留めず、薫が冷静に問い返す。椅子に凭れた東宮が足を組むと片手を上げ、俄かに嫌悪の表情になった。
「全くもって胸糞悪いぞ! ……この俺の眼前で、自殺をした愚か者が出た」
「……何?」
驚愕した薫が東宮を凝視すると、即座に問い質す。
「一体、誰が……?」
東宮が、やけに驚いた様子の薫を一瞥すると、首を振った。
「分からん! ……名を尋ねた途端、自分で舌を噛み切って自殺したからな」
「!」
酷く青ざめた薫を見遣り、いよいよ訝しんだ東宮が双眸を欹てる。
「……どうかしたのか? 薫」
頷いた薫が東宮の向かいに腰掛けると、深刻な事態を報告した。
「実は……お前の留守中に、とんでもない事件が連発してな。まず昨日未明に、葵の診療所にある製薬所から大量の薬草が盗まれた。そして本日未明には、未だに信じ難いが……大内裏後方の大蔵がひとつ破られて、中に保管されていた調税がそっくり盗難した。現在、検非違使が中心となり犯人を追跡しているが……今の所、何も成果が無い」
流石の東宮も、呆気に取られた様子で絶句する。唖然として我が耳を疑うと、問い返した。
「……何だと?」
薫が机上に両手を組むと額を乗せ、沈然として嘆息する。
「そしてつい今し方……犯人に繋がる事情を知っていると思われる番所の役人を尋問しようとした所、やはり自殺してな。……名前を聞いた途端、急に舌を噛んだんだ」
「何? ……全く同じとは、どういう事だ?」
……偶然か? それとも故意に仕組まれ、連続して起きている事態なのか?
眉を寄せた東宮が、連連とした訥訥怪事に薄気味悪さを覚えながらも、本能的な不合理を感じて奇妙に冷静になる。沈深とした東宮を見遣り、その心中を察した薫が答えた。
「そうだ。……ひょっとしたら、お前の件と何か繋がりがあるのかもしれないし、単なる偶然なのかもしれない。……ただ、少し気になる事がある」
眉を上げた東宮がじっと薫を見つめると、不意に薫の言葉を遮った。
「……お前、やはり顔色が優れないな。……まだ、具合が悪いんじゃないのか?」
俯き加減であった薫が驚くと、ふと顔を上げる。東宮が炯眼を欹てると、薫の双瞳奥深く機微を窺い、真摯に薫の本態を洞察する。何とも鋭い東宮の炯眼に、看破を恐れた薫が苦笑すると、本音を交えて言葉を返した。
「……昨夜は寝れた筈だったが、どうも疲れが抜けない気がしてな。頭痛は治まったが、出仕早々、大蔵が破られたとの一報を聞き、振り回されっぱなしだったから、そんな風に見えるんじゃないか? ……まあ、いつもは不羈奔放なお前が、こうして珍しくも日中から戻って来た事だから、これで少しは心配事が減る、というものだ」
東宮がふんと鼻であしらうと、片方の口角を上げにやりと笑った。
「相変わらず、素直じゃないな。……まあいい。……それで? 気になる事とは、何だ」
微笑んだ薫が頷くと、順を追って説明を始めた。
「大蔵が破られた件だが、実は不可解な点が二つある。事件の詳細について説明しながら話すとしよう。まず、犯人は大蔵の警備を手薄にする為、典薬寮を発端とする火災を起こし、宮中警護の目を釘付けにし、犯行に及んだと考えられる」
東宮が、半ば感心した様子で頷いた。
「成程……。典薬寮に人が集中すると大蔵は死角にあたり、大蔵を守護する番所宿直から典薬寮は、内裏を挟んで最も遠い場所にあるからな……。お互いの騒ぎには気付き難い。大蔵破りの目的で炎上させるには、確かに打って付けかもしれないな」
何ともはや鋭敏な東宮に、感心した薫が話を続ける。
「問題は……その典薬寮の火災についてだが……。実は発生当初、服で消せると踏んだ程の小火だったらしい。それが二刻の間消火できずに、造酒司にまで迫る勢いとなり、あろう事か……消火に当たった者ほぼ全員が、硫黄中毒を発症した」
「何? ……単なる火災で、硫黄中毒とは……。典薬寮にある硫黄に類焼したのか?」
東宮が眉を寄せると問い返す。察しのいい東宮に、薫が思わず口を綻ばせた。
「私も、まずそれを疑った。だが典薬寮が保有する薬品は、硫黄を含めて一切紛失していないんだ」
東宮が組んだ足に頬杖をつくと、不可解な顔を向ける。
「……では、どういう事だ?」
「実は、発火の過程を詳細に聞いたところ、消火にあたった医師から、ひとつの手掛りを得た。初期消火の際、置いてあった壺が割れ、中から硫黄の臭気を持つ黒い粉が大量に出た途端、炎の勢いが増強されたらしい」
「……硫黄臭の黒い粉……? 何だ、それは」
機敏に反応した東宮が、鋭意に薫を注視する。
「念の為、焼け跡を確認したが、証言通り、ある一帯だけが壊滅的な焦土と化していた。……それで、ふと思い出したんだ」
東宮が、意味深長に言葉を残した薫を見遣る。薫が無意識に視線を逸らすと、過去の記憶を辿っているのか……ふと、遠い視線で虚空を見つめた。
