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無実の犯罪  作者: 大黒
7/11

回想7 責任の所在

 放送局のスタジオは、昼の光を完全に拒絶していた。

 分厚い防音扉に仕切られたその空間は、外界の時間の流れから切り離され、ただ「音」だけを純粋に保存するために存在している。壁に貼られた吸音材は、相馬の出すわずかな足音さえも貪り食うように吸い込んでいった。

 相馬は、調整室の防音ガラスの向こう、マイクの前に座る神谷の正面に腰を下ろした。

 テーブルの上には、これまでの放送回を分析した記録と、血のついた現場写真が、まるで対比されるべき二つの世界の断片のように並べられている。

「神谷さん」

 相馬は、喉の奥から絞り出すような低い声で切り出した。

「あなたの放送が終わるたびに、どこかで誰かが理性を失い、凶器を手に取っている。この数ヶ月のデータがそれを証明しています」

 神谷は、驚くほど静かにそれを見つめていた。まるで、天気の予報を聞くかのような無感情な頷きを返す。

「……知っています。ネットのニュースでも、あるいは噂でも。私が意識せずとも、情報は耳に入ってきますから」

「なぜ、内容を変えない? なぜ、続けている」

 神谷は、少しだけ首を傾けた。その所作は優雅でさえあった。

「私は、ただラジオをやっているだけです。決められた時間にスタジオに入り、マイクに向かって、私の言葉を必要としている人たちに語りかける。それが私の職務だ」

 相馬は、その逃げ道を塞ぐように身を乗り出した。

「『命令はしていない』。そう言いたいんですね。法廷でそう証言する準備もできている」

 神谷は、相馬の瞳を真っ直ぐに見据えて答えた。

「はい。私は一度も、誰かに何かを強要したことはありません。私の口から出た言葉は、常にリスナーの安らぎを願うものばかりです」

 それは、紛れもない事実だった。神谷の発言をどれほど精査しても、法に触れる一文字すら見つかりはしない。相馬は椅子に深く背中を預け、冷たい溜息を吐いた。

「確かに、あなたは刃物を持てとは言わなかった。誰かを傷つけろと指示した記録もない。だが――」

 相馬は一歩、踏み込む。

「何かが起きることは、分かっていたはずだ。 自分が『沈黙』を深めるたびに、誰かの心にある決壊寸前のダムが、音を立てて崩れていくことを。あなたはそれを楽しんでいたのか? それとも、ただ観察していたのか?」

 スタジオに、重苦しい沈黙が降りた。

 ラジオで使われる心地よい「空白」とは異なる、互いの殺気と疑惑がぶつかり合う、逃げ場のない現実の沈黙だ。神谷は組んだ指にわずかな力を込め、視線をテーブルの端へと落とした。

「……“起きるかもしれない”と。そう予感した夜は、確かにありました」

 神谷の口から、初めて「予感」という言葉が漏れた。相馬はその小さな綻びを逃さなかった。

「だから、構成を変えたんだな。確信を深めるために。事件が起きやすい夜を選び、意図的に言葉を削ぎ落とし、沈黙の時間を一秒ずつ延ばしていった。被疑者たちが『頭が白くなった』と言ったあの時間は、あなたが設計した『空白』だ」

 神谷は否定しなかった。代わりに、祈るような声で言った。

「人は、言葉で救われるんです。重すぎる荷物を背負った人たちが、私の放送の間だけは、自分という重力から解放される。それがどれほど尊い救いか、あなたに分かりますか?」

「救いじゃない」

 相馬は遮るように首を振った。

「それは救いではなく、『麻痺』だ。彼らを救ったのはあなたの言葉じゃない。あなたが『あえて言わなかったこと』――つまり、人間が人間であるために守るべき倫理や、ためらいや、迷いを、その沈黙で洗い流したんだ。あなたは彼らから『迷う権利』を奪った」

 神谷の眉が、わずかに、だが確かにピクリと動いた。初めて、彼の穏やかな仮面の下にある「傲慢」が顔を出した瞬間だった。

「……責任、ですか。一体その所在はどこにあるのでしょうね。私が黙っている間に、誰かが勝手に行動を起こした。それは私の罪ですか? それとも、沈黙に耐えられなかった彼らの罪ですか?」

「分かっていて、加速させた。その一点に尽きる」

 相馬は冷徹に言い放った。

「法律は、沈黙を罪とは呼ばない。放送コードも、の長さを規制はしない。だが、あなたは自分の影響力を知っていて、それを特定の方向に誘導した。これは未必の故意に近い」

「法律は、そうは言ってくれませんよ、刑事さん」

「知っています。だから、私は組織としてではなく、一人の人間としてここにいる」

 相馬は声を一段と低くし、呪文のように言葉を置いた。

「神谷さん、あなたは『止める理由』を探していたんじゃないのか。自分の言葉が、あるいは沈黙が、どこまで世界を壊せるのかを試していた。違うか?」

 神谷は長い沈黙のあと、小さく、消え入りそうな声で漏らした。

「……止める理由が、見当たらなかったんです。私の声で、世界が静かになっていく。それは、とても美しいことのように思えた」

 その言葉は、どんな狂人の叫びよりも相馬の胸をえぐった。

 「美しい」という感覚の断絶。それが、この事件を迷宮へと追い込んでいる正体だった。

 相馬は椅子を引き、立ち上がった。

 今日のところは、これ以上の収穫はないだろう。立件する証拠も、拘束する名分もない。しかし、相馬はこの男の魂の形を完全に見定めた。この男は、無垢な善人でもなければ、残虐な快楽殺人者でもない。ただ、「自分の声が世界を調律している」という万能感に酔いしれた、孤独な神格化の成れの果てだ。

 相馬は出口の重いドアに手をかけ、最後に一度だけ振り返った。

「次に何か起きたら」

 神谷は、マイクの影に隠れるように顔を上げた。

「そのときは、どうするんですか?」

「あなたはもう、『何もしていない』とは言えなくなる。私が、あなたの沈黙の内容を、すべて白日の下にさらしてやる」

 相馬は防音扉を閉めた。

 背後でカチリと錠が降りる音がした。

 スタジオの中には、またしても神谷だけの、完璧にコントロールされた沈黙が戻っていった。


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