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まだ日常

 自堕落な惰眠。

 今はそれすら許されない。

 身体に染み付いてしまった習慣が、このたかが七ヵ月で刷り込まれた生活が、如何に疲弊していようとも精神をすりつぶしていようとも、日本時間の午前四時に意識を覚醒させてしまうのだ。

 また二度寝に就くことも出来るだろうが――この機関に来てから、二度目からの寝覚めが心地よかった例がなかった。それがたとえ休暇中であろうとも。

 だから、晴れて狙撃の技術を会得した衛士は今日から一週間の休養を許されたわけであるのだが、例に倣ってその時間に目を覚ましていた。

「……あー、慣れねぇな」

 身体が沈む柔らかな布団。高い寝台。傷一つ内キレイなフローリング。

 常時外の明かりを取り入れている窓に沿って置かれる寝台から降りて、近くのシンク台へと近寄った。

 そこにはガス台もあり、またシンク台と壁に挟まれるようにして冷蔵庫もある。衛士はそこで洗顔、歯磨きなどの整容を終えてから、日課のトレーニングを開始した。

 ――衛士がこういった比較的まともな部屋を使うのは、この機関に所属するようになって初めての事だった。

 それまでは訓練兵として寮に住まい、打ちっぱなしのコンクリートが目立つ部屋で、広さとしてはシングルベッドの一回り程度。また寝台は低く、マットレスも硬く。まともな睡眠が取れぬ環境であったが、今ではそちらのほうが恋しく思うほどであった。

 

 ――地下空間。

 そこは日本の関東圏から地下五○○メートルほどにある広大な空間だ。

 『世界抑圧機関』日本支部はそこにあった。他にもアメリカ、ドイツに支部はあるが、特に目立つ本部というものは存在しない。それは、それぞれが同等の権限を持つことによって面倒な反抗心を持たせぬことが目的ゆえに適当な均一的な関係にあった。

 そもそもこの機関が戦闘能力開発に於いて作り出した”異能系統”の技術が、そうせざるを得ない状態にしているのだ。

 異能――現在では、時空間を切り裂く『次元刀スプリット』や射出した弾丸を任意のタイミングで停止させる事のできる『遅延弾丸スピードローダー』。そして使用者の数だけ無数に存在する、肉体強化が主の『耐時スーツ』などがある。

 これら特殊な効果を持つ道具を『副産物』と呼び、またそれぞれを使用出来る人間も限られている。

 適正者と呼ばれる人間がそれらを使いこなす事ができ、適正の無い人間が使えば一時的に自意識喪失し、暴力的に暴走トランスする。

 その適性の無い人間は、この機関では戦闘員、あるいは研究員となってみな精を出していた。

 そして『特異点』と呼ばれる存在は――それら副産物を体内に取り込みある幾つかの条件を満たすことによって、道具を介さずにその個体が特異能力を持つことが可能となっていた。

 そしてこの、日本支部でも――来日している特異点を除けば――ただ一人の存在である彼は、

「あぁ、ったく」

 上位互換アップグレードと呼ばれる、適正者の中でも一等実力を持つ格式高い集団に属していた。

「誰だ、こんな時間に――」

 不満を漏らす。

 それを遮るように、衛士が向かった扉の向こう側で誰かが呼び鈴を押したのか、ぴんぽーんと頭の中にまで響く電子音を鳴らしていた。

 脱いでいたシャツを適当に着て、洗面所からジーンズを引きずりだす。衛士はそれから首にタオルを巻いて垂れ流れる汗を拭いながら、鍵を締め忘れた玄関を開けてやった。

「――ん? あ、あぁ。奇遇だねぇ!」

 と声を上げたのは、何を隠そう来訪者の方だった。

 何を以て奇遇なのか。何故最初にまるで知らぬ顔をしていたのか――頭を抱えたくなるような女性は、かつて戦場で肩を並べ背を合わせて以来親しい友人となった『ナルミ・リトヴャク』であった。

