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離脱

研究施設内の一室にモニター室がある。外のどこにカメラがあるかはわからないが、その研究所からやや離れた路上で二人の男が血相を変えて戦闘をしている映像が、あらゆる角度からをあらゆるモニターに映しだされていた。

 その場には、およそエミリアが知るかぎりの上位互換アップグレードと、そして顔も見たことのない男女が数名並んでいた。恐らくそんな彼らも、同業者なのだろう。顔も知らない仲間というのは、こういった仕事柄割合に多いのだ。

「揃ったわね」

 横一列に並ぶ十数名の後ろで、アイリンが呟くように言った。されど、誰もソレに反応しない。というよりは、反応できないようだった。ただ皆が、目の前の二十以上はあるモニターのリアルタイムの映像に食いついていた。

 ただ、エミリアだけは列の端から背後へと下がり、連中の後ろからモニターを覗きながらアイリンの傍らに移動する。薄暗い室内故に、そう目立った行動ではなかった。

「どういう事なんだ? これは」

 押し殺す声は、せめて周囲に配慮したものである。

 天井に配置されるスピーカーからは、けたたましい打撃音や呻きなどが断続的に響いていた。

 凄惨な光景。なぜこんな事が始まったのか、成り行きさえも分からぬ本気の殺し合いは、武器がその肉体一つであるためにさっさと終わってくれそうにはなかった。

 見てて眼を逸らしたくなるのは、その両者をよく知っているからなのだろうか。

「イワイ・ヒデオは最後のチャンスを貰ったのよ。あの”耐時スーツ”は肉体に癒着するから、副産物を体内に取り込んだも同然。あとは何らかの条件を満たすか、きっかけだけで特異点への道が開かれる……。その相手に、彼は時衛士を選んだ。それだけの話よ」

「最後って……なんでそんな事に?」

「そうねぇ、簡潔に説明すれば――」

 衛士がまだこの機関に招かれる前の、試練の最後に彼が選ばれた理由。その前後の出来事を彼女は簡単に説明してやる。

 するとエミリアは驚いたように目を見開くが、そのうち何か自分の中で合点がいったのか、すぐに落ち着きを戻す。その視線は依然と、画面から離れずに。

「正直な所、あたしには闘いなんて良く分からないんだけど、トキくんが圧されてるわね。どっちが勝つと思う?」

「……奴は最後の最後に狙うタイプだ。勝負はわからないが……そう長くはない。おそらく五分以内に決着がつくはずだ」

 エミリアは珍しい顔合わせの連中の背中を流しみてから、恐らく彼らもそれを理解しているだろうと思った。だが、それを理解して尚、何を考えているのだろうかと不思議に思う。

 本当にただの珍しいモノを見に来たのか。特異点の戦闘に興味があってきたのか。それとも何か、もっと別の――。

 最後に壁際の端で背中を丸め、両手を祈るように握るミシェルを見て、エミリアは静かに首を振った。

 無粋な事は良い。ただ祈ることしかできないのならば、勝って欲しい方に祈るだけだ。

 イワイには悪いが……。

 彼女は深く息を吸い込んだ。

「どんな結果になると思う?」

 尋ねると、アイリンは肩をすくめるようにして首を振った。

「分からないし、予測なんて出来たものじゃない。トキくんがそれをさせてくれないわ……だけれど、少なくともこれだけで何かが大きく変わる。その予感は確かに感じるわ」


 肉薄、強打。

 避ける暇すらなく受ける拳は、重ねた両腕のちょうど交差点を打撃する。

 身体は吹き飛び僅かに大地から浮き上がる。踏ん張ることすら出来ぬまま、さらに音速級の第二撃が到達した。

 ――食いしばる。奥歯がじんと痛みを発した。

 イワイの振りかぶる拳は、肉体と同時に切迫。衛士の股に入り踏み込むその右足は、その全ての力、勢いを流動的に右腕に付加させた。

 そして抜かれる突きの一閃。

 着弾。

 凄まじい衝撃が衛士を多角から襲いかかるようだった。

 衛士はさらに宙を掻っ切って吹き飛ばされる。意識が僅か一秒もの時間を数える事も許さぬ速さで、衛士の肉体は勢い良く壁に激突した。

 後頭部を強打し、意識が飛ぶ。胸を押し潰されたように、肺の中の空気が強制的に排出され、吸う事もままならなくなる。喉が詰まる。気管の内壁同士がくっつき、癒着してしまったかのような苦しさ。