「……私が以前、留学先の唐から持ち帰った数多くの書物の中に、『真元妙道要路』という本があるのだが……。以前読んだその本に、興味深い指摘があった」
初めて耳にした本の名前に、東宮が、大いに興味をそそられた様子で身を乗り出すと、好奇な視線を薫に向ける。
「……硝石に硫黄、木炭を混ぜ合わせると、炎が著しく増強され、爆発に近い燃え方をしたりする事がある……というのだ」
腑に落ちない様子で、東宮が尋ねた。
「硫黄と木炭は良く分かる代物だが、その硝石とは、一体何だ?」
頷いた薫が、短く答えた。
「以前、留学中に唐で見た事がある。柔らかくて、光沢があり、白っぽい石だ。……だが、私も我が国で見た事は一度も無いし、また調税の目録を見ても、目にした事が無い。もしかすると、我が国には産出しないものか……或いは、未だ利用されていないだけという可能性もある」
東宮が暫し考え込むと、口を開いた。
「……俺もお前も、未だ我が国で見聞した事のない代物であるならば、お前の推察通り、我が国では未だ認知されておらず、未知の物である可能性が高いだろうな。その硝石というものが手元に無い限り、真偽を見極めようにも実験できないのが、何とも残念だが……。もし、その硝石と硫黄と木炭の混合物が、お前の読んだ本の記述通りの性質のものであると仮定するなら、どうやら単に増炎させるもの……というよりは、故意に爆発的な炎を発生させる事が出来得る代物……といった所だな?」
やがて鎌倉時代以降……ようやく公に認知され始めた黒色火薬の原型を、東宮は、その野性的な鋭感で認識し、ほぼ正確に理解した様であった。舌を巻いた薫が、静かに頷いた。
「まさに、その通りだ。しかも問題は、それが実際に利用された……という点にある」
深刻極めた事態を悟った東宮が、見る間に峻厳になる。
「……我々にとって未知の道具を使い、今回の事件を起こしている。……という事は、犯人は、少なくともお前と同じ本の知識があり、しかもその硝石を手に入れ、今回の犯行に及んでいる事になるな」
薫が来るべき危機に表情を強張らせると、東宮に同意した。
「そうだ……。『真元妙道要路』は、その後……宮中にて、近衛府が管理する書庫に保管されていたが、先程調べたら紛失している事が分かった。近衛府中将も目にした事は無いとの事だったが、たとえ読んだとしても……その知識を理解し、また硝石を入手できる財力の有る立場の者……となると、犯人は極めて限定される」
東宮が鋭利な双眸を欹てると、容赦無くズバリと言い当てた。
「……お前と共に留学した人間が、最も怪しいな。心当たりは無いのか?」
薫が酷く顔を曇らせると、首を振った。
「……残念ながら、今の所は思い当たらないな。それに……不思議に思っていた。大蔵を破るという行為は、明らかに今の政治に不満を持った輩の大胆な挑発だ。しかし、いくら朝廷に対する不平があっても……内裏を襲撃して帝に弓を引く行為は、朝敵となる覚悟がある……という事になる。玉砕をして、何になるのか……犯人の目的が良く分からない。……それとも最終的に勝ち、朝廷を転覆させ帝位を簒奪する自信でもあるのだろうか。隣国である唐は、歴史的に革命や騒乱が勃発し、王朝の交代劇が繰り返されて来た……。だが我が国では、万世一系の天皇陛下の下、只の一度も禁裏が破られた事は無いというのに……。犯人は大規模な集団だと推察できるが、一体どういう趣旨の集団なのだろうか……」
長嘆した薫が緘黙する。静聴していた東宮がおもむろに頬杖を解き、深く椅子に凭れると、嘲る様に笑いながら、眼光炯炯として口を開いた。
「薫……。お前は無意識に、有り得ないと思い込んでいる犯人像を除外している。いつも先入観無く客観的で、冷徹な筈のお前が、珍しいな。お前と話していて……俺にははっきりと、嫌らしい犯人像が浮かんで来たぜ」
はっとした薫が、東宮を見つめる。次の言葉に、全神経を傾注した。
「政府に強い不満を持つ輩は沢山居るだろう。個人単位で列挙するなら庶民から貴族まで……それこそ夥しい数だろう。だが、その中で……お前の分析通り知識があり、硝石を手にする財力があり、集団を擁する基盤があり、何より朝廷を恐れない輩は、俺の知る限りひとつだけだ。……僧侶だよ」
想定外の東宮の指摘に、沈着な薫が瞠然として、驚愕の余り動揺する。
「まさか……ありえない!」
蒼白になった薫が震慄するなり否定する。くっくと笑いながら、東宮が薫を見遣った。
「素直に考えてみろよ……単純な事だ。貴族ならば、追放を恐れて朝敵になりはしない。大方……自分が政権を掌握しようと画策し、貴族同士で陰湿に陥れ合い、天皇をどちらが正統に擁立するかで争う程度に留まる筈だ。それに庶民ならば……知識も金も無い上に、集団となった際、何よりまず初めに狙うのは、大蔵ではなく食料にもなる正倉だろう」
