この男、予知能力者につき
運命とは――なんだろうか。
生まれた瞬間から定められた人生の筋道?
一挙手一投足すらも予見された記録書?
もしそれらがあったとして、誰がそれを如何にして覆すことが出来るだろう。
屁理屈のようだが、誰かがその運命、筋道を歪曲させて見せたとして、その起こった、変化してしまった事象は”運命”ではないと誰が説明できるだろうか。
それは、それを証明できるのは――やはり”神”しか居ないのかもしれない。
『コードネーム”神之視点”。首尾はどうか』
考えを遮るように、ノイズ混じりの声が聞こえる。聞き取りにくい、喉が潰れたような鈍く低い声だった。
「配置に着きました。風が強いですね、屋上は」
『最終試験のとっておき。だけど――夜にその”蒼い瞳”はいくらか目立ち過ぎやしないかい?』
青年は絶景とは言いがたい、ネオンが目立つ夜景を見下ろしていた。ビルや商店ないし露店に挟まれた大通りにはゴミが散乱し、その道行く人はまばらで――目標の出現は未だ無いし、予定でもまだ望めない時間だった。
つまり彼は、無駄事を考えるほどに暇だった訳である。
青年、時衛士は右目に付けていた眼帯を手で抑えて、眼窩から溢れて眼帯すらも透かして漏れる蒼い輝きをふさいだ。また対となる左目は光学照準器も無しに、銃自体に備え付けられている簡単な照準器から、直線距離で三○○メートル以上ある道を凝視していた。
夜も半ば。月明かりさえも不安定なそこで、暗順応したその瞳は街灯の下を通る人間の顔の見分けを付けている。凄まじいとしか言いようのない視力は、狡猾に狙いを定めていた。
顔を上げれば飲み込まれてしまいそうに深い闇。晴れているのに星が見えない夜空は、どこか寂しい物があった。
――来る。
直感がそう告げた。
衛士は木製ストックを左肩で押さえ、左手人差し指で撫でるように引き金に触れる。
胸が高鳴る。全身の血の流れが、まるで血管に耳を当てるようによく分かった。
精神が澄んだ。研ぎ澄まされるように、時衛士の肉体は触れるコンクリートの大地と一体化したように、思考を消して意識を集中させる。気配は殺され、仮に真横に立たれたとしても存在を知覚、認識されぬように息を殺した。
引き金を弾いたその瞬間だけ、時衛士は自己主張できる。
『あれから二ヶ月。この中国でも随分と肌寒くなったよね』
押し殺した声。彼は目標の接近を告げることは決して無いし、またそこはかとなく教えはしない。ただ何処からか、ヘッドセットのマイク越しに緊張でも伝わっているのか、察したように気を使うことだけはしていた。
――目標は、衛士が所属する国際機関のドイツ支部から上手いこと逃げ出した幹部の一人。
既に逃亡幇助した五○人余りは、掴まされていた、日本円にして一億円近い賄賂と共に処分されている。残るはこの『世界抑圧機関』、通称『リリス』から逃げた齢五二歳の男『バッハイム・クロウン氏』のみである。
そして最終試験と男は言ったが、ミスは許されぬ任務の一つだ。
さらに衛士が為すべき仕事はその男の処分ではなく、駆動系を破壊することによる逃亡や行動の阻止。つまりは辛うじて致命傷に成り得ない狙撃。足を狙えという事だった。
人を狙撃するのは何もこれが初めてという訳ではない。高等技術を駆使した立体映像による擬似的な本番は何度も体験したし、適当な暗殺任務だって数をこなした。何も、ただ使わぬ牙を研ぎ続けていたわけではないのだ。
だが――ここに来て、引き金を引くのに手が震えたのには流石に驚きだった。
クロウン氏が接触したのは、機関から逃げた”特異点”と呼ばれる強力な超能力持ちの男が設立したと思われる秘密組織。ついこの間までは規模すら判然としない名称不明の集団だったが――。
『付焼刃推進協会……特異点とは異なる、簡易超能力者である付焼刃を生み、ボクらに対抗する組織。今じゃ世界規模になってるし、その上どうやって能力を作っているのかすら不明。すっかり一般戦闘員じゃ太刀打ち出来ないレベルに成長してるし……キミとも因縁深い所だ』
男の説明に、衛士の首が縦に動いた。
だがそれは首肯を意味したものではなく、生唾を飲み込む所作である。
気配が迫る。
既にその視界内に、肥えに肥えた、体重はゆうに三桁はありそうな巨漢が入り込んでいる。短い足はおたおたと歩き、その両脇には黒のスーツを身につけた男がそれぞれひとりずつ。手には護衛の為か、自動拳銃を装備していた。
目標はそれらに挟まれる、短い坊主に闇に溶けそうな地黒の肌の男。さらに今にもはち切れんとするスーツは護衛役と同色の黒であり、その上で身体を動かす足を狙撃するのは、ただ殺す事よりも難易度がいくつも高い。
