アールのお仕事8時50分
カーテンを開け、未だ暗い空へと欠伸する。ベッドを綺麗に整えて、クローゼットを開け放った。
今日は何を着ようかな。白の生地に青の薔薇が描かれた可愛らしいワンピースと、黄色の花々が刺繍されたワンピースを手に取って悩む。今日はこっちにしよう、と片方を戻した。
ひととおり綺麗に整え、玄関から外に出る。パタパタとオレンジ色のフラットシューズを鳴らして少し歩けば、澄みきった水の流れる川があって、ちゃぽん、と川魚がフライアウェイする音がした。
その川から水を汲んで顔を洗う。覗き込んだ川面に映る自分の顔はまだ少し眠そうで、もう一度冷たい川の水を顔にかけた。おうふ、袖口に水が…冷たいぞクソ。
濡れた袖口にイラつきつつも、大きな庭の中の小さな花壇の植物達へ水やり。青々と茂ったミントを収穫しながら、朝日が昇るのを見つめる。
この時間は、私の一番好きな時間だ。金色に染まる森だとか、活動を始める森の仲間たちの音だとか、美しいと思う。目を閉じればすぐそこに命があって、私はそこに生きていて。
そう、今日も私は生きている。この瞬間、私はこの場所で間違いなく息をして、私の柔らかい心臓が、血液を身体中に送り出している。カラフルな鳥が羽ばたいて行った空を見上げて、背伸び。
さて、朝ごはんは何にしよう。サラダを挟んだサンドイッチでもいいし、ベリージャムをのっけたヨーグルトも食べたい。きっとどちらも美味しいし、アールだってどちらも気に入るだろう。鼻歌混じりに家へと戻り、鍋に水を入れて人差し指を振った。
「"煮え滾れ"」
よし、上手くいったぞ。ゆっくりと温められる鍋に頷いて、いざ行かん最後の難関へ。そこは廊下突き当たり、この家で一番危ない場所。
コンコン、とノックする。当たり前だが返事はない。返事があったらそれは今日、きっと天変地異が起こる。相変わらず薄暗い部屋にそろそろと足を踏み入れて、ベッドの上で丸くなっている敵を見据えながら一気にカーテンを引いた。
薄暗い部屋にトロリとした金色の光が差し込み、積み重ねられた魔術の本の山が照らされる。それにくちゃくちゃに丸まった、仰々しい紫色のローブと、崩れ落ちた書類の山も。ごちゃごちゃしているこの部屋は、アールの部屋だ。ベッドの上に散らばる美しい紫の糸が、金色の光に照らされて光る。
「師匠起きて、朝だよ」
「んん…」
「アール、師匠さん、あなたのお弟子さんが呼んでるよ、ほら起きて」
しかし、アールは唸り声を上げると毛布を頭まで引き上げた。全くなんという強情さ。流石の目覚まし時計先輩もお手上げである。しぶといやつめ、揺すってみても、全く起きる気配はない。
しかし油断していたその瞬間、アールのだらんとしていた手首がくい、と動いた。やべ、
「う、わ!」
ビュン、と部屋を舞う鋭い風。ばさばさと本がめくれ、頬に一筋傷ができる。アール得意の高位風魔法、宮廷魔術師である彼女だからこそ使える高度な魔術。つまり、少しでもしくじれば…死ぬ。
これが私の毎日の日課である、命懸けでアールを起こすことだ。一回体験してもらえばわかるけれど、これホントに危ない。洒落になってねぇから。
まぁ、まずそんなことを考えていたら殺られるだろう。隙を見せてはならない。一瞬の油断が命取りだ、ということを私はここから痛いくらいに学んだ。
そしてアールは、間髪いれずにパチンと指を鳴らす。いまだに風は部屋を舞っているが、その風の中で幾つかの火の玉が浮かんだ。
え、嘘でしょ。風魔法に加えて炎魔法とかそれどんな詰みゲー?