 鈍い、肉の中から全身に響く気分の悪い骨折音は最早聞きなれたものだった。

 今度はどこが折れたんだ? 腕か? 足か? アバラは困る。破片が内臓にでも突き刺されば、それこそ行動に差支えがある。苦しみが四肢の骨折よりも遙かに上だ。

 慣性が失せ、衛士の両足は地につく。反射的に咳き込めば、口からは大量の鮮血が、まるでバケツをひっくり返したかのように吐き出された。

 ――あれから顔面へのガードが強固になった上、反撃の余地を許さぬ変幻自在の拳が一挙に押し寄せる。オンパレードだ。その攻撃がどれほどの速度でどの位置に放たれるか視えていても、避けることができない。衛士には、その身体能力が欠落していた。

「これっぽっちかァッ? ああッ!?」

「んなワケ、ねーだろうがよっ!」

 しかしまだ、動けないわけではない。

 力をいれれば拳は作れる。腕を上げようと思えば、簡単に構えは作れる。苦しいが、歩くことも、走ることもまだ出来る。

 そう考えればまだ十分すぎた。

 痛いだの苦しいだのの一切は切り捨て。最優先事項は目の前の男。それが、この男が望むものに応えようと最後に衛士が決めたものだった。

 喘ぐように息を吸い込む。

 視界は未だ鮮明。イワイが再び肉薄するのを見て、衛士の身体はついに感覚タイミングが染み込んでいた。

 息を吸う。その最中に、滑るように横へ移動。その直後に、イワイの肉体は衛士が張り付いていた壁へと到達した。

 振りかぶる事なく脇を締め拳を振り抜く。壁を抑えこむように停止したイワイのその横っ面に、衛士の鉄拳がようやく炸裂した。

 そうして、跳ね返される反動を利用して後退。イワイの身体は、衛士の全体重を掛けても決して揺らぐことなく止まっている。

 ――高速が招く弱点は、細かな機動が不可能な所にある。

 ひたすらに、一途なまでに一直線。その威圧や読めぬ速度に圧倒されてなぶられ続けた衛士でも、さすがに数十回と食らえばいくらかは理解できていた。最も、その速さに慣れたのがちょうど今ということなのだが。

 だからこうして、僅かに横に移動すればイワイの攻撃は完結しない。

 しかし、それが素晴らしいアイディアには到底思えなかった。

 誰もが思いつく手段だ。それを、これまでであまりにも攻撃を受けすぎたのが、逆に恥ずべき事であるほどに。

 しかし――。

 肉体がそのまま兵器級の武器となりうるイワイを相手に、これまで銃やナイフを媒介にして人の隙を突いて戦ってきた衛士が裸一貫で闘いを挑むなんてのは、少しばかり、否、ひどく不公平である。衛士はそう毒づきたかった。ここまで耐えたのだから愚痴の一つや二つくらいは許して欲しいものだと思った。

 だが、衛士にはソレが出来無い。

 右眼の眼帯を撫でるようにして、それを示した。

 イワイがどれほど強かろうとも、衛士には”未来が視える”という随分なハンデが設けられている。むしろ、これで不公平などとは吐けぬ程に有利な状況なのは衛士の方だった。

 衛士は嘆息し、イワイの姿を捉えながら背後へと全力疾走。その最中に眼帯に手をかけ、そいつを剥ぎ取った。

 途端に、衛士の右眼には両者を見下ろす視界が広がる。

 これで移動は、少しばかり有利になったというところだった。

 背を向け、これより全力疾走。頭上からイワイを監視すれば、彼はちょうど衛士へと向きを替えたところだった。

 衛士は同時に横に飛ぶ。情けない回避行動。恰好もつかぬが、格好いいだとかどうだとか言える状況ではないし、今はコレでよかった。

 腹で大地を叩く。自発的に鳩尾を衝撃で穿ち気分が悪くなるが、それでもマシな方だった。

 その直後、衛士がつい先ほどまで走っていた軌道の軌跡を描くようにイワイが走り去っていく。その後に吹き荒ぶ旋風が、暴風となって襲いかかった。

 たったそれだけでも、体力が尽きかける。呼吸が乱れ、肩が激しく上下した。

 視界を注視。イワイは勢い良く通りの奥へと過ぎていく中で、大地を削るようにブレーキを駆ける。まるでドリフト走行のようだった。時速に換算すれば、およそ二○○キロ程は出ているのだろう。

