奇縁
「アレが機関……あの少年と少女が。民間軍事会社の人たちと遜色ないんじゃないですか、アレは。まだ全然若い……わたしよりも」
双眼鏡を降ろした神父の頭上では、また熱く鋭い太陽が上がり始めていた。
伏せるディーノは既に狙撃銃をケースに仕舞い、そして早くも帰りの準備を終えている。立ち上がりざまに、彼はその言葉に返した。
「だって神父さまは見た目若いけどボクより年上じゃないですか」
「いや、ディーノさん。今はそういう意味で言ったわけじゃなくてですね?」
「まぁあの少年の方は、こっちの世界でも少し”有名”なんですけどね」
踵を返して階段に向かう。スコールは後に続き、そして並んで疑問を呈した。
「有名? まだ高校生くらいのあの少年が?」
階段を降り、屋上の一つ下、部屋が並ぶ廊下の一室に入る。そこは先程まで彼らが自室としている部屋であった。
ディーノは重そうにまた銃を壁に立てかけると、適当に置かれる雑多な椅子に腰を掛け、組み合わせのように置かれるテーブルに肘を付いた。些か喉が乾いたが、備蓄が無いために買ってこなければ潤せない。
彼は軽く喉をさすって、対面に神父が座るのを待った。
「それで、何故あの少年が……?」
「彼は日本人でね。機関でいわゆる勧誘された人間です……貴方のようにね」
「もしかして――」
「はい。今は貴方と同じ”特異点”と呼ばれる存在です。最もこの呼び名は機関のものだし、種類が違うけど」
付焼刃の特異点、そして適正者の特異点。その違いは何か――端的に言い表すならば、空間に干渉するか、時間に干渉するかの違いだ。
炎、水、電気――その全てはどこにでもある要素を組み合わせることによって発生させられるものだ。そして恐らく超能力として思い浮かべるとしたら予知や念力に続いてそれらを上げる者も少なくない。付焼刃は、言ってしまえば”酷く激しく強い思い込み”によって超能力を実現しているのだ。
自分はできる、その可能性が少なくともある。そういった思いが超心理による精神と空間の相互作用を起こし空間に干渉。そして念力などその他の超常現象を引き起こす。
ならば適正者に於ける特異点とは何だろうか。
彼らは主に重力子の影響を受け、使いこなせるか否かで副産物の使用が可能となっている。
そして重力子は重力を司る。現在機関では空間を歪め過去を、そして未来を前後一年以内ならば移動を可能としていた。
特異点はその重力子を細胞単位に、およそ想像を絶するほどの素粒子を詰め込んでいる。単体で時間を移動することはできないが、その干渉能力はおよそ想像を絶する。
触れて止める、未来を見る――これらは全て、ソレによる作用であった。
恐らく特異点となる素体の素質にもよるが、さらに奇異な存在が誕生してもおかしくはない。それほどに機関は時衛士の進化から、様々なモノを学んでいた。
ならば今度はこちらの番だ――というのが協会の考えである。
「ただの少年から適正者、そして特異点……わずか半年未満で?」
「えぇ、ボクは彼を見たことも会ったこともありませんが、ある戦闘で……特異点になる瞬間。それが彼が薄いものの、名を広げるきっかけになりました」
「ある戦闘……」
「ある一定以上の実力を持った超能力者を集め彼……時衛士を私刑するというものです」
その言葉に、神父はいくらか口をつぐんだ後に「なんて下衆な」と口にする。
遠慮のないその台詞は、いくらかスコールの心が動いたことを知らせるようだった。
「彼を特異点に仕立て上げるために全てを極限状態に追い込む。それが目的でした」
「な、なぜそんな……だって機関でしょう?」
「脅威は多い方がいい……協会の創設者、かつて機関の特異点だったホロウ・ナガレの命令です」
「ホロウ・ナガレ……特異点……」
引きこむという為ではなく、脅威を増やすため。そう聞いても神父にはわけがわからない。
わざわざ敵を増やす為。あるいは時衛士がこちらに歩み寄るとわかっているためか。あるいはそのどちらでもなく……。
