第一話:2
洞窟を抜けたらそこは不思議な世界でした。
まだ私が子どもだったころに見た大好きな映画の印象的なセリフが、飽きることなく頭の中をぐるぐると回っている。
不思議な世界というか、まるで現実味を帯びない非常にファンタスティックな世界である。
洞窟を抜けた私たちを待っていたのは、乳白色の大理石のような石で出来た大層な部屋だった。
しかも明りとして使用されているのは摩訶不思議な色に輝く石。
だが問題はそこではない。
部屋である。
何度も言うが、部屋である。
洞窟というのは普通野外にぽっかりと口を開けているものだと私の常識ではなっていたのだが、この世界では洞窟というのは部屋と繋がっているものなのだろうか。
「――英雄殿、おみ足を。」
念のため後ろを振り返ってみれば、四方を囲む壁のうち後ろの一面だけ岩がむき出しの自然そのままの状態であり、洞窟がそこに大口を開けて待っていた。
それを確認して洞窟という認識は間違っていなかったのだな、と安堵していた私に、ナイスミドルの声がかかる。
「…え、」
そっと差し出された手に促され、部屋に一脚だけあった椅子に腰かけると、目の前にナイスミドルが跪いて濡れた私の足を柔らかな布地で包み込むように拭いてくれるではないか。
ありえないVIP待遇。
よほど大切な存在らしい、そのアオリックフィンデルとやらは。
しばし呆然とされるがままになっていたが、拭き終えた足をナイスミドルの太ももあたりに乗っけられているのも非常に忍びない。
下ろそうと足をあげると、ナイスミドルからもうしばらくお待ちください、との言葉が。
純日本人の私にはこの待遇は戸惑うものなのだが。
つい申し訳なさが先に立って眉を下げた私に、ナイスミドルはそっと微笑んでくれた。
ホントいい男だ。死んだ主人には負けるけど。
「英雄殿、こちらをどうぞ。大きさが合えばいいのですが…」
ナイスミドルの微笑みに目を奪われつつも亡き夫に想いを馳せていると、横から差し出された靴。
布で出来た柔そうな茶色の靴を、イーリスが差し出している。
それを受け取って、太ももに乗っけたままだった私の足にはかせてくれるのはナイスミドル。
言い忘れたがイーリスもイケメンだ。
両者とも食指が動く歳ではないが、顔のいい男にちやほやされて喜ばない婆はあまりいない。
「ありがとう。」
靴をはかせてもらった足で立ち上がり、にっこりと喜びで緩む頬のままに笑顔で礼を述べれば、面食らったようなナイスミドルとイーリスの表情が返ってくる。
ずっと言葉らしい言葉をしゃべっていなかった私がいきなりしゃべれば驚くのも当たり前と言えるか。
と、そういえばナイスミドルはナイスミドルと定着しそうだが、本当の名前を知りたいところである。
「靴をはかせてくれた貴方、名前はなんというのですか?」
「…っは、私は総指揮官補佐をしておりますローガン・グリンドルフと申します。」
イーリスが自己紹介した時と同じく、胸に拳をあてて腰を折ったナイスミドルもといローガンに、私は頷きを返す。
横文字はめっきり覚えにくくなった私だが、イーリスと比べれば覚えやすい響きをしている。
「英雄殿、申し訳ございませんが私どもは貴女のお名前を存じておりません。どうかその貴き名前をお教え下さいませんでしょうか?」
「…私の名前を知らない?」
イーリスの恐縮したような言葉に、思わず訊き返してしまった。
いや、実際アオリックフィンデル殿、って今も…。
……もしかしたらアオリックフィンデルというのはそういう、目覚めた人間に対する総称とか何かなのかもしれない。
しかし名前か、名前を知らない人間をこうも手厚く扱うだろうか。
というかじゃあ自分の名前を答えてもいいのか?