「くそ……!」

 弱音が零れる。

 コレばかりは、本当にどうしようもなく自然に落ちてしまった。

 ふがいない。コレほどまでに実力に差があるとは――いや、わかっては居たが。認めたくはなかった。

 今しっかりと思い知らされる中で、ちょっとした絶望が心のなかに広がってしまうのを、衛士は抑えることができない。困った、ちょっと勝てないのだ。

 それが頭の隅であっても思ってしまえば実現してしまう。人が想像できることに不可能はないから。

 衛士は立ち上がりざまに大きく息を吐いた。空気を胸いっぱいに吸い込めば水月辺りに鋭い痛みが挿し込むが、この際気にしてなんていられない。

 勝てないならば負けなければいい。最低で相打ち、引き分けだ。

 捨て身を覚悟できれば後はなんてことはない。

 ちょっとだけやる気が出てきた。

 本当に、死ぬ間際まで粘る。もう五体満足で生き残るなんて甘い考えは切り捨てよう。

 こんな所での闘いは無意味に思えたが、それでも今は真剣な殺し合いだ。手を抜く、生き残る願望なんてのは邪魔なだけ。かえってイワイに失礼になる。これで負けて、彼が勝って、本当にイワイが満足するとは思えない。

 衛士は胸いっぱいに息を吸い込んだ。

 やってやろう。

 衛士が視る視界では、すでにイワイはこちらに向かって走ってきていた。

 そしてある一定の距離まで縮まった所で両足を揃えて大地を蹴り、跳躍。幅跳びの要領だ。

 ――衛士の右眼が、瞬く間に蒼い輝きを増幅させた。膨張だ。その反応は、スコール・マンティアと対峙した時さながらの勢いを誇っている。

 まさかナルミの状態がいよいよ危険になっているのか。あるいは彼女が覚醒したのだろうか。そう思って頭上から彼女を見下ろすが、ナルミは至っていつも通り、弱々しいながらも身を抱くようにしながら離れた位置で戦闘を観戦していた。

 ならば、一体?

 衛士が半歩横に逸れる中で、イワイとの距離は既に数メートルにまで縮まっていた。

 輝きが増す。

 イワイの突き出した右腕が、コートを引き裂きトゲトゲしく変異していた。

 勢い良く通過するイワイと、その通り過ぎざまに目が合う。視線が交差する。その瞬間に、衛士は理解した。

 この反応の原因は、確実にイワイだということに。

「衛士ィィィッ!!」

 大地に爪を立てて、火花を散らしブレーキをかける。鋭い鉤爪となるその腕は、まず肘から図太い刃状の何かを突出させていた。爪は伸び鋭利に細まる。まるで戦闘体形に変身したかのような姿は、恐らく肉体自体が変化しているのではなく、そのスーツを変形させているのだろう。

 それまで肉体強化のみを可能としていたスーツの変容はすなわち、その能力を自由にしている、つまり操作を可能としている事を教えていた。

 冗談だろうと、呟きたかった。零れそうになるため息をそのままに零したかった。

 だがそれは当分不可能だろう。

 衛士は飲み込み、対峙する。イワイは既に体勢を整えて走り出していた。

 上に着る革のジャケットを脱ぎ、衛士はそのまま襲いかかってくるイワイに放り投げて横っ飛び。そのまま横転して立ち直り、そのジャケットに爪を立て切り裂けずに食い込ませる姿を頭上から視ながら、衛士は走りだした。

 これでおよそ数秒の時間稼ぎは可能となる。

 だが時間を稼いで一体どうになる? 死期を僅かに伸ばしただけに過ぎないではないか。

 そうだ。ただ無闇に死ぬのを延期しているだけだ。

 イワイはペース配分が馬鹿になってきている。いくら何でも、アレほど動き回ればいくらかスタミナは奪えたはずだ。後は狙うだけ。後はその致命的な隙、ミスを狡猾に伺うだけだった。

