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【閲覧注意】世界の終わりの、その先を――短編傑作選

【スカッとする短編】「検討します」と逃げる奴を即刻承認させる方法がやっと分かった

作者: 葛石
掲載日:2026/02/22

帝都重工、十三階、第一会議室。

この部屋の空調は、常に低い唸り声を上げている。

まるで巨大な獣が、その呼吸を潜めているかのように。


出された茶は、すでに冷めきっていた。

安っぽい湯呑みの底に沈殿した茶葉を眺めながら、私は手元の腕時計に目を落とす。

ロレックスの秒針だけが、この部屋で唯一、正確に未来へと進んでいる物質だった。


午後四時。定例進捗報告会。

この儀式に参加するのは、これで四十八回目になる。


「先生、お待たせしました」


重厚な扉が音もなく開き、葛西システム部長が入室してきた。

年齢五十九歳。定年まであと一年と三ヶ月。


銀縁眼鏡の奥にある瞳は、常に穏やかな笑みを湛えている。

その表情は、長い社畜生活で形成された「拒絶」と「受容」が混ざり合った、完璧な能面だ。


彼はドサリと音を立てて、私の目の前にキングジムのファイル三冊を置いた。

分厚い。電話帳のような厚みだ。


「いやあ、今週も議論を尽くしましたよ。これがその成果物です」


葛西は愛おしそうにファイルの表紙を撫でた。

私は無言で表紙を見る。

『業務プロセス要件定義・検討資料 ver.48』。


中身を見る必要はない。

先週と変わっているのは、日付と「検討中」というスタンプの位置だけだ。


私の脳内で、冷徹な計算機が音を立てて回転を始める。


――進捗、ゼロ。

――予算消化率、四十五パーセント。


三億円。


この一年間で、帝都重工が「デジタルトランスフォーメーション」という美名の下に焼却した現金の総額だ。


それは私のコンサルティングフィーであり、ベンダーへの調査費であり、そしてこの不毛な会議室の照明代として消えた。


「葛西部長」


私は感情を一切排し、乾いた声を出した。

喉が張り付くような感覚がある。


「単刀直入に伺います。このプロジェクトの『完了』はいつですか。そして、その『成果』は何ですか」


葛西は痛いところを突かれたという顔は一切見せない。

むしろ、待っていましたと言わんばかりに、さらに深く椅子に座り直した。

革張りの椅子が、ギシ、と悲鳴を上げる。


「目的、ですか。それはもちろん、社長が常々申しております『帝都重工の次の百年を作るため』ですよ」


彼は淀みなく、社内報の1ページ目を暗唱するように続けた。


「生産性の向上、新たな価値の創出……。しかし先生、数値目標というのは難しい。

無理に数字を置くと現場が萎縮する。

だから今は、『全社員がデジタルマインドを持つ』という定性的な土壌作りを重視しているんです」


「期限は」


「中計(中期経営計画)に合わせて、二〇二七年度末。あと二年半ありますね」


葛西は柔和な笑みを崩さぬまま、決定的な一言を放った。


「DXというのは一朝一夕で終わるもんじゃありません。

『終わりのないエンドレス・ジャーニー』なんて言うじゃありませんか。

だから、二〇二七年までに『何か形になればいいな』くらいの感覚で、じっくり腰を据えてやるつもりですよ。

拙速は尊ぶべからず、です」


終わりのない旅。


私はこめかみに走る鈍痛を堪えながら、手元のメモ帳に「2027」と書き込み、そこに×印をつけた。


私の脳裏に、この巨大企業の「未来予想図」が浮かび上がる。

二〇二七年、この男が定年退職金を満額受け取り、悠々と去った後の焦土。


古いプログラミング言語を扱える技術者は死滅し、システムはブラックボックス化する。

競合がAIで見積もりを自動化する横で、この会社はまだハンコを十五個押している。


技術的負債が利益を食い潰し、優秀な若手から順に泥船を逃げ出す。