 セミロングの透き通るような金髪はそれでも、もみあげ辺りから後ろに回し纏められている。青い宝石の様な瞳を輝かせて、彼女は満面の笑みを浮かべていた。

 地下故に立体映像ホログラムである青空から照射される太陽が如き照明は、もう季節は秋ということもあって鋭い。という風に感じるのは気のせいで、実際に変わっているのは些か肌寒く感じるその気温だけだった。

 ナルミは寒そうにとっくり首の網目が大きいセーターを着こみ、下には太ももにぴっちりと張り付くようなスキニージーンズを履いている。そんな彼女が胸に抱えている紙袋には、正直嫌な予感しかしなかった。

「今、何時だか言ってみろよ」

「えー? っと、四時……三○分ちょい過ぎ」

 ポケットからタッチ式の通信端末を取り出し、言われた通りの時間を確認した彼女は悪びれた様子もなくそう告げて尚、

「でももう起きてたでしょ? 知ってるよ、僕は」

 なんて、どう好意的に捉えても図々しい台詞を吐き出してみせた。何故だかごく自慢気に。

「ったくよー、随分と女らしくなったと思ったら、何だ? そりゃあ」

「いーじゃんーじゃん? せっかくの休みでしょ? 僕もそうなんだよ」

「仕方ねぇな……寒いだろ? 上がれよ」

「へへへ、優しいねぇ」

 衛士が身を引くと、彼女は玄関に上がりこんで鍵を閉める。それからその場で衛士の肩をつかんで支えにして、寄りかかるように靴を脱ぐと、そのまま朧気な足取りで居間へと誘う青年の後をついていった。

 それからおざなりに設置してあるテーブルに茶色の紙袋を置き、汗でも拭うように額に手の甲一閃を引いてから、椅子へと腰を落とした。

 衛士はその対面に座り、不安が募る袋を睨みつけていた。

「なぁ、真っ赤な噂にお前がまさかの料理を始めたと訊いたんだけどさ」

「ははっ、なんだよ? 真っ赤な噂って。でもよく知ってるね」

「エミリアさんから聞いた」

「ったくもー。エミリーも割と堅物なのに口軽いなぁ。エイジを驚かせてあげようとおもったのに」

 ――エミリアとは、訓練兵時代に最も世話になった上司であり、また上位互換になった今は肩を並べる同僚となっていた。いわゆる腐れ縁状態にあって、どうにも気が合うのか合わぬのかよくわからない関係にある。

 上位互換の女性メンバーは割合に仲が良く交流が多い。そしてエミリアと、彼女と同じく訓練兵の教育に当たっていた男性との交友があり、その男性と衛士との流れもあった。そういった一連があって、またエミリアとの定期的な接触もあるお陰で、大体の話は届いている。

 だからこそ――その丹精こめて作られた料理が、込められた思い分だけとんでもなくケミカルな味になっているという情報を、衛士は忘れることが出来なかった。

「いやあどの道驚くと思うけど?」

「でもエイジはわざとでしょ? 知ってるよ。他の女の子にもそーやって優しくしてるのは」

「ほ、他の女の子ったって。そこまで知り合いに女の子いねーって」

「ううん。訓練兵の時の女の子だって、キミは格好いいし”あの時”の事があるから結構良い感じに見られてるから、偶然を装って声かけられてるし。僕、見てるから」

 彼女は袋を手にとってがさごそと手探りで目的のものを見つけるようにして、ようやく重そうに、何かが大量に収まっている、袋の形状を取る包装紙を取り出した。

「なんだと思う?」

 彼女は袋の口を留める針金を解き、中から黄土色の平べったい、手のひらに乗る程度の大きさの焼き菓子を取り出して見せる。衛士はそれを注視するような真剣な眼差しで睨み、ややあって、口を開けた。

「十中八九クッキーだな」

 およそ認知出来るのは、衛士が今まで生きてきた中でその物体がクッキーという菓子に外観が類似しているということだ。ならばそれがクッキーなのかと問えば、否とも言える。それは非常にクッキーに良く似せた他の食べ物である可能性があるからだ。