東宮の発言に、薫が努めて冷静になると、改めて黙考する。
正倉とは、各地の租税を納めた倉の事で、国司が管理する国府や寺領などの中に設置されていた。国府正倉からの出挙は主に地方財政の財源となり、寺領の正倉は、食糧としての利用以外にも、寺院の財源としての役割を担っていた。
「……確かに、朝廷を始め……各地の正倉が破られたという一報は入っていない……」
薫が淡淡として事実を認識しながらも、どこか思い倦ねた様子で閉口する。
「……だろう? 飢えて困窮した庶民では無いし、謀略に長けた貴族でも無い。だが僧侶であれば、寺領内にある正倉の御蔭で、財力もあれば食料の心配もいらない筈だ」
話を切り上げた東宮が、ひたと薫を見据えると、不意に鋭利な視線を投げ掛ける。
「……いずれにしても、お前が無意識に犯人から除外し疑わない……とは、其奴はお前にとって、余程意外な人物らしいな……」
東宮が、静かに笑った。泰然とした東宮の真意を以心伝心に悟った薫が、著しく顔を曇らせる。東宮の鋒鋩が曖昧模糊とした薫に峻厳に迫ると、東宮が瞳柔らかく鷹揚に、だが容赦無い姿勢で薫に尋ねた。
「お前の、留学仲間に居た高僧は、誰だ?」
逃れられない東宮の追及に、青ざめたままの薫が、観念した様に短く答えた。
「……公済様……だ。私の知る限り、高潔な人間だった……が」
押し黙った薫を見遣り、ふと視線を遠くに逸らすと、東宮が呟いた。
「……今も、その様な人物である事を願うばかりだが……。茜!」
東宮の招喚に、茜が音も無く現れると、片膝を突き一礼して畏まる。
「お召しでしょうか、東宮様」
「今、聞いた通りだ。薫の嘗ての留学仲間である公済という名前の高僧を探し出し、今現在どこに居て、何をしている人物か、調べ上げて来い」
恭しく拝命した茜が微笑むと、一礼するなり姿を消した。
東宮が再び薫に向き直る。清静として、薫に問い掛けた。
「公済とは、どういう人物だ?」
薫がふと顔を上げ、まさに答え様とした時だった。
「!」
薫がかつて経験した事がない程の激しい頭痛に襲われると、両手で頭を抱え込み、堪らず床に崩れて片膝を突き、その場に蹲った。
「薫?」
吃驚した東宮が瞬時に薫を助け起こす。力無く倒れた薫の顔色は蒼白で、薄らと冷汗が現われ、呼吸は速く細やかで浅くなり、眉を顰めて苦しげに瞳を閉じたまま……極めて難儀な様子であった。
少年時代よりこのかた共に居て、初めて目にする薫の急変に、流石の東宮も酷く動揺するなり焦燥する。薫の頸部に指を当て脈を確認すると、軽く頬を叩いて呼び掛けた。
「おい、薫! ……大丈夫か? どうしたんだ!」
薫の手も頬も……およそぞっとする程、冷たかった。東宮の呼び掛けに応じ、血の気が失せた顔のまま……薄らと目を開けた薫が朦朧として、ようやくの思いで訥訥と答える。
「……頭痛だ……。だが……いつもより、ずっと酷い……な。……済まない……」
驚いた東宮が薫を抱え上げると、真摯な顔で薫を見遣る。
「やはり、本調子では無い様だな。……無理するな、このまま俺が送ってやるから、今日はもう休め」
蒼然とした薫が、首を振った。
「……そうは行かない。時が時だけに……休む訳には……。暫くすれば……治るから……」
締め付けられる様な、がんがんと湧き上がる激痛に苛まれながら、薫が東宮に請願する。
こんな状態にありながら、何とも律儀な薫に苦笑すると、東宮が安慰した。
「……心配するな。留守は左大臣が責任を持って預かっているし、右大臣も居る。検非違使の追撃の結果と今後の犯人探索、事件に関する全権は俺が引き受ける。安心していい」
言うや否や、東宮がふと思い直し、部屋の隅に置かれた仮眠用の床に歩み寄る。
丁重に薫を寝かせると扉を開け、朝堂院の官吏をひとり呼び止めると、指示を与えた。
「至急典薬寮に向かい、医師をひとり呼んで来い。葵が居れば、葵を呼んで来てくれ」
間も無く、葵が顔色を変えて駆け付けた。息急き切って扉を開けるなり、葵が叫号する。
「大津! 一体、どうしたの?」
東宮の受傷と思い込み、緊急事態とばかり飛び込んだ葵が、東宮の姿に安堵すると胸を撫で下ろす。振り返った東宮が一連の薫の容態を説明すると、青ざめた葵が納得した様子で頷いた。
「……やっぱり無理して出て来ていたんだね……。大丈夫かな……薫」
心配そうに脈診する葵を見遣り、東宮が尋ねた。
「今はこの通り静かに寝ているが……。今し方の頭痛の様子は、尋常ではないな。今迄も、頭痛の際はこうだったのか?」
手を止めた葵が東宮を見上げ、首を左右に振ると否定した。
「いま聞いた様相の頭痛は、初めてだよ……。年々、一回の頭痛が重くなりつつあるとは思ったけれど……。それは過労とか心理負担の過重が原因で、程度が深刻化したと思っていた。大津が驚く程の頭痛なんて……およそありえない。信じられないよ……」