いや、流石にこればかりは実際に時衛士と会ってみなければ判らない。彼が何を考えているのか。果たして己と同じ心情なのか。
恐らく、同じく全てを失ったもの同士だ。
だが多分、彼にも新たな居場所が出来たことだろう。機関という場所ではなく、仲間。それらに認められることが。
彼が神父を狙う限り、必ず接触することがある。
ここまでのやり方を聞いて、少なくとも神父には協会と機関の違いがつかなくなっていた。
「五○人の社会不適合者。五○人の能力者。彼は戦い、まず前者を皆殺しにした。ですが圧倒できる筈もなく組み伏せられましたが、その能力者より実力が上である一人を殺害。怯んだ所をさらに攻めようとした時、実姉を人質に取られ――殺害され、覚醒。事の顛末はそれです。詳しく聞きたかったらサカグチに聞くといいでしょう」
「サカグチ? あの炎を使う……?」
「彼は当事者でしたから」
「なら戦闘を終えた今――」
「可能性はありますね。一方的な因縁がありますし」
男を拘束している最中に渡された五発の7.62mm弾のお陰で、衛士のライフルは装填できる最大数の弾丸を孕んでいた。それが充足感というわけではないが、最低限の護身用としての役割を、アンナが肩に下げる狙撃銃は果たしてくれる。その信頼は少なくともあった。
二キロほど歩くと到着する街の最深部。
衛士が狙撃に利用した廃ビルのような外観の、だが鉄筋故にそう簡単に崩れはしないし、爆発物を使用しなければビクともしなさそうな建築物の群れ。犇めき合うように寄り添って並び、広い通りから無数に伸びる路地にはそれぞれの暮らしが展開されていた。
また、そのマンションのような建物の中での商売も伺える。
弾薬や武器を売っているであろう店。あるいは酒場のような場所。無造作に人が寝ている空間は扉が開け放してあったが、恐らく遺体安置所として使用されているのだろう。ハエが飛び、また酷い悪臭が鼻についた。
「さすがにどっか部屋用意しないとだけど……」
隣を歩くアンナは疲れているのか、単純に眠いのか、足取りはいくらか不確かで危なっかしい。
早い所休ませなければ逆に足手まといになって危険だろう、が。都市でもどの街でもスラムという場所に来たことがないために、何をどうすればいいのか、そもそもホテルがあるのかすら分からない。
ならば情報収集するべきだが――この街である一定以上の情報が集まり、またある程度の信頼が持てる情報提供者が居る場所を、まず捜すべきだった。
『酒場、ですね。街を見る限りでは酒場以外にアルコールを提供している場所はないし、また警察も出入りしています。人が大勢集まる場所では何かが起きやすいし、情報が最も集まる……その店主さんに話を聞くのが一番でしょう』
端末の通信を切断しても、イヤホンからの声は決して途絶えることはない。
衛士はなるほどと頷いて踵を返す。が、周りが見えていないようにそれでも前に進み続けるアンナの手掴んで誘導する。
数メートル歩いて木製の扉に『Cheap and nasty(安かろう悪かろう)』との看板が掲げられ、その下には小さく『Bar(酒場)』と油性マーカーで書かれていた。
ドアノブを捻り、押し開ける。すると蝶番が悲鳴をあげるように軋み、同時に中の薄暗い空間に外からの光が差し込んだ。
――空間は、天井からいくつも吊るされる埃の被った照明傘から間接照明程度の明かりが周囲を照らす。三十畳ほどの正方形の中にはいくつもの円卓が置かれ、大体一つのテーブルに五つ程の椅子が備えられる。
酒場にはまばらに、そう多くはない客が座り、チビチビと舐めるように酒を嗜む。十人に満たぬ彼らは酒が飲み足りないというより、来たばかりというような雰囲気だった。
まっすぐ進むと右端から真ん中辺りまで伸びるカウンター。その右側の壁にはトイレと記された扉があり、カウンターの奥にいる店主は衛士らを一瞥するなり、手を招いてみせた。