 こと、手料理に良い評判を聞かぬ彼女の手作り菓子であるからこそ生まれた発想だが、だからといってその御託を調子にのってべらべらと並べる必要はない。

 今求められているのは正確な答えではなく、彼女が何を作ろうとしたかであり、実際に思い通りにそれが作れているか、主観ではなく第三者の観点から見ても正しく目的の物が目的の物通りに見えているかが大切なのだ。

 だから衛士がそう応えた。

 ナルミは途端に花が咲いたように明るい笑顔をつくって、「よかったぁ」と胸をなで下ろしていた。

「残った目も節穴じゃないみたいだねー」

 眼帯に視界を塞がれない左目を指さして、彼女はどこか意地の悪い少女のように冗談っぽくクツクツと肩を震わせて笑う。そうしながら袋の口を衛士に差し出して、クッキーを促した。

「あーんって、したほうがいい?」

 先ほど出したクッキーを指でつまむと、大きな口を開けてそう告げる。衛士はそれをかっさらうようにして受け取ると、じっとりと睨まれるような視線を受けながらそれを口にした。

 唇に触れるそれは乾いて固い。歯で噛めばひどく懐かしい食感があって、力を込めればそいつは容易に砕けて口の中に散らばった。衛士は手に残ったかけらも一緒に口腔に放り込んで、溢れる唾液に混ぜてじっくりと咀嚼する。

 じんわりと広がる甘さ。特に目立つことのないバニラの風味に、程良く溶けたバターの味が心地よい。

 聞いていたケミカルさの一切は無く、市販のクッキーと相違ない、否、手作りだからこそある気分的な高揚や暖かさがそこにはあった。

「うん。旨い」

 思っていたよりも。

 ドロドロになったクッキーと一緒にその言葉を飲み込んだのは秘密である。

「それは良かった。疲れてる時は甘いモノが一番らしいからね」

「だな。さっきトレーニングしてたから、ウマさも一入ひとしおだ」

「うふふ、これでも普通の料理も結構イケる口だよ? キミの家系に一人は必要だと思うけど」 

 衛士はもう一つクッキーを頬張ると、それから大きく伸びをして首を鳴らし、全身の筋肉をほぐした。

 それから何かを思いついたように指を鳴らして――。

「そうだな、ならお前にチャンスをくれてやろう」

 偉そうに仰け反り、そして意地悪そうな笑みを浮かべる衛士を見て、やぶへびだったかとナルミは思わず項垂れた。


「……っはぁ! ムリムリ、もう限界!」

 菱形状に編み込まれた金網のフェンスに自ら背を叩きつけたナルミは逃げることなどしない、もう降参だと示すように両手を上げて首を振った。

 激しく肩を上下させて呼吸を乱す。垂れ流れる汗はセーターに染み付き、ゴワゴワと肌に不快感を与える。彼女は高鳴る胸を抑えながら、眉間に突き付けられるブッシュナイフを見つめ、顔面を蒼白にした。

「き、キミはまたバカみたいに強くなったね……いや、経験値が爆発的に上がったみたい。僕だって一応、肉体派だ。刀剣使いだしね。その実力で上位互換まで来たし、勿論キミが視る五秒間の未来だって考えに入れて更に何十手も先を予想して動いてる。速さだってまだ負けてない」

 だけど最終的には追い詰められた。それは単純に、ナルミが考える何十手よりも多くを考えているか――彼女が思いつかぬ行動を予想外に行い、対処しきれぬ内に攻めきったからである。そして今回は見る限りに後者だった。

「まぁチートみたいな能力もんだしな……だけど、これだけでも随分と慣れた」

 蒼い輝きを漏らす右目は、実際にその眼中に鬼火を灯している。そうしている間はその眼は――衛士の頭上から自身を見下ろすような視点を得る。また彼の意思によって、衛士を中心に半径約十メートル以内ならば自在に視界を動かすことができる。そして同時に左目はその凄まじい視力によって元々持ち合わせる視界を広げている。