 ――考える間に背後から迫る。

 凶暴な悪魔が鋭い爪を立てて肉薄。衛士の背に、その柔らかなそうで筋肉質な背筋に全てを切り裂く鉤爪を突き刺す。その瞬間に、衛士の姿は不意に眼前から消え失せた。

 そして足元に、巨大な障害物が生まれ、転倒。イワイはそのままもつれるようにして地面に叩きつけられ、全身を削るように地面に擦り付けながら数メートルの距離を滑走していった。

 横腹を力一杯蹴り飛ばされた衛士は、ついに五本目の肋骨をへし折られてしまった。喉の奥から鮮血が溢れる。意識が肉体から離れようとしている。だというのに彼の身体は何かに取り憑かれるように、無意識に立ち上がっていた。

 イワイが跪き、朧気で緩慢な動作で起き上がる。倒れてしまった今、彼は自分自身の疲弊に少しは気づけたのだろう。

 少年は精一杯走り、そして飛ぶ。直後に抱きつくのは、その悪魔の広い背中だった。

「が、てめえ様ッ!」

 勢いに押されてイワイは前のめりになる。

「うるせえっ!」

 その勢いを利用して右腕で男の首を包み、左腕で右腕を固定。素早くイワイの首を締め付ける恰好は、存外に易く成功した。

「はなせッ!」

 が、彼は構わず力任せに暴れだした。両肩を、上半身を激しく左右に揺さぶる。その激しさたるや、まるで何かのアトラクションにシートベルト無しで乗り込んだような感覚だった。

 視界がぐるぐると回る。身体が物理法則を無視するように浮かび上がり、そして横に吹き飛ばされそうにもなった。だがそれと同時に、衛士の腕は如実にイワイの首に締まり続ける。

 細く柔いビニール紐でも持ち続ければより強固になって喰い込むようなイメージである。が、

「うらァッ!」

 一度イワイは静止する。ようやく意識を手放したかと安堵する瞬間、彼は腰を上げ、立ち上がり様に仰け反るようにして反動を付けた。

 刹那、彼の上半身は綺麗なまでに振り下ろされる。凄まじい勢いのお辞儀は、それ故におぶさっていた衛士を、そのまま前方にはじき飛ばしていた。

 滑空。その後にその素肌を大地で抉られ滑っていく。血が滲んだガーゼのような後を残す路上はその痕を視るだけでも痛ましかったが、肉を剥き出しにした衛士の右の半身はより凄惨だった。

「ぐ……ぅっ!」

 燃えるように熱い。焼かれるように痛い。額から流れ出る鮮血が目に入ったのか、それとも眼球の毛細血管がちぎれたのか、視界が真っ赤に染まり上がる。確かで鮮明なのは、頭上からの遠隔視だけとなっていて――。

「え、エイジッ!」

 飛び出してきた影に、少年は思わず息を飲んだ。

 涙を流して心配し、駆けつけてくれたのはナルミだ。心が打たれるほどに嬉しい行動。この上なく、自分が幸せに感じる瞬間。

 だというのに、目の前には行動を開始しおよそ数秒後に完結させる予定のイワイが、再びこれまでと同様に翔けていた。

 違うといえば、やはりその異形の右腕なのだろうか。

 ――マジかよ。

 思わずそう言いたくなった。

 衛士は気が付けばナルミの肩を全体重を掛けて踏ん張り、押して突き飛ばしていた。それ故によろけイワイの軌道から外れた彼女は、その代わりとばかりに衛士をその場に置き去りにした。

 踏み込んだからもう動けない。

 イワイの姿は、既にその禍々しい右腕の照準を胸に当てて迫っていた。

 ならせめて、カウンターだ。

 衛士はみがまえ、拳を振り上げる。

 その瞬間、イワイの作った貫手は見事なまでに衛士の胸元に突き刺さり、そしてまるで粘土細工を貫くように容易く、簡単過ぎるまでに貫いていた。鋭い爪先が背中から突き出した。真っ赤に、燃えるように紅く熱い鮮血が、胸から、背から、溢れるように吹き出した。

