僕の桜
ガタ、とポストの口を開ける。
祐樹はいつも、手紙を出すときに願う。
──この手紙が、エリカさんの笑顔になったなら。
それ以上に嬉しいことはない、と。
祐樹は去年の春、肺炎にかかって入院した。
ただの風邪だろう、と放っておいたのが悪かったらしい。撮ったレントゲン写真の肺の部分は、炎症で真っ白だった。
入院予定は三週間。個室なので人と話す機会もほとんどなく、しばらく暇を持て余す生活が続いた。
だが予想より治りが早かったようで、二週間目で大部屋へ移動となった。たったそれだけのことで、もうすぐ退院になりそうな気になる。
大人ばかりの八人病室で、隣のベッドの人が唯一の同年代だった。
同い年か少し年上程度の、つややかな長めの髪を持った少女。
それがエリカだった。
高校生活最初の夏を迎えたばかりだが、今のところはちゃんと学校に行っている。中学生のときは面倒だからとよく休んでいた。
今、頑張って通えているのは、ひとえにエリカの存在があるからだ。
エリカとはひとつしか歳が離れていない。病気がちでよく入退院を繰り返している、と本人から聞いた。しかし彼女は、祐樹とは比べものにならないレベルの、それもお金持ちが行くような女子校に通っている。
変な男子と関わりを持たせたくない。そう思って両親が勧めたのだろう。エリカの母に初めて会ったときのことがよみがえる。似ているはずなのに、エリカの見慣れた笑顔とは対照的だった。
エリカはよく、楽しそうに学校の話をした。そのときも友達の話をしていた気がする。
──エリカさんは、学校に行きたくても行けない。それなのに、僕が休んだら。
嫌われたくない、という思いくらいあってもいいだろう。普通に話せる数少ない友人を失いたくはなかった。
そうして、祐樹は休まず学校に通っている。
退院してから約一年。その間、エリカに会ったのは一度だけだった。そのかわり、祐樹が退院してからはずっと手紙のやり取りをしている。つい一ヶ月ほど前にも送ったばかりだ。
──そろそろエリカさんから手紙が来るはず。
学校の授業中、とりとめのないことを考えて時間が過ぎるのを待つ。
エアコンが稼働していても、朝からこの暑さではやる気も出ないのだろう。クラスメイトの半分ほどがだるそうに下敷きをあおいでいる。教師も額に汗の玉を浮かべながら話していた。
いつもの光景をよそに、祐樹は窓からぼんやりと空を眺める。そうしてふと思いついた。
──夏休みにでも、エリカさんに会いに行こうか。
少しだけ、祐樹の口元が緩む。
蝉の大合唱が相変わらず続いている。
チャイムが響き、教室がざわついた。一斉に立ち上がってあいさつをする。
祐樹にとっては授業も休み時間も変わりはない。誰かと話す用もなく、自分の席に座っているだけだ。
周りには、お喋りに花を咲かせる生徒や連れだって教室を出ていく生徒。もちろんこの中には、祐樹と同じ中学校出身の人もいる。
高校生になって普通に登校している祐樹を、以前彼らは変なものでも見るような目で見てきた。不登校だったやつがなんで、という声が聞こえそうなほど刺さる視線が痛かった。
だが、今はもう気にされていない。空気のように扱われている。
祐樹も特に誰かと話をしたいとは思わなかった。ただ一人、エリカを除いては。
「祐樹くんは、」
まだ入院していたときのことだった。
とある春の日の昼下がり。それまでも時々あったが、エリカが唐突に話しかけてきた。
今回は何だろう、と思っていたら、
「好きな花ってある?」
予想外の質問だった。
女子同士なら話が進むだろう。しかし、男にとっては少々困る。
窓の外では、桜の花びらが風に舞っている。しばらく考えて、祐樹は口を開いた。
「強いて言うなら……梅かな」
「梅?」
エリカが首を傾げた。
「変かな?」
そう聞くと、慌てて首をふった。
「変じゃないよ! ただ、梅が好きな人って珍しいから」
小さく笑って、それに、とつけ加える。
「梅よりも桜のほうが人気だし」
そう言って、エリカは窓の外を見た。祐樹の位置から顔が見えなくなる。
病室に沈黙が落ちる。それに耐えられなくなった祐樹も尋ねた。
「エリカさんは桜、好きなの?」
しかし、返事はなかった。
「……エリカさん?」
ゆっくり振り向いたその瞳が悲しみに染まっていたのが、強く印象に残っている。