 まるで二つの監視カメラをそれぞれ別の視点で視ているかのように、衛士は目の前の世界を認識しているのだ。

 一人称、三人称の視点。本来人が持ち得ぬ後者を捉えられる彼だからこそ、コードネームは『神の視点』と相成っていた。

 また同時に、現時点から五秒の未来を記憶に刻む。

 五秒と経たぬ内に結果が変異すれば、また新たに変わった未来が与えられる。それら全てを処理し理解し使いこなすのは、尋常ではない処理能力が必要となっていたが――。

「最大で五分。それ以上は集中力がもたないな」

 何でもそつなくこなす彼とて限界があり、それ故に制限時間をこしらえていた。

 処理能力が、彼の言ったとおり五分しか保てず、五分を超えると途端に集中力の低下。狙撃手段を選んでいれば焦点を合わせられず、近接戦闘ならば動きが散漫になる。そして同時に激しい頭痛に見舞われるというのが、衛士の経験則によって恐らく起こるであろうと思われるリスクだった。

 衛士は手早く右目に眼帯を付け直すと、頭上から自身を見下ろしていた視界はすぐさま塞がれ失われる。未だ鬼火は燃え続けたままだが、能力の発動はいい加減に自由に操作でき始めている。だからそれもしばらくすれば収まると衛士は判断して、大きく息を吸い込んだ。

 ――時刻は既に昼半ば。

 休憩を合間に入れて居たものの、それでも手合わせの総時間は五時間は超えているはずだった。

「悪いな、ナルミ。こんなのに付き合わせちまって」

 ゴムで出来たブッシュナイフを提げて、衛士は彼女とは対照的に涼しい顔で、どこか困ったように笑っていた。ナルミは汗によって顔に張り付く髪を掻き上げて、それから大きく息を吐き出す。心底疲れたように嘆息するも、大丈夫だよと顔の前で手を振った。

「キミの助けになったなら、ソレでいいよ。僕は」

「まぁ侘びっつー訳でも無いが、お礼かな……昼飯でも食いに行くか? オレの奢りだ」

 ――人気のない、だだっ広い空間。屋外であるそこは、衛士がついこの間まで訓練兵として走り回っていた屋外訓練場グラウンドだった。

 既にここで訓練を受けていた者たちはみな卒業してそれぞれ戦闘員やら研究員やらの職につき、来年の四月まで放置されるこの場所は基本的に自由に使って良いとされている。遊具のない公園のようなものだと考えれば良いだろう。

「あぁ、キミって随分仕事に駆り出されるから、報酬貰っても使う暇無いもんね。銃とか趣味になりそうなもんだけど」

「まぁな。預金は軽く大台に乗ってる。上位互換はフルオート火器の所有が許可されてるって言うけどさ、買うとしてもM4カービンとか、M82かVSSくらいしか欲しいの無いなぁ」

 探せば中心街あたりの火器を販売している店に置いてあるものばかりだ。これらを購入して私物にすれば、支給される装備から幅が広がり、様々な状況を想定して備えることが可能となる。が、私物であるがために弾薬代がかかるし、手入れも必要だ。その為には専用のキットか適当な道具を買わなければならないし、その分資金が必要になるが、資金面での問題は今のところなかった。

 問題は、探して買って持って帰るのが面倒だという点にある。

「んで、何がいい?」

「あ、それじゃあ良い? ちょっと遠いけど」

「はは、もう見当つけてんのか。まぁいいよ、どこへなりとも」

 時間的な余裕はまだまだ有り余る程だ。部屋に篭っていても陰気になるばかりだし、一人で出かけてもこの街には何があるのかすら判然としえぬのだ。探索をして、戻れなくなっても困りものである。

 だから、誰かと共に出かけるのが丁度よい選択に思われたのだが――。


「なるほどこうなる訳か」

 念の為に途中のコンビニで金を降ろした衛士は、それが無駄になったことを今ようやく悟った。

「ふぅ。十月でも、動けばやっぱ暑いねー」

 彼女は言いながらセーターを脱いで下着姿になる。下着と言っても色気のあるものではなく、スポーツブラと呼ばれるソレだった。無論、押しつぶされることなく本来の豊かさを魅せつけるそれは色気を見せぬといえば嘘になるのだが――何も人前で着替えなくても良いではないかと、衛士は天井を仰ぎながら思っていた。