衛士は意識を失っている男を適当な椅子に座らせ、カウンターに寝かせるようにする。それから隣に座ると、アンナもその傍らに付いた。
「見たところこの街の新入りってわけじゃねぇな」
頭にタオルを巻く男の肉体は筋肉の鎧で覆われているようだった。
単純な骨格だけならギャラングにも勝るとも劣らない。そして壁に掛けられる散弾銃は飾りではなく、護身用なのだろう。
男の言葉を聞きながら後ろを振り返ると、円卓の足は念入りにネジで固定されている。そしてその配置は、扉からカウンターへ真っ直ぐ道を開けるようになっていて、円卓の間は、丁度椅子を引けば人が通れぬ様になっていた。
否応なしに道が限定される。
散弾銃の効果はてきめんだ。
「ちょっと任務でね」
「なら一先ず注文だ。何がいい」
「……水を二つくれ」
「しみったれてんなぁ、コークでいいだろ。水はねぇ」
店主は言うと、そのまま背後の酒棚の脇にある冷蔵庫を開け、その中から缶を二本取り出して雑にカウンターテーブルに叩きつけた。
衛士はポケットから財布を取り出し十ランド、日本円で千円ほどを出し、次いで口を利く。
「部屋を借りたいんだけど、どこに行けばいいのかさっぱりわからない。教えてくれ」
「お前日本人だな? お前等はすぐ財布を出すからな、カモられても知らねぇぞ」
「いいから教えてくれ」
「ったくよォ、日本人は親切って聞いてたのに……。情報は情報で交換だ。まずこちらから。お前を見る限り恐らく外で起きたドンパチに関わってた口だな。ライフルを携帯出来るってことはPMCにも目を付けられてない……いや、今回のPMC殺害に於いて協力させられたってトコか?」
プルタブを起こし、口を開ける。中の空気が吹き出て音がなるが、思っていたよりも泡は出ず、衛士はそのまま口に運び喉を潤す。隣では既にカウンターに頭を叩きつけるようにして動かなくなるアンナを見て、衛士は自身が出した金額の半分を取り戻そうと手を伸ばす。
が、同時に紙幣を掴んでポケットに仕舞い込む店主は、さらにアンナに出したコークを自身で飲みだした。
衛士は顔を引き攣らせてからため息を吐く。
「PMCを狙った犯人の狙撃に加担したってだけだ」
「よくあの連中が受け入れたな」
「ちょっと借りがあってな……というか、あいつらは何のためにここに? 治安はクソ悪いけど、必要ないだろ」
仮に麻薬が蔓延していたとしても誰も雇わない。雇う必要な戦闘も無ければ紛争も無い。
彼らが戦うべき敵は居なかった。だからこそ何故わざわざこのヘンピでかつスラム街であるここに派遣されたのか。
「知らん。だがヘンな奴らが来てすぐ派遣されたのが肝ってトコか。警察が雇っているらしいが、両者ともどちらに介入するわけでもない」
「ヘンな奴ら? そういやトラックが運んだ武装もどこに行ったんだか……」
「ン、武装なら街の奴らがこの奥にあるマンションに運んでいったのを見たって奴が居るぜ。ダンボールに入った火器類だよな? そしてそのヘンな奴ら、妙な五人組がそのマンションに居る……どれも似たような場所なんで、正確な位置は忘れたが」
――繋がった。
警察は協会と関与し、協会の使いっ走りとなるために警察に民間軍事会社を雇わせた。
そして武器を運ばせ、あわよくば機関の人間である衛士らを始末するよう動かした。しかしそれが失敗に終わり、かつ協会の存在を認知した彼らが殺された。
作戦が失敗した場合にと生かされたギャラングたちを使おうとしたが上手くいかず、結局ソレに直接関わっていたこの傍らの男が倒された。
衛士たちは確実に協会に近づいている。
それを実感した。
「そのヘンな奴らについて、いいか?」
「おいおい部屋はどうしたんだ?」
「いいから」
「あいよ」
男はそれからまた、残った内容物を一気に飲み下すと、勢い良くゲップをしてみせた。
「何をしてるかわかんねぇ。ただ突撃銃や機関銃を持って街をウロついてるってだけだ。よく目立った神父みたいなのは、ここに来て以来見てない」