エリカは泣いていた。
嗚咽も漏らさず、ただ静かに。
目のふちから透明な水があふれ、音もなく、エリカの頬をすべり落ちる。
「……桜は」
エリカはぽつりとつぶやいた。
「ほかの花は懸命に咲いているのに、散るというだけで人の目を惹く」
はらり、ともう一粒涙がこぼれた。濡れたまつげが瞬く。
「ほかに咲いている花が霞んでしまうくらい目立つなんて」
ずるいでしょう、と泣き笑いの顔で言った。
「エリカさん、なんで、そんな」
祐樹は思わず話をさえぎった。だが、構わずエリカは続ける。
「散るのなら、自分のことは忘れてほしいって私だったら思うのに」
うつむいて、
──誰も縛りたくはないから。
消え入りそうな声だった。
再び話が途切れる。何を言えばいいのか祐樹にはわからなかった。
すると突然エリカが顔をあげ、祐樹を見つめた。祐樹の息が一瞬つまる。
その言葉にはまだ続きがあった。
「でも、私がここにいたことは、忘れないで」
それは、一種の祈りだった。まるで祐樹に伝えるかのような。
「……私はどのみち桜にはなれないけれど」
祐樹は口を開いたが、何も言わずに再び閉じた。
お互い身動きもせず、じっと桜を見つめていた。
しばらくして、ごめんね、と小さな声が聞こえた。
視線を動かす。エリカの涙はもう止まっていた。目はまだ潤んでいたが先ほどの暗さはない。
「驚いたよね、こんな話をして」
申し訳なさそうにエリカは言った。
「……けど、迷惑じゃないから」
そう祐樹が言うと、エリカの目が少し見開かれた。しかし、すぐに細くなり、
「ありがとう」
優しい声が鼓膜を震わせた。
くすぐったくなって祐樹は目をそらした。その様子にエリカが微笑む。そして、おどけて言った。
「私、桜に嫉妬してるのかな」
祐樹とエリカの目が合い、どちらからともなく笑う。
結局、桜が好きなのかどうかを祐樹は聞きそびれた。
午前よりもさらに気温が高くなった。午後の授業は睡魔とも戦わなければいけない。
祐樹もぼーっとしていた。自然とまぶたが下がってくる。もう少しでくっつきそうな、そのときだった。
ガラッ、と勢いよく教室の戸が開いた。祐樹を含めたほとんどの生徒の肩が跳ねる。
生徒の視線が戸に集中する。
そこに立っていたのは、祐樹たちの担任だった。
「日坂、今お前の母親から電話があって、」
祐樹のことだ。クラスメイトが一斉に振り向く。
「今から迎えに行くからすぐ来てくれ、と言われた」
祐樹は眉をひそめ、集まった視線に緊張していることを悟られないよう尋ねた。
「理由はなにか言っていましたか」
担任は一瞬考えて、答えた。
「確か、エリカさんが、って言っていた気が……」
ガタン。
祐樹が立ち上がり、担任の言葉がさえぎられた。
勢いで椅子が後ろに倒れる。クラスメイトがざわつく。担任がなにか言っているが、祐樹はすべて無視して教室を飛び出した。
車で向かったのは以前まで入院していた病院。
二十分の距離がやけに長い。赤信号で止まるたびにイライラした。
「エリカさんのお父さんから電話があったんだけど、とにかく早く来てほしいとしか言われなくて」
どうやら母も詳しいことは聞いていないようだ。
なにがあったのかわからない。不安が祐樹を余計にイライラさせた。
早く、と心がせかす。
──エリカさん。
病院の入り口でエリカの父が待っていた。二人は案内されるがままついていく。人がたくさんいるはずなのに、誰にもすれ違わなかった。
三人はある病室の前で立ち止まったが、そこはあの八人病室ではなかった。
吉野エリカ。
プレートには一人分の名前しか書かれていなかった。中から微かに聞こえるすすり泣きと、時折挟まる話し声。
嫌な予感しかしなかった。
ずっと立ち尽くしているわけにはいかない。覚悟を決めて、祐樹はドアを開けた。
広くはない病室の中に、カーテンでほとんど隠れているベッドがあった。そこから覗く白い足首が視界に入った瞬間、体中の血が一気に引いていく音を聞いた気がした。
歩いている感覚がしない。ほんの数メートルの距離なのに、なかなか進まなかった。
やっとたどり着いたベッドの横に、エリカの母と担当医らしき男性がいた。
エリカはそこで眠っていた。
顔には白い布がかかっていた。
呆然と立ち尽くす。目の前のことが信じられなかった。あとからきた祐樹の母の息をのむ音が、はるか遠くのように聞こえた。