 場所は、彼女の自室で洒落た抹茶色のソファー二つが向かい合い、その間にテーブルが置かれる居間。人で賑わう中心街に入り込むやや手前のマンションだ。

 ちなみに先ほどの屋外訓練場は訓練兵のための施設が一緒になった場所であり、この地下空間の端っこの方にある。また中心街とは、そこから三○分ほど歩いた場所で――中心街とは名ばかりで正確には中心などではなく、ただ商店が多く、賑わっているだけの場所である。

「てかキミ、ナイフばっか振ってるけど射撃練習とかしなくて良かったの?」

「この六十日あまりで何千何万発って撃って、狙撃銃を抱いて寝かせられたくらいだ。たまにはマトモに身体動かさねぇと、いざって時に困るだろ?」

 そもそも、今はただ単に射撃のセンスを見出されたから狙撃兵として育成させられ、ようやくつい昨日の深夜に教育課程が終了しただけなのだ。技術としてはまだ経験が浅いものの、まず実戦に出てあらゆる状況に出くわしてもある程度は対処できるくらいは身に付いているし衛士自身そう出来ると自負している。

 が、そもそも彼とて肉体派。その拳やナイフ、機動力で敵を翻弄し打倒してきた数のほうが、弾丸よりも圧倒的に多い。得意というわけではないのだが、だからといって放っておいてサビつかせるわけにもいかないだろう。

「なら、僕は?」

 彼女はそう言って、下はジーンズを履くものの、上半身は下着姿のまま両手を広げて衛士に襲いかかる。

 見下ろす形となる彼女の頭を衛士は掴んで腕を伸ばせば、どれほど手を伸ばしてもナルミの指先は衛士を掠める事しか出来なかった。

「意味が判らないが――」

 嘆息混じりに返す言葉を、遮るように呼び鈴が鳴り響いた。

 衛士は弾くようにナルミを突き飛ばすと、彼女に背を向け玄関へと向かう。その間に慌てた様子で服を着るナルミの姿には、なにやら不倫相手と密会している所を慌てて隠す人妻のような雰囲気があった。

 ――玄関に到着すると、なぜか施錠していた筈の扉を開けて玄関内にて仁王立ちする女性の姿。

 真っ赤に燃えるような髪が特徴的である彼女は、白衣を羽織って、そして赤い縁のメガネをかけていた。

「お楽しみのところごめんなさいね?」

「……何の御用です? アイリンさん」

「あら、その名前で呼ばないでって言ってるじゃないのよ。右目を実験体にするわよ」

 腰に手を当て、上位互換の一人である彼女は背を反らす。が、見上げるには至らずにただ衛士の姿を視認しづらくなっただけだった。

 ――上位互換と言っても彼女には戦闘能力は皆無である。評価されているのは研究内容であり、聞く処によれば幼少期よりこの地下空間で育っていて、その頭脳を見出されたとの話である。

 現在では副産物の開発や付焼刃スケアクロウと呼ばれる、特異点とは異なる超能力者の研究などを主に専攻し、如実に結果を叩き出していた。

 そんな彼女と衛士の接点といえば、ただ訓練兵時代の施設で保健医役として彼女が居たというだけの事である。

「右目塞ぎゃ監視視点かみのめも塞がるんスよ、勘弁してください――って、んな事良いんです。わざわざ休日初日狙ってこんなところに来るくらいだから、また妙に面倒な事でもあるんじゃないですか?」

 衛士の嫌げな視線を受けて、彼女はにっこりと微笑むというよりはわざとらしい、不敵な笑みを浮かべて指を鳴らした。

「アナタに二つの朗報があるわけだけど。良い事と悪い事、どちらから訊きたい?」

 すっと上品な口元は歪んだ笑みを浮かべ、大人っぽい顔立ちは――その実二十代後半という立派なオトナなのだが――どちらかと言えば悪女っぽく変異する。

 衛士は聞かずにそのまま逃げ出したくなったが、何の連絡も、位置情報を垂れ流す通信端末も持たずに外に出たのにも関わらず場所が判明されたのだ。無駄な抵抗はしない主義である衛士は、うんざりしたように肩をすぼめて首を振った。