残るのは、「変化」を何よりも憎む茹でガエルたちだけ。


静かなる破局カタストロフィ


その引き金を引いているのは、目の前で茶を啜っているこの男だ。

彼は「会社の利益」ではなく、「自分の平穏な退職」に対して、極めて忠実かつ優秀に働いている。


私は、何度も試みた敗北の記憶を反芻する。


三ヶ月前、私は「出島戦略」を提案した。

葛西というレガシー(遺産)を無視し、社長直轄の別働部隊を作る作戦だ。


だが、葛西は動じなかった。

「素晴らしい! 若い力でどんどんやるべきだ!」と称賛さえした。


その直後だ。

彼が「基幹データとの連携には、システム部の厳格なセキュリティ審査が必要だ」という条件を突きつけてきたのは。


結果、出島部隊はデータという血液を止められ、干上がり、壊死した。

葛西は指一本触れることなく、ただ「安全」という正義の御旗を振るだけで、変革の芽を摘み取ったのだ。


「……先生? どうされました、怖い顔をして」


葛西の声で、思考が現実に引き戻される。

目の前には、変わらぬ笑顔。


この男は、最強の盾だ。

論理も、情熱も、権威さえも、この「巨大な事なかれ主義」というスポンジの前では無力化される。


私は、ネクタイの結び目に手をかけた。

首が絞まる。


物理的な締め付けではない。

「倫理」という名の、分厚く、重苦しいコートを重ね着しているような、不快な熱気が全身を包んでいる。


コンサルタントとして、私は「正解」を知っている。

この男を救おうとしてはいけない。

彼を「バグ」として処理し、排除すればいい。


社長に直訴し、株主の利益を盾に彼を告発し、その首を刎ねればいい。

だが、それは私の流儀ではない。

……いや、そう自分に言い聞かせて、泥沼の戦場に留まり続けてきた。


しかし、限界だ。

積み上げられた書類の山から漂う、インクと埃の臭い。

空調の低い唸り声。


そして、悪意なき笑顔で「検討します」と繰り返す、この壊れたレコードのような男。


徒労感が、胃の腑で黒い塊になって凝固していく。


「……葛西部長」


「はい、なんでしょう」


「一つ、提案があります。これが、最後の提案です」


私は鞄から、一束の資料を取り出した。

それは、昨晩徹夜で作成した、完璧な変革プランではない。

論理と理性を詰め込んだ、ただの紙束だ。


だが、これから私がやろうとしていることは、この紙束の内容とは何の関係もない。


部屋の空気が、少しだけ歪んだ気がした。

私の背中を、嫌な汗が伝い落ちていく。

もう、いいだろう。


十分に、倫理的であろうと努めた。


私はゆっくりと立ち上がった。

ビジネスパーソンとしての仮面の下で、何かが、音を立てて裂けようとしていた。


「素晴らしいご提案だ」


葛西は資料の束を、わずか数ミリ持ち上げ、そして元の位置に戻した。

その動作だけで、この紙束の運命は決した。


「非常に重要な指摘です。先生の熱意には、いつも頭が下がる。

……ただ、影響範囲が大きい。関係各所への根回しと、詳細なシミュレーションが必要でしょう。

一度持ち帰って、来月、いや再来月の定例でまた議論しましょう」


その瞬間、私の内側で、張り詰めていた弦が焼き切れた。


熱い。

猛烈に、熱い。


空調の唸りは続いているはずなのに、私の皮膚だけが沸騰したように粟立っている。


「倫理」という名のスーツ。

「常識」という名のネクタイ。

「大人の対応」という名の革靴。


それらが今や、高熱を発する拘束具となって、私の肉体にへばりつき、呼吸を阻害している。


「……先生?」


葛西が怪訝そうに眉を寄せた。

私はゆっくりと右手を上げ、自分の頭頂部に人差し指を突き立てた。

爪が頭皮に食い込む。


痛みはない。


「暑いですね、部長」


私は指を下腹部へ向かって、一気に引き下ろした。


――ビチイイイイイイッ!!