「ひょ!?」
まずい、今日こそ死ぬ、多分。最早アールを起こすどころの騒ぎではない。容赦無くこちらへと向かう火の玉を避けるので精一杯だ。バクバクとうるさいほど心臓がなっている。
このように危険なこの日課は、寝起きの悪いアールを起こすと共に、魔術の修行をする私の朝の練習の場でもあった。アールが必死に教えてくれたお陰で、私は魔術を辛うじて使えるようになったわけだが、アール曰く、実戦で使えなければ意味がない、とのこと。だから、寝起きが凶暴なアールを止めるのは、私の中では演習のようなものである。まあ心配せずとも良い。
でも、私はまだひよっこなのだ。こんな、こんないっぱいいっぱいで…死ぬ。これ完全に詰んだ。
しかし、四の五の言っている暇はない。冗談抜きで死んでしまう。それは嫌だから。
「ひぃ…!」
向かってくる火の球にわなないて、必死に魔力の流れを感じとる。
「"防御"!」
魔力で薄い膜のようなものをつくり、呪文を唱えてそれを体を覆わせた。間一髪で膜にぶつかり、消滅する火の玉に安堵してほうっと息を吐く。手は汗で濡れていて、風も未だ部屋を荒らしているけれど、かろうじて私は寿命を伸ばした。良かった、今日も生き延びた。足がまるで産まれたての子鹿で笑いそうになるが笑えない。おい、ちょっとそこのお前、今私の子鹿ぶりを見て笑っただろう。後で体育館裏な。馬鹿にしてっと死ぬぞ。死を覚悟すれば、誰だってこうなるんだから。というか風が段々と強くなって…
「師匠!起きてください!」
私死んじゃう!とは言わなかったけれど、震える声で叫んだ。何故なら、アールの魔法が暴走を始めたからである。しかし、うるさい、とアールはチッと舌打ちして耳を塞いだ。おい待て、どういうことだ。というか本当にちょっと待ってこの状況をどうにかしろください。
「師匠…!」
もうだめだ、と思った。もうこれは最終手段だ、と。喉が痛くなるからあまり使いたくはなかったけれど、喉に手を当てて魔力を流し込む。
「"拡声"」
胸いっぱいに息を吸い込み、大きく声を出した。
「"起きろ!!"」
「……ああもう!うるっさいわね、起きるわよ!起きればいいんでしょ!」
イライラとしたアールが身を起こす。喉は痛い、何故か目もヒリヒリして潤む。それは尋常でないほどに。私は治癒魔術を使って頬の傷を治し、にっこり笑った。それから、ガラガラ声でご挨拶。
「おはようございます、師匠」
まるで使い魔。扱いも酷いけれど。
異世界ライフ、なかなかやりおる。
***
「んん……!おいしい!私、ヒカリの作るジャムが一番好きだわ!」
「やだな、褒めても何も出ないよ?」
「何も出ないの!?」
「えっ、何か期待してたの?ていうか早く食べないと遅刻しちゃうと思う」
「分かってる分かってる、でもあと一個パン食べてからね」
むぐむぐと頬をハムスターのように膨らませながらパンを頬張るアールさんを前に、ローブの皺を落とす。アールさんはご機嫌で二個目の丸パンに手を伸ばした。そんなに食べると太っちゃうよ、と言いたい所だが悔しいことにアールさんは食べても太らない体質らしい。出会った時から体型は美しいままだ。というよりも全ての栄養分が胸とお尻に……ちなみに私はお腹がたぷんたぷんに……うん、きっと神様なんてどこにもいない。
「んっ、げぼぶほ!」
「うわっ、汚い!落ち着いて食べなよ……誰も取らないから」
幸せそうな満面の笑みで突然咳き込んで目を白黒させたアールさんに、ミルクを注いで差し出した。美味しいからってアールさんは急ぎすぎるのだ。丸パン堅いのにほとんど噛まずに飲み込むなんてお前は蛇かと声を大にして言いたい。いや、だからって牛乳で流し込むのもどうかとは思うけれども。
「じゃあ私、鳥に餌やってくるから……ちゃんと時間に間に合うように行ってね」
「大丈夫よぉ!任せときなさいって」
「うん、いってらっしゃい」
ヒラヒラと手を振るアールさんに笑って、外へ出る。空を見上げれば目が痛くなるくらいの真っ青。今日は雲も少ないからきっと暖かくなるんだろうな、布団を干すことにしよう。
いつものように籠を高く掲げて口笛を吹く。すると、色彩鮮やかな鳥達が押し寄せた。ついでにあちらの木の陰からはウサギが二羽。うーん、可愛い。出来ればお友達になりたい。あわよくばあのフカフカの毛皮に顔をうずめて全力でモフモフしたい
「ご飯だよー」
「タベモノ!」「オイシイヤツ!」
「タクサンタベル!オナカスイタ」
けれどもウサギはダッシュで逃げた。パンを千切って放ると、鳥達は嵐のように囀り始めるのだ。やれ美味しいだの、やれこの部分は固いだの、意外にグルメな鳥達の批評にウサギは驚いて逃げてしまったのだった。あーあ、お喋りしたかったなぁ、とため息を吐く。ふと、手を止めて目を細める
お喋りーー。
”あっち”なら考えもしないような事だ。どれだけ科学が発展しようとあり得なかった。例え片言の拙い言葉でも、鳥やうさぎ、動物が喋るなんて。意思疎通が出来るなんて。
「凄いよなぁ……喋るんだもんなぁ」
パンくずを一生懸命につつく鳥を見つめる。
ここへ来てすぐ、私はこの不思議な能力に気が付いた。何か小さな囁きがずっと聞こえていて、夜も眠れなかったのを覚えている。アールさんに何なのか聞いても分からないと言うだけだったし、その中身が無い単語が連なっただけの囁きはどうやら私にしか聞こえないようだった。まあ、何故動物が喋っているのか分かったのかという経緯については割愛させてもらう。特に面白いエピソードでも無いから。
動物と話せる能力……なんてファンタジー。頭がとうとう厨ニ病に侵食されてしまったようでもう手遅れです本当にありがとうございました。あっでも待って、私は今かなりファンタジーな世界にいるんだったから全然大丈夫じゃん。むしろこれは私のアイデンティティ、ステータスじゃないですかやったー!と無理やりに自己完結したのは記憶に新しい。
けれども実際、ほとんど使い道無いので微妙だ。まず私は家から出ないただのニート……アールさんに養われているだけのただのヒキニートだ。どこに動物と喋らなければならない状況に陥る要素がある?何に使うの?暇つぶしみたいな?「日中ひとりぼっちの可哀想な人だからお喋り相手になって」ってか?まったくその動物もいい迷惑だろう。
だからこうして毎朝もふもふ達(主に鳥)と戯れるくらいのことしか出来ない。夢見てた頃は魅力的に感じていても、実際得てみるとそんな壮大な事でも無かった。現実はそれほど甘くない
「はいはい、取り合いしない!仲良く食べないと明日から無しにするよ!」
「イヤー!タベタイ!」
「コマルヨー!シンジャウヨー」
でも喜ばしいことに私は動物が好きだった。撫で繰り回してしまいたくなるほど大好きだった。ピィピィ騒ぐ鳥に顔の筋肉を緩めながら癒されるこの時間は嫌いではない。肩に乗って騒ぐ鳥の頭をよしよしと撫でながら、残りのパンも持ってこようとドアを開けた。きっとアールさんはもう行っただろうーー……
「えっ」
「えっ?」
しかし予想外にも。未だ寝癖の跳ねた紫色は、まだそこでパンに噛り付いていた。バッ、と振り返って時計を見ると、時刻は8時35分。出勤時刻は8時30分のはず。ということは、
5分遅刻……!?
