オタクに優しくないギャルと百合オタクの少女
教室で百合漫画を描く私は変態だ。
きっとクラスメイト達にもそう思われている。だけれど私のペンは止まらない。
クラスメイトの中にひと際輝く人がいる。
彼女は小松冴花さん。髪の毛を染めて長い髪を綺麗になびかせながら、少し露出したシャツから見える白い肌。ブラジャーが透けるのも気にしないような派手なその恰好は、まさにギャルだった。
男子からも人気がある。だけど意外と誰かと付き合っているという噂は聞かなかった。情報は私に届くころには風化していることも多いので、最新の情報は分からないけれど。
そんなある日、気が付けば教室からクラスメイトの姿は消え、残っているのは私と、数人だけだった。
その数人も教室からいなくなると、人の気配はぱったりと止んだ。
だから油断していたのだ。
ふうと息を吐く。
集中していたから喉が渇いた。
伸びをして、一呼吸つくと、ふわりと良い香りが私の鼻をくすぐる。
軽い香水と化粧品の匂い。
小松さんが、私の机の前に座って、それまで書いていた百合漫画を覗き込んでいた。
「ねえ、葉波だっけ。少し読ませてよ」
「は、はい?」
「ダメなの?」
「だ、だめじゃないです……」
私の百合漫画が、クラスメイトの、それも小松冴花さんの手に渡った。
ワイシャツの袖から覗く手首には細身のブレスレットが嵌っている。
ギャルだ。そもそもうちの学校はこんな自由な恰好をして許されるのだからすごいことだ。
そして私の書いている百合漫画の登場人物もギャルなのだ。
なぜなら最近になって小松さんが美人で可愛く見えたから、参考にしている。
そんな相手が私の百合漫画を読んでいる。恥ずかしくて今にも倒れそうだった。
「ふーん」
短い漫画は、数分もすれば読み終わってしまう。小松さんの感想はそれだけだった。やっぱり面白くなかっただろうか。
「ねえ、読ませてくれたお礼に、キスしてあげよっか」
時間が止まったような気がする。
その数秒間は、ものすごく大事な数秒間だった。熱に浮かされそうな頭で、答えを出した時、小松さんの声が聞こえた気がした。
「なーんて――」
「お願いします!」
勢いあまって小松さんの顔に近づいていた。もうこの際今してくれたって構わない。時間が経てばたつほど恥ずかしくなってくると分かっていたからだ。
どうしても試してみたかった。私にキスの経験などない。すごい経験をすれば、きっとすごい漫画が書けるはずなのだ。
「ふーん……」
小松さんは私の勢いに一度は引いていたものの、ニヤリと口を歪ませる。
脱色された明るい髪を耳にかける。
パックのイチゴオレに刺さったストローを口に含んだ。
色のついたリップが塗られた唇。ぷるりと潤ったそれからストローが離されるとちゅぱっと音を立てた。
小松さんがその唇を私に寄せる。
私はぎゅっと目を瞑った。
「ねえ、葉波……絶対に忘れられないキスにしてあげるから、覚悟してね」
ハッとしたときに気付けば小松さんはいなくなっていた。
そうか、私は夢を見ていたんだと気が付いた。
漫画の原稿によだれが付いていないかと確認したあと、私は鞄に仕舞っていく。
机の上に残されたイチゴオレに赤いリップの跡がついていた。
なんで持って帰らないんだと憤慨してゴミ箱に捨てようとしてはたと気が付いた。夢じゃなかったということを。
改めてストローを見る。少しだけ残されたイチゴオレを小松さんはどういうつもりで置いて帰ったのだろうか。
私は言葉の内容を反芻するように思い出す。あの言葉が嘘じゃないなら、小松さんはどこかで私にとんでもないキスをするつもりなのだ。
そんなの私は耐えられるか分からない。いや、なにを本気にしているのだ。
きっとこれはリップサービス。
ストローを見る。つまりそういうことだろうか。
それから数日、私は小松さんを横目で追いかける日々が続いた。
最近はあのことばかりが気になって漫画も集中できずにいた。
どうしてそんなにも惑わせることが出来るのだろうか。私が描く小松さんはそんなにも妖艶なことはしない。
きっとそれが私に足りないものなのかもしれなかった。
週末になって、私は小松さんに呼び出されていた。なぜか小松さんからメッセージが届く。誰かが私のメッセージアプリのアカウントを入手して小松さんに流したのだと分かる。
そんなことが出来るやつは数人しかいない。私の数少ないオタク仲間だ。残念ながら同志はおらず、百合漫画好きは私だけだったけれど。
最近は百合漫画の勢いも留まるところを知らない。もちろん私調べだ。きっと人気なのに、私にはそれを共有する友人がいなかった。
だからあの日、小松さんが興味を示してくれたことが嬉しかった。
休日の小松さんは制服姿よりも大人びた格好をしていた。
私なんかただの、黒い綿棒の先のような見た目だ。
きっと笑われると構えたが、小松さんは私を見るなり気持ちの良い笑顔で私の手を取る。
「そんじゃいこっか」
私は教室での小松さんしか知らない。
小松さんはクールなギャルで少し大人びたところがある。だから私に向かって笑みを浮かべたとき、思っていたのとは違う感覚が私を襲った。
私は小松さんに手をひかれ、どこに連れられてるのかも分からないままついていくことになった。
多分今私の顔は真っ赤になっている。こんな美人なクラスメイトに手を握られて、私なんかが本当にこんなことをしてもよいのかと、頭がぼーっとする。
「こ、こまつさん」
「なあに、葉波。今日は冴花でしょ? 次名前で呼ばなかったら、無理やりキスされたって言いふらすから」
「ひぃ……」
恐ろしいことを言う。私みたいな百合オタクがそんな噂を流されたらひとたまりもない。クラスでの信用もない私のような存在が、小松さんなんかに噂されたらそれが真実か真実でないかなど、関係ないのだ。