「良い方からお願いします」

「アナタの部屋の隣に”ミシェル”が越す事になったわ」

 名が上がる女性もまた、上位互換。

 そして平凡な高校生だった衛士が、この世界と接触するきっかけとなった人物だが――この地下に来て以来、出会う機会がまるでなかったその人であった。

「……悪い報告は?」

「アフリカでの偽装紛争中に協会の抵抗があってね。いつもなら半分くらい蹴散らした後で尻尾巻いて逃げるんだけど、今回は随分と強い能力者が居たみたいでね。いわゆる”覚醒者”?」

「……思うんですけど、アイリンさんが知ってる固有名詞で言われても、何も知らないオレはさっぱりなんですが」

「ま、覚醒者ってのは例えよ。変異体とでも言い換えられるわね。ともかく、紛争地帯での虐殺を目の当たりにして超絶的な精神的ストレスと極限の自暴自棄による自我の開放とが合わさって、なにやら超心理学的な化学反応が起こって超能力を手に入れたわけね。一般に付焼刃って言われる能力者は後付で、他者による”催眠効果”によって目覚めるってのが殆どだから、今回出てきた自力で目覚めた能力者は結構、希少かも」

「クイックシルバー的な感じですか?」

 クイックシルバーとは女性のヒステリーが起こす心霊現象ポルターガイストである。およそ通常では説明のつかない事象が起こる事だ。

 彼女は最もらしい用語を交えた説明を終えると、大きく息を吐いて両の手を拳に変えて、腰にやった。

「つまり、協会が作った超能力者は養殖だけど、天然物はバカみたいに強いってわけですね?」

「そういう事になるわね」

「特異点は養殖できないんですか」

「あぁ、それはもう才能っていうか、適正が飛び抜けた上でセンスと特別な条件が必要になるからね。まず極限状態でも打たれ強いタフな精神が必要だから、そうそう生まれないわ。耐時スーツも新しい段階に進化し始めてるし、適正者で十分。発火能力者パイロキネシス付焼刃スケアクロウを生む位なら火炎放射器持たせたほうが断然コスパがいいわよ」

 ――そこまで話を進めると、背後からドタドタと騒がしい足音と激しく乱れる息遣いが迫ってきた。

 振り向くまでもなく予想のつくその姿にため息をつけば、アイリンは衛士越しにナルミを見てニヤニヤと嫌らしい笑顔を顔面に張り付けていた。

 その表情は模範的な、十八禁の女医のものだったが、どうにも嫌な感じがするそのいで立ちに衛士は思わず顔を引きつらせてしまう。そんな彼に気づくアイリンが、一瞥するように彼をにらむ中で、やがてナルミは衛士の横に現れた。

「どうしたんですか? 仕事の話? エイジって、休みじゃ……?」

「あぁ、今アフリカで”いつもの作戦”が実行中じゃない? そこでちょっと問題が起こってね」

「問題? まさか、部隊が全滅したり……僕たちの出番、ですかね」

 アフリカでの作戦は主にドイツ支部の仕事である。だが、だからといって日本が無関係というわけではなく――たとえ関係ないと言えるほどどうでもいい問題ことが起こったとしても、同じ国際機関として形だけでも援助をしなければならない。

 そしてアフリカまでの出張といえば確実に一、二週間は潰される。そうなれば衛士と過ごせる時間は確実に飲まれて消えてしまうことだろう。

 ナルミはそこまで想像して、目を見開き顔を青ざめさせていた。

「それは無いわね。作戦自体は、最近多い協会の抵抗があっただけで目的通り、大都市のスラム街を半壊、飢餓で死にかけてる村をいくつか廃村にして成功したわ。ただそこにちょっと特別な付焼刃が出てきて、彼に話を聞きに来たってわけ」

