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躊躇

 ――意識は、まるで身体が鉛に包まれて海に投げ込まれたかのように、深く落ちて浮かび上がらなかった。どれほどの刺激が外界から与えられようとも、時衛士の覚醒は、精神内にて体感する時間にして数日分を要していた。

 その間に見ていたものといえば、特に無いというのが正直なところだ。

 空虚で、何も無い闇。いつもどおりの孤独。時間の経過を感じながらにして、それを気にすることも、暇だと、窮屈だと嘆くことなく一点を見つめている。されど、酷く寂しいだとか、強い喪失感だとかは気が付けば失われていた。

 あれほど感情の暴発、激流を真正面から受けたというのに、その心は穏やかなまでに静かであり、またどこか安堵したように落ち着いていた。何かを得たような充足感、さらに奇妙なまでの満足感さえある。

 起きたら、嫌われていたとしても今度はこっちからナルミの元へ歩み寄ろう。アレほどまでに崩れた信頼を取り戻すのは容易なものではなくとも、それをやってやろうという燃ゆる情熱がそこにはあった。

 それは償いという意味でもあるし、何よりも、それが彼女と己の為のように思えたからだった。


「……起きろ。起きろ、時衛士」

 頬を叩き覚醒を促す。

 既に空間内の異臭には慣れたものの、彼女はいわゆる”男臭さ”には眉をしかめるしか無かった。

 やがて眉間にシワを寄せる衛士に少しばかり安堵する一方で、視線が自然に少年の股間部へと泳ぐ。

 屹立した一物は一糸まとわぬ姿でそそり立ち、そして”そういった行為”があったことを教えるように彼の全身はしめ縄で雑な簀巻き状態で拘束されていた。

 殺風景な一室。

 そこに居るのは時衛士のみ。

 コレを、彼にどう説明すればいいのか……考える中で、衛士はおよそまる一日ぶりに目を覚ました。

 慌ててぎこちなく、不自然に寝台の前にある壁を注視する。熱くなる頬を、そして網膜に焼き付くその幻影シルエットを振り払うように頭を振って、衛士に対応した。

 言葉にならぬまま呻くのは、全身を締め付けてなお鋭く食い込む縄によって与えられる痛みもそうだし、起き抜けということもあるからだろうか。

 彼女は肩から滑り落ちるタンクトップの肩紐を持ち上げながら腰のナイフカバーからナイフを抜き、縄を切断し始めた。

「んん……エミリア、さん……?」

 ――肌寒い。

 まず始めに感じたのはソレであり、強い気配を覚えた衛士が視線を流せば、そこには鈍い照明に照らされる褐色の肌が見て取れた。

「ようやく起きたか。現在の時刻は午前八時。恐らく、一日ほど経過している筈だが」

 声は下の方から聞こえてきた。

 一度では、短時間では理解しきれぬその情報は、単に寝起きだからという理由だけではないはずだ。衝撃とも言える時間経過。ただ、仮眠とばかりに目を瞑っただけなのに、気が付けば丸一日に届く時間は……。

「状況を見れば、ただ無作為に過ぎたわけではないという事は理解できるな?」

 思考の先を、エミリアが口にする。

 一本の縄のいくつかの箇所を切り裂くと、痛みはようやく軽減されて窮屈な拘束が解けて肉体は解放される。そのおりに気づいたのが、自身が全裸でいるという事と、そう広くはない寝台に寝ているのが自分一人という事だけだった。

 ナルミが居ない――それに、妙なほどに嫌な予感を覚えていた。

 心臓が高鳴る。胸が、チリチリと焼けるように焦燥していた。

「オレは……、そ、そうだ! エミリアさん、ナルミは一体どこに?」

 適当に投げられる布団で衛士の局部を隠す彼女は、それから縄を床に捨ててナイフをしまう。彼の質問を受けながら背を見せたエミリアは、思った通り”何も知らない”という事実に、短く息を吐いた。