それから私は小松さん――冴花さんに連れられて、カフェに行ったあと、お洒落な洋服店などを見回った。
冴花さんは、私にあれこれ着せ替えて楽しんでいた。やっぱりこんな黒綿棒は可愛くないのだ。けれど私が買おうか、と財布を取り出すとやっぱりいいよと手をひいて店を出てしまう。着せ替えて楽しみたかっただけなのだろうか。
そして数時間楽しんだ後に、私たちは人の少ない公園にたどり着いた。
なぜこんな場所をと思ったが、そういえば冴花さんに見せた漫画ではあそこでキスをするシーンがあった。
もしかしてと、思う。
冴花さんがベンチに座る。明るい髪が風でふわりとなびくと、私を見ながら横においでと誘った。
恐る恐る横に座る。
「ねえ、今日どうだった?」
「た、楽しかったです」
冴花さんの手が私の太ももに触れている。
私は身体をガチガチに硬直させていた。
「そんなに力入ってたらだめ。分かるでしょ?」
分かりません。力なんて入れてなくても入ってしまう。緊張をどうにかほぐそうとしても冴花さんが傍にいて、いい匂いを感じるだけで身体が固まってしまう。
大きく深呼吸すれば、冴花さんの匂いが鼻の奥、頭のてっぺんまで届いてしまったような気さえする。
「葉波。こっちむいて」
私は目を瞑って冴花さんの方をむいた。
「はやく、してください」
「絶対だめ。分かってる? 葉波は、私のすることに黙って従えばいーの。いーい?」
「はいぃ……」
ずいっと距離が近くなる。
冴花さんが近くにいるのが分かる。
手が私の肩に触れて耳元で冴花さんの呼吸を感じた。
「ねえ、なんでこんなに近くにいるのに、こっちを見ないの?」
そんなの見れるわけがない。
でも確かに見たい。
冴花さんの顔をこんな距離でみたら、私はおかしくなってしまうのではないだろうか。
それでもちらりと目を開けた。
「ようやく見た」
「か、可愛い……」
手で口を押える。思わず漏れてしまった。
冴花さんが目の前にいる。少し化粧の乗った肌。長いまつ毛。綺麗な鼻筋。厚すぎず薄すぎない唇。
整った顔の中にきちんと愛嬌があって、可愛いのだ。
これには冴花さんの化粧だけでは誤魔化しきれない素材の力があった。
冴花さんが、近づいてくる。
思わず目を瞑る。いよいよかと思ったが違う。
「葉波って面白いよね」
「そ、そんなこと……」
「ねえ、今どれくらいの距離にいるか分かる?」
目を瞑っていたって、彼女の吐息がかかるくらいの距離にいることは分かっている。それでも目を開けられない。恥ずかしいのに、匂いだけは良い香りがするから余計に緊張をしてしまう。
「わ、わかりません……」
「今は?」
「近いです……」
「ちょっと考えてよ。見て?」
目を開ける。もう鼻と鼻が近づきすぎて、くっつきそうだった。
「早く、ください……」
「まだ、だめ。もし私がキスしても勝手に離れちゃだめだよ? 分かってる?」
「わ、わかりました」
どれだけ長くするつもりなのだろうか。そもそもなぜこんなことになっているのだろう。ただ私は冴花さんに百合漫画を見せただけだ。
自分の百合漫画に誰かが興味を持ってくれる。それだけで嬉しいことだった。
キスをしてあげようか、という提案を本気にしたのは私だけれど、軽くして終わりだと思っていた。
これではまるでデートだ。キスなんかしなくても、もう忘れられそうにないくらい衝撃的なことのように感じる。
「ほら、もっと近づいちゃうよ。あと何センチ?」
「うう……恥ずかしいです」
「あと五センチかな?」
「も、もっと……」
「もっと?」
「近いです……」
あと、多分一センチもない。私は冴花さんのプルプルした唇に釘付けだった。
「もう、おかしくなりそうです」
「葉波……力を抜いて」
冴花さんの声が、言葉が、ずいぶん色っぽくて、私の脳を揺らす。
冴花さんの唇が見えなくなって、私は彼女の白い肌を見ていた。
柔らかい感触が唇に訪れる。
ぷるりとした唇にはリップが塗られた感触がした。
いつおわるのかとじっとしていると、下唇にぬれた何かが通り過ぎた。ドキリとして、跳ねそうになる身体を小松さんの手で押さえつけられる。
私の身体は、冴花さんの腕の中に閉じ込められた。これでは逃げられない。
呼吸が苦しくなって、鼻息が荒くなる。まるで盛りのついた犬のようになってしまっている。それが恥ずかしいのだがとめられない。
冴花さんがキスをしながら「ふふ」と笑った。
恥ずかしい。もうだめだ。おしまいだ。そんな絶望的な感情に襲われながら、いつ終わるのか、終わってほしいような、いつまでも続いてほしいようなそんな時間だった。
冴花さんの唇が私の唇を挟み、軽く吸い上げる。ちゅっと音を立てて離れた。
こんな淫靡なことがあるだろうか。本当に冴花さんはえっちだった。
驚いて、顔を離した冴花さんの顔をしっかりとみた。
自信がありげな表情。白い肌に明るい髪。太陽に煌めいて、すべてが輝いて見える。
そして、冴花さんが頬を赤く染めているのに気が付いたとき、私はその光景を一生経っても忘れないものだと確信したのだった。
その日から私は教室でも家でも百合漫画を描く機械となっていた。
数日間、あの光景を忘れまいと、絵にかいておかないと薄れてしまうような気がして、必死でペンを握った。
私の漫画の弱点は分かっている。経験が少なすぎて、物足りない。
ネットにはもう少し過激な内容の漫画も載せてみたりしたこともあった。
だけど伸び悩んでいるのは分かっている。
一般向けだろうが、大人向けだろうが、表現の幅が少ないせいで、惹きつけるような何かが足りないのだ。
そして、その惹きつけるようななにかを小松さんは教えてくれたような気がした。
