第3話 魔王様の日常と救済
翌朝。
俺が目を覚ますと、そこは埃っぽい洋館の一室ではなく、見違えるほど綺麗に清掃された部屋になっていた。
「……おはようございます、魔王様」
ベッドの脇で、アリアが直立不動で待機していた。
目の下に酷いクマがある。どうやら、俺が寝ている間に屋敷中を掃除していたらしい。
「おはよう。……つーか、寝てないの?」
「はい。生贄が睡眠をとるなど、許されませんので」
アリアは無表情で、とんでもないことを言った。
「あのさぁ……。俺、昨日も言ったけど、お前を食べるつもりも殺すつもりもないから」
「はい。そのように『お戯れ』をなさるのも、魔王様のご自由です」
ダメだ、会話が成立しない。
彼女の中では「魔王=残虐非道」「自分=ゴミ以下の生贄」という図式がコンクリートのように固まっているらしい。俺が何を言っても「嬲り殺しにする前の余興」としか受け取ってもらえないのだ。
「はぁ……。とりあえず、腹減った。何かある?」
「はい。毒見は済ませてあります」
アリアがワゴンから朝食を運んでくる。パンとスープ、それに簡単なサラダ。質素だが、盛り付けは丁寧だった。
俺が椅子に座ると、アリアは部屋の隅へ下がり、膝をついて頭を垂れた。
「……何してんの?」
「食事の邪魔にならぬよう、気配を消しております」
「食いづらいわ! 頼むから普通にしててくれよ」
俺はガリガリと頭をかく。
「あのな、アリア。俺の世界じゃ、一緒に飯を食うのが普通なんだよ。お前も座れ」
「め、滅相もございません……! 穢れた私が、魔王様と同じ食卓になど……!」
アリアが震え上がる。これ以上強制すると、恐怖で気絶しかねない。
俺は諦めてパンをかじった。
(……美味い)
見た目は質素だが、味は確かだった。スープは野菜の甘みが出ていて優しい味がする。
ふと、アリアの方を見る。
彼女は俺がスープを口にする瞬間、ビクリと肩を震わせ、俺の反応を窺っていた。「不味かったら殺される」とでも思っているのだろうか。
その拍子に、彼女のメイドキャップが僅かにずれ、隠されていた髪がふわりと零れ落ちた。
新雪のような、混じりけのない白。
窓から差し込む朝日に照らされ、キラキラと粒子のように輝いている。
俺は思わず箸を止めて見入ってしまった。
「……綺麗だな」
ポツリと、感想が漏れた。
その瞬間、アリアの顔色が白紙のように褪せた。
「ひっ……! も、申し訳、ありません……っ!」
彼女は慌てて髪を帽子の中に押し込み、その場に平伏した。
「お見苦しいものを……! すぐに、すぐに切り落とします! この呪われた髪が、魔王様の不快にならぬよう……!」
ガタガタと震えながら、涙声で訴える。
俺は呆気にとられ、次いで、じんわりとした不快感が胸に広がった。
彼女に対してではない。この世界の「常識」に対してだ。
「……呪われてるって、誰が言ったんだ?」
「え……?」
「その髪の色だよ。誰が決めたんだ?」
「そ、それは……教義で、白は悪魔の色と……それに、誰もが私を見て、気味悪いと……」
「ふーん」
俺は席を立ち、アリアの前にしゃがみ込んだ。
彼女が「殴られる」と身構えて目を瞑る。
俺は、その震える指が押さえている帽子に触れ、優しく外した。
バサリ、と長い白髪が広がる。
「……っ!」
アリアが悲鳴を上げそうになるのを、俺は言葉で制した。
「俺は好きだよ」
「……え?」
アリアが目を開ける。
ルビーのような瞳が、信じられないものを見るように俺を映していた。
「アルビノだろ? 前の世界じゃ珍しかったけど、神秘的で人気あったぜ。雪みたいで綺麗じゃん」
俺は嘘偽りない本心を告げた。
そこに慰めや同情はない。ただの、現代日本の中学生としての美的感覚だ。黒髪ばかりの日本人からすれば、この純白は幻想的で美しい。それだけのことだ。
「き……綺麗……?」
「ああ。少なくとも俺は、お前の髪を見て不快になんてならない。だから隠すな。切り落とすなんて馬鹿なこと、二度と言うな」
俺は彼女の髪をひと房すくい、サラサラとした感触を確かめてから立ち上がった。
「ご馳走さん。美味かったよ」
それだけ言って、俺は食器を片付けようとワゴンへ向かった。
背後で、アリアは石像のように固まったまま、動けずにいた。
***
その後、俺が書斎(という名の物置)で暇潰しをしている間。
アリアは一人、使用人室の鏡の前に立っていた。
古びた鏡に、白い髪と赤い目の少女が映っている。
幼い頃から、石を投げられ、泥を塗られ、布で隠すように強要されてきた「呪い」の証。
『忌み子』
『悪魔』
『どうしてこんなのが生まれてきたのか』
染み付いた呪詛の言葉が脳裏をよぎる。
でも、今日の記憶は違った。
『俺は好きだよ』
『雪みたいで綺麗じゃん』
魔王と呼ばれた少年の、あまりにも何でもないような、軽い口調。
それが逆に、彼にとっての「真実」であることを物語っていた。
「……綺麗、なの?」
アリアは恐る恐る、自分の髪に触れた。
今まで憎くてたまらなかった白銀の糸。
それが今、少しだけ、許されたもののように感じられた。
「……ぅ、ぐ……っ」
鏡の中の自分が、くしゃりと歪む。
瞳から大粒の雫が溢れ、白い頬を伝って落ちた。
誰もいない部屋で、アリアは声を押し殺して泣いた。
それは恐怖の涙ではなく、十六年間凍りついていた心が、初めて溶け出した証だった。
***
その日の夕方。
離宮のテラスで、俺はアリアが入れてくれた紅茶を飲んでいた。
相変わらず彼女の態度は恭しいが、朝のような「殺される」という切迫した怯えは薄れていたように思う。
「……誠様」
不意に、アリアが声をかけてきた。
「ん?」
「あの……誠様のいた世界は……その、どのような場所なのですか?」
おずおずとした問いかけ。
俺は少し考えてから答えた。
「ここよりずっと便利で、うるさくて、退屈な場所だよ。魔法はないし、魔物もいない」
「……私の、ような……髪の色の者は、いますか?」
「たまにいるよ。でも、誰も石を投げたりしない。ただの『個性』だ」
「……個性」
アリアはその言葉を、大切な宝石のように口の中で反芻した。
そして、カップにお茶を注ぎ足しながら、蚊の鳴くような声で呟く。
「……行ってみたい、です」
「あ?」
「あ、いえ! 何でもありません! お茶が冷めてしまいますね、失礼いたしました!」
アリアは慌てて誤魔化したが、その横顔には、見たことのない微かな熱が宿っていた。
まだ俺のことは怖いのかもしれない。
でも、ほんの少しだけ、この異様な同居生活に希望のようなものが混じり始めた気がした。
「……ま、とりあえず半年だ」
「はい?」
「半年経ったら帰るから。それまではよろしくな、アリア」
「……はい。誠様」
アリアは深くお辞儀をした。
その顔は伏せられていて見えなかったが、震えてはいなかった。