「彼女は”副産物に近いもの”を肉体に取り込んだ上で、恐らく特異点へ進化する条件を満たした。現在では貴様がそうなったように高熱に侵され、病院にて絶対安静されている」

「ふ、副産物って……どうして、また」

「知っている筈だ。貴様の肉体はいわば副産物の上位互換、人という個体に副産物能力を併せたような存在。つまり、特異点とは副産物と変わりがない。彼女はその一部を体内に取り入れてしまった。最も……やはりと言うべきか」

 彼女はそこで言うべきか否かと迷った言葉を、結局飲み込むことにした。

 台詞を流し、されどそこまで説明すれば衛士にも理解することが出来た。

 布団を剥いで寝台ベッドから飛び降りる。そうしてそれまで自身が寝ていた寝台を見れば、乱れたシーツの一部に、まるで垂らしたかのような数滴分の血痕があった。それが、それまでにあった”行為”の事実を示していた。

 それは覆しようがなく、されどこれまで一切記憶はおろか意識すらなかった自身に、ただ驚愕し、また失望するしかなかった。

 そして注意すべきは彼女の言葉。その続くであろう空白の部分。

 衛士が勢いよく振り向くと、その胸元に勢い良く下着とジーンズを投げられた。彼はエミリアに背を向けせめて下半身だけは衣服に包むと、それはともかくと告げる。

「ナルミは、オレが入院していた病院に?」

「訊いてどうする? トキ、貴様が行った所でどのみちリトヴャクは眠っている。仮に起きていたとしてもあの熱だ、意識がまともに保たれるわけでもなし、判別、認識とて曖昧な筈だ。それに……」

 これで生き残れば、ナルミ・リトヴャクは晴れて特異点となる。しかし女性が特異点になったという前例は無く、現時点での彼女の状態に持っていくことはある程度適正と才能、精神的なタフさがあれば容易であったが、それ以降が問題だった。

 あの高熱。肉体を蝕む発熱は、細胞一つ一つを虱潰しにかかるように殺していく。ソレに耐えられた女性は未だかつて存在しない。その多くが、早くて一日、長くて数日に及ぶソレの中で力尽きていくからだ。そしてまた、その苦痛の中で生きることを諦めてしまう事もあった。

 これほどまでの苦しみを乗り越えて得た能力ちからで何ができる。否、正確には、そんな能力を得た所で一体何がしたいのか。全てはそう考え、その力に固執する必要がないことに気づく。そうやって己を追い詰めていく彼女らは自害か、あるいは衰弱などで命を散らしていった。

 ならばナルミは大丈夫なのか?

 そうにエミリアが問うても、衛士は即答することが出来なかった。

 ――気持ちは伝えた。しかし結果的には限りなく彼女を追い詰めてしまった。それ故に起きた行動によって現在に至るのだ。

 それまでが拒絶だったがために、勘違いは解消されていない。その為の失望は恐らく想像を絶するものだ。だからこそナルミは……。

 考えは堂々巡りに至って、衛士は深くため息を吐いた。

「仮にここで生き残れたとして、仮に後遺症も無く元の生活に戻れたとして、果たしてリトヴャクは戦場に戻れるのか。精神的にも健康なままであったとして……トキ、貴様のように戦場に、力に固執するわけでもない。だというのにわざわざ危険に身を投じる覚悟が、再び持てるだろうか。ただでさえ、今回のような行動を起こすほどに不安定だ」

「望まないならわざわざ向かわせなくたっていいでしょう」

「ならば生活ができないな。特異点としての研究に加担するだけだとしても、だ」

「オレが責任をとります。どっちにしろ、そうしなきゃいけないんだ」

 好きな人は守らなければならない。

 それはある種の使命感のようなものだった。

「ソレを望まないとしたら?」

「……っ、そうか、オレはまた独りよがりが過ぎて……」

「貴様は、本当に日が増すごとに、いや、分刻みで腑抜けていくな。少なくとも、ある起点イベント――たとえばこの機関を訪れた際だったり、特異点になった際――の前後の方が随分と信念があった」