あの、キスを思い出す度、今も胸が苦しくなる。
無性にむしゃくしゃして、その度にペンを握る。
そうして完成した漫画を、紙に残して持ち歩いていた。もちろん小松さんに見てもらいたくて。
だけど彼女は、ずっと今まで通りだった。
私が漫画を描き続けている間も、そして漫画を読んでみてもらいたくてちらちらと盗み見ている今も。
時折目があって、ニコリと笑う。そんな冴花さんは私のことを弄んでいるに違いない。
だけど私から声をかける勇気はなくて、静かにペンを握る。まったく新しい漫画は書けなかったけれど、冴花さんに似た登場人物は何度も描いた。
家に帰れば、ペンタブを握りしめ、少し過激なシーンを描く。
絵が綺麗だと、評価されることはあるけれど、内容を褒められたことはあまりなかった。
冴花さんが妖艶に少女にキスをするシーン。
漫画の内容についての感想が付いた。
『普通のキスシーンなのにドキドキしちゃった』
そんなコメント。叫びだしたくなるくらい嬉しい。
私は今にも冴花さんにメッセージを送って自慢したい。だけどあれ以来彼女とやりとりをしたことはない。教室でも話したのは、あの放課後のみなのに。
結局私は勇気が出ずに何もできないまま時間だけが過ぎていった。
冴花
あれから、私は葉波に話しかけていない。
しばらくの間、葉波は漫画に集中していた。その間に私は目の前で葉波のことを見ていたりもしていたが、葉波自身は気が付かなかった。
それが少し癪で、私はそのあと漫画を描き終えた葉波がチラチラとこちらを見ているのに気が付いていたけれど、あえて話しかけるまではしなかった。
目が合うと私は手を振ってみたりもしたけれど、葉波はぎこちない笑顔で小さく手を上げるだけだった。
私だって別に少しも何も思わないわけではない。
周りの友人たちには「最近仲良くなった」などと軽く説明しているが、葉波はクラスで孤立しているから、反応は冷ややかだ。
彼女自身はそれでもいいのかもしれない。
私がそれに口を出すつもりはないが、それに少しやきもきするような想いを持つことが、私にとっても意外だった。
「へー、これが冴花の言ってた子か。これがその漫画? 女子しかいなくない?」
何が起きたのかと、最初は分からなかった。教室のそこだけ切り取られたように、静かになる。
葉波の机の前でリョウジという男子が、葉波の漫画に触れていた。
彼はクラスでも目立つ男子で、私や周りの女子とも話すことがある。
どこか他人の領域にズカズカと踏み入れるところがあって、そこも好意的にみられているところがあった。
「リョウジ、なにしてるわけ? 意味わかんないんだけど」
「なに、ちょっと読ませてもらってるだけだって。もしかして怒ってる?」
「勝手に触るなって」
「悪かった。ちょっと気になっただけ、ごめんって」
私が本気で怒ってると分かれば、すぐに引く。
そういう判断力だけは持っている男だ。
「今日は早退するから。葉波も荷物片づけて」
「ええ、今からですか?」
私が荷物をもって帰る準備をする。友人らに挨拶すると、葉波はようやく帰宅する用意が出来たらしかった。
後ろからリョウジの声が聞こえてきたが、私は葉波の手をひいて教室を出たのだった。
今回のことが何かの対決だとしたら、多分私の負けだ。
きっかけはリョウジだったが、私から話しかけてしまったのは事実だ。
「あのさ、今日さ、うち親いないんだよね」
葉波は、言葉にはしなかったが、キョロキョロと目線だけで焦りを見せている。
それがおかしくて、少し笑った。
黒い髪から見える肌が、白のなかに赤みがさしているのが見えた。
葉波の髪は少し重たい。短いのに前髪は長くて、そこから覗く瞳が私には漫画に出てくるキャラクターのように輝いて見える。
私は葉波の手をひいて電車に乗り込む。まだそこまで混んでいるわけではなかったけれど、私は葉波を開閉扉の脇に押し込んだ。
葉波は私の腕の中で小さくなっている。俯いて顔は見えない。頭のつむじが見えていて、思わず手を添えたくなった。
このままぎゅっと抱きしめたらどんな反応をするだろうか。私の胸に押し付けてしまいたくなるのを我慢して、私は葉波の頭をじっと見つめていた。
私の家の最寄り駅で降りると、葉波は少し焦ったかのような様子だった。
「ほ、本当に小松さんのおうちに行くんですか?」
立ち止まる。
「小松さん?」
「あ……さえかさん」
「うーん。冴花さんかあ。冴花がいい」
「ええ、無理ですよお」
「どうしてよ。私だって呼び捨てなんだから一緒でしょ」
きっと彼女にとっては一緒ではないのは分かっているけれど、これは我儘だった。
だって、そのハードルを飛び越えて、呼び捨てで呼んでくれることに意味があるのだ。
葉波はキョロキョロと視線を泳がせている。
追い詰められた金魚のように、ゆらゆらとしていたが観念したように小さな声で「さえか」と呼んだ。
「んっふ」
思わず変な声が漏れた。
誤魔化すように、いや本当はそうしたくて、葉波を抱きしめる。
「小松さんっ?」
「……ちがうよね?」
「さえかさ……さえか……」
照れている葉波。このまま抱えて持って帰りたい。
もちろん家には連れていくのだが。
アパートの鍵を開け、部屋に入る。リビングは片づけていないテーブルの上に、昨夜の食事の跡が残されたままだった。
あんまり葉波には見せたくないが、部屋に入るには仕方ない。
きっと夜中に帰ってきた母が食事をしたまま眠って、そのままどこかに出かけたはずだ。
帰れないからと先日食費を渡されたから、明日の夜になるまで帰ってこないことは分かっていた。
葉波を部屋に入れると、なんだか妙な感覚がする。高校のクラスメイトを家に上げたことはなかった。
