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結い上げていた髪は下ろした。そのうえで一纏めにし、簪を刺して留めた。簪を拭けば、ホキの髪ははらはらと零れ落ちるだろう。床入りに備えたものだ。
「ホキ……」
髪に櫛を通しながら母が言った。
「どうしてもいやなら、月のものになったと言って断ってもいいのですよ。今ならまだ間に合う」
「それはヒリのために使った言い訳。姉妹揃って月のものは、ないとは言いきれないけれど見え透いた嘘だと思われる。事実、嘘ですし――ヒリがダメなら吾でも良い。そう言うことなのでしょう?」
傍らでヒリが『なるほど……』と納得している。
「それは違うよ、ホキ。カタブはヒリとは一言も言わなかった。最初から客人はホキを望んだのです。だからホキが考えてくれた言い訳はまだ使っていない」
それをホキは、母の優しさだと受け止めた。妹の代わりだなんて惨めすぎる。だから母さまはホキのために嘘を吐いた。でも、もしそれが本当のことだとしたら?
「しかし母さま。ホキがダメならヒリで、と言われたらどうするのです? そんなことになったらヒリが哀れです。思う相手がいるのに姉の代わりに差し出されるなど、あまりにも可哀想です」
「姉さま……」
なんとも言えない心地なのだろう。姉の思いやりへの感謝と選ばれた姉への嫉妬、その板挟みでヒリの声が揺れる。
「それに……客人のお心に背けば父親さまのお立場にも響くのでしょう? 吾とて一族に貢献したい。一夜の我慢が一族の繁栄に繋がるのなら、安いものです」
「ホキ……」
母が悲しげに、そして頼もしげにホキを見る。
ホキが言うのももっともなのだ。客人がホキを望んだようなことをカタブは言ったが、ひょっとしたらどちらでもいいと言ったのではないかと母は考えていた。ホキの名を口にしたときのカタブは悩んでいるようだった。二人の娘のどちらにするか考えあぐねた末、姉にしたのだと思った。
だからホキがダメならヒリでと、きっとカタブは考える。カタブは甘い。ヒリを説得するのは無理だ。屋敷を抜け出してクガネのもとに走るだろう。いくらテイビの乱で優れた働きをした若者だとしても、カタブはクガネを許さない。下手をすればヒリもろとも成敗してしまう。都の貴人の手前、それくらいしなければ申し訳が立たないと考える。
それにカタブは言っていた。
『もしもホキが貴人の子を宿せば……』
なにしろ貴人に娘を抱かせたいのだ。
何を馬鹿なと思った。もし子を生したとしたって必ず気にかけてくれるとは限らない。己の子だと認めもしないことだってあり得る話だ。だがまぁそれでも、ここで娘可愛さに貴人の不興を買うよりはずっといい。子は宝、父親がいなくても吾が一族で大切に養育すれば済むことだ。そんな子はどこにでもいる。
だけどホキ……
「本当に良いのですか?」
良くないと言われれば困るのに、それでも母は訊いてしまう。髪を梳く櫛からさえも伝わってくるホキの震え、娘は男を怖がっている。いずれそのうち通る道だとしても、こんな形で良いはずはない。できることならせめて初めての夜は、思う相手にしてやりたかった。
静かにホキは微笑んだ。諦めてしまっていると母は感じた。聡く優しい吾が娘、どうか貴人よ、せめてこの子を必要以上に苦しめないで……母の祈りは届くだろうか?
先ほどはヒリと二人、この部屋に来た。だが今度は一人だ。妹がいないというだけで、こうも心細いものか。折敷を運んだ部屋の前で膝をつくホキ、身体が震えているのは緊張からだと自分に言い聞かせる。父親さまと母さまも、これから吾が身に起きる営みをもって吾や兄妹弟たちを生した。恐れることなど何もない。
部屋の中からは相変わらずカタブの声しか聞こえない。ホキの心とは裏腹に高らかに笑っている。
「床の準備が整いました。ご案内いたします」
戸を開けずに、ホキが声を掛ける。応じるカタブの声はない。笑い声も消えた。代わりに聞こえたのは衣擦れの音、そして立ち上がる気配がした……立ったのはカタブか、それとも客人か?
がらりと戸が開き、伏したホキの目に装束の裾と足が見えた。装束は美しく染められたもの、足は白く、父親のものとは違うのが判る。客人だ。
顔を伏せたままホキも立ち上がり、客人に背を向けて先を歩いた。客人はちゃんとついて来ているだろうか? むこうが吾の顔を見たのは感じた。ヒリではないとガッカリしてはいなかったか? あのままあの部屋に残り、『違う』とカタブに捻じ込んでいないだろうか?
床を延べた部屋の前で再び膝をつき、戸を開けた。深く頭を下げ、
「こちらでございます」
告げるホキの視界の先で白い足が部屋に入っていく。来たんだ――絶望に似た心地でホキは思う。本当に客人は、吾が相手でよいのだろうか?
ドサリと音がした。客人が部屋の中ほどで腰を下ろした音だ。ホキは戸を開けたまま、頭を下げ続けた。この先どうしていいのか判らない。部屋に入っていいものか、それとも『来い』と言われるまで、ここに控えていたほうが?
