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許すもなにも……ホキが慌てる。
「そんなに無理しなくていい。トヨミが疲れて身体を壊したらそれこそ悲しい」
「その時は吾のために芹を摘んでくれ」
「ダメよ、芹は春のものよ。他の季節はどうする気?」
「そうだな、そんな時は……」
トヨミが遠慮がちに言う。
「ホキに看病して貰いたい」
「吾に? まさかトヨミ、薬師が嫌い? 苦い薬湯が飲めないとか?」
「違う、違う! そんな童子じゃあるまいに――薬師は呼んでも付きっ切りでいてくれるわけじゃない。ホキには付きっ切りでいて欲しい」
するとニヤッとホキが笑った。
「具合の悪い時の童子と一緒じゃないの。母さま、そばに居て、みたいな?」
「ううっ……そう思うならそれでもいい。母者と同じようにホキが慕わしいってことだ」
「判った。トヨミが病の時は吾はトヨミの母になる。母のようにトヨミを甘えさせてあげる」
嬉しそうに微笑むトヨミ、どんどんホキを好きになっていくのが自分で判る。
やはりいずれは妃にしたい。妃にして同じ宮で暮らしたい――それにはどうしたらいいのか?
ホキの父親カタブを説得する必要はないだろう。娘を妃にしたいと言えば喜ぶはずだ。もし反対するとしたら、宮に住まわせることだ。己の屋敷からは出さないと言い張るかもしれない。でも『其方も妻を己の屋敷に住まわせているのだろう?』と言えばいい。それにホキのほかにもあと二人、娘がいる。
だいたい開拓するのにアスハナを推挙したのはカタブ、まだ本決まりではないがアスハナに決まればカタブも嬉しいはずだ。吾がアスハナに住まうと決まれば、一族をあげてアスハナに移り住むと言っていた。一族には当然ホキも含まれる。都に連れて行くわけではないのだから、寂しいとは言わせない。
問題は伯母とソガシだ――この二人を説得できなければ、ホキを妃に迎えるのは難しい。カタブどころの問題じゃない。だけど必ず説得する。説得して、ホキを妃にする。
「トヨミ、どうしたの?」
黙り込んでしまったトヨミをホキが訝る。
「いや、病になった時、ホキに看病して貰うにはどうしたらいいかを考えていた」
「どうしたらいいかって?……そばに居るだけじゃダメなの? 薬湯を飲ませてあげたり、汗を拭いてあげたり、祈祷したり?」
「それには同じ屋敷で暮らさなきゃダメだよね」
「あ……それもそうね。だったらトヨミ、この屋敷に住むことにする? 父親さまもトヨミならダメとは言わないんじゃないのかな? あー、でも、今のお屋敷を離れられないし、こんな田舎、イヤよね。都は素晴らしいところだって聞くし」
「いいや、都を出ようと思っているんだ。さっき話したアスハナに移ると思う」
「そうなの?」
「うん……ねぇ、吾がアスハナに住むことになったら、来てくれる? カタブは吾が説得するよ。それとも母者や兄弟妹と離れるのはイヤか?」
ホキがトヨミをまじまじと見つめる。
「トヨミ、それ、本気で言っているの?」
「本気に決まってる――吾が都を出ることを考えているのはカタブも知ってるよ。あ、そうか、妻の郷だからカタブはアスハナを推したのかもしれないな」
「アスハナって、きっとカシワデと変わらない田舎よ?」
「うん、知ってるって、見に行ったって言っただろう――アスハナに田や畑を開墾し、街を造る。吾の宮を中心に人々も移り住む。都に負けない街にしてみせる」
「へっ?」
ホキが驚いて、トヨミの懐に任せていた身体を起こす。
「トヨミの宮を中心に、って言った?」
「うん、言ったよ? それがどうかした?」
「……宮って? 屋敷ではなく?」
「宮って言うのは、帝や皇子、皇女が住まう屋敷のことを言うんだ」
「帝? 皇子? 皇女?」
「帝って言うのはこの国を治めている――」
「判ってる、都に住んでいてヤマテ国の統治者、海と地を創りしアマツキ神の子孫にして、けっして侵さず絶やしてはいけない貴いおかた」
「まぁ、だいたい合ってる。誰を次の帝にするかで揉めて、互いに侵しあうこともあるけどね」
「知ってる。テイビの乱は帝候補の皇子が殺されたのが発端だって父親さまが話しているのを聞いたわ」
「おや? それじゃあ、何をそんなに不思議がってる?」
「不思議なんじゃないの。驚いてるの――トヨミが都の貴人だとは父親さまに聞いてたわ。でも、まさか、皇子?」
これにはちょっとトヨミが戸惑う。ホキが知らないとは思わなかった。カタブがちゃんと伝えていると思い込んでいた。