血の気が引いていく音が耳元で聞こえたような気がしてぞっとする。
「え……なん、時間……!アールさん!?えっ!?」
「あっ!遅刻だわ!どうしてかしら!」
「どうしてじゃねぇよ、こっちが聞きたいわ!」
バタバタと走り出すアールさんにローブを投げつけながら、早く!と急かす。自分中心に物事を考えて行動してしまう節のあるアールさんは、時間を気にするということが難しいらしい。私が来るまでどうやって生きていたんだろう。まじ永遠の謎。けれど慌てる私を他所に、アールさんは舌打ちを優雅にかましながらゆったりとローブを羽織った。
「まったく、あんのクソ上司のせいで今日はきっと残業よ!嫌だわ!お肌が荒れるわ!」
「ちっげーよ!何その責任転嫁!アールさんがちゃんと時間気にしてたら遅刻なんかしないんだよ!てかもっと急いで!」
「もういいのよ、遅刻は遅刻なんだからゆっくりして行く」
「開き直るな早くしろ!」
ブーブーと文句垂れつつも転移魔術を使ったアールさんを見送り、椅子に倒れこむ。朝だけでどっと疲れた。何もする気がしない、とため息を吐くと、肩に乗っていた黄色い小さな鳥が頬をつついた。
「ダイジョーブ?」
おっといけねぇ、鼻血が出てしまう。
小首を傾げてこちらを心配する鳥はさながら天より舞い降りし天使。そのつぶらな瞳はキラキラと輝いていて、まるでその瞳に星を閉じ込めたようなきらめきがあった。不思議と懐かしくなる、吸い込まれるような煌めきーー。私は何処かでこの目を見たような気がする。でもどこで?いつ?鳥なんかと至近距離で話す機会なんてそうそう無いのに?
「うーん、でも見た事あるような気がするんだよなぁ。お前、ここ来たの初めて?」
「ソウダヨ、ピーチャン初メテ来タヨ」
「?ぴーちゃん?名前があるの?」
「アルヨォ、ピーチャンダヨォ」
驚いた、名前のある鳥と話すのは初めてだ。もしかすると飼い鳥なのかもしれない。野生の鳥は、いくら意思疎通が出来ると言っても基本人間が怖いから必要以上に近付いたりなんかしないはずだ。そう考えるとなるほど、肩の上で嬉しそうにパタパタと羽を広げる自称”ピーちゃん”は、野生の鳥より一回り小さくて可愛い。愛玩動物にするにはうってつけだろう。擦り寄るピーちゃんを撫でて、飼い鳥ならなおさら会ったことなんかあるはずないな、と頷いた
「じゃあピーちゃん、パン食べたらお家に帰りなさいね。きっと飼い主さんが困ってると思うからさ」
「イヤヨ、ピーチャン、遊ビタイ」
「はぁ、まったくこの子は……なんて可愛いの!いいよ一緒に遊ぼう!飼い主さんには悪いけど今日一日遊んであげるからちゃんと帰るんだよ!?」
「ピーチャン、分カッタ」
「ぎゃん可愛いやばい家に帰したくない」
スリスリと擦り寄る小動物ほど可愛いものなどない。どうしてこのピーちゃんにここまで懐かれているのかは分からないが、きっとピーちゃん自身が人懐っこい鳥なのだろう。警戒心がまるでない。でも可愛いから許す。可愛いのは正義なのだ。
何して遊ぼうか?と笑いかけると、ピーちゃんはその丸々とした体を震わせる。それから、ピピピッと小刻みに鳴いて首を振った。
「ピーチャン、美味シイモノガアルトコロ知ッテル」