それなのに葉波はあげても良い。そんな気になっている。
なぜだろうかと考えても分からなかった。
本当だったらこんな家、葉波にだって見られたくないはずなのに。
「こま……さえかさん」
「なあに」
「どうして……」
ここまで連れてきてしまったが、自分でも正直どうしたいかまでは分かっていない。ただ、あのまま晒し物のようにされている葉波をそのままにしておくことが出来なかっただけだ。
「私葉波の漫画読んだの」
「はい」
「紙の方じゃなくて、WEBにあがってたやつ」
「はい……え? え? いや、え?」
葉波が壊れてしまった。
まるで、現実を受け止めきれない犬みたいだ。
「でもさ。ちょっと味気ないよね。あれって女の子が裸になってるだけじゃない? 絵は綺麗でとっても好きだけど」
「え? 見たんですか? 小松さん」
「小松さん? あーあ。私の口からアカウント名が教室で出てしまいそう」
「だ、ダメデスヨー!」
焦る葉波が、面白くて笑ってしまう。
「葉波本当に隠す気あるの? 紙の漫画に描いてあるペンネームのまんまだったけど」
「そ、それは……!」
今気が付いた、と言わんばかりの衝撃を受けた表情。
きっと紙の漫画でさえ見せる人がいなかったか、見せるとしてもオタク仲間くらいの物だったからあまり気にしなかったのだろう。
私は絵が綺麗で面白い漫画は昔から好きだったし、それこそ少女漫画や、同性同士の漫画だって読んだことはある。
どちらかと言えば、自分を投影するというよりかは、ストーリー自体を楽しむか、それによって生まれる感情に共感をするのが楽しかったのだ。
葉波
冴花さんの部屋は、いい匂いがした。電車の中で冴花さんの腕に囲まれていたのを思い出す。あの時は何がなんやら訳が分からなくて、生きた心地がしなかった。
それが今やもう私は、生きていけないくらいに絶望を感じている。
だってそうだ。
私の漫画、それもあんなモテない百合オタクが書いた、妄想を垂れ流すだけの下品な漫画を冴花さんに見られていたなんて、今すぐにでも自決するべきなのかもしれなかった。
いやでも、この状況から逃げるなんてことは出来ない。
ああ、百合漫画の展開としては面白いのに、今のこの状況では何も楽しめない。
「ねえ」
冴花さんが、制服姿のまま四つん這いになってこちらに近づいてくる。
いつも上のボタンが外れたままのワイシャツから、美しい曲線が露骨に見えてしまっていた。
あわあわとする私をよそに冴花さんは、言葉を続ける。
「あの漫画の続きがどんなふうになるのか、試してみない……?」
あのいつも余裕そうな冴花さんが、頬を赤く染めているのが分かった。
あのキスの後のことを思い出す。
きっと冴花さんでも、簡単な気持ちじゃないのかもしれないと私を勘違いさせるような魅力がそこにはあった。
「続きって……どんなのですか? こ……冴花さんは、経験……あるんですか?」
私の馬鹿。冴花さんはすっと表情をなくした。
でもだって、気になるのだ。冴花さんのことが頭から離れない日々を送って、何度も妄想した。私は冴花さんの過去まで知りたくなっている。
どうしてそんなことまで気にしなければならないのか。さっさと流されて色々教えてもらえばいいのに。
「うーん。私も大してないかも。なら誰かに教えてもらってこよーか」
「絶対にダメです!」
「わお。めっちゃ必死じゃん」
疲れた。もうだめだ。こんなことでは帰って漫画を描く気力が湧かないかもしれない。
「うーんでもそうだなあ。確かにキスはいいけど、それ以上ってなるとどうしていいか分からないよね。やっぱ初めてはすっごい思い出にしたいじゃん?」
「すっごいの……」
「くく……何を妄想してるの葉波は」
そんなことを言われたって妄想が好きで、こんなことになってしまった身としては、冴花さんは妄想の具現化のような存在だ。
その言葉一つで妄想がふくらむなんて当たり前の話だ。
「ねえ、それなら、少しだけで良い。私のこと、恋人だと思って抱きしめてみて」
冴花さんは、それまでの余裕そうな、あるいは小悪魔的な姿とは違った。
まるで私をからかうようにして誘うのを隠れ蓑にしていたみたいに、冴花さんの大事な部分がこぼれたようにあふれ出した。そんな風に見えた。
私はいつのまにか、手を差し伸べて、冴花さんのことをぎゅっと抱きしめる。
これまでのことはもしかしたら、揶揄うだけじゃなくてなにかのサインだったのかも、そう思ったらどうしようもなく彼女を一人にすることは出来なくなった。
冴花さんの何がそうさせるのか、苦しみも悲しみも寂しさも何一つ分からない。
ただ私の腕の中ですするような鼻の音が耳元で聞こえてくる。
私はそれには気づかないふりをして、ただただ黙って彼女の背中を抱きしめていた。
「お母さん? 今日ちょっと友達のうちに泊まるから。え? 家の人? あ、え? 代わってくれるって……」
「お電話代わりました。小松冴花の母ですう。どうもお世話になっております。ええ、ええ、そうなんです、急に連れてきて、冴花には家に連れてくるような友達なんておりませんでしたから、ええ、ええ」
冴花さんが電話に代わると、まるで十歳以上も年齢を重ねた母親になり代わっていた。まるで目の前にいるのは本当に冴花さんのお母さんなのではないかという錯覚に陥る。
とんでもない女優を目の前にしていた。
まさか私も、さきほどまでの冴花さんに騙されていたのではないだろうか。あれ、おかしい。
「おっけーだって」
「ええ?」
「もう切れてるよ」
すんと、静かになった冴花さんが、部屋の隅で小さくなっている。
「どうしたんですか」
「なんで敬語なの」
「だって、さっきは冴花さんが冴花さんのお母さんになってて……」