「うーーん……なんでカタブは其方に言わなかったんだろうね? 吾は前の帝の第二皇子だ」
と言いつつ、ホキの顔を見て『言えなかったんだな』と思う。最初から聞いていたら、折敷を運ぶことさえままならなかっただろう。
ホキは蒼褪め、ガタガタ震えている。畏れ多いと思っているのだ。
「ホキ、帝だ皇子だ皇女だと言っても、しょせんはホキと同じように生きている人間だ。腹も減るし、糞もする」
「糞?」
「あぁ、屁もこくぞ」
顔が強張っているものの、つい笑いそうになったのだろう、ホキの口元がキュッと萎む。
それを眺めてトヨミが微笑む。
「それとも吾が皇子だと知って、ホキは吾が嫌いになったか? 気持ちが変わってしまったか?」
今度はとうとうホキが笑んだ。
「トヨミ、また『嫌いか』って訊いてる」
「ん? うーーん、これからも何度も訊きそうだ。ホキには好いていて貰いたいからな」
「嫌ったりしません。でも、皇子さまの宮に住むなんて、吾に許されるはずがありません」
「許されれば、住んでくれるのか?」
「そりゃあ……皇子だと知っても嫌いになれないんだもの」
「なんだ、それ。嫌いになろうと思ったのか?」
「そうよ、客の貴人がトヨミだって知った時から好きだって思いを忘れようとしてた。なのにトヨミが忘れさせてくれなかったわ。もう忘れられない。なのに今度は皇子だなんって言うんだもん。忘れられないのに皇子だなんて――」
そっとトヨミがホキの唇に指で触れた。
「もう何も言うな。吾を信じろ。必ずアスハナの宮で一緒に暮らせるようにする。信じて待っていろ」
「トヨミ……」
ホキが唇に置かれたトヨミの手に両手で縋る。そして頬ずりをした。
トヨミの手は少しヒンヤリしているが滑らかだった。なぜか、この手は吾のためにあると思った。
膝を立てたトヨミがもう片方の手をホキの肩に回し包み込む。頬にあった手でホキに上を向かせた。トヨミの顔が近づいて来る。ホキは……トヨミの緑色の瞳を見続けていた――
翌朝、起きだしたホキが厨に行こうとするとトヨミに手を引かれた。
「吾を置いてどこへ行く?」
「厨に……朝餉の支度をしに行きます」
「家の者に任せてホキはここに居ろ。朝餉はこの部屋で、其方と二人で摂るとカタブに言ってある。ちゃんとホキの分も運んでくれるから心配するな」
「そんな……母さまや妹に悪いわ」
「そう言えば、母者は身重だったな――郷の者に手伝わせるとカタブが言っていたから大丈夫だ」
トヨミの母さまはどんな人? そう聞こうとしたがやめた。昨夜トヨミが言っていた『亡父の妻を息子に娶らせた』話の妻はトヨミの母親だと、思いついていた。
前の帝がお隠れになったことで起きたテイビの乱、そのお隠れになった帝の第一皇子が父親の妃を娶ったのは、少しでも帝位に近付きたいがためだろうとカタブが言っていたのを思い出したのだ。最終的には別の皇子、前の帝の異母弟が帝位についたと聞いている。だがそれは夫の息子の妻となった皇女の弟皇子でもあった。
トヨミが同族間の婚姻に面白くない顔をしたのはこれだと思った。母親が違うとは言え、自分の母が異母兄の妻になった。面白くないに決まっている。それにしても、確かに同族間での婚姻が多い。トヨミが『貴人と呼ばれる者どもは同族間の婚姻が大好き』と言ったが納得だ。
「それより、庭に面した戸を開けてくれないか? カタカゴが見たい」
床に寝そべったまま、トヨミが言った。
「カタカゴの花が好きなの?」
戸を開けながらホキが問う。戸を開け放つと、春先の冷たい風が流れ込んできた。
「ううっ、まだ寒いな」
トヨミが夜具で身を包む。
「ホキが温めてくれると嬉しいが?」
「温めて差し上げましょうか?」
「それは結ばれたいと言う意味か?」
「いいえ、温めるだけです」
トヨミの傍に腰を下ろしてホキが言えば、
「だったらやめておく……同じ夜具に入ったら己を止められる自信がない」
ちょっと拗ねてトヨミが言った。
「ホキはカタカゴが好きなんだろう? だから吾もカタカゴが好きだ」
「それってトヨミが好きなものは吾も好きにならなきゃダメってこと?」
「そんなことを強要したりするものか。吾がそうしたいからそうするだけだ」
「そうね、トヨミは無理強いが嫌いだものね」
笑いながらホキが思い出すのは昨夜のことだ。
近づいて来るトヨミの顔、緑色の瞳は潤んで美しさを増していた。だけどこんなに近づいて、どうするんだろう? 鼻をくっつけたいのかしら?