 しかし人と親密になればなるほど、何かを失えば失うほど行動は慎重になり、他人の顔色を伺うようになっていた。本質的には特に変わったことは無いとは言え、人付き合いは随分と下手糞になってしまっているのだ。

 それが招いた事と言えば……。

 ろくなことは、一切なかった。

「正直私はよく分からないがな。以前も言ったが、そういった事は全くの門外漢、さっぱりだ。しかし彼女、リトヴャクは貴様が嫌がったら、その雰囲気、顔色を伺い機微に感じ取って身を引いたか?」

 彼女はどれほど、心から鬱陶しそうに表情を歪めても付いて離れることはなかった。

 それは、単に冗談で嫌ったフリをしているのだからと、衛士はそう認識していたのだが――それはどうやら甚だしい思い違いであるらしいことを、いま理解した。

「私は貴様のこれまでの選択を望まないと言っておくが……。貴様は、一生をこの機関で終えるつもりなのか? これまでの貴様がそう思っていたとはわけではないだろうに、今は違う。周りに取り繕って必死に馴染もうとしている。確かに、自分の居場所を作らなければ生きて行けないだろうし、そうするなとは言わない。だが、な……らしくないな、時衛士」

 肩をすくめ、彼女は首を振った。

 らしくない。それを受けて、衛士は自分がなんなのかよくわからなくなってしまう。

 らしくないって何だろうか。今の自分が自分らしくないならば、今の自分は一体何なんだ?

 オレは何をすべきで、何をどうするべきなのだろうか。

 これ以上失って、そのせいで皆が離れていくのをただ呆然と見送るだけなのか。

 ようやく作ったこの居場所で、せっかく自分を認めてくれた仲間たちの期待を裏切って、ならせめてと取り繕ってきたのに、その全てが水泡、水の泡になってしまったら――。

 考えられない。そんな事態になってしまったら、もう自分がどうにかなってしまいそうだ。

 もし彼女が示して理解したとおり、己の想いを尊重したらどうなるだろうか。

 それが男らしい、自分らしい行動だったとして、それが全て良い方向に向かうとは……。

 思考して、そして苦悩して、それらを包むもやもやとした不快感を覚えながらも、衛士はその中に一筋の光たる答えに触れた気がした。

 良い方向に向かうとは限らない。

 それは当たり前のことだ。だからこそこんな状態にもなるし、だからといって、これ以上悪化するとも限らない。

 失敗は誰しもするし、それを恐れていては前に進めない。

 生きる上では基本的なことだし、何よりもこの日常は任務などではない。失敗してナンボなんて事も多々ある。

 その事を、今まで忘れていたように思う。

 己の思うとおりに動けばいい。もちろん場合にもよるが、それが自分が一番後悔しないやり方だ。

 ――エミリアは、濁っていた時衛士の瞳がいくらか澄んだのを見て、安心するように息を吐いた。

 どうやら腐らずに済んだらしい。よかったと、胸をなで下ろす。

 誰と交際しようが彼の勝手だし、誰を孕ませようとも――それが可能で、その上で責任をとれるのならば――勝手にすればいい。しかし、責任を取るという決意はして、実際にそれが出来たとしても、ウジウジと過去を振り返り後悔するような男には同僚、友人を渡すことはできないのだ。

 認めない。

 それが例え眼前の少年だとしてもだ。

 ここまで言ってもまだ分からずに、前に進む方法さえも忘れて気を紛らわせるためか、あるいはそれが正しいと信じてがむしゃらに走るようだったら仕方なく鉄拳制裁しかないと思っていた。

 今の彼は何よりも弱い。

 技術的なものではなく、精神的なものだ。

 一度乗り越え鍛えた刀剣のように頑強になったと思われた心は、気が付けばサビつき脆くなっている。その原因と云えば、まだ完全に正常になったとは言えない心で下手に特異点能力ちからを得て、この機関での立場が確立したからだと言えるだろう。