「あんなのと一緒にしないでよ」
「ごめんなさい」
「ごめん、葉波には関係なかったね」
違う。違うのだ。私には冴花さんのこともお母さんのことも何にも分からないが、冴花さんのことと私を関係ないものにしてほしいわけではない。
些細な事だって私に話してほしい。だけどそれを言ったらうざいと思われるかもしれない。どこまで踏み込んでいいか、今はまだ分からない。それが今の気持ちだった。
「もう一回、だっこ、しますか?」
「……したいだけじゃないの?」
「え? いやいや、え?」
「なに焦ってるの。……する」
相変わらずいい匂いがする。
抱っこしたまま、私の胸が鼓動を高鳴らせているのが冴花さんにばれているだろうかと悩みながらも、時間だけが過ぎていく。
「別にね。お母さんのことキライじゃないよ」
「え、はい」
「ずっと、育てて来てくれてたし、私がそろそろ大人になって自由が出来たから、そこらへんも割かし理解ある方だし、私が居ない間どこかの男と過ごしているとかは、まあ別にいいけどさ」
すごい気にしていそうだった。だけど冴花さん自身現在折り合いをつけている最中なのだと思う。
「でも私だって寂しい時はあるし。そんな時はやっぱ漫画とか読んだりするんだよね」
「なるほど」
「それで私も、クラスにいる黒い漫画描きが書いている漫画ってどんなだろうって思って」
「それは……」
「うーん。絵は綺麗だよね」
「ぐう……」
「ふふ。でもその歳でそんな綺麗な絵、書ける人そんなにいないよね。それに絵にずっと時間をかけてきた葉波のこと私、嫌いじゃない」
「なんか、すみません」
「なんで謝るのよ。褒めてるのに」
それはもちろん、不純な動機で冴花さんのことをネタにして、漫画を描いて、あられもない姿にまでもしてしまった罪悪感からというものだ。
「でもさ、当たり前だよね。私たちそんなに経験ないし。だけど葉波にはもっと面白い漫画、描いてもらいたい」
「頑張ります」
「だからさ。私と一緒に経験してみない? もちろんえっちな意味じゃないよ」
「えっちな意味じゃないんですか?」
「うーん。シたいなら、私のこともっと好きにさせてよ。そういう意味でなら経験したいから……」
明るい花のような人だと勝手に思っていた。けどもっとしっとりしていて、彼女はきっと雨が似合う。
私のような女が彼女を好きにさせることは出来るだろうか。
でもそういう意味だけじゃない。多分冴花さんはもっと心の底から頼れる人間を探していたのだろう。
それがなぜ私なのかは分からない。だけど彼女のなにかに引っかかった。
それはきっと彼女も分からない。
ああ、だけど、それを知ったらきっと私は漫画を描いてしまう。
そんな彼女の秘密を書くことなんて出来ないという気持ちと、そんな繊細な心を描いたら、きっと心に迫るような百合漫画がかけるのかもしれないという予感が、私の中に膨らんでいくのだった。
「冴花はご飯、いつもどうしてるの?」
「おかね貰ってるからコンビニ」
「ええ? それならスーパーにいって具材を買って料理してみませんか?」
「うーん、いいけど、料理したことあるの?」
「ありません!」
「なんで自信満々で敬語なのよ」
冴花さんにはないと言ったが、ゼロというわけではない。一から十まで一つの料理は作ったことがないが、間の手伝いくらいはしたことがある。
あんたは手先は器用だから、役に立つわね、なんて言われたこともあるが、味付けなどはからっきしだ。
「今は、料理なんて調べれば作り方なんてわかりますからね」
「それならいいけど、敬語……」
「う、もう少し頑張り、頑張る」
「じゃあ、行こ!」
一緒に近くのスーパーにいって買い出しを行う。冴花さんのお母さんが残したお金は数日分の食費が賄えるくらいの金額だった。
料理は可もなく不可もなくといったところだった。
ネットで検索したレシピを丸々試して作った。
途中であれ入れたら美味しくなるなんて言う冴花さんを押し留めるのに少し苦労したくらいだ。
そんなことよりも一緒に料理を作るのは、料理の味などどうでもいいと思えるくらいに楽しかったのだ。
一から食材はあれにして、これにしてと一つ一つ選んでいく。
選んだ食材を購入し、袋に詰める。こんな事冴花さんはやりたくないだろうと思ったが、意外と楽しそうにしていると私の目に映った。
冴花さんの嫌いな食べ物、好きな食べ物、そんな些細なことを知る度、心がふわりと浮かぶ。
「ねえ、葉波」
「なんですか」
「楽しいね」
浮かんだ心が、口から飛び出して、空高く舞い踊りそうだ。
私と一緒の気持ち。それを確認出来ただけで私の顔はきっと真っ赤に染まってる。
ああ、早く描きたい。いまの冴花さんの可愛さを忘れないうちに絵に残して置きたい。
でもでも、今帰ってしまったら、もっと可愛い冴花さんの顔が見られないかもしれないのだ。
そんな恐ろしいことはなかった。
それから私たちは、食事を済ませ、私はシャワー浴びた。
服は冴花さんの服を借り、今度はシャワー浴びる冴花さんを待つことになった。
私はこの状況を知っている。
もう、言葉に表せないような事が起きる直前でしかない。
しかし、冴花さんにそんなつもりはないはずだ。
だがしかし、冴花さんの気持ち、高まってしまったら……。
私は悶々とした思いを抱えながら、長い時間を待たされることになる。
「ただいま」
冴花さんがかえってきた。
しっとりと濡れた髪。それをタオルで乾かすしぐさが色っぽい。
「まだドライヤーしてないの?」
全くそんなことを考えていなかった私は濡れた髪のままだった。そもそも私は髪が短いしタオルを巻きつけたまま、放っておくこともある。
「だめじゃん。傷んじゃうよ。せっかく綺麗な髪なんだし、綺麗にしておこうよ」