「いつ頃に来たんだ?」
「そいつらは三日くらいか。その一ヶ月くらい前に来た似たような連中の仲間らしいが……そいつらはどっか行っちまって、今はその五人組だけだ」
つまり彼らも援軍はない。
恐らくその一ヶ月前に来た連中は、この男が言ったように本国へ帰国するための手続きを行っているはずだ。彼らが戻ってくるのは、迎えに来るのは一週間後。
ビザが無くとも三ヶ月は滞在できると考えていたが、現状を考えるならばこの一週間以内に特異点と接触し、さっさと任務を終わらせたほうが良いと考えられた。
敵は能力者だ。それを知っているが、何の能力を持っているかは判らない。完全に未知数だ。下手をすれば初見のまま打ち倒され殺される可能性さえある。
大まかな方針は決まった、が――衛士は良くとも、休む場所が必要だ。
「とまぁ、何も知らないお前に無償で情報を提供するのはコレまでだ。実質お前から得られたのは騒ぎの原因だけか。んでその男は?」
「その五人組の一人」
「……面倒事は困るんだがな」
「大丈夫、すぐ出てくよ」
「部屋に入るのに特に決まりはない。空いてる部屋を適当に使えば良い。電気は通ってるし水は出る。まぁ衛生面は保証しねぇがな」
男は言って手を出した。
情報を情報で交換できない場合は、金を払えということだろうか。
一応この街でも貨幣には価値がある。だからこそ、どれほど治安が悪くても商売というものが成り立ち、人が住む、生きることが出来る。それは暗黙の了解となっているのだろう。
衛士はまた財布から十ランド紙幣を取り出し、手渡した。
「ったく。さっさと行け、この時間帯はアブねぇからな」
「危ない? 何が――」
言葉を遮る炸裂音が、静かな店内に響き渡る。
陽気なジャズも笑い声も聞こえない、だがどこか心地よい静かさを持つそこではその不景気な破壊音がこだました。
「ったくよ、災難だなぁ小僧」
蝶番がひしゃげて扉が外れ掛かる。そこから二人組の男が現れた。
衛士は何も聞こえないというように肘をついてコークを煽る。この騒ぎでもアンナは眠ったままで、また男の意識も途絶えたままだった。
「ワーグナーさんよ、まだこんなボロ酒場続けてたのかぁ?」
男は振り上げた足でテーブルを蹴飛ばす。が、やはり固定されているために動かず、破壊することも出来なかった。
両者ともある程度ガタイは良い。本格的にスポーツか、あるいは訓練を行っているような体つきだ。
衛士はポケットに手を突っ込んで、慣れた様子で端末を通信状態にする。そうすれば、本来ならば機関には聞こえない音声面での情報が通るのだ。
「奴らは警察がばら蒔いてる麻薬の売人でな。だがここでの取引を禁止しているからって、人が居ない時を見計らって嫌がらせに来てる次第だ。今下手に動かず、そのまま気配殺して難を逃れたほうがいい」
「なんでそこまで親切に?」
「俺の客が目の前でやられちゃ気分が悪い。それだけだ。他意はない」
『その人の言うとおりです。建物内なので状況が把握しきれませんが、協会との戦闘は辛うじて外だったのであまり問題にはなりませんでしたが……それでも戦闘、特に無関係ないざこざは極力控えてください』
どの道衛士らの存在はあの戦闘でバレていると考えてまず間違いない。だが下手な行動で隙を見せれば、ここぞと逆に攻め込んでくる可能性がある。彼女はそれを指摘していた。
「なーにをぶつくさ言ってん……ん? 見ねぇ顔だな、新顔か?」
近づいてくる足音は衛士の直ぐ後ろで止まる。
上目遣いで見る店主の顔つきはそれだけで既に殺気立っていたが――恐らく殺す事に躊躇しないであろう彼がソレをしないのは、警察と繋がっているという事実があるからだろう。
そして腐っても警察。逆らえば何かがある。少なくともこの街では生きていけなくなるような何かが。
この街でだからこそ出来る、独自の法政が。
男は肩に手を載せ、引く。と逆らわずに乗せられた衛士はそのまま振り返った。