「……そうか……」
ふと、勃然とした憂慮を抱き、東宮が静黙する。東宮にとって、本能的に何か腑に落ちない薫の容体だった。……何か、おかしい。だが、何が引っかかって解せないのか……現時点では説明出来なかった。
その夜――。日中見た薫の様子が何となく気になった東宮は、葵と共に綾小路家に泊まっていた。
ふと何かの気配を感じて、瞬間的に目を覚ました東宮は、無言のまま枕元の太刀を静かに掴むと、息を殺して起き上がった。隣室との境にある几帳から、灯火と思しき微火が杳杳と揺れているのが目に入る。
……おかしい。隣室にいる筈の薫は、とうに就寝した筈だが……。
薫は、一度眠りについたら最後、見ている此方が生きているのかさえ不安になる程、深い眠りに落ちてしまう。途中で起き出す事など、まずありえないが……。東宮が息を潜め、五感を鋭利に研ぎ澄ませると、静かに几帳を持ち上げ、隣室の様子を窺った。
……と、驚くべき事に、此方に背を向けた姿勢のまま……その身なりからして僧侶と思われる人物が、薫の枕元に座っていた。すぐ隣に見知らぬ男がいるというのに、薫が全く動いていない……という事は、やはり、疾うに深い眠りに就いているのだろう。
……全く、無用心にも程がある。あいつの寝相にも、ほとほと困ったものだ。
東宮が、内心呆れて苦笑した。そして同時に、不敵な侵入者に対して驚愕していた。
……何と、大胆な。……この俺が、僅かな距離の隣室に寝ているというのに、危険を冒して屋敷内に潜入し、こうも易々と薫の寝所に入り込むとは……。
東宮が慎重に気配を消したまま、僧侶の背後に忍び寄ると、音も無くすらりと抜刀し、男の後頚に刀を突き付け、凛とした声で問い掛けた。
「……お前は誰だ? ……ここで、何をしている?」
僧侶らしき男は、背後から突如として掛けられた声に、度肝を抜かれた様であった。
ビクッと肩を震わせると、男が肩越しにゆっくり振り返る。互いの目が合ったと思ったその瞬間、僧侶らしき男が懐から素早く刀子を引き抜き、投げ付けた。東宮が太刀で軽く払い除けると、刀子が甲高い音を響かせて弾け飛ぶ。間、髪を入れず東宮が、太刀をビタリと男の喉元に突き付けた。
僧侶らしき男が顔を上げ、東宮の顔を凝視する。……何とも不遜な面構えの男であった。ふと、思い当たる名前を思い出し、東宮が尋ねる。
「そうか……お前が、もしや……公済か?」
不敵な様相の僧侶らしき男が、黙視したままニタリと笑った。切っ先鋭く男の喉元に太刀を突き付けたまま、東宮が瞬息ちらと視線を流し、薫の動静を確認する。
その一瞬の隙をつき、男が隣にあった灯火を引き倒した。倒れた灯火が流れ出た油に引火し、薫の褥に火が付いた。電光石火の早業で、東宮が薫の寝具を太刀で掬い上げると、倒れた灯台に太刀ごと巻き込み消火する。と、同時に跳躍し、今の間に姿を消した男を追って、簀子に踊り出た。僧侶らしき男の姿は、消えていた。
夜半……真正面から忍び込むとは、何とも大胆不敵な男であった。だが、あれが公済という男であるなら、納得がいく。薫の留学仲間であったという人物であるなら……聡明で用心深く、完全無欠な薫の唯一の弱点が、その就寝時である事など、重々承知している筈だからである。……公済については、現在茜に命じて詳細を調べさせているが……。今夜、一体何の目的で、ここに現れたのだろうか。
部屋に戻ろうとして、ふと足元を見た東宮が、簀子の端に、見慣れぬ瓢箪が落ちている事に気が付いた。瓢箪の中からは、何かしらの液体が零れ出ていた。
……何だ? 薫の部屋では、目にした事が無い代物だが……。公済が、逃げる際にでも落として行ったのだろうか……。東宮が、瓢箪を拾い上げると部屋に戻った。
部屋に戻ると、薫が帳台に上半身を起こして座っていた。いつもは一旦眠ると、朝まで死んだ様に寝続ける筈の薫が起きている事に、東宮が瞠然として吃驚する。
……おかしい。およそ夜間に火災が起れば間違いなく煙に捲かれて死に、寝込みを襲われれば易々と寝首を掻かれるという、危険極まりない寝相の薫が、この程度の騒ぎで起き出すとは……。
しかし、目覚めた筈の薫は、ピクリとも動かなかった。
……これまた、様子が変だ。いつもの薫ならば、寝覚めは頗る良い筈だ……。そして覚醒と同時に、就寝時とは打って変わった様子で能動的に活動し、また能弁である薫が……起抜けに漠としたまま惚けるなど、およそ考えられない。
「……薫? ……起きたのか?」
東宮が、常状と異なる薫の不審な様子に、その機微を鋭敏に洞察しながら歩み寄る。
「!」
薫に近寄った瞬間、剛毅な東宮が思わずぞっとして胆を冷やした。
薫の双瞳は濛濛と散大し、ぼんやりとした瞳は、およそ何も映していなかった。上体を起こしてはいるものの、恰もその魂はどこかに彷徨い浮遊しているかの如く……一点を凝と狭く見つめている様でありながら、その瞳は洞然として、意識と共に朦朧としていた。