「綺麗?」
「うん、つるつるで綺麗だよね。私は染めてるから仕方ないけど」
「仕方ないんですか? 冴花も黒髪にしますか?」
「えー今更しないよ。でもまあ、たまには気分転換もいいかもね。しないけど」
見てみたい気もするし、今の明るい髪色が似あっているとも思う。
漫画のネタにするならあえて、黒髪の冴花さんを想像して描くのも悪くないかもと悩んでいると、いつのまにかドライヤーの温かい風が私の髪を揺らしていた。
冴花さんが私の髪の毛に触れて水気を飛ばしている。まるで女子同士がお泊りをするときのようなイベントが私に舞い降りてくるとは思わなかった。
さらさらと手のひらが髪の毛をすいていく。
暖かい風と冴花さんの指先の刺激が心地よく、まるでお姫様にでもなった気分だ。
「うう、なんだか申し訳ない気分です」
「いいの私がしたいんだから。あとで私もやってよ」
「ええ? 出来るでしょうか」
「ちょっとでも良いよ。多分私の髪は長いから大変かも」
そうしてお互いの髪を乾かしあう。やっぱり慣れていない私は手際が悪くなんでこんなにも女の子らしいことをしてこなかったのだと、後悔する気持ちになった。
「私さあ。オタクって嫌いなんだよね」
「はっ……」
もう終わった。私の人生はここでお終いなのだ。
「あっはは。葉波のことじゃないよ。でも、そんなに漫画が好きなのに、なんで自分は可愛く着飾ろうと思わないの?」
「何の言い訳も浮かびません」
「ふつーに純粋な疑問なんだけどな」
「私には出来ないことを漫画のキャラクターにしてもらう訳です」
「ふーん、でももっと百合百合した漫画、描きたいんだよねえ?」
「まあ、そうです」
「ならさ、自分が体験して、もっと経験を積む方がはやくない? それならちゃんと可愛くした方が良いと思うけど」
私は乾いた髪を冴花さんにいじられながら、言い返す言葉を探す。いっぱいある。
けれどそれを言葉にすればきっと惨めだ。
「冴花さんのようには、私はできません」
「そりゃそうでしょ。私みたいな美人はそういないからね」
「……すごい自信です。でもだからこそ、きっと冴花さんみたいなキャラクターを可愛く描きたいんだと思います」
「そうかなあ。でもさ、きっと経験した方が、もっと魅力的なキャラクターも物語も、見つけられる気がするな」
そうかもしれない。私は絵を描くのが上手いと言われてここまできた。だけどその絵だって誰かの真似事で、きっと魅力のある絵というのとは少し違うのかもしれない。
「どう? 葉波も可愛いよ」
私の髪をいじっていた冴花さんが、鏡の方を向かせる。
そこに映っていたのは、前髪をピンでとめて、顔が露わになった私だった。
「だめですよお。肌も汚いし、そんなに出していい顔じゃないですから」
「そんなことないよ。そうやって前髪を伸ばしっぱなしだから顔にニキビだって出来るんだよ。化粧水とかしてるの?」
「……してません」
冴花さんは怒ったように「もう」と言って自分が使っていた化粧水を取り出すと、手のひらでパチパチ馴染ませて私の顔に塗りつけていった。
「どうせ葉波のことだから、夜更かしとか、漫画を描きながらお菓子とか食べてるんでしょ」
「なんでわかるんですかあ」
鏡越しで見た冴花さんは、少し呆れたような顔をしていた。
「うーん、でも私も食べるときはあるか」
「あとで一緒にコンビニいきますか……? スーパーではあまりそういったお菓子は買ってないし」
「なにそれ、面白そう。行きたい」
意外とこのギャル、遊び慣れていないのでは、と思い始めたのはこのころからだった。
ギャルといえば、夜遅くまで遊び歩いたり、少し危険なこともしちゃうようなのが普通なのではないだろうか。
「うーん。私はあんまり興味ないんだよね。可愛くしたり、いろんな可愛い子と話をするのは好きだけど……でも葉波といるのは楽しいかな。それだったらこうして皆と夜に出歩いても楽しいかもね」
「絶対やめてください」
「どうして?」
首をかしげながら私のことを覗き込む。少しにやりとした表情を浮かべているから、確信犯だ。私を弄んで楽しんでいるのだ。
「いやです」
私の声は低く硬い。そんな風に冴花さんが知らない世界に行ってしまうとしたらきっと私を相手にもしてくれなくなってしまう。
そんなのは嫌だった。ただの独占欲。たった数日遊んだだけの、友人と言って良いかも分からない関係。
それなのに、もう私は冴花さんの一番になりたくなっている。
汚い。そんな感情を持つ自分がいることが嫌だった。
私の漫画に私はいらない。
「なら私も遊びます!」
「それいいね。私と一緒にみんなであそぼーよ」
違うそうじゃない。それは多分きっと私が苦しいだけだ。
「違います。私だって知らない人、男の人でもなんでも遊びに行っちゃいますから。そしたらきっと面白い漫画が書けるんですよね? さっき言ってましたから、経験する方が良い漫画を描けるんだって」
――なんでそんなに冷たい顔をするんですか。
私は私でやりたいことをするだけ。これからも私たちの時間は交わらない。そうと言ってくれれば期待をせずにいられるのに。
「ふーん。そんなつまんない事言うんだ」
「なんですか?」
「葉波もあの人と一緒なんだね」
あの人……。そうか、冴花さんのお母さん。
ふいと、冴花さんが身体を横にする。私から背けるように。
嫌われた。そう、自分みたいな弱くて汚い奴は、こうなって当然だ。
汚い感情をもって、冴花さんのような綺麗な人に接すれば当たり前のことだった。
「帰ります」
「え?」
冴花さんに借りた服のままだと気が付いて、服を脱ぐ。
私の制服は鞄の中だった。
「なんで脱ぐのっ」
私は涙で前が見えなくなってる。