 心臓が破裂したのだろう。また、折れてしまっていた肋骨が侵入を簡単にしてしまったのだろう。

 衛士はまるで他人事に考えて、吐き気を催した。

 構わない。吐いちまえ。そう思って口内に溜めた鉄の味をする液体を吐き出した。

 イワイの顔面にソレが掛かる。彼は不快そうにも思わず、ただ無表情に衛士の目を見据えていた。

 彼の瞳に反射する衛士の右眼の鬼火は、その勢いを薄れさせている。今にも消えてしまいそうな、風前の灯だった。

「なぁ、イワイ」

 声が出る。しゃがれた、喉が潰れたような声だったが、それは確かな言葉となった。

 なぜ声が出せたのかは甚だ不思議だ。もしかしたら、頭の中で思っているだけで口からは出ていないのかも知れない。

 それでも別に構わなかった。

「これで終いだ。いいだろ、もうお前は」

「……! 衛士、てめえ様、まさか……」

 虚ろな瞳を見て、イワイは我に返ったように声を出した。

 奇妙な台詞だ。まさか、総てを見透かしていたかのような言葉に、思わずぎょっとする。

「お前が悩んでたんだ。大層な事だとは思ったが……オレには、よく分からなかった。すまん、ごめん」

 意識が暗転する。

 保っていた全てが、その瞬間に崩れ落ちた。

 ――衛士が死んだ。

 それを目の当たりにして、自分がこれまでにした愚かなことを自覚した。

 自分の為に人が死ぬ。自分を友人だと言ってくれた、そして自分が”守ろう”と思っていた男が。

「衛士、てめえ様……」

 呼吸が乱れる。

 なぜ俺はこんな事をしているんだ。なんでこんな事になっているんだ。なんで、どうして、俺は、俺は――。

 心臓が高鳴る。それこそ破裂してしまいそうな程に――今自分が、そうしてしまったように。

 殺すことに、これほどまでの重圧が、罪悪感があるとは思わなかった。

 まさか死ぬとは思わなかった、なんて言いわけにはならないだろう。

 イワイは衛士の肩を掴み、右腕を引きぬく。返しとなるような無数の刃が、その際に衛士の腸をズタズタに切り裂いた。

 彼が己の体重を支えていた脚は、その膝を勝手に折って倒れていく。べチャリと、水を含んだ雑巾を落としたような音がした。

 少女の甲高い叫び声が、再び支配し始める静寂をかき消した。


「イワイ、貴様……!」

 そこから少し進んだ所にある研究施設からまず飛び出してきたのは、エミリアだった。

 その手には拳銃を、腰にはナイフを携える。だが、今の彼女には到底負ける気などはしなかった。

「遅かったじゃねえか。いや、”早かった”のか?」

 いつもの軽口。右腕は、もういつも通りに戻っていた。

 彼女は衛士の死体を一瞥し、されどそこから視線を外せない。顔を真赤にして、衛士の死体を抱いて泣き崩れるナルミを見て胸を打たれているのか、純粋に衛士の死を認められないのか。

 仲間の死を幾度も見てきた彼女だから、まさか後者はありえないだろうとイワイは思った。

「助けたかったなら助けられたはずだろう。見殺しにしたお前に俺を責める義理はない」

 声をかければ、彼女らしくなく肩を弾ませるようにして顔を上げ、またイワイをにらむ。恨みが篭るその視線を、彼には拒絶する理由がなかった。

「何も言えないなら口を出すな」

「――いいえ。大いに出させてもらうわ。イワイ・ヒデオ」

 脇から大声を出して周囲の総てを持っていく声は、アイリンその人だ。

 特に誰を連れてくるわけでもなく、特にこれといった武装も無く。ひたすらに無防備で、それでも酷く余裕ぶった表情で彼女はエミリアの隣についた。アイリンは衛士の死体をちらりと見るなり、どこか哀れそうな顔をして、またイワイへと向き直る。

「まず言っておくけれど、ナルミ・リトビャクの本質的な能力は”成長”よ。時間加速と言えば、特異点の性質にあうのかしら? 彼女の能力がまたうまい具合に発動すれば時衛士は蘇生する……ま、五分五分ってところだけど。肉体の鮮度から見て一、二時間が限界かしら。それ以降の蘇生は確実に失敗するってことね」