祐樹は腕をのばすが、それも小刻みに揺れる。
白い布へと手がのびたが、力尽きたかのようにうなだれた。かわりにエリカの手をとり、両手で包み込んで額にあてる。
その手はもう冷たかった。
思えばこれは、エリカに触れた最初で最後だった。
「エリカ、さん……」
喉の奥から声を絞り出したときだった。
ばっ、とエリカの母が顔をあげ、祐樹がエリカに触れているのを見た。その瞬間、
「触らないで!」
その場にいた全員がびくっとした。
エリカの母は祐樹の手を払いのけ、睨みつける。
「あんたがいたからエリカは……」
はたかれた手より余程痛みを感じた。エリカの母は騒ぎ続ける。
「エリカから離れて、葬式にも来ないで!」
「雅子」
エリカの父がとがめた。なおも叫ぼうとするエリカの母を連れ、病室を出ようとする。入り口まで行き、振り向いて祐樹たちに頭を下げた。
「家内が失礼しました。私の願いですが、どうかエリカの葬式には来てやってください」
そのほうがエリカも喜ぶ、と言ったエリカの父の目はわずかに潤んでいた。
あとには重い沈黙が残された。
窓から桜の木は見えなかった。
エリカの死から、三日。今日が葬式の日だった。
あれから祐樹は学校に行っていない。この世にエリカがいないなら、もう行く意味などない。
原因は病気の悪化だったそうだ。あのあと担当医からそう聞かされた。
──エリカさんは自分が死ぬことをうすうす感じていたのだろうか。
あのとき、エリカさんはなんと言っていた?
私を忘れて。
そんなこと、できるわけがない──
葬式のあと、祐樹はエリカの父に呼ばれた。
二人の近くには、桜の木。蝉が一匹鳴いていた。
「前はすまなかった。祐樹くんたちに失礼なことをした」
そう言って、頭を下げられた。
「いえ、いいんです。僕が悪いので」
祐樹がそう答えると、頭を上げたエリカの父は、意味がわからないというような表情をした。
「僕がエリカさんにつきまとっていたから悪かったんです。だから僕も──」
乾いた音がした直後、頬に熱を感じた。
言おうとした言葉は最後まで言えなかった。口の中に鉄の味が広がる。
「ふざけるな!」
怒声が響いた。その剣幕に、周りの人がなにごとかと振り返る。
自分の手をさすりながら、エリカの父は言った。
「君は全く悪くないし、エリカは君との話や手紙を喜んでいた。それに、エリカはそんなことを望んでいない」
そしてうつむき、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
「……これ以上、誰もいなくならないでくれ」
その声は悲痛に満ちていた。
蝉が鳴きやむ。
しばらくして、エリカの父は顔をあげた。
「雅子のことは許してやってくれないか。わざわざ女子校に入れるほど、エリカをとても大切に育てていたんだ」
風が吹き抜け、二人の髪をなびかせる。
「だから、よく知らない男子と仲良くしているのがずっと心配で、そのせいでこの前はとり乱してしまったと謝っていたよ」
つまり、君への嫉妬かな。
そう言って、かすかに微笑んだ。
再び蝉が鳴きだす。
ふいにエリカの父が鞄をまさぐった。中から取り出したのは、
「エリカから、君宛てに」
口の中の血の味を忘れた。見慣れた、可愛らしい薄青色の封筒がそこにあった。
──信じられない。なんで、まだ。
「エリカが出しにいけなかったものだ」
震える手で受け取る。
見慣れた筆跡は、確かにエリカのものだった。
「私はもう行くよ。時々墓参りにも来てやってくれ」
そう言って背を向け、歩き出したエリカの父に言う。
「……ありがとう、ございます」
「こちらこそ、ありがとう」
深く礼をして、祐樹も背を向けた。
周りに人がいない桜の木の下で、手紙を開いた。
懐かしい字が並ぶ。
変わらない口調、他愛ない話。
ただひとつ、最後の一言が今までとは違った。
──久々に、祐樹くんに会いたいな。
視界がぼやけて読めない。
そう思ったときには泣いていた。あれから初めてだった。
もう、会えない。
そう思ったとき、続きの言葉が脳裏に浮かんだ。
──私がここにいたことは、忘れないで。
絶対に忘れない。死んでも忘れない。
あなたは、僕の桜だから。
涙を流しながら、手紙を抱きしめる。
桜の葉が風に揺れた。






