非日常、始動
「ったくよー、ケツが痛くて仕方がねぇぜ」
イワイは耳にワイヤレスイヤホンを嵌めて不平を漏らす。ハンドルを片手で握り、左手はガラスの無い窓から放り出されていた。そんな彼は辛うじて道と呼べるその整備されていない道路に四輪駆動を走らせている。
その口、そして同様に装備するイヤホンから重なる声を助手席で聞いた衛士は、手にしていた水のペットボトルを口にして、大きくため息を付いた。
――日本から飛ぶこと約一日。時差マイナス七時間であるヨハネスブルグについたのが、現地時間で午後二時、日本時間で午後九時であった。それだけで疲弊していたのにも関わらず、すぐさま端末に指示が走り、電子メールで与えられた『適切な手段を用いて北上せよ』との命を執行していたのだ。
選んだのは車をレンタルするという事。が、手続きが面倒なこともあって結局は中古車を購入することになった。
それから半日ほど車を走らせていると、やがて想像以上に都会的だった景色は一転、西部劇にでも出てきそうな荒野へと変異する。衛士はその見慣れぬ光景を眺めながら、足元に置いてあるバックパック内の狙撃銃をどのタイミングで組み立てようかと考えていた。
「おいエイジくんよぉ、運転変わってくんねぇか?」
イワイの提案に、衛士は簡単に首を振って拒否をした。
彼は暇そうに首元から股間部まで伸びるジッパーを上げ下げして、辛うじて肌が露出する部分に新鮮な空気を当てる。が、その部分が僅かに開くだけで、結局は完全に癒着している腕や足、首周りからその生地が離れることはなかった。
「だってMTだろ? 車に触ったこともないのに無茶言うな」
「おいじゃあアンナ、お前変われ――」
後部座席に居る彼女をミラー越しに睨みつけようとして、その存在が写っていない事に気づく。イワイはまさかと不穏に思って振り向けば、そこには彼と彼女のリュックを枕にして猫のように丸くなって睡眠を貪るアンナの姿があった。
それを見てイワイは大きく嘆息し、減速、徐行しやがて延々と真っ直ぐ伸びる道路の路側帯に停車させた。
周囲には道路と区別のつかぬような乾いた黄土色の大地。風が吹けば砂が舞い上がり、生ぬるい空気が全身を嬲ってくれる。
「なぁエイジくん。銃火器は持ってるか?」
「狙撃銃を持ってきたが弾は無いし、道具使わなきゃ組み立てられないレベルまで分解したから使えないんだな、コレが」
「ったく。この馬鹿女は放っておくか」
――停車して間もなく、背後から大地を揺るがすような激しい振動を伴って走行する大型トラックが近づいてきた。
イワイはミラーでその姿を確認しながら首を鳴らし、また大きく息を吐いてうんざりしたように口を歪めて目を瞑る。衛士はソレを見て、やはりあのトラックは強盗の類なのだと理解した。
こちらの方面での犯罪率は極めて高いと聞いている。それが旅行者ならば尚更だろう。
「てかさ、ここまで食いついて来るかァ? 普通ぅよぉ」
「はは、そういう文化が築かれてんだろ」
「っち。さすがに一般人に負けてくれるなよ、てめぇさまよ」
「相手が”一般人”ならな。軍人崩れとかだと分かんない」
「……心臓に悪い冗談だ」
イワイはつくづく不幸だと嘆くみたいにうなだれて――やがてトラックが緩慢な速度で四駆を追い抜き、その直ぐ前で停車したのを見計らって、彼ら二人は車を飛び出した。
「どうやらお望み通り、ただの強盗らしい」
「これで武器の文化レベルが石器時代から現代まで一気に引き上がったな」
ボンネットに肘を付くようにもたれかかるイワイは、トラックの影から小銃を構えてゆっくりと狙いを定める一人の男の出現を見て、たははと軽く笑った。
「なぁエイジくん。残念ながら彼らは”敵”のようだ」
「……?」
「つまり――協会の連中が早速殺しに来たって事だな」
衛士よりやや長身の男がそう言って逆立つ髪を揺らして重心を落とすのとほぼ同時に、敵が構えた突撃銃の銃口が火を噴くのを、彼は”視た”。
フロントガラスが割れて周囲の飛び散り、怯んだ隙を突くようにして数人が突撃してくる――それらを認識した衛士は、行動を起こされるよりも早くイワイへと咆哮んでいた。
「そいつに撃たせるな!」
囲まれれば抵抗の手段を失う。いくら個体でかなりの戦闘能力を有していたとしても、銃を装備する複数人を相手にするのは些か骨が折れる。そして今は、こんなところで労力を割いている場合ではないのだ。
