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階段の男

私が空に小さく光るうずまきを見たのは

離婚しようと決めた日の朝のことだった。


仕事休みの日の朝、庭で洗濯ものを干しながら

青いな、と思って見上げた私の頭上、

空の一番高い所に、

それは満月と同じくらいの大きさで

クルキラ、クルキラ、と虹のように輝きながら回っていた。



*    *     *     *     *




「何か教えましょうか?」


午後6時。

仕事から帰って、まだ引っ越して2日目のコーポ『やまぶき荘』に辿り着き、

自転車を止めてすぐ横の階段を自分の部屋へと上がろうとしたところで男に声をかけられた。


何か教えましょうかって言ったのか?

何を?聞き間違い?



男は髪を後ろで一つにくくって銀のフレームのメガネをかけている。

はじめて見る顔だ。このアパートの住人だろうか。

私はあいまいに笑顔を作り「こんばんは」と言ってみた。


越してきた昨日、一応端から順に挨拶に回ったが、

挨拶ができたのは管理人室を入れて3世帯だけ。


このコーポは1階に4部屋、2階に4部屋、

うちも含めて8世帯が入居しているはずだ。



男はにっこり、と笑って「こんばんは」と返してくれた。


「あの…ここに住んでる方ですか?」

聞くと男は2階の左から2番目の部屋を指差した。うちの隣だ。

うちは一番左端。階段のすぐ脇だ。


「昨日越してきた木本と言います」私は引越しの挨拶をする。

「挨拶が遅れて…

昨日一応全部の部屋うかがったんですがいらっしゃらない方が多くて。

すみません。また後ほどご挨拶にうかがいます」

 

男はまたにっこり、と笑ってくれた。優しい顔をしている。

優しくてきれいな顔に見える。歳は24,5歳くらいだろうか。


「何か教えましょうか?」と男がまた言った。

「え?…何を?ですか?」

「勉強を」

勉強を?


またにっこりと笑う。

「ミノリ君に今日勉強教えてあげようかって言ったんですけど、

お母さんに聞いてからって言うんで」


ミノリは私の小3の息子だ。


「オレ、塾の講師をやってるんです」

だから?と私は思う。自分が働いている塾への勧誘か?

私はまだこの人の名前も知らないのに。



ガラッと窓が開く音がして見上げるとミノリだ。 

「母さんおかえりー」そして私の前にいる男に向けて手を振ってみせた。

男もミノリに手を振り返す。


「どうでしょう?美月さん」男に言われてびっくりする。

こいつ私の名前まで知っている。何か気持ちが悪い。

私は男との話を裁ち切ることにした。「ミノリー、今行くからー」


そして男の方へ向けてお辞儀をし、

「すみません。失礼します」と言うと

私は速攻で階段を駆け上がった。



「ちょっと!」

私はドアを素早く開けて素早く閉め、

鍵をかけると同時に奥に向かって声を張り上げ、

すぐに、しまった外に声が響いたかもと口をつぐむ。


奥の部屋にいるミノリのところまで言ってからもう一度、

「ちょっと!」と怖い顔をして見せた。

「おかえり、母さん。何で怒ってんの?」

「知らない人とあんまりしゃべっちゃいけないって言ったじゃん。

さっき手を振った人、今日しゃべったの?」


「しゃべったよ。学校から帰ってきたら下で猫と遊んでて、

僕もちょっと触りたかったんだけど」

「触ったの?」

「ちょっとね」


「じゃあ、触ったんじゃん!

触りたかったとか、触ってない風に言うの止めな」

「触ったか触ってないかのビミョーなくらいの触っただから」

「いいよ、もうそんなん。それは触ったってことなの!それで?」


「昨日越してきたの?って聞かれたから、ハイって」

「あんたさ、名前教えたでしょ?自分の下の名前と私のも」

「教えてない。知ってたよ、あの人」


あの人…。「あの人の名前知ってんの?」

「知らない」

やだなー。



そこでドアチャイムが聞こえてビクリとした。きっと下にいた男だ。

あの人が隣だなんて嫌な感じがする。

ねちっこく勧誘してくるような奴だったらどうしよう。


「すいませーん」ドアの向こうの男が呼ぶ。

 私はミノリに出てくるなと言いつけてドアをそっと開けた。

チェーンをつけたまま。


「チェーンて」と男が言った。「なんか嫌だな、チェーン越し」

「あ…え…と、何でしょう」

「オレ水本です。名前言うの忘れてたなと思って」

「あ、はい、こちらこそご挨拶が遅れて…

あの、ちょっと待っててもらえます?」


私はチェーンはそのままで引越しの挨拶周りに用意していた

小さな箱入りのタオルを持ってきて、

少し迷ったがやっとチェーンを外してドアを大きく開けた。


大丈夫だ。1軒家じゃないし、

こいつがなんか変な様子だったら大声を出したらきっと誰か来てくれる。

…はずだよね。


「あの、引越しのご挨拶遅れてすみません。これ良かったら使ってください。

こちらから伺わないで、今渡してしまってすみません」

「いえいえ」と水本と名乗った男はまたにっこり、と笑った。

私もにっこり、と営業的な笑みを返す。


「明日の夜、美月さんとミノリ君の歓迎会やるらしいんで。

帰ったら管理人の部屋へってオレ伝言頼まれてたの忘れてました」

歓迎会?