……普通じゃない。東宮が瞬時に判断すると、隣室の葵を呼び起こした。
「葵! 起きろ! ……薫の様子が変だ」
危急を知らせる東宮の一声に、ビクッと反応すると葵が目覚めた。はっとして慌てて起き上がるなり薫の許へ駆け付けると、東宮同様、薫の異様な状態を目の当たりにして、腰を抜かさんばかりに驚いた。手燭の灯火を翳しながら、葵が微に入り細に入り慎重になると、薫を診る。緊張した声で、葵が戦いた。
「……瞳孔が散大してる! ……それにこの様相は……おかしいよ、大津!」
蒼惶した葵が、薫の枕元の薬を確認した。自ら処方した薬を少し指に取り舐めると、怪訝顔で首を捻る。静黙したまま炯眼を欹て、冷静に見守る東宮を見上げると、焦った口調で口を開いた。
「……枕元の薬は、やっぱり僕がいつも処方している葛根湯だよ。でも……薫の症状は、まるで……鎮痙薬を飲み過ぎた場合の、中毒症状みたいに思える……。でも、まさか……。薫は寝ていた筈だし……ありえないよ!」
葵の言葉に、はっとした東宮が、簀子に落ちていた瓢箪を思い出した。東宮が、手中の瓢箪を取り出し葵に見せながら、先程の事情を掻い摘んで説明した。
「先程、坊主らしき男が、不敵にもここに侵入していた。不覚にも逃げられてしまったが、おそらく奴が公済だ。……そして十中八九、奴がこれを落としていった。この瓢箪の中には、何かの液体が入っているが……お前の診立ての通りならば、この中身は正に鎮痙薬で、奴が寝ている薫に飲ませた可能性が高いな」
葵の顔色が、今にも卒倒する程真っ青になる。瞳を見開き、瞬きもせず驚愕して東宮を見つめると、直ちに瓢箪を受け取り、中の液体を僅かに舐めた。舌先に苦味が走る。
……確かに、大津の言う通り鎮痙薬かもしれない。……でも、これが間違い無く鎮痙薬だという確たる証も無い。これに薬用成分がどれだけ入っていて、そして、薫はどの程度飲まされたんだろう……。鎮痙薬とはいいながら……それは、毒薬に他ならない程の危険な薬理作用を持っている……。……どうしよう、どうしよう。葵の顔が、蒼白になった。
薬が毒になり、その毒がまた薬にもなる……。その事を誰よりも深く熟知しているだけに……葵の頭は、恐怖で真っ白になった。
東宮が、恐怖に閉口した葵を見て取ると、極めて冷静に口を開いた。
「落ち着け、葵。まずは落ち着いて、薫の症状をつぶさに診るんだ。……その鎮痙薬というものは、飲み過ぎて中毒になった場合、どうなるんだ? ……命の危険は、あるのか?」
緊急を要する事態でありながら、あくまで悠然と構える東宮に、葵が少し医者としての自覚を取り戻した様であった。懸命に自らを律し、努めて冷静になるよう己に強く念じながら、葵が答えた。
「まず……瞳孔が散大して、幻覚を齎すんだ。そして大量に摂取した場合……麻痺を齎し、昏睡に陥ったり……最終的には呼吸が止まり、死に至る」
「……という事は今現在、薫は幻覚を見ている状態なんだな?」
俊敏に解した東宮が、眼光鋭く葵に問い返す。葵が再び薫を診ながら、短く頷いた。
「……どれだけ飲んだか分からないけど……。今の所、様子を診る限り……そうだと思う」
東宮が了然として、大きく頷いた。
「よく分かった。……ならば、直ちに正気に戻すまでだ。……手燭を貸せ」
青ざめた葵が、訳が分からないといった様子で、言われるがまま、手にした灯火を東宮に手渡した。東宮が手燭を受け取るや否や、あっという間に薫の手を掴むと、いきなりその手を灯火に翳した。
「あっ!」
「!」
あまりに唐突な、俄かに信じ難い東宮の暴挙に、驚いた葵が思わずあっと両手で口を覆うと、大きく目を見開いた。東宮の乱暴極まりない行動に、葵が抗議の声を発しようとした、まさにその時だった。
「……っつ!」
薫が小さく悲鳴を上げ、思わず手首を払い、そして手を引っ込めた。朦朦としていた瞳には急速に瑞々しい生気が戻り、過度の温覚を感じた手を繁々と見つめながら、薫が静かに口を開いた。
「……熱いではないか、全く乱暴な。……火傷する所だったぞ」
薫が抗議の目で東宮を軽く睨み付けると、悪態を吐いた。いつもの憎まれ口に、我に返った様子の薫を感じ取ると、東宮が片方の口角を上げ、満足そうに笑った。心から安心した様子の葵が、滂沱の涙に濡れ、次いで破顔一笑すると、薫にがばっと飛び付いた。
倒れて燃えた様子の灯台を目にすると、怪訝に思った薫が東宮に仔細を尋ねた。東宮が、一連の出来事をありのまま説明すると、公済らしき人物の遺留品である瓢箪を受け取りながら、薫が酷く顔色を曇らせた。やがて手にした瓢箪をじっと見つめると、深く長嘆した薫が呟いた。
「……そうか、鎮痙薬……。……疑問に感じていた事が、これでひとつに繋がった」