「分かってるってぇ!」
イワイが屈み、小石を手にする。
衛士が言葉を失ったのは、その瞬間の事だった。
――衛士が視た未来が変異する。
顔を覗かせた男が発砲する筈が――トラックの上から肩に何かを担いでいる影が、衛士らを狙うものへと移り変わった。さらに質が悪いことに、ソレが三秒先の出来事となっているのだ。
予知は続き、放たれた榴弾が炎を吹き出し凄まじい速度で肉薄する。やがてそいつは鎮座する車体に衝突し――。
時間がない。焦燥に駆られた衛士は右眼の眼帯を剥ぎとりながら後部座席のドアを強引に開けた。
「上だ!」
叫び、イワイの注目をトラック上のRPG-7へ向けさせる。そうした頃には、されど時既に遅し。鈍く大気を激震させる発射音が轟くのを、衛士は現実で聞いていた。
一言も声を発する事が無いのにもかかわらず酷く呑気に穏やかな寝息を立てるアンナの足を力一杯掴むと、そのまま引きずるようにして引っ張り出し、そして車外へと勢い良く吹き飛ばす。衛士も倣って車から離れると、間もなく榴弾は車体の屋根を叩き潰し、同時にその身をひしゃげさせて、爆発。
鼓膜を破裂させんとする凄まじい破裂音と爆発音が入り交じり、また激しい閃光が網膜を焼き尽くす。衝撃波が衛士の身体を嬲って、彼の肉体はもんどり打って倒れ転がってしまう。その最中で、襟首を掴んでその転回を止めさせてくれる影が、前屈姿勢で大地にしがみついていた。
「不味いアンナ、イワイのところに!」
硝煙が立ち込め、加えて砂嵐が視界を完全に喪失させる。だが衛士の右眼はその程度で潰れるほどヤワな眼力を持っていなかった。上空から見下ろす視界をイワイの頭上に移動させると、彼は爆風によってよろけた所を狙われ、既にその頭部に銃口を突き付けられていた。
衛士が立ち上がり、彼女の前へ移動する。アンナはどうする? と言うように肩をすくめるところに、衛士はただ親指を立てて微笑んだ。
「オレの言うとおりにしてくれれば良い」
「衛士さん! 衛士さん――ッ! ダメ、応答しない!」
モニターに移る映像は、対戦車擲弾発射器から放たれた榴弾がガタが来ている旧式の車両を撃ちぬき爆発したがゆえに、煙にまみれて状況が不鮮明になっているものだった。
「ダメです、こちらも反応がありません! たぶん――爆発の衝撃によって機器に不具合が生じたのかと…‥」
――そう広くはない空間。壁際に並ぶ作業机の上にはモニターが置かれ、それが四つ並び、それぞれ四人が遠隔支援たるミシェルの補助となって働いている。
主な作業は映像、音声のデータ化、バックアップや状況の確認などとなっていて、ミシェルはそれらから得た情報を取捨選択し必要なものを直接現地組へ伝え、また即座必要となる適切な判断を彼女は下さなければならなかった。
ミシェルは彼女らの後方に鎮座する机に座り、並ぶ三つのモニターから映像、それぞれ三名の被害状況、電波状況などを確認していたが――やはり先の爆発以降、映像以外のそれらが一切遮断された事によって、彼女の為す術は失われていた。
電波妨害でもされているのかと思われたが、にしては映像が生きていることが不自然だ。そもそも仮に敵が協会連中だとして、上位互換の人間は一覧化してその殆どを把握しているはずだ。ならば支部からの命令で一挙手一投足を選んでいるとは、いくら何でも考えないはず。であればこの電波妨害は無駄な行為だ。
ならばやはり機器の故障が有力候補なのだろうか。
いや、だが何か引っかかる――。
「確認してみても、周囲十キロ圏内には電波妨害を起こせそうな装置はありません。やはり至近距離での爆発が原因だと考えるのが妥当です」
「……だとして、時さん方がこの戦闘を切り抜けて、故障を修理できるかしら」
「まずこの奇襲から逃れられるかが問題ですね」
「――信じましょう。戦いはこれからです!」
ミシェルが意気込んでガッツポーズを作ると、それぞれ嘆息が漏れて聞こえる。
その狭い即席オペレーター室は、間もなく沈鬱な、早くも通夜の雰囲気に包まれた。
硝煙を引き裂く弾丸が、まるで視界が鮮明であるように衛士の急所を狙って切迫する。が、既に自身の死を予知した衛士が、素直にその鉛弾を喰らってやる義理も無い。軽く上体をひねれば、弾は簡単に背後の虚空に呑まれていった。