疑問ばかりで埒が明かないし、未だ状況が読めない私は、
「相賀鳴海、です。」
正直に答えることにした。
もしこれがひっかけで本当に私がこの身体の持ち主であるかを調べるためだったのならば、ここで私は良くない事態に巻き込まれることになることも考えた。
が、もうすでに一度死んだ身である私、そう簡単なことで動揺する弱さなど持っていない。
「オーカナ・ルミ殿…?」
それも杞憂で終わったようで、噛み締めるように私の名前を呟く二人、とプラス周りに広がった白ローブの人々。
こうしてみるとそこまで人数が多いわけではなく、せいぜい20人くらいだろうか。
狭い洞窟で見たため人数が多く見えたのかもしれない。
「おうか、なるみ…いえ、ここでは名前を先に言うのであればなるみ、おうかとなりますか。」
「ナルミ・オーカ殿。…不思議な響きを持つお名前ですね。しかしとても美しい響きです。」
嬉しそうに笑うイーリスに、私も微笑みを返せばばっ、と音がしそうな勢いで目をそらされ…デジャヴ。
またか、もしかして私(の体)の全裸がそんなにインパクト強かったか。
複雑な心境でイーリスを見ていると、ごほん、とわざとらしい咳払いをしたローガンがイーリスに目配せをする。
それに気付いて瞬時に顔を引き締めたイーリスは、私の目の前で跪いて頭を垂れた。
同時に、白ローブの集団もローガンもその後ろで同じく跪く。
「ナルミ・オーカ殿。長き眠りからお目覚め下さり、我らこの世界を代表して厚く御礼申し上げます。此度、貴女様に目覚めていただきましたのは他でもない、再び悪が世界を脅かし始めたためでございます…。どうかどうか、切にお願いいたします。二千年前と同じく、悪を退けこの世界に平和をもたらしてはくださいませんでしょうか…!」
よーしありがちな異世界トリップの定番だ、ボス的なアレと戦ってくれって言われる系。
しかし二千年って途方もない…というか、この身体の持ち主は元からこの世界のヒーローみたいな存在で、二千年も昔に同じくラスボスを倒し、そして眠りについていた、と…そう聞こえた。
それが本当だとして、イーリス達の求めに応じることができるかはこの身体の持ち主ならいざ知らず。
だが今の中身は私だ。
「……申し訳ありませんが、私は未だ混乱し、記憶も曖昧です。二千年前に何が起こったのか、そして今何が起こっているのか、それを詳しく説明してくれませんか?」
嘘も方便、伊達に長く生きていない。
いろんなものが擦れてしまった感が否めないが、今は状況把握が大切だと判断してそう答えた私。
顔をあげたイーリスやローガンの、落胆したような表情には今は目をつぶろう。
「――そうですね、早急に事を進め過ぎたようです。では当初のお約束通り部屋を用意し、そこでしばしお休みください。きっとお腹もすいていらっしゃることと思いますので、何か食べるものを持ってまいります。…それと」
「ナルミ・オーカ様。わたくし、貴女様のお傍に仕えさせていただく栄誉を賜りましたリーンと申します。この者たちとともに、精一杯仕えさせていただきますのでなんなりとお申し付けくださいませ。」
イーリスの身振りで6名程の女性が目の前に進み出てきて、一番右端の明朗そうな赤髪のひとが名を名乗る。
経験が無いからわからないが、つまりこの人たちは侍女のような役割をしてくれるのだと解釈する。
ああでも、この待遇はどうなんだろうか。
この身体の持ち主が生きた二千年前、侍女を使うような立場にいた人だったのだろうか、むしろ二千年前に侍女という制度はあったのか。
どういう反応を返せばいいのかわからないので、とりあえずこちらからもよろしくお願いします、と返しておく。
「それではリーン、ナルミ・オーカ殿をお部屋へ。ナルミ・オーカ殿、今ここにいる人間は全て貴女をお守りし、お仕えするために選抜してきた者たちです。必要とあらば、リーンたちだけではなく全ての者になんなりと。」
イーリスの言葉とともに後ろに控える残りの白ローブたちも拳を胸に当てて頭を下げる礼をとった。
なにやら良心的なものが疼くような気がしないでもないが、それを無視して私はまた頷くに留める。
全ては状況を理解してから。
状況のわからないまま首を突っ込むことは命取りになりかねないと、この長かった人生で何度も身をもって経験している。
リーンの後ろに続いて私、そして侍女らしき彼女たちで固まって部屋を出る。
石造りの白い部屋から外に出れば、そこもやはり白い石で造られた廊下が広がっていた。
床には赤いカーペットが廊下の端から端まで敷かれていて、そこを踏んで歩く私たちの足音はほとんどしない。
明りは相変わらずファンタスティックな輝きを放つ石が松明のように壁に掲げられていて、割と高いように感じられる天井までを柔らかく照らしていた。
ちなみにこの廊下に窓は無く、外の様子を窺うことは出来ない。
「ナルミ・オーカ様。こちらがお部屋になります。」
あたりを見回しながら歩いていると、洞窟のあった部屋から直線で進んできた廊下の、端にある部屋の扉を開けてリーンたちが横並びでお辞儀をする。
どうも主らしき立場にある私に先に入れ、とのことらしい。
どうにも慣れない待遇に内心戸惑いながら部屋へと足を踏み入れると、やはりというべきか、白亜の宮殿だとか呼んでもおかしくはなさそうな乳白色の石でできた室内。
柱に施された緻密な彫り物。
広い部屋の一面には何かの毛皮のような毛足の長いふわふわとした茶色の敷物が敷かれ、ここでようやく確認できた窓の外にはバルコニーと、そして日本と変わらない青い空が広がっていた。
思わず窓際に足を進め、指先をそのガラスに触れる。
熱を吸われる感覚とともにほんのりと曇ったガラス越しに、私は青空の下に広がる景色を望む。
そこは一面銀世界だった。
太陽はまだ頭の上に輝いているが、その熱でも解かせないような深い雪に覆われた青い山々の峰が遠くに、そして雪をかぶった深い針葉樹の森が眼下に見える。
森を裂くように走る渓の底にはきらきらと光が輝いていることから、そこに河が流れているのだと知れた。
「……なんてヨーロピアンな田舎だろうねえ……」
おっと。
思わず素で呟きが漏れてしまった。
幸いながら侍女ズは着替えるものを用意したりお風呂の準備をしていたりと忙しくしているため聞いていなかったようだが、できるだけまだ猫を被った状態でいたい。
身の振り方によっては、このままこの容姿に見合った姿を演じたほうが良いだろうことも考えられるのだから。
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