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カシワデの郷の長カタブは野心家だった。地方の一豪族でなど終わりたくなんかない。勢力を拡大し、政治の表舞台に立てないものか? かと言って帝に近寄るのは無理だ。だからなんとか、政治の中心人物、帝への影響力も強大なソガシに近付いた。
運が良かったのは高麗の使者が越の地に流れ着いた時、その饗応の任を賜ったことだ。越の豪族ミチノは高麗の使者を謀り、帝への献上品を横取りしていた。そのミチノから献上品を取り戻し、都に持ち帰ったカタブにソガシは喜び、目を掛けてくれるようになった。
そうだ、運が良かったのは高麗の使者が賢かったからだ。都の使いであるカタブにミチノは頭を下げて挨拶し、それを見た使者はミチノが役人でないことを見抜いた。だからミチノから献上品を取り上げて、カタブに預けてくれた。それが無ければどうなっていたか?
あれから数年が経ち、今日こそ人生の大一番、貴人をこの屋敷に招いた。都に立ち並ぶお屋敷とは比べ物にならない小ぢんまりした吾が屋敷に、貴人がおいでになる。なんと名誉なことか。それに……
『おまえのところには娘がいたな?』
ソガシの囁きを思い出す。
『妃になるのは無理でも気に入られれば暫くは通う。取り入る隙もあろうぞ』
ソガシはそれしか言わなかった。だけど、それはもっと大きな可能性を秘めているとカタブは考えた――懐妊だってあり得る話だ。
カタブの妻は次々に子を産んだ。今も身籠っていて、直に七人目が生まれる。身体が丈夫なうえ妊娠しやすい体質なのだ。吾が子たちはみな丈夫だ。せっかく生まれてきても幼いうちに身罷ることが多いのに、誰一人欠けることなく育っている。娘たちは妻によく似ている。きっと体質も受け継いでいる。
もしも娘の一人が貴人の子を宿せば、きっとその子は成人する。母親の身分が低いのだから、貴人の他のお子たちほどは優遇されないとしても、吾が一族繁栄の礎となるだろう。それに万が一、貴人の他のお子たちが誰一人成人することなく没したならば――いいや、そんな事を考えちゃいけない、欲張り過ぎれば身を亡ぼす。貴人の子を授かるだけで儲けものだ。
だが、しかし……
カタブが都を思い出す。正確には都の女を思い出す。ソガシに連れられ訪れた都は美しいところだった。煌びやかな館が立ち並び、行き交う人も華麗、何もかもが眩しいほどに美しい。特に女――都の女はカタブが知っている女とは全く別の生き物だった。触れれば壊れてしまいそうな佇まい、嫋々とした趣……いかに己が粗雑であるかを見せつけられる思いがした。
遊び女でさえそうだった。妻とは明らかに違う柔らかで滑らかな肌、撓る肢体、カタブがもう少し若く、もしも野心が無かったら、妻を忘れてのめり込んでいたかもしれない。
都に住まう貴人はそんな女たちに囲まれ、そして吾が娘たちは妻に似ていた。カタブとて、おのが妻や娘を醜いなどと思っていない。むしろ愛くるしく、どこに出しても恥ずかしくない妻と娘だ。それでも、都の女と比べたらなんと見劣りするものか。ソガシの言うとおり、少しでも気に入られ、僅かな間でも通って貰えれば幸運だと思ったほうが無難だ。カタブは静かに目を閉じた――
なんだか奇妙だ……母親を眺めてホキが思う。妹のヒリは単純に喜んでいるが、新年でもないのに装束を新調するなんて何かあるとしか思えない。ましていつもは束ねるだけの髪を結い上げ、簪まで刺してくれた。髪を結い上げるのも、簪を刺すのも初めてのことだ。何か祝事でもあるのだろうか?