バチバチと未だ燃え盛る車両。開けっ放しのドアから押し出されたらしいバックパックが、ボロボロでまたその表面を焦がしながらも無事のまま転がっていた。拾い上げればそれは衛士の私物で――彼はそれを背負ってから、
『動くな』
煙の中から現れた気配に、銃口を突き付けられてしまった。
『手を上げろ』
ぎこちない英語はそう告げた。
「はは、異国情緒溢れる歓迎だなぁ」
衛士は言われるがままに両手を頭の後ろで組むと、駄弁る暇もなく膝裏を蹴飛ばされ、崩れた関節はそのまま折れて地面に膝をつく。身動きは出来ず、武器はない。こういった場合の対処法は耳にタコが出来るほど、飽き飽きするほどに習ったし身体が覚えているが、敵の戦力が未知数である限り下手には動けない。
だからどうしようもなく捕らわれて、
『安心しろ。ヘタをしなければ殺しはしない』
「……協会か?」
『何を言っている。我々は――』
衛士を拘束する男の言葉を遮る様に、甲高い破裂音が辺りに反響し、旋風が波紋のように広がった。同時に熱風と、再び衝撃が辺りに撒き散らされて、燃え盛る車の付近に居たらしい敵の絶叫が響き渡った。
どよめきが生まれる。故に垣間見えた隙が、衛士には好機としか受け取れなかった。
衛士は振り返りざまに背中に突き付けられる銃口を弾き、鋭い裏拳を男の顔面に叩きこむ。
悲鳴。
うろたえ怯む男の手の中から小銃を引き剥がすと、衛士はすぐさま安全装置を確認する。そのまま相手の太ももに銃口を突き付け、発砲。瞬間的に肌が裂け肉が千切れ、血が液体ではなく霧状になって飛び散った。
絶叫。
倒れこむ男の頬をストックで殴り飛ばし、衛士は――ガソリンタンクの破壊を終え、さらにその手から伸びる帯にイワイを巻きつけて連れてきたアンナへと向き直る。彼女はどこか嬉しそうな微笑を持って、またどうする? とでも言いたげに肩をすぼめた。
――敵のざわめきはまだ生きている。
それもそのはず、車両のさらなる爆発に乗じて体勢を立て直しただけなのだ。劣勢から逆転したわけでも、また優勢に立てているわけでも勿論無い。だが出なおすことが出来たのは、上出来と言えた。
「イワイ、連中はなんか、協会とは違うみたいだ」
「あぁ、俺もそー思った。さっき捕まったときに探ってみたが、隠してるって風には見えなくてな」
「じゃあ何なんだ? 通り魔?」
「無差別で攻撃してくる辺り、みたいだがなぁ……目的が不明瞭すぎる。わけわからん」
アンナは飽くまで声を出さずに頷いた。
「たく時間も無いし」
「く、車も……壊れちまったし……なぁ。あれ自費だぜ?」
「あんな何時代の米軍の払い下げか分かんねぇジープなんだからいいだろ」
日本円で二十万ほどの安い車だったが、この国では割とぼったくられた方だろう。なにせただのAK-47が日本のおもちゃ屋でモデルガンを買う感覚と値段で手に入る地域なのだ。それほどの治安が悪いとも聞いていたが――通り魔が、まるで紛争が如き勢いで攻めてくるとは夢にも思わなかったのだ。流石に。
最も、通り魔というのさえも仮定で、目の前の集団は本当に正体が不明すぎた。
「他人事だと思いやがって……」
「お、なら丁度いいのがあるぞ」
「ン? どれどれ」
「ほら、あのでっけぇトラック」
おぉいいねぇとイワイが呆けた声を上げたところで、気がつく。舞い上がっていた硝煙は既に薄れ、敵の散らばっている影がよく認識することが出来ることに。
衛士はポケットから眼帯を取り出して右眼を隠すと、それからまた、指ぬきグローブをしっかりはめ直した。
「どうするリーダー」
イワイがそう言って衛士の背を叩く。
彼は鬱陶しそうに肩を回して首を振った。
「仕掛けてきたら叩く。つまり誘って、ぎりぎりのトコでカウンター気味に行けばいい。さっきので実力が大体分かったからな」
「だとよ、アンナ」
イワイが目配せすると、アンナは手に帯を巻きながら頷く。
衛士は小銃を構え、敵の突撃を待ったが――少しばかりの沈黙の後にやってきたのは、予想外の反応だった。
『降参だ』
バラバラと銃を落とすと、それぞれが音を鳴らして地面に転がる。
総数十人の彼らはやがて、皆が両手を上げて整列した。
『君たちが”機関”の人間だというのは知っている。何、機関というのを知っているのは何も政府や協会だけじゃない。裏の世界に居てソレを知らなければ、そいつはモグリさ』
衛士に足を穿たれた男は跪いたままそう言って――呆気無く、その手荒な歓迎は終幕した。