表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無実の犯罪  作者: 大黒
1/11

回想1 空白の供述


 今でも、深夜の静寂はあまり好きじゃない。

 目を閉じると、あの取調室の嫌な静けさが蘇ってくるからだ。

 古びた蛍光灯の細い唸りと、よどんだ空気をかき回す換気扇の低い回転音。それらが重なり合って、室内の沈黙をカミソリのように鋭く尖らせていた。

 机の向こうに座っていた男の顔を、私は今も鮮明に思い出せる。

 三十代後半。被疑者はどこにでもいる、目立たない会社員だった。

 手錠を外された男は、組んだ膝の上に、行儀よく手を置いていた。逃げる様子もなければ、罪を隠そうとする虚勢もない。ただ、**「そこに心が不在である」**かのような、不自然なほど凪いだ空気を纏っていた。


「――もう一度、確認させてくれ」


 私は、カセットレコーダーの赤いランプが、心臓の鼓動のように点滅しているのを確認して切り出した。その時の自分の声が、妙に上ずっていたのを覚えている。

「あなたは、被害者の腹部をナイフで刺した。その事実に、間違いはありませんね」

 男は小さく、首を縦に振った。

「はい。それは……証拠の映像で見ました」

「映像?」

「ええ。防犯カメラの。あと、現場の写真も」

 まるで、昨日見た映画のあらすじを淡々と述べるような口調だった。私は奥歯を噛み締め、言葉を慎重に選んだ。目の前の男が、怪物なのか、それとも底知れない嘘つきなのかを見極めるために。

「……自分がやった、という実感はあるのか」

 男は少し考える仕草をした。眉を寄せ、視線を机の古傷に落とす。

「……ありません」

 その答えを聴くのは、その日だけで何度目だっただろうか。

「覚えていないんだな?」

「はい」

「どこからだ。記憶が途切れているのは」

「……枕元で、ラジオを聴いていたところまでは、覚えています」

 私のペンが、紙の上で止まった。今思えば、それがすべての始まりだった。

「ラジオ?」

「ええ。いつもの番組です。寝る前に、小さな音でつけっぱなしにして」

 演技特有の過剰さが一切ない、あまりに平熱な語り口。それが刑事としての私の本能を、ざわざわと波立たせた。

「番組名は?」

「『ナイト・ライン』」

 私はメモを走らせながら、視線だけを鋭く上げた。

「何を話していた。内容を覚えているか」

 男はゆっくりと、左右に首を振った。

「内容は、全く。ただ……あの『声』だけは、覚えています」

「どんな声だ」

 男は一瞬、呼吸を止めた。その瞳に、一筋の恐怖がよぎったのを私は見逃さなかった。

「……なぎのような。とても、静かな声でした」

「静か?」

「はい。音量が小さいとかじゃなくて……聴いていると、頭の中の雑音が消えて、真っ白になるような。そんな感じです」

 私は無意識に、パイプ椅子の背もたれに深く体重を預けた。

 背中を冷たい汗が伝うのを感じた。

「それから、どうした」

「……それから先は、もう。何も」

「気づいた時には?」

「知らない路地に立っていました。手に、温かいものがついていて。足元に、人が倒れていました」

 男の声は震えなかった。後悔に身をよじるわけでも、狂気に笑うわけでもない。

 私は思った。この男は、反省していないのではない。裁かれるための「記憶」という重荷を、最初から持っていないのだ。

「動機は何だ」

「分かりません」

「被害者との接点は」

「ありません」

「殺意は」

「覚えていません」

 私は、肺に溜まった重苦しい空気を一気に吐き出した。

 これで、三件目だった。

 共通する供述。共通する「空白」。そして、共通する「声」の残響。

「……自分が、怖くないのか」

 刑事としての領分を超えて、言葉が漏れた。

 男はわずかに驚いた顔をしたが、すぐに深い悲しみを湛えた瞳を私に向けた。

「怖いです」

「何が」

「また、自分じゃない何かが、私の体を使ってしまうんじゃないかって」

 その言葉に、嘘は混じっていなかった。私の勘が、それが真実だと告げていた。だからこそ、私は震えたのだ。

「だから……せめて、覚えていたかった」

 男は消え入りそうな声で、呟いた。

「覚えていれば、自分の意志で、止められたかもしれないから」

 取り調べ室に、雪のように重い沈黙が降り積もった。

 私は、手元の捜査資料に目を落とした。犯行推定時刻、午前二時十七分。

 備考欄の端に、走り書きのメモがあった。

 ――犯行直前、ラジオ聴取の形跡あり。

 私は、握りしめていたペンを置いた。

 今振り返れば、あの瞬間、私はすでに気づいていたのかもしれない。

 これは単なる偶然の連鎖などではない。深夜の電波に乗って届く「静かな声」が、平穏な人間を怪物に変えるための、精密な装置であることに。

 チチッ、と。

 天井の蛍光灯が、断末魔のように一度だけ瞬いて、私たちは一瞬の闇に包まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