するとトヨミがフッと吹いた。
『見られているとやりずらいな。なぜ目を閉じない?』
『何をしようとしてるんだろうと思って。目を閉じたほうが良かった?』
『うん? そうか、男はみんな妹を選ぶと言っていたな。言い寄られたこともないのか?』
『あるわけないでしょ。好きだって言ってくれたのはトヨミが初めて』
『では、口を吸われたこともない……よなぁ』
『口を吸う? なんで?』
トヨミは苦笑するしかない。
『なんでかと問われると困る。好きになると、なぜだかそうしたくなる。心地よいものでもある――まぁ、そうは思わない者もいるようだが』
『そう思わないって、好いても口を吸いたくならないってこと?』
『そんな者もいるかもしれないが吾が言ったのは、口を吸われるのを嫌う者もいるということだよ』
『さてはトヨミ、口を吸って嫌がられたことがあるのね?』
『ほう、なかなか鋭いじゃないか――吾の二人目の妃がそうだ。初床の時、親愛の情を示そうとしたが凄い剣幕で怒られた。汚らしいとまで言われたぞ』
『うーーん……口を吸うのが愛情を示していると知らなければ、吾もそう思うかもね』
『なにっ? それは困った』
『困るの?』
『だって吾は、ホキの唇を味わってみたい。ホキにも吾の口を吸って欲しい』
『お互いに吸い合うものなんだ?』
『まぁ、そうだな――どうだ、イヤか?』
『そんなの判らないわ。したことないんだもの……それにトヨミのことは好きだけど、口を吸いたいとは思わないわ』
『したことがないから判らないか……ならば試してみるか?』
『えっ? どうしよう?』
『それを吾に問えば、しようと言うに決まっているぞ?』
『それもそうね』
ホキが俯いて考え込む。
『トヨミ、あのね』
『うん?』
『吾はここに来るのが凄く怖かった。父親さまに「客人を寝所に案内しろ」と言われて、震えるほど怖かった』
『うん……それで?』
『相手がトヨミだと知って良かったって思った。せめて初めては好きな人がいいって思っていたから。でもね……』
『でも?』
『……今もやっぱり怖いの』
『ふむ』
『トヨミが酷いことをするとは思えない。それでも怖い。どうしたらいいか判らない。逃げ出せるものなら逃げ出したい』
言っているうちにホキの身体が震え始める。じっとホキを見詰めるトヨミ、やがてフッと笑った。
『安心しろ。今宵は床を並べて眠るだけでいい――吾が相手なら怖くない、ホキがそう思えるようになるまで待つ』
『えっ?』
ホキが顔を上げてトヨミを見る。すると涙が頬を伝って流れ落ちた。
『泣くほど怖かったのか?』
トヨミが笑ってホキの涙を拭う。
『安心しろ。この先どんなことも無理強いしたりしない。だがな、約束しろ。イヤなことはイヤだとはっきり言え。言われなければ吾には判らないんだぞ』
そしてトヨミとホキは並べて延べられた別々の床で休んだ。ホキはなかなか寝付かれないのに、あっという間に寝入ってしまったトヨミ……寝顔を見てホキは思った。この人について行こう。
それがアスハナだろうが、たとえ雲の上だろうが構わない。どこまでもトヨミについて行く。離れはしない――
ホキが『無理強いは嫌いだものね』と笑うと、
「あぁ、吾は無理強いされてばかりだからな」
トヨミが溜息を吐いた。
「せめて吾は、他者に無理やり何かをさせるのを避けたいと考えている。まして好いている相手に無理強いなんかしたくないんだ」
「いったい誰がトヨミに無理強いなんかできるの?」
「うん? まぁ、いろいろさ。政治に関わることだ、気にするな」
トヨミは訊かれたくないと思っている。そう感じたホキだった。