「……どういう事だ?」
眉を顰めた東宮が、薫を見遣る。東宮の疑問を聞き置いたまま、薫が寂然として嘆息すると、口を開いた。
「……まずは、確かめてみよう。それからだ」
「……?」
不可思議な顔で自分を見つめる東宮と葵に、珍しく消沈した様子の薫が目笑すると、手元の鈴を鳴らした。リ……ンと高い音が響き、暫くすると常時人払いしてある私室に、薫の従者が現れた。従者が簀子に片膝を突き畏まると、薫が用を言い付けた。
「休んでいたのに、申し訳ないね。……済まないが、至急……兎を一羽、それと黄公を連れて来てくれないか。庭に、紅妃も連れてきて欲しい」
「畏まりました。直ちに、連れて参ります」
従者が畏まって一礼すると、主命を迅に実行すべく、部屋を後にした。狐につままれた様子の東宮と葵に、寂寂とした薫がふっと微笑む。
「……お前の蒼王でも良いのだが、……未だ夜が明けていないからね」
暫くすると、従者が籠に兎を入れ、子犬を連れて現れた。一礼して入室すると、薫に一兎一匹を丁重に手渡し、報告する。
「只今、連れて参りました。紅妃は、御前の庭に牽いてあります」
薫が微笑むと、従者の労を労った。
「ありがとう。ご苦労だったね」
従者が退出すると、伏せ籠の兎に目を掛け、膝に乗せた子犬の背を優しく撫でながら、薫が静かに口を開いた。
「この黄公は、いずれ葵……お前にやろうと思っていた子犬でね。なかなか見所のある、賢い子だ。……まさか、こんな形で初顔合わせになるとは思わなかったが……」
黄公と呼ばれた茶色い毛の子犬は、薫の膝上で頭を丁寧に撫でられ、指で喉元を擽られると、気持ち良さそうに甘えた鳴き声を出した。
薫の意図が分からず、葵が不思議そうに、戯れる子犬と薫を凝視する。
伏せ籠を手にした薫が兎を出すと、不意に瓢箪の液体を少し飲ませた。驚いた葵が、慌てて薫を止めに入る。
「薫……? 一体、何をするつもり?」
前方に身を乗り出した葵を制止した東宮が、黙止して兎の様子を注視する。薫が立ち上がると、今度は庭に繋がれている愛馬の紅妃に、兎と同様、瓢箪の液体を少し飲ませた。兎も紅妃も薫の行為に嫌がる事無く、素直に飲んだ。
葵が、思わず大きく目を瞠る。驚いた事に……兎も馬も、ごくりと飲んだ筈なのに、何とも無い様であった。
次いで、薫が粛粛として部屋に戻ると、瓢箪の液体を器に注ぎ、黄公の前に置いた。途端に、黄公がフウッ―っと唸り声を上げて咆哮する。薫を見上げると、必死に吠えた。何やら懸命に訴えているかの様であった。薫が柔和に微笑み頷くと、黄公の頭を優しく撫でる。黄公は、クーと甘えた声を出し、大人しくなると薫の膝上に戻り、小さく丸まった。黄公は、飲まなかった。
「……どういう事だ?」
熟視していた東宮が、流石に驚いた様子で薫に尋ねる。怜悧な薫が瞭然と答えた。
「これで、明確になった。瓢箪の液体は、葵の推察通り鎮痙薬で……その正体はおそらく走野老だ。根から鎮痛・鎮痙薬として有用な莨菪が取れるが……猛毒でもある。走野老は、人や犬猫に対しては薬や毒として劇的な薬理作用を齎すが、今見た通り……草を主食とする兎や馬、鳥には効かない毒なのだよ」
東宮と葵が驚きを隠せない様子で視線を交わすと、薫を見遣る。憂いを帯びた薫が二人を見つめると、深深として呟いた。
「そして……これで、全ての謎が解けた」
薫が兎を庭に放し、紅妃の手綱を外して自由にすると、東宮に向き直り口を切った。
「大津……。お前と私の眼前で起きた、二件の陰惨極まりない自殺……。あれは、何者かによって、計画的に仕掛けられた自殺である可能性が極めて高い。二件とも、名前を問うなり自殺に及んだ。……自らの意思で死を選んだにしては些か怪異であり、かと言って、何者かの強力な暗示の結果として仮定するには、自死に至る程の強制効果を発揮している点が不可解だった。……だが、薬物を利用して、あたかも洗脳といえる様な、他者の絶対的な制御下にある自殺であったと考えるならば、合点がいく」
薫がふと東宮から視線を逸らすと、俯き加減になる。
「走野老の毒は幻覚作用をもたらし、意識程度を著しく低下させる。……もし、倒錯した野望を持つ者が、他者の意思に拘らず洗脳し、傀儡として利用しようと考え、これを悪用するならば……。薬を飲ませ、相手の意識の幅が狭まった段階で、特殊な観念を植え付けたり、言動を統制する事が可能になる」
製薬所における薬物の盗難……。それがやはり、こんなに悲惨な事態を齎すなんて……。父と共に想定して戦慄した最悪の事態の発生に、呻いた葵が堪らず声を詰まらせると、肩を震わせた。床についた両手をぐっと握り締めると、唇をぎゅっと噛み締める。
葵の心中を察した薫が哀哀として、深い瞳で葵を見つめた。鋭敏な東宮が、俄かに顔色を青変させると、射る様に薫を見遣る。
「……すると、まさか……お前……」