空間を裂くような、湿った破壊音が会議室に響き渡る。

ジッパーなど存在しないはずの場所が、左右に開いた。


「ひっ、あ……?」


葛西が椅子ごと後ずさる音が遠く聞こえる。

私の顔面が、喉元が、胸板が、左右に割れていく。


中から溢れ出したのは、血液や臓器ではない。

それは、黒く、重く、粘り気のある「何か」だった。


この一年間、私が飲み込み続け、腹の底で腐敗し、凝縮された――ドス黒い徒労と殺意の澱。


――ボト、ボト、ボトッ。


私が着ていた「人間としての輪郭」――社会性や道徳律で構成された皮――が、濡れたゴムスーツのように足元へ滑り落ちた。


それは床の上で、まだ生温かく脈打ち、痙攣している。

灰色で、ぶよぶよとした、巨大なナメクジの死骸のようにも見えた。


「な、……き、君は……!?」


葛西の眼球が、眼窩からこぼれ落ちんばかりに剥き出しになる。

彼の目の前に立っているのは、もうコンサルタントの私ではない。


中身だ。

輪郭を失い、黒い靄のように揺らめきながら、ただ二つの眼光だけが鋭利な刃物のように光る、異形の概念。


ここはこの世のことわりが適用されるオフィスではなく、私の精神世界そのものだ。


葛西は悲鳴を上げ、ドアへと這いずった。

ガチャガチャ、ガチャガチャ!

ノブを回すが、開かない。


当然だ。


「た、助けてくれ! 警備員! 誰か!」


『無駄ですよ、部長』


私の声は、もはや声帯を通した音波ではなく、脳に直接響くノイズとして彼に届く。


『さあ、業務に戻りましょう』


私は、黒い触手のような腕を伸ばし、テーブルの上の資料を掴んだ。

あの、一年間無視され続けた計画書だ。


私の指先から滴る黒い粘液が、紙束を侵食していく。

白かった紙は瞬く間に赤黒く変色し、まるで生肉の塊のように脈打ち始めた。

文字の一粒一粒が、現場の技術者たちが吐き捨てた呪詛となって、蛆虫のように蠢いている。


べちゃり、と。

私はその「肉塊」を、葛西の顔の真横に叩きつけた。


『読んでいただけますね? 承認、いただけますね?』


「ひぃぃっ!!」


葛西は部屋の隅で失禁していた。

高価なスラックスが濡れるのも構わず、彼は必死に首を振る。


「む、無理だ……。コンプライアンスが……、前例がないんだ! 責任は誰が……誰が取ると思っているんだッ!」


まだ言うか。


私の体内から発せられる、強烈な鉄の臭いと、腐った感情の瘴気が、彼の鼻孔を犯す。


「葛西部長」


私は静かに告げた。


「この提案がご納得いただけない場合、契約更新はお断りします。その代わり――」


黒い靄の中から、数多の「手」が出現し、葛西の身体を撫で回す。


「――違約金は貴方の死でお支払いを頂きたい」


「し、死……!?」


――死。


その単語が、彼の脳内で炸裂した瞬間、彼の中の「現状維持装置」が完全に破壊された。

退職金も、平穏な老後も、孫の顔も、すべてが「死」という絶対的な虚無の前では無意味となる。


「し、死……? ……あ、あ、……嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! まだ死ねない、死んでたまるかッ!

退職金! 逃げ切れるはずなんだアァァ……!!」


葛西は狂乱し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、床に転がる肉塊のような計画書に飛びついた。


「承認! します! しますから! 判子でも、血でも、なんでも!