 不安定な中で己の居場所が出来て、また自分にとって一番適切な技術を向上させることが出来た。それ故に、自身の強みが彼の中で生まれ、確かにそうだと納得すること、理解、認識した。

 しかしそれを周囲がどう思うか、どうしようも無く不安に思う。

 だからこそ取り繕った。だからこそ、周囲に合わせた。まだ整っていない精神状態で得たその環境は、時衛士にとっての全てになってしまったから。

 それを失うことは、全てに於いて何よりも優先的に防がなければならないと、無意識がその選択をしていた。

 それによって得たのは協調性。

 それによって失ったのは自我。信念。

 残念な結果だと思う。

 時衛士に至っては、他者との連携をとって戦闘することは確かに大切だろうが、その実力の殆どが個人活動の折りに発揮される。それ故に協調性などは無駄の極み。あって良いことがあっても、それに寄り縋って中心に考えてしまえば本末転倒だ。

 もっとも任務ではそういった事は無いのだが――機関の中でしか生きられず、従うしか無かった者たちが時衛士に惹かれた理由は、その機関など知らぬというあからさまな”不敵な態度”だ。

 消されても、殺されても構わない。機関に生かされているのではなく、機関に来てやったのだというその姿勢が、どうにも印象的で斬新に見えたのだ。

 今ではその為に、そうそう関連のない一般の戦闘員にも愛好者ファンが居るほどである。

 最初から今までを見守ってきたエミリアが考えるそれらは、恐らく間違っていないだろう。だからこそ、周囲に失望させるよりも早く、眼を覚まさせることが重要になっていた。

 ただ、彼女がここに来た理由は単に、重力子の反応が極端に強くなったから見てこいと命令されたからなのだが。

「ま、正直な話、ミシェルよりリトヴャクを選んだのには驚きだがな?」

 冗談っぽく言ってウインクをする――と、彼女はなぜウインクまでしたのかと自分に疑問を抱いた。

 これではまるで背中を押しているようではないか。これではまるで、彼を思ってわざわざここに来たように思われてしまうではないか。彼を大事に思っているように思われては、甚だ不服だ。元の調子を取り戻すのならまだしも、調子に乗られてもイラつくだけなのだ。

「オレ、ナルミの所に行ってきます」

 しかしそんな心配もよそに、彼は真っ直ぐな瞳でエミリアを見据えた。

 まるで娘の父親に婚約の許可を貰いにきた男のような雰囲気を醸し出す彼だった。

「行ってどうするつもりだ?」

「一人ってのはやっぱり不安なんですよ。仮にナルミがオレの事を見えなくても、分からなくても、オレはずっとナルミのそばにいる」

「ふふん、結局それも独りよがりだな」

「えぇ。ですけど、前よりもずっと前向きです」

「ああ、そうだな。それでいいんだ――っと、勘違いしてもらっては困るがな。私は貴様ではなく、純粋に同僚であり後輩でもあるリトヴャクを心配しているだけだからな」

「ははっ、エミリアさんでも心配ってするんですね」

「……やはり貴様は」

 調子づくと面倒くさい。

 彼女は今更それを口にするのも煩わしくなって、肩をすくめて嘆息した。

 最早言うべきことは何一つとしてないだろう。これもまた面倒だが、アイリンに報告してからまた一寝入りでもしよう。

 彼女は踵を返して玄関へと向かう中で、背後から深く頭を下げる気配があった。

「ありがとうございましたっ!!」

 ――訓練過程は終わったというのに、もう同僚だというのに、この少年にはまだ教えることが腐るほど在る。

 どうにもあれほど嫌だった教官役というのが、今更になって板についてきてしまったらしい。

 エミリアは自然に口元に浮かんだ笑みを携え、振り返ることなく手を上げ、彼に応じた。

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