何か言い掛け、蒼白になり言葉を吞んだ東宮に、薫が静かに頷いた。
掛ける言葉を失った東宮が、為す術無く立ち尽くすと、唯唯、薫を見つめる。
刹那、哀傷非絶に薫が微笑した。懇誠込めて眼差し深く東宮に視線を合わせると、その深淵潭潭とした感傷を胸奥深く閉じ込め、冷静に口を開いた。
「お前の推察通り……犯人はおそらく僧侶の集団で、首謀者は十中八九、公済だろう。公済は、実に巧妙に私の持病を利用して、私に……何らかの暗示をかけたとみえる。頭痛が治ったにも拘らず疲れが取れなかったのは、そのせいだ。もっとも……走野老は鎮痛薬でもあるから、頭痛が治ったと感じた事実でさえ……そもそも錯覚だったのかもしれないが」
葵がいたたまれない顔を上げると、大粒の涙をはらはらと流しながら絶句する。覚悟を決めたのか……薫があたかも他人事の様に、冷冷淡淡と話を続けた。
「……公済は私の就寝時を利用して、おそらく何度か暗示を試みたのだろう。一種の催眠状態にあった私は、その間の記憶が欠落している為、疲労感を感じただけだったが……。残念ながら、掛けられた暗示の内容までは何も分からない。……だが、ひとつ手掛りがあるとすれば、朝堂院での私の頭痛だ。……あれは、かつて経験した事のない激痛だったが、いつもの岑岑とした頭痛とは全く種類の異なるものだった。……それはつまり、公済が私の痛覚を利用して掛けた暗示に、禁忌という制約がある事を示している」
「……禁忌という制約? ……どういう事だ」
鋭意に傾聴していた東宮が、眉を上げると薫を見遣る。
「直前に、お前が私に公済について尋ねた。私が、答えようとした途端、俄かに耐え難い頭痛に苛まれた。……つまり、おそらく禁忌として設定した『公済について』私が何か話そうとすると、暗示が発動し、私が激痛を感じる仕組みになっている。本来、病変として起きてはいない筈の頭痛を、あたかも発生したかの如く、洗脳効果により私に誤認識させる事で、私の行動を『制約』しているのだ」
東宮が、酷く驚いた顔を見せた。
「……馬鹿な。あの卒倒する様な激しい頭痛が暗示により……お前が思い込まされた痛覚だと……。偽りの疼痛だとでも言うのか?」
前日の光景をまざまざと思い出した東宮が、懐疑的に首を捻ると薫を見遣る。
「そうだ。……逆を言えば、薬によって暗示が増強されたからこそ、そんな芸当が可能になったと言えるだろう。だからこそ、ああいった形で……自殺させられた者が出たんだ」
進退極め、取り返しがつかない事態に、取り乱した葵が泣き崩れるなり号泣する。
「……お前に掛けられた暗示の内容は……分からないのか?」
東宮が、ぐっと拳を握り締める。薫が哀哀として、ふと虚空を見上げた。
「……分からないな。……もっとも、これから先……様々な『制約』が出現する事で、『禁忌』の予測はつくだろうが……」
時が、凍て付いた様に感じられた。打開するにも糸口すら摑めそうにない危機的状況に、手を拱いたまま徒に追い詰められ閉塞していく未来が重く伸し掛かる。悲涼凄楚に希望を見いだせず、暗然たる思いに模索を試みながら、その場が一瞬にして厳冬の氷原の如く、しんと静まり返った。
極限の心労に晒され、今や如何ともせず哀泣する葵に、歩み寄った薫が口を開いた。
「……葵。済まないが、典薬寮か、お前の診療所に保管されている筈の……医師名簿を調べてくれないか」
涙に濡れていた葵が、突然の薫の言葉に、戸惑いを覚えた顔を向ける。薫がやんわりと葵を見つめ、微笑した。
「……不思議な顔をしているね? ……でも、冷静になって考えてごらん。お前ならすぐ、分かる事だ」
泣き腫した顔を上げ、葵が真摯に薫を見上げる。
「今回、自殺に追い込まれた二人も……そして暗示を掛けられた可能性が濃厚な私も……鎮痙薬で死んだ訳ではない。……これが何を意味しているのか、お前なら容易に理解できると思うが……。犯人は、一歩間違えば毒物であるという……素人には扱いが困難な鎮痙薬を、見事とも言える調合で、催眠の目的のみに叶う分量で利用している。これは、信じ難い神業と言える。……この事から、犯人の集団の中には、どうやら極めて優秀な医師が居る可能性が高いと考えられるが……心当たりのある人物はいないのか? ……もし、いないのであれば……大変だろうが、医師の名簿を全て、当たって貰いたい」
怜悧な薫が沈深として、本領を発揮する。
そうか……医師……。確かに薫の言う通り、今回の調薬技術は目を瞠る至難の業だ……。
でも……そんな目的の為に薬物を使うなど……断じて、医師じゃない。
医師である筈が無い! ……そんな人物が同業であるなら……僕は絶対に許せない! ……許せないよ……。
葵の胸は、今にも張り裂けそうだった。泣き濡れた葵が、薫に何度も頷きながら……唇を噛み締め、遣る瀬無い悔しさに肩を震わせた。