そこには店主とは対照的な黒地の肌を持つ男。後ろに立つのは色違いのような白人だ。
頭のサイドは剃りこみが入り、またモミアゲ部分にラインが二本。頭には立派なトサカが生えている。武骨な手は肩に乗るだけで重く力強い。衛士はそれだけで、かなりのやり手だと理解した。
そもそも体術、武術の類には自信がない。見よう見まねで習った適当な技術しか持ち得ぬ故に、本格的な相手ならば恐らく一分と持たずに叩き伏せられてしまうだろう。
「ハハン、いい顔つきだ。一服どうだ?」
男は言いながら胸のポケットから剥き出しのままの紙巻きたばこを取り出し、衛士に差し出す。が、その腕をカウンター越しからワーグナーが腕をつかみ、それを制す。
「やめてくれって言ってんだよ、分かんねぇのかトリ頭!」
「んだとぉテメェ、お前はコイツの保護者かぁ? 助けてパパって叫んだか?」
「ここに居る人間はテメェの客じゃねえ。俺の客だ。だからここに居る。手を出させはしねぇってんだよ」
「ハハン、してみろ坊主。手ぇ出したら最期、テメェの身内はみんな綺麗サッパリ売り捌いてやるよ」
「くっ、クズが……!」
唸るワーグナーに得意げに笑む男はそれから、傍らに移動した仲間に肩を叩かれ表情を崩す。指をさして促されるままに目を向けると、その先にはカウンターに伏せた外套姿の女があった。
だらしなく口を開けてよだれを垂らして寝ている格好。顔をベルトで巻いている所為で美人なのかブサイクなのかよく分からないが、外套から浮き出る身体は細すぎず程よく肉がついた、見ようによっては淫靡な肉体だった。
ジュルリと、溢れる唾液を啜り舌なめずりする音が耳に障る。
途端に彼らの意識が、隣ですっかり寝こむアンナへと移ったのがよく分かった。
より厄介になったと、ワーグナーが顔をしかめる。ミシェルはそれらが理解できているのだろうが、沈黙したままだった。
「なぁワーグナーさんよ、そんなに俺達に退いて欲しいンなら退くぜ。この嬢ちゃんと引き替えにな」
「だから言ってんだろ、ここの人間は俺の客だから――」
強い打撃音。瞬間的に両者の口を止まらせる音が、衛士がテーブルを叩いたことによって巻き起こる。
不意にしんと静まり返り、そして衛士は立ち上がりざまに傍らで寝息を立てていた男の目が剥かれたのを、見た。
腰を捻って振り返り、足先を男たちへ向ける。些か見上げる形となる彼らは何処か馬鹿にするように手を広げて驚き、衛士の言葉を待っていた。
「こいつはオレの連れだ。店は関係ねぇ」
「へえ格好いいなぁ。んでどうすんの」
男は手を上げ軽く握り、右拳を顎の右前、そして左拳をそこからやや出した左前方に置く。右足を前に出し、左足を軸に。そして軽く曲げた上体で、さらにそこから小刻みに揺れる。
それはボクシングの構えだった。
――完全な経験者だ。太刀打ちのしようがない。
衛士は思いながらも、つい言葉は口をついて出てしまう。
「そいつは好きにしてもらっていい。だが代わりに置いていってもらうぜ。てめぇの命!」
その咆哮は殆ど自分を奮いたたせるための様なものだった。
怖いものは怖いし、痛いものは痛い。男を殺さずただ追い出すためだけの戦闘。そんなものの経験は無いし、どうすればいいかも判らない。故にこの結果はおよそ凄惨な物に終わる。
誰もがそう息を飲んだ。
「がっ……な、ん――手が、重ぇッ!」
男の身体が小刻みに震える。先ほどの揺れとは大きく異なる、凄まじい加重に堪えるような体勢。
両拳を胸に引きつけて、やや前屈体勢。顔からは余裕が失せ――何かが床に叩きつけられたかの音がしたと思うと、男の背後でその仲間が床に這いつくばっていた。
そして同時に、両腕を通さぬベストで拘束される男が、のっそりと身体を起こして、怠惰な足取りで衛士に並んだ。
「敗けた事は事実だ。何も出来ない内にな……だっつぅのに、こんな野郎共に負けるのが許せねぇ。俺の名前を汚すんじゃあないぜ! エイジ・トキ!」