「あぁ、そう言えば何ですか?」

「今のところ、付焼刃との接触が一番多いのがアナタってわけだけど――付焼刃が一度でも、時空間の歪みを知覚した事があるかしら?」

「時空間の歪み……。例えば、オレでしか知りえない『時間回帰』を、敵がなんとなく勘づいていたり?」

 アイリンは頷き、先ほどとはまるで対照的に真剣な眼差しを衛士に向ける。

 衛士はそれを受けて、回想する記憶の海へと飛び込んだ。

 ――以前は『砂時計』と呼ばれる、五分だけ時間を巻き戻せる副産物を使っていた。と言っても、使用した瞬間に五分を巻き戻すという便利な品物ではない。

 砂時計を設置し、五分を計る。そして五分が経過し、その五分間を体験した瞬間に、砂時計を設置した時刻、時点まで時を巻き戻すという大変面倒な道具である。

 最も、それを理解できるのは使用者である時衛士と、少なくとも副産物に適正があって尚ある程度の技量を持つ上位互換の連中のみ。理解すると言っても、正確には時間回帰によって歪んだ時空を肌に感じて”なにかおかしい”と認識する程度が殆どで、五分の時が巻き戻ったと完全に理解できる人間はわずかであった。

 そして――適性は無くとも特異点に似て非なる特殊能力を扱える付焼刃連中は、果たしてその時空間の歪みを知覚できただろうか。

 衛士はそれまでの戦闘を思い返してみて、それから大きく首を振った。

「たぶん居なかったハズ、です……」

「”たぶん”じゃ困るのよ。本気で言い切れないなら、このまま研究所に連れてって記憶掘り出すわよ?」

「……居なかった。えぇ、オレの記憶が改変されてなければ砂時計を理解した人間は居ない。”破壊”されたのだって、結局は『ナガレ』の命令だったろうし」

「あぁそう。なら残念ね」

 ぽかんと、話についていけずに口を開け間抜けな顔をするナルミを置き去りに、アイリンは哀れだと言わんばかりに嘆息した。

 衛士も彼女が次に言う事が”視えて”、思わず肩を落としてしまった。

 マジか、と漏らす言葉に、アイリンは予知能力で先読みしたのだと理解する。だが、優しさ故か、彼女は改めて言い直した。

「ようやく一を聞いて百でも千でも理解出来るようになったのね。これでやっと上層部も力が抜けるわね」

 前置きを一つ。それは、衛士から離れてしまうだけで残念そうに顔を蒼白にしたナルミへの配慮というよりは、純粋な感想だった。

 なぜ彼女がそれほどまで衛士に依存しているのか、正直な所アイリンにもわからない。単純に慕っている、好いているという領域を超えて、彼女個人は既に恋人気分だ。これが悪い方向に向かわなければと願うばかりで、どちらにせよアイリンには手のだしようの無い事である。

「精鋭メンバーで、今回の天然物が潜伏しているらしい南アフリカに飛んでもらう事になるわね。詳しい話はまた後日、エミリアが呼び出しに来ると思うわ」

「……またすれ違いですか」

「しょうがないじゃない。コレばっかりは、あたし達にも予測不可能だったんだもの。不平垂れるなら早く千里を見渡しなさい」

「はは、んな事したら処理追いつかなくて頭沸騰ねつぼうそうしますよ」

「ならその脳みそに電極差して、今使ってる量子コンピュータと物理的に……有線接続すればいいんじゃない?」

「全世界を随時継続的に仔細に監視って……ソレこそ神の領域ですよ。人間はそんな事までしなくていいんです。いや、その前に物理的に死ねますけど」

 衛士がうんざりして首を振ると、アイリンは軽く笑って、それじゃあと手を上げた。

「あたしも忙しいのよ。ちょうど今、実験の結果待ちで転送してもらっただけだしね」

 彼女はそう言って指を鳴らす。

 そして白衣のポケットが不意に発光して凄まじい光が空間を飲み込んだかと思うと――次の瞬間、光が失せた時には、アイリンの姿はなかった。

「まぁ、そういうわけだな」

 衛士は呆然とするナルミをよそに、便乗して帰宅することに成功した。

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