第10話 魔物使い(萌) vs ドラゴン(四天王)
「小鳥遊、離れろ! 食われるぞ!」
『賢者』深見玲の悲鳴が、離宮の庭に響き渡った。
彼の視線の先では、身長一五〇センチにも満たない小柄な少女――小鳥遊萌が、あろうことか伝説の古竜の鼻先にしがみついていた。
「むぎゅぅ~! よしよし、いい子だねぇ~!」
萌は満面の笑みで、ドラゴンの硬質な鱗を撫で回している。
『……ぬ、ぬぅ?』
昼寝を妨害されたドラゴンが、巨大な瞼を持ち上げた。
琥珀色の瞳がギョロリと動き、目の前の小さな人間を捉える。
『……何だ、貴様は。我は今、夢の中で極上の肉を喰らっていたところだぞ……』
鼻孔から灼熱の蒸気が噴き出し、萌の前髪がフワッと舞い上がる。
普通なら腰を抜かして失禁するレベルの威圧感だ。
だが、萌の反応は違った。
「わぁっ! あったか~い! ねえねえ、お名前はなんていうの? ポチ? タロウ?」
『……は?』
ドラゴンの思考が停止した。
ポチ? タロウ? 我は【剛力】の二つ名を持つ竜王だぞ?
「た、小鳥遊さん! 下がって! ブレスが来る!」
後ろで円城寺が試験管を構えるが、萌は聞く耳を持たない。
「もう、大丈夫だよ円城寺くん。この子は噛みついたりしないもんねー?」
萌は無防備にドラゴンの鼻先を撫で続ける。
すると、不思議なことが起こった。
『……む、むむ?』
ドラゴンが心地よさそうに目を細め始めたのだ。
『なんだ……この手つきは。鱗の隙間の、ちょうど痒いところを……』
それは、彼女のジョブ『魔物使い』のパッシブスキル、【愛撫】の効果だった。魔物にとって最も心地よい撫で方を本能的に理解し、敵意を削ぐことができるのだ。
「ここかな? それともこっち?」
『……そこだ。もう少し右……あ、いや、左……うむ、そこだ』
ドラゴンがゴロゴロと喉を鳴らし始めた。地響きのような音だが、明らかに喜びの声だ。
「わぁ、素直でいい子だねー! じゃあ、これできるかな?」
萌は一度離れると、自分の手のひらをドラゴンの前に差し出した。
「お手!」
『……オテ?』
ドラゴンは首を傾げた。古代語にもそんな言葉はない。
「ほら、お・て!」
萌が期待に満ちた目で見つめてくる。
ドラゴンは困惑し、助けを求めるようにテラスの方を見た。そこには、騒ぎを聞きつけた誠が、アリアが入れた紅茶片手に立っていた。
『(主よ……オテとは何ぞや?)』
「(手を乗せるんだよ。早くやらないと泣くぞ、そいつ)」
誠が無慈悲なアイコンタクトを送る。
ドラゴンは仕方なく、巨大な前足をゆっくりと持ち上げた。鋭い爪の一本一本が剣のように巨大だが、器用に力を抜いて、萌の小さな手のひらに(爪の先だけ)チョコンと乗せた。
『……こうか?』
「きゃあぁぁぁっ! できたぁぁぁっ! すごーい! 天才だねーっ!」
萌が大歓声を上げ、ドラゴンの首元に抱きついた。
「よしよしよし! 偉いぞーっ!」
『む、むぅ……。我を子供扱いするとは不敬な……』
ドラゴンは満更でもなさそうに、尻尾をバタンバタンと振って地面を揺らした。
『悪くない……。主以外の者に触れられるのも、たまには悪くないぞ……』
「あーあ、完全に懐いちゃったよ」
「……猛獣使いの才能があるとは聞いていたけど、まさか竜王まで手懐けるとはね」
深見と円城寺は、完全に毒気を抜かれてその場に座り込んだ。
「黒峰くん!」
萌がテラスの誠に向かって手を振る。
「この子、私が散歩させてもいい?」
「いいけど、リード持ってないぞ」
「大丈夫! 心のリードで繋がってるから!」
萌はドラゴンの背中に、よじ登ろうとピョンピョン飛び跳ね始めた。
『……やれやれ。主の友人ならば仕方あるまい』
ドラゴンは諦めたように体を伏せ、背中を差し出した。
「わーい! 行くよ、ポチちゃん!」
『ポチではないと言っておろう!』
巨大な竜と小柄な少女。美女と野獣ならぬ、中学生と怪獣の奇妙な友情が、離宮の庭で育まれようとしていた。
***
その騒がしい光景を、離宮の屋根の上から静かに見下ろす影があった。
音もなく現れたその人影は、漆黒の燕尾服に身を包んだ、青白い肌の青年だった。
額には第三の目が閉じられており、貴族的な整った顔立ちには、冷ややかな知性が宿っている。
「……嘆かわしい」
男は、犬のように人間に媚びるドラゴンの姿を見て、軽蔑の色を隠さずに呟いた。
「【剛力】ともあろう者が、人間風情に尻尾を振るとは……。魔王軍の面汚しめ」
男はふわりと宙に浮き、音もなくテラスへと降下した。
その足は地面に着くことなく、常に数センチ浮遊している。
「やはり、脳筋ごときには任せておけませんね。この私が――【深淵】の魔導王たる私が、魔王様の真意を見極めなければ」
男――魔王軍四天王が一柱、デーモンロードは、眼鏡(伊達)をクイッと押し上げ、不敵な笑みを浮かべて誠の背後へと忍び寄った。
「ご機嫌麗しゅう、新しき魔王様。……愚かなトカゲとは違う、高尚な知性をお持ちとお見受けします」
誠が、面倒くさそうに振り返る。
新たな厄介ごとの気配が、濃厚に漂い始めていた。




