第二話:中空に現れる
「―――」
「―――…」
「――っ――」
は、と急速に意識を引きずりだされて、私はしばし呆然と目にうつる光景を眺めていた。
深い赤の天蓋がうすぼんやりとした光の中に見えて、視界の端にはカーテンの引かれた窓がある。
差し込む光は朝方であることを示しているけれど、まだ陽が昇って間もないかまだ昇っていない時間帯のような、静かな明るさ。
部屋の中はもちろんのこと、外でも何か不審な気配は感じられない。
聞こえるのは窓の外からだろう、小鳥のさえずりが微かに届く。
ふと、無意識にあたりに注意を払っている自分に、思わず首をかしげた。
おかしい。
なぜ私はこんなに周りのことが気になっているのだろうか。
何かを忘れている気がして、しかしそれが頑として思い出せず、私は喉で唸る。
「…まあ、いいか。」
夢でも見たのだろう、と結論付け、まだ納得していない気がする自分の心を落ち着かせる。
とりあえず勢いをつけて起き上がり、大きく伸びをして…若い身体は良いな。
生前はこんな風に起き上がることが難しくて、いつものっっっそり、という字面通りの起き方をしていたことを思い出す。
そうして、私は英雄生活の2日目を始めたのだった。
*****
おはようございます、と口々にかけられる挨拶。
少々驚きながらもそれにおはよう、と返して、私は目の前の鏡を憂欝な気持ちで見つめる。
見返すのは若い女。
白く長い髪は艶々と流れ、身体のラインはなだらかな丸みを帯びて妖艶で、しかしどこかストイックな印象さえ受ける。
まあそこは、一目見た時からあまり感想は変わらない。
良い女だ、客観的に見て。
そして顔…顔、は。
元の世界でいえば西洋の、彫りが深くてややきつめの顔つき。
唇が口紅も塗ってないのに赤く、肌は真っ白。全身に言えるが。
まつ毛が長くて目は二重でまゆ毛の形も整える必要など無いくらい流線型だ。
ちなみに瞳の色は…よくわからない色をしている。
金色、というのだろうか。
まあ神秘的な色だ。
そして一番びっくりなのが耳だ。
よくある、エルフ族なんて呼ばれるファンタジーの住人のように耳が長い。
まさか自分がこんなものを顔の両脇に生やすことになるとは思っていなかった。
じーっと鏡に映る顔を前横斜めから観察し、そして出た感想はこれだ。
美人。
これ以外言いようがない。
人間の顔なんてどこか欠陥があったほうが愛嬌も出るというものだが、これは…
人形か。
なんというか、ここまで全身のパーツが整っていると嫉妬を覚える前に呆れる。
生前の私はもっと愛嬌のある顔だった。
ここまで差が出るともはやこれが今の自分とも思えない。
鏡見るたびにぎょっとしそうだ――実際昨日初めてこの顔を見た時は絶句したが――ああ、この顔の人間が全裸で横たわっていたら情操教育なんていってられないな…。
イーリスや白ローブ群団には申し訳ないことをしたとしか言いようがない。
でもこの顔でこの身体だと、例え男でも目の前にしたら拝んでしまいそうな…そんな神聖さも兼ね備えている。
「ナルミ様、本日はこちらのお召しものでよろしいでしょうか?」
鏡を前にして私はなにをしていたのかといえば、着替えだ。
人前というか侍女ズが着替えを手伝う、というのは割と予想の範疇。
差し出されたのは、意外や意外に普通の長そでのインナー、首元や裾にふわふわした毛皮の付いた上着に、身体にフィットしそうなパンツ。
それぞれ上質なものなのだろうとわかるが、色味は落ち着いていてデザインもそこまでファンタジックではない。
驚いた、ドレスとか出されるのではないかと思っていたけれど。
「…ナルミ様?」
不思議そうに、それらを持つシェヴィル(侍女ズの一人。昨日名前を聞いた)が首をかしげる。
「あ、いや…それでいいよ。」
「そうですか…?何かありましたら仰ってくださいね、私たちは少しでもナルミ様がよりよく過ごせるようにお傍にいるのですから。」
ドレスじゃないんだね、なんて聞いてもなあ…。
着たいわけじゃないが、この建物がまるで宮殿のようだものだからついドレス…というか侍女に着せられるものと言ったらドレス、という方程式が成り立っていた。
そういえばこの身体は英雄って身分だったし、別にどこかのお姫様ってわけじゃないからこれでいいのか。
というか、それならこれは自分で着替えてもいいんじゃないか?