支度が終わった二人の娘を見て母がほっと息を吐く。どこか物憂げな様子に、とうとうホキが尋ねた。
「今日はいったいどうしたというのです? それにこの装束は? 新年や祭りでもないのに、こんな高価な装束を新調したのはなぜでしょう?」
高価なのは見ただけで判る。鮮やかに染められた美しい織物で仕立てられていた。
すると悲し気な笑みを見せて母が答えた。
「カタブの言いつけなのです」
「父親さまの?」
「えぇ……今宵、都より客人が参られる」
あぁ、だから普段では口にしないような料理を拵えたのか……ホキも手伝ったが見たこともない大きな魚や白い水もあった。
『煮込めば固まり蘇と呼ばれるものになる』
白い水は牛の乳、今日は山菜や鴨肉を並べ入れた鍋に注いで火にかけ、味噌で味を調えた。
『蘇はかなりな美味ぞ』
母はそう言って、吾の口に二度と入ることはなさそうだと付け加えた。高価なものなのだろう。
牛の乳は都からわざわざ取り寄せたらしい。その時から可怪しいとは思っていたが都からの客人のためだったのか。
「でも、なぜ吾とヒリを召かし込ませたのですか?」
「それは……」
言い難そうに母が二人の娘を見比べた。
「カタブは二人をその……客人に差しだすつもりなのです」
「へっ?」
先に悲鳴を上げたのはヒリだ。
「差しだすって? 父親さまは吾と姉さまを、この館から追い出す気なの?」
「いえ、そうではなくて……まぁ、それも客人次第だとカタブは言っていました」
母がもう一度溜息を吐く。が、今度は意を決したように顔をあげ、二人の娘に強い眼差しを向けた。
「ホキ、ヒリ、よくお聞きなさい――貴人を屋敷にお泊めした場合、夜伽の女子を用意するものなのです。時には妻を提供することもある。けれど母は知っての通りの身重、貴人のお相手は務まらない。だから……」
「いやっ!」
ヒリが叫ぶ。
「吾はこの屋敷から離れたくない。父親さまと母さまのそばに居る!」
ヒリは少し誤解している。召使として連れて行かれるとでも思っている。
「落ち着きなさいヒリ。今宵一夜だけの話、其方をどこかにやると言う事ではないのです」
「今宵一夜だけ?」
「それだって、もし貴人が其方たちのどちらかを、あるいは両方を気に入れば、の話です」
「両方?」
聞き咎めたのはホキだ。
「両方って、それは?」
またも母が溜息を吐く。
「そんなこともあるかもしれないと、カタブが言ったまでのこと」
ホキの質問には答えたくないようだ。その代り、複雑な表情でこう言った。
「母は……其方たちが呼ばれることはないと思っています」
「本当に? でも、それはなぜ?」
期待を込めてヒリが問う。すると母が悲し気な笑みを見せた。
「客人は都の貴人、しかも遊び慣れているのだとか。ここカシワデの郷でなら其方たちはそこそこの器量よし、だけどとうてい都では通用しない。貴人が床に呼びたくなるとは思えません」
「酷いわ、母さま」
ヒリは拗ねたがホキはホッとし、どこかで納得もしていた。トヨミを思い出していたのだ。
きっとトヨミも都の人、男でさえもあの美しさなのだ。都の女人に対抗できるとは思えなかった。でもそれは……
また会おうとトヨミは言った。きっと会いに来てくれると期待していた。今のところなんの音沙汰もないのは、ホキとは比べ物にならない美しい女たちに囲まれ、ホキのことなど思い出しもしないからだ。
もう会うことはないのだろうか? 天翔ける美しい黒い馬、人の言葉を発する白い犬、輝くばかりに美しいトヨミ……あれは夢だった?
いいや、夢ではなかった。せせらぎに生えていた芹はなくなり、籠はいっぱいになっていた。ひょっとして……トヨミは都の人ではなく、雲の上に住んでいるのかもしれない。なんだかそのほうが納得できる。空を駆け抜ける馬も、人の言葉を語る犬も、神の住む世界になら居ても可怪しくない。
冷たい水に足を濡らして芹を摘んでくれたのは何者だったのだろう? 人か、神か? それともまさか――妖?
人でも神でも妖でも構わない。せめてもう一度でいい。トヨミに会いたい。会って今度はあの頬に触れてみたい。トヨミはそれを許してくれるだろうか?
「支度は整ったのか?」
カタブが呼んでいる。客人がそろそろ到着するらしい。
「ホキ、ヒリ。宴の膳は其方たちが運ぶのですよ。まぁ、気に入られなくてもいいけれど、怒りを買ってはなりません。くれぐれも無礼のないように――さぁ、表にお行きなさい。母はこの部屋で其方たちの無事を祈っています」
身重なのを憚って、母は表に出ない。
「都の人を見るのは初めて」
少し浮足立つヒリを
「落ち着いて、ヒリ。粗相したら大変よ」
ホキが優しく窘めた――