客人が己を見ているのを痛いほど感じる。きっとこちらをじっと見ている。頭を下げた姿勢ではホキの顔は見えていないだろう。望んだ娘だろうかと怪しんでいるのかもしれない。
フッと客人が息を吐く。ため息ではないような? あれは……失笑したのだ。
「失礼いたしました。吾ではなく、妹をお望みでしたか? しかしその、妹は月のもの、代わりに姉の吾をお召しください」
吾は何を言っている? これでは相手をしたいと言っているようなものだ。
「いえ、その、けっして吾がそうして欲しいというわけではなく、その、どうしても女人が必要ならば、吾で我慢していただきたいと。あっ、いえ……」
言っていることが滅茶苦茶だ。この言いようでは無礼ではないか? でもこんな場合、なんて言えばいいんだろう?
とうとう客人がクスクスと笑い始めた。そりゃそうだ、さぞや滑稽に見えたことだろう。今は笑ってくれているが、これ以上の失態は怒らせてしまう。
「あ……ご無礼いたしました。どうかお許しください。こう言ったことは不慣れでして、どうしてよいやら判りません――お目障りでしょう。吾はこれにて失礼いたします」
慌てて言うと、戸を閉めるため膝を立て、ホキが手を戸に伸ばす。すると
「目障りなはずがあるか? 其方に会いに来たのだ。さっさとこっちに来い」
初めて客人の声を聞いた。
「えっ?」
戸に手を掛けたまま、聞き覚えがある声にホキがつい客人の顔を見る。そうだ、その顔は忘れもしない。
「トヨミ……」
思わず呟いたホキにトヨミが微笑む。
「覚えていてくれたか。忘れられていたらどうしようかと思っていたぞ」
「あ……でも、なんで?」
「また会おうと言っただろう? だから会いに来た――いいから早くこちらに。顔をよく見せておくれ。あぁ、ちゃんと戸は閉めろ」
そうは言われてもすぐには動けないホキ、茫然とトヨミを見ている。手は戸に掛けたままだ。それをトヨミが笑う。
「なんだ、その恰好は? 戸を掴んでいるのが流行でもしているのか?」
「えっ? いえ、閉めます」
慌ててホキが戸を閉める。部屋の外にいたままだ。トヨミがホキの視界から消え、やっと気が付くが、今度は気まずくて戸を開けられない。どうしよう!? やっぱり戸に手を掛けたまま、ホキは動けない。
するとガラッと開けられた戸、引きづられたホキは体勢を崩してその場に寝転んでしまった。それを見て大笑いするトヨミ、屈みこんでホキの手を取る。
「立って、中に入れ……それともこの場がいいのか? 其方が望むなら吾に異存はないが?」
言いながらケラケラと笑う。
「そんな馬鹿な!」
トヨミの手を振り払い、ホキが立ち上がる。トヨミが腕を伸ばし、トヨミの肩に回した。
「会いたかったぞ。其方は?」
耳元で囁く声、身体がカッと熱くなるのをホキが感じる。だけど……母の言葉を思い出す。今宵一夜のお相手――もう二度と会うことはない。それを忘れてはいけない。心に吹いた冷たい風に、火照る身体が醒めていく。
「吾は……お名とお顔は覚えておりましたが、会いたいとまでは」
心にもないことを口にして、それが本心だとホキは自分に思い込ませようとする。忘れなければ辛いだけ、慕ったところで叶う相手ではない。
肩に回されたトヨミの腕に後押しされて、部屋の中に足を踏み入れながらホキが答える。
「あと十日もお出でにならなければ、きっと忘れていたことでしょう」
「なんだ、其方の記憶はたった十三日しか持たないのか?」
愉快そうにトヨミが笑う。すでに部屋の中ほどだ。トヨミがホキを座らせて、自分も腰を下ろした。すぐそこに延べられた床が目の端に映り込み、慌ててホキは目を逸らした。
「十三日? えっと……芹を摘んだのはいつだったかしら?」
「三日前だ。あれ? 吾にいつ会ったかは忘れたのに名は覚えていたんだ?」
「たった三日?」
「あぁ、そろそろ行かないと、一緒に摘んだ芹を食べそびれると思ってね。必死に務めを終わらせて、時間を作ってここに来た」
そうだ、よくよく考えてみるとトヨミの言うとおりだ。その三日は、なんと長く切ないものだったか?――たった三日が一年ほども長く感じた。そんなにトヨミに会いたかったのだ……今さらホキが自覚する。同時に目頭が熱くなった。
「あれ? なんで泣いている?」
「泣いてなどいません。えぇ、芹はまだございます。だけど一緒に摘んでなどいません。吾が摘んだものとトヨミが摘んだものを一緒の籠に入れただけ――まさか、自分が摘んだ芹を食べたいなどと? 同じ籠の芹の、どれを誰が摘んだのかなど判りません」
「泣いているように見えるけどなぁ……これは涙だろう?」
ふいにトヨミがホキの頬に手を近づけた。泣いてないと言った手前、拭えなかった涙は溢れ、ホキの頬を濡らしている。ハッとホキが身を引いてトヨミの手を避ければ、行き場を失ったトヨミの手が宙で寂しげに止まった。
「吾は……其方に嫌われているのか?」
トヨミの顔から笑みが消えた。