ずるずると鼻を鳴らしながら、私は制服に着替える。だけど上手く着られない。早くここから出たいのに、上手くいかない。
鞄の中にあった原稿がばらまかれた。それを見ると、なんだか無性につまらない絵にみえた。
私だってわかっている。つまらない絵、つまらないストーリー。ただ誰かの絵を真似するだけの、漫画の才能なんてない。
そんなの分かっているけど、まだまだだと前に進むしかなかった。私にはこれしかないのだ。
私はどうせ、もっと汚くて、ずるくて、可愛くない女だ。
分かってる。私自身がつまらない女だから、面白い漫画も描けない。みんなが好きだと言ってくれる漫画を描けない。
冴花さんだって、私の漫画を読んでも何も言わなかった。つまらないからだ。
ぐしゃりと握りしめて、鞄につっこむ。私のこころまでつぶれる様な気がした。
「なんでそんなことするのよっ」
パンと頭をはたかれた。
頭がぐらりとした。
頭をはたかれるのってこんなに……苦しいんだって、気が付いて涙が余計にあふれてくる。
うずくまって、子供みたいに泣いて、なさけない姿。今も優しくされないか期待している。
「さえかさんにはわかりません。わたしみたいなつまんない女は、さえかさんの傍にいたら苦しいんです」
「私は……!」
「私のことは放っておいてくれればいいじゃないですか。いっぱい友達がいる小松さんみたいに、私にはなれません。綺麗にも可愛くもなれない。私みたいなつまらない女が、つまらない嫉妬をして、小松さんを傷つけるだけです」
私は、立ち上がる。まだ制服もまともに着ることが出来ていないが、それでもよかった。
「そんな恰好でどこいくの」
手をひかれる。
「いいじゃないですか。こんな格好なら誰かひとりくらいは声をかけてくれるかもしれませんから」
「……知った風なことを言わないでよ」
「何にも知らないくせに、私の何が分かるって言うの? そんな勝手にどっかいかないでよ。つまらない嫉妬ってなに? 傷つけるってなに? 私は何に傷つくの? 勝手に決めないで! 私の気持ちは私がきめるの。もうやだよ……ひとりはやだ。ひとりにしないでよお」
今度は冴花さんが子供みたいに泣き崩れる。
まるで親に置いていかれて駄々をこねる子供みたいに。
結局ずるいのだ。私は冴花さんを放っておけるわけがないのに。
私は冴花さんのことを恐る恐る抱きしめる。本当に私なんかがいいのだろうか。そのことにまだ自信が持てない。今すぐにここから離れた方が良い気がする。
そんな想いをよそに、冴花は私が触れると、すぐに抱き返してくる。
寂しいよと泣きながらつぶやく冴花さんの背中をさすりながら、私は冴花さんの首に縋りつく。
離したくない。だけど離さないといつまで経っても、私は苦しいまま。
それでも、私はこの手を離せないで、冴花さんの泣き声を聞いていた。
冴花
『お前はお母さんのほうがいいだろ? 母さんは金もあるし、美人だからな』
『あんたもそろそろ大人だから、好きにしていいわよ。私が傍に居たら楽しめないでしょ』
『冴花は、私たちみたいなのとは違うでしょ』
『さえかさんにはわかりません!』
葉波の頭をはたいたとき、私は小さなころのことを思い出していた。まだ父がいた頃のこと。
いつのまにかいなくなって、私から離れていった。私の意見も聞かずに。
今度はお母さんが離れようとしている。もう私は大人らしい。
そうなのかもしれない。だけど、私が寂しいときに一緒に居てくれたことはあっただろうか。
葉波が泣いている。私が泣いていたのに、いつのまにか、葉波まで泣いていた。
じゅるじゅると鼻をすすっている音が聞こえるが、私はあまり不快な感情にはならなかった。
「ねえ、はなみ」
「なんですかあ」
「してみよっか」
「何をですか……」
私は一度葉波から離れる。お互い酷い顔をしていると思う。葉波はせっかく化粧水をしてあげたのに、目をこすって赤くなっている。
私だって、泣いたのだから充血くらいはしているはずだ。
「ねえ、この前みたいにキスしてみようよ」
「だめですよお」
「なんで? このまえはしてくれたのに」
「さえかさんがしたんじゃないですか……」
「葉波がしてほしいって言ったからでしょう? 私のファーストキスなんだから記憶に残るやつにしたいじゃん」
「ふぁ?」
失敗したラッパのような音を鳴らして固まる葉波。こんな間抜けな顔にはキスなんてしたくない。
「はあ……」
「なんかその溜め息、すごく悲しくなりますう」
「その馬鹿みたいな喋り方やめて」
「はい……すいません、恥ずかしくて」
私は葉波の漫画が好きだった。そういうと少し語弊がある。
私は葉波が一生懸命漫画を描いているのが好きだった。何かに追われるように漫画を描き続けているその姿が。
私にはそんなに熱中できることなど無い。そして何時のころからか、私をちょろちょろ見ていることに気が付いていた。
だから私から声をかけたのだ。
彼女の漫画を読んでみたかった。そんなに熱中してどんなものを書いているのだろうか。
ストーリーは正直いまいち。もっと世の中にたくさん面白いものはある。
だけどまだまだ、葉波は若い。これからもっとたくさんの経験をしてたくさんの本を読んでたくさんの出会いと別れがあるのだろう。
なんて、それっぽいことを言ったりして、分かったような気になる。それが私の悪いところだ。
葉波に説教みたいなことを言って、傷つけた。私は葉波に傍にいてほしくて、それが苦しめることだなんて想像もしてなかった。
一緒にいられたらうれしい。そう、葉波だって思ってくれていると思っていた。
葉波の絵は多分、何時間、何千時間と練習した人の絵だ。
私は漫画も少し読むくらい。だけど今まで読んだ漫画の中にいれても葉波の絵は負けてない、と私は思う。