そして恐らく、装備は専門家でさえも準備が足らなすぎると嘆くであろう代物。
ただ使い慣れた狙撃銃と、狙撃に慣れた狙撃手一人。
状況は夜。
距離は三○○メートル。
風速五メートル。
気温は摂氏十五度。湿度六二%。
緊張状態。
視力はその距離でも道路の人の顔の区別がつく程度。
そして――五秒だけ未来が視える、予知能力者。
青年はいわゆる特異点と呼ばれる能力者だった。”予測”とは異なる”予知”であるのが味噌である。
『おそらく今回の接触で情報を得た協会連中はもっともっと強い超能力者を創る筈だ。キミが殺せても、でももっと多く、もっと沢山の能力者を。精鋭じゃなく、物量で。それでボクらが堪えると知っている。キミが証明したからだ』
だが、それを知ることで、その情報を逆手にとった環境を作り出せる。情報漏洩はかえって有利になり得る可能性もあるのだ。
だが、過去を――聞いただけの話で、試験官が知った口を聞く。
この二ヶ月間の師匠であり戦友と成り得た彼が、かろうじて八つ年上の巨漢の男が、知識だけで過去を語った。
衛士には、それがとてつもなく我慢ならなかった。
「黙れ、アンタがオレの何を知っている」
『トーキ君。自重』
「ッ、了解」
そして彼の思惑通りに揺らいだ心が、思わず反論してしまった。
感情が出る。それはつまり、殺していた気配が、息が、同化していた肉体が露呈してしまったことを示す。この師匠はつまり、そうするためにわざと衛士を煽っていた。
理由としては、狙撃兵にとって重要な事。心を無にして弾丸に全てを掛ける為、それが衛士に出来ているかの確認。ただ吠えられただけで心乱される程度の集中力ならば、決定的なまでに狙撃に向いていないのだから。
ペンが走る音がする。恐らく採点表に何かを記した音だろう。
衛士は大きく息を吸い込んで、それから細々と吐き出した。
目標が街灯に迫る。が、衛士が見る未来には、その照明の下に行くのは右手側の護衛である。そしてさらに未来では――片腹をクロウン氏が血まみれになって横たわっている。
ミスだ。
衛士は短く胸中で呟くと、簡易な照準器から目標が辿る未来の軌道上から、鉄柵の隙間から突き出した銃口をやや下げた。
すると途端に、記憶に刻まれていた未来が追加されて――新たに、右の太ももを抑えて倒れる姿が衛士に記憶された。
青年は眼帯を抑える手を地に落とし、人差し指で地面を叩く。秒針が時を刻むのと同じ間隔で、衛士はタイミングをとっていた。
「五、四、三……」
一歩。さらに一歩、クロウン氏が死の沼に足を踏み入れる。
その大通りの細い路地に潜む数人の一般戦闘員で構成されている強襲組の緊張が、衛士にまで伝わるようだった。
腹の奥底に、緊張のためか鈍い痛みが走る。
背筋がゾクゾクと妙に落ち着かなかった。
――人差し指の第二関節が曲がり、第一関節がさらに引き金を包む。
「これがあんたの運命だ」
どこか悲壮感の篭った言葉の直後、聴き慣れた発砲音が、慣れた衝撃が肩を打った。
火花が散り、弾丸が回転しながら直線でクロウン氏へと切迫する。
コンマ秒がやがて一秒へと変わるよりも遙かに早い段階で、クロウン氏の右太ももの裏側に赤い血花が鮮やかに、瞬間的に咲き乱れた。
悲鳴。
バッハイム・クロウンが巨体を転がすように倒れ、同時に護衛役が戸惑ったように周囲のビルの窓を、屋上を見上げ始める。
衛士は即座に蒼い鬼火を透かせる眼帯を隠し、身を伏せる。その直後に――連続する無数の発砲音と、血が弾ける音とが響き始めて、
『任務成功。降りて、さっさと彼を連行して帰ろう』
師匠のヤコブは、どこか嬉しげに弾む声を最後に、インカムの電源を切った。
ヤコブから借りたPSL狙撃銃を片付け、展開していた全ての荷物をまとめてバックパックにしまい込む。それを中腰のまま背負って、また狙撃銃をケースに収めて肩に担ぐ。
立ち上がると――何かに引っかかるような間隔。腰が上がらず、低い空気椅子のような状態になってしまった。視線を落とすと、ベルトから伸びる細い鎖が、地面に突き刺してある釘に引っかかってしまっているようだった。
衛士はポケットから懐中時計を取り出し、手首を回すようにして釘から鎖を引き剥がし立ち上がる。
それから大きくため息をついて、衛士はようやく振り向いた。
睨むのは虚空。否、屋上に凸型に突き出た階段室。その影である。
「いつまでそうしているつもりです? 何か用事ですか……”ホロウ・ナガレ”さん」
口にした名は――例の協会の創立者。
つまり機関の人間でありながら、機関を抜け出し、それに対抗するべく組織を作り出した張本人。