 最も、その能力は未熟で完全ではない。衛士のように確立され、そこから成長段階に至る以前の状態だから、これ以上能力を使えば彼女の肉体が朽ちていくだろう。死ぬというわけではないが、能力故に限りなく高かった生存確率が低くなり、相対的に死の可能性が高くなるというものだ。

 もしかすれば、半永久的な眠りにつくことがあるかも知れない。が、衛士が助かるとなればナルミとて望むべくだろう。

「……だから放置していたのか? 結局、こうなることを見越して」

「貴方からの質問は受け付けない。こっちは口を出すと言ってるの。一方的にね」

 得意げに指を鳴らし、イワイを指さす。

 どこか安堵したような、それでも油断ならぬ状況に複雑な顔をするエミリアを見て、アイリンはどこか申し訳なさそうにまゆ尻を下げた。が、彼女はその調子でも構わず続ける。

「貴方は限りなく特異点に近づけた。そのスーツの性質も、完全に把握し操作出来るほどまでにね。だけど特異点にはなれなかった……残念ながらね」

「俺を処分するのか」

「それは早計だし、今を見るには惜しい選択ね。愚かなほど。だから期限を一年間伸ばす事にした」

「……一年間?」

 頷く。彼女は屈み、いつまでも泣きじゃくるナルミの頭を撫でながら返した。

「その間、機関リリスから追放し、そして機関の人間との接触を禁止する。接触した場合はその時点で回収、その貴重な素体を実験体サンプルに使用する」

「その一年間で、特異点になれと?」

「出来るでしょう? 死ぬ気になれば、人はなんでも出来るのよ」

「そ、そんなの……」

「トキくんを見てたのに、それを否定するつもり?」

 彼女の言葉に、イワイは思わず口ごもった。

 そうだ。時衛士は何でも出来た。弱いくせにそう思わせる雰囲気があった。

「――そいつを、生かしておくつもり?」

 怖気が走るような声は不意に放たれる。

 誰もがその声の主に注視すれば、ナルミは衛士の胸に顔を埋めながらつぶやいていた。

「エイジを殺したそいつを殺さないで誰を殺すの? 生かすの? 殺すんでしょ? なら私が殺すから。お願い、誰か、誰もとめないでね」

 血に塗れる少女は、そういって衛士の唇に貪るように吸い付いた。よだれが零れ、口の端から垂れて流れる。それは紅く染まり、見るだけで血の味が鼻腔を突き刺すようだったが、既に血のにおいで充満しているせいで鼻は麻痺していた。

「エイジ、はっ……んんっ、お願い、勇気、ちょうだい!」

 舌を動かし、衛士の舌を舐め尽くす。おぞましいカリバニズムにも見えたが、それが彼女なりの愛情というわけなのだろう。

 イワイは背筋を凍らせながら、それを理解した。

 その中でアイリンは、衛士の胸を指してエミリアに注視を促す。彼女は嫌々ながらもそこに視線を流せば――止まっていた血流は再び始まり、胸の血溜まりの中で何かが蠢くのを見た。

 肉が、増幅する細胞が傷を塞いでいく。気色の悪い光景は、そのせいで当分は肉食を敬遠しなければならなくなりそうだったが、同時に目頭が熱くなる。言葉にならぬ情動が胸の中で渦巻いた。

 エミリアは目頭を抑えてうつむき、アイリンは肩をすくめた。相変わらず熱い接吻を交わすナルミを彼女は一瞥して、それからまた、イワイへと視線を戻した。

「”暴走”したバツでもあるし、トキくんの気持ちをよく受け止める必要もある。貴方だってまだ、精神的に未熟なんだし」

「……だがな、俺は特異点になればこの組織には戻らない」

「好きにすればいいわ。本来トキくんが”そう”なる予定だっただけだし」

「なら伝えておいてくれ。衛士、俺とお前は確かに友達だった、と。それと、強くなったら会いに来い」

「ふふ、貴方、自分の立場を忘れてるでしょう?」

「知らねえな」

 彼は言って、いつもの調子で嘯いた。

 祝英雄の地上への転送は、それからおよそ五分後に開始される事となる。

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