そんなに一体感がある住人の集まりなのかここのアパートは。


面倒くさいな、と少し迷う。

わきあいあいとなりすぎて

面倒くさい付き合いを無理強いさせられるのは嫌だ。


かと言って引っ越ししたばかりで

また新しいアパートを探すなんて経済的に無理な話だった。


「どうしよう…私、歓迎会とかそんなわざわざ開いて頂くなんて…」

「わざわざじゃないですよ。管理人がやりたいからやるだけだと思うけど。

あ、オレもやりたいですよ?」

にっこり。


暮れかかってきた空に、

まだ苗字しかよくわからない男の馴れ馴れしいにっこりが気持ち悪い。


「あれ?」水本が首をかしげた。

「もしかしてオレのこと気持ち悪がってます?」

「え?」とびっくりした私は声が上ずって、

気持ち悪がっていたのがバレバレだ。


それでも私は「いいえ」と言った。

「突然だったのでちょっとびっくりしてるだけで、そんなことは…」

「ははは」と水本が笑うのでまたビクリとしてしまう。

「明日の夜7時からです」水本は歓迎会の話を続ける。

「え、でも私どうしたら…」

できるなら断りたい。

こいつが帰ったら管理人さんに断りにいこう。


「断れないですよ」と水本が私の心を読んだように少し笑いながらいうので

気持ち悪いを通り越して気味悪くなってきた。

「じいさん、やるって言ったら別にあなたが来なくてもやると思うから」

じいさんというのは管理人のことだろう。


「来た方がいいですよ」と水本は言う。

「美月さんがいないところで歓迎会されてもバツが悪いでしょ?

来たらホラ、いっぺんに住人に挨拶もできるから」


「ここの方全員でやるんですか?」

私は素直に驚いた声を出してしまう。

「みんな来ると思うけどな」



私は白髪頭の管理人のやさしげな顔を思い浮かべる…

あれ?ミノリは私たちの名前をこいつに教えてないって言ってたけど、

じゃあ教えたのはあの管理人なんじゃないのか?


「私たちの名前ってどうして知ってるんですか?」

私が急に話を変えたので水本は一瞬とまどったが、

またにっこりと笑った。

こいつはどうしてこんなに笑うんだろう。止めて欲しい。


「あーごめんなさい」水本は言った。

「オレがじいさんに聞きました。ごめんなさい

ホラ、隣がどんな人が不安じゃないですか?」

そう。私も今ものすごく不安だ。

「ね?美月さんも不安でしょ?」と水本が言うので

私は本当に気持ちが悪い。


「だからまあ明日が歓迎会ってことで、今日はどうですか?

ご飯もう作りました?」

ご飯?

「今日オレのとこに食べに来ます?」


オレのとこに?いや行かないよ。

あからさまに首を振ったら水本がゲラゲラ笑って

私はもうどうやってここを切り上げようかとそればかりを思う。


「ですよね?」と水本。

「そりゃ初対面の男の部屋には上がれないわ、ってことですよね?

じゃあオレのとこ嫌だったら持ってきますよ?

美月さんとこで食べましょう」

「いえ!!」思った以上の大声を出してしまった。

「お気持ちはとてもありがたいんですけど、

その…越して来たばかりでしなきゃいけないこといっぱいあって、

すみません。今日はこれで失礼します。」


ドアノブに手をかけた私のその手を水本がじっと見たので

手を止めてしまった。


「あ~。そうですよね。オレも手伝えたらいいんだけど…

明日の受講の準備があるからな…

そうそう!さっきの話なんですけど

良かったらオレ、ミノリくんに何か教えますよ」


「えーと大丈夫です」

こいつはどうやったら帰ってくれるんだろう。

「塾に行ってますし、私も教えてますし」

「へーそうなんですか?あ~でも…」

と言って水本は部屋の奥に向かって声を張り上げた。

「なーミノリくーん!お母さんにさー、さっきのこと話してみてよー」


「あの本当に!」私はそれを遮った。

「いろいろありがとうございます。では失礼します!」

今度こそもう何も躊躇せずにドアを閉めた。


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