彼が作り出した超能力者集団よりも、まるで次元の違う特異能力を保有する人物であり衛士と同様の、特異点と呼ばれる彼であった。
「あぁ、バレてたの。いや、成長したなお前もって思ってさ」
「いつでもオレを殺せる筈だ。そう、今でも」
「なぁ少年、お前はまだ十七だろ? 今も、初めてあった時も……。俺ぁこうなることを、まさか俺の教え子を拾いに行ったらもっとでっけぇ拾い物をするとは……わからなかったなぁ。人生って不思議だよな、とことん。俺も本当に、こんな能力者軍団を率いる予定も無かったんだがな」
ナガレはそう言って、肩をすくめる。やれやれと言った風に手のひらを空に向け、肩の高さに引き上げた。
さらに男は優男が女性を口説くようにペラペラと滑らかな口調で言葉を続ける。衛士はそれをうんざり思いながら、さりげなくポケットから四つの小葉があるクローバーを取り出す所作を見逃しはしなかった。
「ま、結果的にゃ何も拾えなかったが。その代わりに”次元干渉”が可能な特異点レベルの能力者は生まれねーが、それでもテレビに出てくる精神感応者とか、念力能力者なんか比べものにならない、いかにも戦闘用の連中が出来たがな」
「今じゃその連中が機関の邪魔立てをして、唯一確立してる敵って訳だ。なにか恨みでも?」
「たっはははは! お前が一番分かる筈だろうがなぁ……まぁいい。ちょいと見つけたんで、今日はこいつを渡しに来ただけだ」
男はクローバーを手に、静かに歩み寄る。衛士もまたそれに倣うように彼へと近づいた。
殺気はない。
むしろあるのは、この青年の方だった。
恨みならば――機関、協会のどちらにもある。既に衛士の拠り所などは存在していなかった。
ただ動く、仕事をこなす便利な駒でしか無い。
殺戮兵器となった衛士の眼は、もう今を見ていなかった。自分が見ることができる未来、それより遙か遠く。これから起こるであろう無数の出来事を、あるいはこれまで起こった凄惨な出来事を夢想しているようだった。
儚い目付き。深窓の令嬢に似つかわしい眼を持つこの青年には何が必要なのか――ナガレは考えて、にやけた笑顔で首を振った。
コイツには、コレしか無いだろう。
「ほらよ。四つ葉のクローバー、お前に幸運を」
差し出す手のひらにそれは落とされる。
軽い、重量など存在していないかのようなソレが、革の手袋の上に落ち着いた。
だがナガレはそれだけに終わらず、すかさずひざ丈のロングコートの内ポケットに手を突っ込んだかと思うと――直後に、衛士の肉体が硬直した。
身体を動かそうとする。が、動かない。
指先すらも震えない。まばたきすらも許されない。
何の予備動作も予兆も無いまま、それが起こった。
唯一可能なのが、鼓動と脈打ちと呼吸だった。
「勘違いされて下手に動かれても困るからな……。そういや、今回で二度目だったか? 俺の能力を受けたのは」
無機物を空間に固定する――それがこの男を特異点たらしめる為の特異能力だった事を、衛士は今になってようやく思い出した。
殺される――されど青年がそう思うことは無い。
ナガレが内ポケットから抜いたのが、一輪の花であることが分かっていたからだ。
「こいつがクローバーの花。花言葉は――」
差し出された手に、手を重ねるようにして花を衛士に手渡した。それと一緒に肉薄した男の顔が過ぎて、口が耳元に切迫した。
息遣いがくすぐったい。好みじゃない香水の臭いが鼻についた。
「――復讐」
そいつを糧にしろ。
お前のためになる。
お前の生きる希望になる。
――男はそう残して、衛士の横を通り抜けた。
直後に、肉体の可動が許される。
振り返ると、鉄柵を飛び越えて地上十数メートルの高さから身を投げるナガレの姿があって――まばたきを一つ。その次の瞬間には、元からそこに居なかったように、彼の姿は跡形もなく消え去っていた。
「……瞬間移動。他にも仲間が居た……つまり」
クロウン氏はもう現時点で用済みだったという事か。
無論、それは予測の範囲内。これより処分される予定であったろう彼を保護する事も、統合してこの任務だったというわけである。
「オレも、いつかは――」
一輪の花。茎をつまんで、夜空に張り付いている三日月の明かりを頼りに眺めてみた。
クローバー。花言葉は”復讐”。対となるのは幸運の伝説を持った四つ葉のクローバー。花言葉は”Be,mine”、つまり”わたしのものになってください”。
随分と洒落たプロポーズだと衛士は苦笑しながらも、それを闇に溶ける紺色の迷彩服のポケットに突っ込んで、ヤコブにどやされぬようにと足早に屋上を後にした。