もちろんプロじゃないから、葉波には葉波の悩みがあるんだろう。
私は葉波の頭を撫でる。いい子。
葉波は自分のことをつまらない女って言った。そんなこと私は思わない。だけどそれを私が言ったって、きっと彼女は納得しないだろう。
きっと彼女は全部に漫画が繋がってる。生きている間が漫画なのだ。だから漫画が上手くいかなければずっと苦しいまま。それを私がどうこうしてあげれることは多分、あんまりないだろう。
こうして、私と一緒に時間を過ごして、いつか大作を描いてくれないかなんて傲慢なことを思っていた。
でもやっぱり私は、葉波に折れてほしくない。彼女が私に漫画の登場人物のように輝いて見えるならば、私には漫画を描く葉波が輝いて見えるのだから。
「さえかさん。やっぱりします」
「なにを?」
「ちゅーです」
目を潤ませて、こすった跡が目じりに残ってる。
ちょっと私の心が動いた気がしたのは内緒だ。
「仕方ないなあ」
「してくれるんですか?」
「まずはその鼻水拭いてからね」
そのあとしたキスは、やっぱりちょっとしょっぱかったけれど、それから長いこと二人で笑うくらいにおかしかった。
変なことで喧嘩して、変なキスをした。
笑い合ったあと、お互いのことを話した。
ひとりで寂しいと誰かに話したのは初めてだったこと。漫画のことを誰かにぶつけたのは初めてだったこと。
私たちは多分、きっとずっと忘れられない関係になると思う。未来のことは分からない。だけど、葉波の漫画のことはずっと追いかけ続ける気がした。
あれから私たちは、高校を卒業し、それぞれ違う道を歩むことになった。
葉波とはもちろん連絡を取り合っている。彼女は大学に行きながら、漫画を描く毎日を送っているという。
最近ネットで連載してみないかというオファーが来ているらしい。
しかし彼女は「絶対詐欺。絶対騙されない」と息巻いていた。
私はそんなことないんじゃないかと、言ったのだが信じてくれはしない。
最近私が読んでも面白いと思えるくらいに、上達している。読んでいて切なくなるような物語ばかりで、すこし苦しくなる。
それもこれも自分や私のことばかり、参考にしているからだと言う。
私はギャルなのに重たい女らしい。たしかに私はそんなに軽い女になりたいと思ったことはないが、あんなに気軽にキスをした私が、軽くないと言えるだろうか。
しかしまあ、最近の私は重いってことも自覚気味だ。
ネットの葉波先生は少し人気だ。閲覧数やフォロワー数も伸びてきている。そんなわけだから、きっとWEB連載も本当なのだと思うのだが、葉波は信じない。
もちろん葉波がいうのだから、なにか理由があるのかも。
今のところ、私はそれほどだ。
大学は進学せずに、アルバイトを始めた。自分で働いて、生活することをやってみたかったからだ。しかしこれが意外と大変で、あまり上手くいっていない。
持ち前の顔と明るさでバイトは受かるが、そのあと何かと問題を起こす。というか起きてしまう。
告白をされて居づらくなるくらいならまだいい方で、店長にセクハラまがいのことをされそうになったり、お客さんにストーカーをされるような目にあったり、あまり良いことがなかった。
お母さんにはあんたも、水商売なんかやってみたらと言われたけれど、それは最後の手段である。
最近はパソコンの前でカチカチと音を立ててみたりもした。
これが意外と悪くない。私にとって見たら、馴染みのないものではあったけれど、これさえあればいろんなことを学べると知った。
そうしてアルバイトをしながら、自前のパソコンで勉強をしたり、新しいことに挑戦したりもしていた。
これでは葉波のことをオタクと笑えないくらいだ。葉波は漫画を描いているだけ。私の方が何をしているか説明するのが難しい。
面白いのは世界が変わっていっていると知ったことだ。
毎日毎日大きなニュースがごろごろと転がっている。それが自分のやっていることに繋がっていると分かるとそれもまた楽しい。
その日は葉波のお気に入りの漫画家が出版した新刊が発売される日だった。
私もその漫画を買って読んでいる。もちろん内容は百合だ。
私にとっても百合漫画を読むのが日常になっていた。なんだかあの日のことが懐かしく思える。
あれから葉波とは、普通の友人として関係を続けている。
私にあれから恋人のようなものは出来ていない。葉波にはもしかしたら出来ているかもしれない。どうせ大学というのはそういう場所である。
ちょっぴり落ち込んだ気持ちのまま本屋に行く。
小さな駅の小さな駅前の本屋。そこが私のお気に入りだ。
優しそうなお爺さんが経営していて、漫画や小説などが並んでいる。あまり大きくないのに百合コーナーがあるのは意外だったけれど、これにはかなり助けられている。
葉波に影響されて読んだ本は数知れず。
駅から歩いてきた人込みにぶつかり、本屋にたどり着くのが遅れた。
まさか売り切れなんてことはないだろうが、と少しはやる気持ちを抑えて私は本屋に向かった。
百合漫画や小説がならんだ角。服装は少し垢ぬけて、髪も前髪をピンでとめている。
間違いようがない。最近はお互い忙しくて会えていなかった。
思ったよりも鼓動が跳ねたことに驚いて、私は声をかけようか迷う。
なんで私が戸惑うのか、自分で自分が分からない。
少しお洒落になって、少し可愛くなった。その上漫画も少し面白いのだ。
以前はなかったトキメキが私に訪れるのは、漫画に影響されたからか。
もう、ギャルとは言えないけれど、葉波は優しくしてくれるのだろうか。
彼女がこちらを振り向く。
小さな本屋で私は気が付いた。
もう私も立派な百合漫画オタクだ。推しの漫画家に再会出来て喜んでいるんだから。