「てめ、もう意識が……!」
「黙れウジ野郎! 実力がねーのにシャシャるからこうなるんだよ!」
男が足を振り上げ、ボクサーの横腹を穿つように直線的な前蹴りを撃ちぬく。と、彼は途端に大勢を崩したかと思うと、ソレほどの威力でも無かったのか、さしたる程動かずに、その場に倒れこんだ。
彼らはもう呻くだけで言葉を発さない。
何も知らぬ者ならば、何かの冗談か、あるいは衛士らがこの男たちと組んでいたと見るだろう。後者の場合は目的の一切が不明だが、ともかくそう見えるはずだった。
「俺はテメェに負けてない。負ける筈がないんだ!」
「だからオレだって同意したろ。ありゃ幸運だ」
「だが戦場じゃ幸運でも何でも一度死ねば終わりなんだよ!」
「何が言いたいのお前?」
「知るかよ!」
そう叫んだ男は、それから男を踏みその上に乗って、今度は胸を張った。
「拘束を外せ」
「できない」
「じゃねぇとこのゴミ野郎共を運べねぇだろ」
「店主に頼む。だろ?」
振り返って顔を向けると、されどワーグナーは素知らぬ顔で衛士が残したコークを飲み下していた。
まだ帰るというわけではないのに勝手に飲む彼は、何やらうんざりしたように缶を傾け、そして顔を上げて完全に飲み干すと、また大きなゲップをしてみせた。
「そいつらはお前の客になったハズだろ? 手前の後始末くらい手前で拭けるようにならないとな?」
空になった缶をカウンターに叩きつけ、店主は綺麗な笑顔で言ってみせた。
衛士はどちらにせよこの距離ならば拘束などは無意味だと考えて、ジッパーを下げ、その紺色のタクティカルベストを外してやった。
すると予想外に男はそれを着こみ、そしてしゃがみ込むと軽々と――というわけではなく、仲間の方の男の足を両脇で挟むようにすると、そのまま引きずるようにして出口へと向かっていった。
このまま逃げるのではないか。衛士は一瞬そう考えたが、どうしてだろうか。この男はそうするとは思えなかった。
「おい何ボーっとしてんだよてめえ! 助けてやったんだから運べウジ!」
「わ、わかってるって」
衛士は同様に男を運び、そして外の、酒場に入る前に見つけた腐った死体が寝かせられる遺体安置所のような場所に放り投げた。
しかし男の行動は、それだけには終わらない。
外が明るくなる。人通りも、やや多くなりつつある。その中で、というわけではないが、その通りに面する、ガラスの無い窓から丸見えのその状況で、男は以前もそうしたように、両者の頭を吹き飛ばした。
仲良く並ぶ二人の頭にそれぞれ両手で触れたかと思うと、すぐさま部屋から飛び出して――爆発。
最早聞きなれたと言える鈍い破裂音が、空気を震わした。
血煙が舞う。強い血の臭いが周囲に広がる。
空間は腐った臭いにそれらが加わり悪臭が増して、死体に群がる蛆の動きが、より活発になったように思えた。
日差しが強くなりつつある道路で、呆然とする衛士に男は振り返って言った。
「殺さなきゃまた帰ってくる。嫌な目に遭いたくなけりゃ始末することだ……分からねぇなら、いずれ分かる」
「いや、分かるさ。だからオレは、お前等を……」
「なるほど。ウジ野郎、てめぇの戦う理由はそいつか。俺達、というよりは協会自体に恨みがある。誰彼構わずって言う感じか。身を滅ぼすやり方だ。力があればソレでいいけどよ……”そのまま”じゃテメェは死ぬぜ、エイジ・トキ。俺が殺す前に」
「そうか、だからお前は協会の存在を知ったPMCを?」
「怖いものは怖い。なまじ戦闘経験が豊富のプロなら尚更だ。奴らの適応力は正直異常。てめぇらの適正者以下の戦闘員だって似たようなもんだろ」
男は言いながら、ベストから腕を抜いて、肩に羽織る。
衛士にはその行動が理解できなかったが、男は焦らしいように舌打ちをして、貧乏ゆすりをするように踵で幾度も刻むように大地を叩いた。
「不本意だがお前に興味が湧いた。ホントになんでここまでの、タダのザコが、なんで”有名”なのか気になってな」