「シェヴィル」
「! っは、はい!」
なぜか私が呼んだ途端びくっ、と肩を震わせ、直立不動になるシェヴィル。
なんなんだ、何か驚かせたか。
伝説級の存在らしい英雄が声をかけるとこうなるものなのだろうか。
「…そんなに硬くならなくていいよ。…それ、自分で着てもいいかい?」
苦笑して言いながらシェヴィルの持つ広げられたインナーに手を伸ばすと、一瞬戸惑ったようだったが素直にそれを渡してくれる。
手渡されたそれの手触りはウールのようで、生地自体も粗くなく縫い目も整っている。
英雄の服、ということで格段に気を使ったのかもしれないが、この世界の技術がそれなりの水準にあることを示しているようだ。
「あの、ナルミ様…」
「ん?」
昨日着せられた薄い布地の夜着を脱いでいると、遠慮がちに声が掛けられる。
鏡越しに後ろを見れば、眉を下げて困ったような、躊躇しているようなシェヴィルが映った。
「…私のような、お側仕えの人間がお尋ねするようなことではないのかもしれません…でも、お聞きしたいことがあるのです。」
次に袖を通せるように、と彼女が胸の前に持ったパンツに皺が寄る。
ぎゅう、とその下で合わされたシェヴィルの両手が見えるようで、私は俄かに身構える。
そんなに緊張するような質問だろうか。
「ナルミ様は…目覚めたく、ありませんでしたか…?」
尋ねてから、言ってしまったとばかりに噛み締められる唇。
叱られるのを待つようなそんな表情をされては、例え怒っていても怒る気をなくす…というか、もともと怒ろうとも思ってもいないが。
「そういえばシェヴィルはあの時部屋にいたんだっけね。」
あえて声に苦笑を混ぜ、私は握りしめられたパンツを受け取る。
ぎこちなく開かれた指は再び胸の前で握られ、眉を下げた表情のままシェヴィルはこちらを窺い見た。
「まあ…あの時言ったのは本心だよ。死人を蘇らせていいわけがない。…目覚めたくは、なかった。」
あくまで私の意見だが、と心中で付け足しながら、微妙な罪悪感を無視して私は順調に服を着ていく。
ところで採寸したようにパンツの丈がぴったりなんだが大丈夫か。
「けどもう目覚めてしまったものは仕方ないだろう?私は…とりあえず生きていくつもりさ。これから何をするにしても、ね。」
最後に上着を羽織って、襟もとにあるファーを整えているとシェヴィルがまだ何かを後悔している顔でこちらに視線をよこしている。
やれやれ、と鏡に向いていた体を反転させ、彼女に歩み寄る。
改めて見れば、シェヴィルの頭頂部が私の鼻あたりの高さにある。小さいというのか、私が大きいのか…ともあれ。
ぽふ、とその緑色の頭に右手を置いて、私は笑った。
「大丈夫さ、誰も恨んだりしていないよ。私は私が正しいと思うことをする…私ができることを。」
見上げてくるシェヴィルの顔がみるみる赤くなっていくのを見ながら、そういえば一番最初に目覚めた後、歩いてる途中で目が合った白ローブは彼女だったんじゃないか。
あの時もこういう風に真っ赤になって目をそらされて――
「な、なる、ナルミ様っ…!」
なでなで、と無意識に彼女の滑りのいい緑の髪を撫でていたら、切羽詰まった感じの声が下から聞こえてきた。
そんなつもりはなかったが、どうもものすごく緊張させていたらしい。
「…ああ、いや。とりあえず、気にしなくてもいいよ。どうにもならないことだ。」
ぽんぽん、と彼女の頭を軽く手のひらで撫で、私はシェヴィルから離れた。
かーっと赤くなった頬を両手で押さえながら慌てている彼女を横目にくすりと笑いながら、私は朝食をとるために食堂へと向かう。
本来ならば昨日食事をとったあの大窓のある部屋で朝食も食べるはずだったのだが、どこかの誰かが大窓を叩き割って侵入してくれたものだからそれができなくなったのだ。
しかもその誰かさん、昨夜安眠妨害した後にまた来る、とか言ったきり気配すら感じない。
クレオの「自分をあやしいと思ってくれ」とでも言いたげな行動は謎を深めるばかりだが、今ここにいない奴に何を思っても仕方がない。…いや、まあずっとそばに貼りつかれても困るのだけども。
なにはともあれ、家族に囲まれて食事をとることが普通だった私にとって食堂でのご飯は願ってもいないことだ。
「今日の朝食は何かねえ」
相変わらずファンタスティックな廊下を歩きながら、私を先導するシェヴィルと合流した侍女ズ二人…ナロウとカトラに尋ねてみる。
私としてはただの世間話、またはただの話題提供のつもりで話しかけたのだが、目の前のシェヴィルの背中は面白いように跳ねあがり、後ろから漏れ伝わる空気は張りつめた糸のように鋭い。
……えーと。
「……も、…申し訳ございませんナルミ様…っ 朝食のメニューについて、私どもは知らされていなくて…」
「い、今すぐ聞いてまいりますっ!」
「ちょ、待った待った!」
ダッと駆けだしかけたナロウの腕を思わず掴むと、またしても何か示し合わせたかのように彼女もびくりと背を震わせた。
「………。」
怖がられている、のだろうか。
…いや、怖いというより恐れているのだろう。
伝説級の英雄が、初っ端から自分たちのやったことを否定して、しかも悪を討伐する気がないような素振りさえ見せて…
溜息が出る。
厄介事に巻き込まれたとは思ったが、本当に厄介事だ。
いっそのこと、ばらしてしまうか?
いや、それで事態が好転するとは思えない――悪転はしそうであるが。
「……な、ナルミ様…」
私に腕をとられたままのナロウが恐々と見上げてくる。
彼女の瞳に映る顔は全くの他人のもので…私は再び溜息を吐くと、彼女の腕を解放した。
「なんでも、ないよ。…ちょっと話のタネにと思って聞いただけなんだ、そこまでしてくれなくていい。」
努めて苦笑を形作ると、張りつめた空気が若干緩んで戸惑ったような空気に変わる。
少々居心地が悪いまま私が歩き出すと、3人もつられるように歩み始めた。
で、なんだ。この空気は。
初対面の、しかも明らかに性格が合わなさそうな見た目の人と二人っきりになったような感じだ。
「……朝のメニューは楽しみに取っておくさ。昨日のご飯も美味しかったしね。」
誰が作ってるんだい?と尋ねると、まだ戸惑った空気をまとったままのナロウが答える。
「アビリュー、という者が作っております。」
「そうか。美味しい食事を作ってくれる人は大切だよ、ホント。」
実体験を元に語っているから思いがけず言葉に力がこもってしまった。
仕方がないのだ、下の息子の嫁が…ちょっとアレな…アレだったものだから。
私の言葉にはぁ、とかよくわかっていない返事をする侍女ズ3人をよそに無理やりに会話を終結させ、私たちは食堂へと歩みを進めた。