判ります、判りましたぁぁッ、やらせてくださいぃイヒィッ!!」


彼は震える手で胸元から万年筆を引き抜いたが、キャップが開かない。

焦りと恐怖で指が動かないのだ。


彼は絶叫すると、万年筆を放り投げ、私の身体から滴り落ちる「黒い液体」に人差し指を突っ込んだ。


そして、肉塊と化した計画書の表紙に、狂ったように指を走らせた。




『承認 葛西』




赤黒い署名が、紙に焼き付くように刻まれる。

それは、彼が初めて自分の意思で、自分の魂を削って行った「仕事」だった。


「は、はい……! 承認しましたぁ……!!」


彼は血走った目で私を見上げ、許しを請うように両手を合わせた。

その顔には、かつての「仏の葛西」の面影はない。


あるのは、恐怖という名の燃料を注がれ、死ぬまで走り続けることを義務付けられた、哀れなエンジニアリング・マシーンの顔だけだった。


十分だ。


「ありがとうございます。では、席に戻ります」


私は足元に落ちていた「抜け殻」を拾い上げる。

それはまだ生温かく湿っている。


私はそれを頭から被り、腹の底から頭頂部へ向かって、見えないジッパーを一気に引き上げた。


――ジュルッルルルルッ。


ビデオを逆再生するように、部屋に充満していた黒い靄も、鉄の臭いも、歪んだ空間も、すべてが私の内側へと吸い込まれていく。

最後に「パチン」と金具が閉まる音がして、世界は正常に戻った。


静寂。


空調の低い唸りだけが、変わらずそこにある。


会議室は、塵一つないピカピカの状態に戻っていた。

机の上の資料も、ただの紙束に戻っている。

ただし、表紙に刻まれた、赤黒い指紋の署名を除いて。


「……あ、あぁ……」


葛西は床にへたり込んだまま、呆然と自分の手を見つめていた。

彼の指先は汚れていない。

だが、その精神には、焼き印のような恐怖が永遠に刻まれたはずだ。


「お疲れ様でした、部長。次回の定例は来週ですね」


私はにこやかに一礼し、鞄を持った。

葛西は返事をしなかった。

ただ、ガタガタと震えながら、私が去るのを神に祈るように見送っている。


私は会議室を出て、重厚な廊下を歩き出した。

エレベーターホールで立ち止まり、鏡に映る自分を見る。


仕立ての良いグレーのスーツ。

少しも乱れのない髪。

どこからどう見ても、誠実で、理性的で、無害なコンサルタントの姿だ。


私は首元のネクタイに手をかけ、キュッ、と小さく締め直した。

喉元に感じるわずかな圧迫感が、心地よかった。


エレベーターが到着する。

帝都重工の時計は、たった今、動き出した。

私は深く息を吐き出し、静かに雑踏の中へと消えていった。


---


半年後。


業界紙『日経コンピュータ』の巻頭特集は、帝都重工のロゴマークで飾られていた。


見出しは『帝都の奇跡――創業105年の巨象は、なぜ踊り出したのか』。


記事によれば、一年はかかると試算された基幹システムのデータ連携は、わずか「三か月」で完了。

現場の抵抗勢力は一瞬で沈黙し、全工場のIoT化は予定を二年も前倒しで達成されたという。


アナリストたちは、これを「強烈なトップダウンと、現場の意識改革の賜物」と分析した。


だが、その真因を知る者は、社内に二人しかいない。


---


システム部の定例会議室。


かつて「仏の葛西」と呼ばれた男は、今や「狂乱の推進者」へと変貌していた。


「部長、この件ですが……セキュリティ部門の確認に、あと二週間はかかると……」


若手社員が言い訳を口にした瞬間、葛西はバンのような音を立てて机を叩いた。


「今すぐ通せ! 判子が欲しいなら俺が全部押す!」


葛西の目は血走り、こけた頬が小刻みに震えている。


「二週間だと!? 向こう(コンサル)が待ってるんだぞ! 待たせたらどうなるか分かってるのか!」


「死ぬぞ!? 全員、物理的に!」


部下たちは震え上がった。

「物理的に死ぬ」とは、過労死の比喩だろうか?


否。葛西の目はあまりに必死すぎた。

彼にとって、稟議書に承認印を押すことは、業務ではなく「魔除けの御札」を貼る行為に他ならなかったからだ。


判子を押せば、あの「中身」が出てこない。

その一心で、彼は今日もスタンプを乱れ打ち続けている。


---


社長室。


劇的な成功を受け、葛西は表彰されていた。


「いやあ、葛西くん。見直したよ。君にこれほどの豪腕とスピード感があったとはね。『検討します』が口癖だった君が、どうやってここまで変われたんだね?」


社長は上機嫌で金一封を差し出した。

葛西は大量の冷や汗を拭いながら、引きつった笑顔で答えた。


「は、はい……。すべては……ええ、『背後に迫る危機感』のおかげでございます……。振り返れば……すぐそこに……『終わり』が口を開けて待っておりますので……」


「ハハハ! うまいことを言う! そうだ、常に倒産の危機感を持てということだな! その精神だよ!」


社長は豪快に笑った。

葛西は、引きつった笑顔のまま、恐る恐る視線を上げた。


社長の肩越し、部屋の隅。

そこには、誰もいない。

観葉植物が静かに葉を広げているだけだ。


あのコンサルタントとの契約は満了し、もうこの会社にはいないはずだ。

だが、葛西には見えた。

揺らぐ陽炎のような「何か」が、そこに佇んでいるのが。


そして、何もない空間が、パチリ、と横向きに瞬きをした気がした。


「ヒィィッ――!!」


葛西は小さく悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちそうになるのを、社長の机にしがみついて必死に堪えた。



「検討します」

その一言でかわされる時のモヤモヤを、笑いで吹き飛ばしたくて執筆しました。

少しでも皆様のストレス解消になれば嬉しいです。


「スカッとした!」

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