男は裾から出した手でジッパーを腹くらいまで上げるが、ソレ以上は手が届かないらしく、放置する。
「てかさ、圧力かけるモノを区別して分けられるなら、ジッパーだって下ろせたんじゃないのか?」
「……出来無い、とだけ言っておく。理由を教えるほど俺は間抜けじゃねえ」
衛士は手を伸ばし、ジッパーを下ろす。
男はその行動に、思わず眉間にしわ寄せた。
「何やってんだテメェ」
「付いて来たけりゃ勝手にしろ。この時点で貸し借りナシ、チャラだ。」
「俺を倒したのが、さっき助けたのでチャラってか?」
衛士が頷く。
すると、不意に衛士の視界外から抜けてきた手のひらが、鋭く衛士のこめかみに突き刺さる。
だがソレは平手打ちではなく、掌底。上手く力が分散されずに突き抜ける凄まじい威力。慣れていなければコレほどまで見事に撃てぬソレに、衛士は思わず意識を削がれ、身体を揺らす。
膝が震えて倒れそうになるが、それを許さぬ衛士は踏ん張り、立ち直った。
「俺の命が随分と安いじゃねぇか……なぁウジ野郎! 良いだろう、良い度胸だ。今回は見逃してやるが、次に会ったら命は無いぜ、エイジ・トキ!」
男は衛士に背を向け歩き出す。
衛士はそれを見送るというよりは、ただどこか呆然とその背を見つめて、その足がピタリと止まるのを見た。彼は腰を捻り背後を見て、衛士をにらむ。
「俺はランドだ! 忘れるな!」
名乗り終えると、また彼は前を向き直す。
今度は止まることなく彼は廃ビルの迷路の中へと身を溶かした。
結局何がしたかったのか、あのランドはよく分からない。衛士は考えながら、酒場に戻ろうと足を向けた。
次の瞬間、衛士の頭上から何かが落ちてきた。
巨大な、黒の塊。異様な雰囲気を持つソレが落下てきて――。
砂袋が叩きつけられるような音がする。
完全に気が抜けたその刹那を狙うような落下物は、人の形をしていた。
「エ、エイジ……か、に、逃げろ――」
肉の焦げる醜悪な臭い。
焼け焦げた肉体。
弱々しく紡がれる言葉。震える声。
最後に見た姿とは大きく異なっていた。だがソレは、決して見紛うことのない仲間の姿だった。
「イワイっ?! な、何が……」
「ダメだ、ハメられた……、回復に時間が掛かって、とても攻撃に回れねぇ――厄介だ、炎は……!」
イワイの弱い叫びは、その最後の一言を強い熱風に飲まれて消える。
衛士の前方に、今度はしっかりと直立する人の姿が降りてきた。
その姿を見て、
「……っ!」
衛士は思わず息を飲んだ。
知っている。
オレはコイツを――、
「てめぇ……っ!」
――知っている。
「おうおうおうおう、居るじゃあないかい! 時衛士! 今日は姉さんは居ないのか?」
炎の能力者。
親の、そして姉の――仇敵。
「ひゃははは! あぁ、死んじまったんだっけぇ!? 首斬られてさ!」
「やめろ衛士、コイツには冷静になれ!」
『そ、そうです! 少なくともベネットさんを起こしてからじゃなきゃ……』
無意識に拳に力がこもる。
情けない話だ――仲間が厄介な男たちに絡まれた時より、断然力が沸く。
弱気になれない。むしろあの時は、どこか”なんとかなる”と思っていたからなのかも知れない。
自分が良く知っているからこそ、油断できないと身体が反応していた。
アイツは生粋のクズだと。
殺さなければならない。全身全霊を以て、アイツを。
「少し黙れ。耳障りだ」
目付きが代わるのを、男――サカグチはしっかりと見た。
右眼の眼帯から透けて、蒼い鬼火が灯るのを確認する。
いよいよだ。
やっとあの能力と戦える。
苦労して仕立て上げてやったのに、その手前でお預けを食らったが――幸運にも、まさかここで出会うとは思わなかった。
縁も因縁も関係ない。
アイツならオレを試せる。
ならば存分に試してみるだけだ。
サカグチが踏み出す。
同時に衛士が躍り出た。
飽くまで静かな戦闘の始まりは――対照的に、多くに影響をもたらす戦闘の始まりでもあった。