為すべき事を自覚した葵が名簿を調べようと、寸陰を惜しみ、急いで部屋を退出する。部屋は再び闃然として、水を打った様な静寂に包まれた。
黎明の……稜稜とした月光が、部屋に差し込んでいた。
冷冷とした月影を見ていた薫がふと静かに振り返り、真摯な態度で改まると、浮かぬ顔をしたまま橙色の手燭を見つめ、物思いに耽っている様子の東宮に歩み寄り、正面から向き直る。
「……大津。お前に、親友として……頼みがある」
東宮が視線を上げ、鋭利な双眸で薫を見遣った。
「……頼み?」
薫の眼差しが何時になく真剣で、また深い覚悟に満ちたものである事に気付いた東宮が、その鋭感を欹てると、薫を真っ向から見つめた。
「この先……もし、私の様子がおかしくなり……私が、人に有るまじき行動を取る様であれば……私を、殺せ」
「……何?」
唐突に発せられた薫の信じ難い言葉に、東宮が双瞳を大きく見開くと、薫の顔を食い入る様に凝視する。冷冷淡淡として、薫が言葉を継いだ。
「……奴らには食料があり、医薬品があり、そして財力がある。医薬品の中には兵器にも転用可能な代物があり……盗まれた調税の中には、信州の米子鉱山等から各地の特産品として献上された硫黄も含まれている筈だ。保有量は不明だが、硝石も持っている。軍事力を持ち、大規模な集団を擁し、朝敵となる事を恐れないという彼らの狙いは、武力による革命と考えるのが、妥当だろう。……私に掛けられた暗示の内容は不明だが……どうせ奴らの都合がいい様に、とことん利用されるに決まっている。……これがどういう事か、お前なら分かっている筈だ」
厳然として、東宮が暫し沈黙する。やがて、静かに口を開いた。
「……お前に掛けられた暗示を、破る方法は無いのか?」
眼光炯炯として万感胸に迫り来る東宮の眼差しを誠実に受け止めると、薫が頷いた。
「……勿論、あらゆる手段を講じるつもりでいる。奴らの目的が分かった以上、それを阻止する為の、強力な自己暗示を試みるつもりだ。上手く成功すれば、私は奴らの言いなりにはならない。……だが相手の催眠効果が勝った場合は……先程言った通りだ。……頼む」
俄かに憤然とした東宮が、ぎりっと歯噛みするなり、烈火の如く激しい瞳を薫に向けた。
「……断る」
心奥から驚愕した薫が耳を疑い、瞬きもせず瞠目すると、思わずその拳を震わせた。
「……馬鹿な! ……それしか手段が無いと、分かっている筈だ! ……そうしなければ、どんなに危険な事になるか、鋭敏なお前ならば、とうに理解している筈だ!」
冷静にして沈着である薫が珍しく声を震わせると、怒り心頭に発して東宮を糾弾する。辛辣な非難にも微動だにせず、冷厳に徹して緘黙する東宮を見遣り、いよいよ語気を強めると、薫が声高に詰難した。
「……私は、自分で自覚の無いまま内通者になっている可能性があるんだぞ! ……しかも、いつ元に戻るのかも……果たしてそんな日が来るのかさえ、一切何の保障も無い状態だ! ……極めて危険な存在なんだぞ!」
苛烈なまでに捲し立てた薫が、はっとするなり静黙する。
双眸を欹てた東宮が烈烈として薫を睨まえると、断然として薫に応えた。
「……俺は、お前を失うつもりは無い」
「!」
東宮から発せられた……灼熱の炎の様に熱く、また自分の胸を貫く様なひと言に、思わず薫が言葉を詰まらせ、絶句する。剛毅にして果敢なる東宮が、熾烈な炎の如く猛然とした双眸で憤激すると、薫を見据えた。
「お前……奴等の卑怯な手段に、簡単に音を上げるつもりなのか? 卑劣極まりない行為に目を瞑り、暴挙に屈して尻尾を捲いて逃げるのか?」
ハッとした薫が息を呑んだまま、東宮を凝視する。
「……破れない暗示など、あるものか。夜明けの来ない日など、あるものか。人が、人の心を蹂躙し、その意のままに操る事など、あっていい筈が無い」
勇猛に言い切った東宮が、片方の口角をニヤッと上げ、豪爽に笑った。
「俺は、諦めないぞ、薫。……お前に破れない暗示ならば、俺が破ってみせよう。そして奴らの暴挙を叩き潰し、徹底的に全否定してやるまでだ」
薫の両瞳から、数年来久しく忘れていた涙が、静かに流れ落ちる。一瞥した東宮が不敵な笑みを浮かべると、傲然として悪態を吐いた。
「……思い上がるなよ、薫! たとえ、お前が全力で向って来ようと……お前に簡単にしてやられる様な俺ではない」
静黙したまま佇む薫の涙は、どうにも止まらない様だった。薫の胸を軽く小突いた東宮が踵を返す。……流石に奴も懲りただろうから、今日はもう来ないだろう。未だ夜明けまでは時間があるから、今の内にひと眠りしようぜ……とばかり、薫を促した。颯爽と床に戻り豪胆にも、瞬時に眠りに落ちた様子の東宮を穏静に見つめながら、薫が衷心冷静に、その凄烈な覚悟を決めた。
「……ありがとう、大津。……そして、さよならだ」




