18
マダラ宮では大勢に出迎えられた。宮で働く者たちだ。本来なら女主人となったホキも挨拶する予定だったが、トヨミに支えられてやっと立っているようではそれもままならない。人々が見守る中、宮の奥へと進んだ。トヨミは抱き上げて運びたかったようだが、ホキがそれを拒んだ。大勢の前で抱き上げられるのには抵抗がある。
表から女が二人、奥の部屋までついてきた。これからホキの世話をしてくれる女官だと、ホキの耳元でトヨミが言っていた。部屋につくとトヨミに命じられ、大慌てで女官が床を延べる。それが終わるとトヨミがホキをゆっくりと座らせ、床に入るのに手を貸した。
「気にせずゆっくり休め」
ホキに微笑むと、後ろに控えている女官に
「今日の予定は明日に回す。表で待つ者たちに伝えろ――それからすぐに薬師の手配を」
と指示した。女官はすぐさま部屋を出て行った。
ほどなく戸の向こうで声がする。
「清水をお持ちいたしました」
女官が気を利かせたのだ。
「貰うか?」
トヨミの問いにホキが頷く。サッと立ち上がったトヨミが戸を開けると、廊に腰を下ろした女官が驚いて顔を伏せ、椀の乗った折敷を掲げた。それを受け取ったトヨミ、何も言わずに戸を閉めた。
なんとか上体を起こし、椀を受け取る。トヨミがホキの身体を支えようとするが、これは断った。
「トヨミ、そんなに心配しないで。顔が真っ青よ」
「其方の体調が思わしくないのに吾が平気でいられるものか」
「お水をいただいたら、随分と気分がすっきりした。きっともう大丈夫」
「油断をするな、これから寒くなる」
「そう言えば、この部屋は暖かいのね」
「あぁ、火を置いて部屋を暖めるよう命じておいた」
トヨミが部屋の隅を見る。四隅のほか、ところどころに壺のようなものが置いてあった。
「あの壺の中に火が? なんと言う道具?」
「うーーん……思い付きで作らせた。名はまだつけてない――母者のところで使ってみたら好評だったから、ここにも置かせた」
「まぁ、義母さまで試したのね?」
ホキがクスッと笑うと、トヨミがホッとした顔になった。
「顔色がよくなってきたな。嬉しいぞ」
「こんな日に体調を崩すなんて申し訳ありません」
「何を言う? ホキのせいではない。輿を用意しなかった吾の責任だ」
ホキが何か言おうとしたが、廊で声がして口を噤んだ。
「薬師が参りました」
さっきの女官の声だ。トヨミの応答を待って戸が開く――
マダラ宮からほど近いナカツ宮で、トヨミの母ハシヒがニンマリと笑んだ。トヨミが寄越した木簡を読んだのだ。木簡には『至急マダラ宮にお出ましを』と書かれていた。使者は輿とともにナカツ宮の門前で待っている。立ち上がったハシヒが表に向かう。
マダラ宮に到着すると先に来ていたクルメがハシヒを出迎えた。
「トヨミは?」
「奥で母者を待っている」
笑顔で答えるクルメ、その横に遠慮がちに立っている女をハシヒがチラリと見た。クルメが、
「ヒリでございます」
と紹介するが、ハシヒは何も言わずに歩を進めた。
あちらこちらから聞こえる人の声、慌ただしく何か支度をしているらしい。それはこっちだ、これはあっちに持って行け、指示する声も忙しない。
長い庇が突き出た下に、続く廊は庭に面していた。クルメの先導で奥に進む。最初の角を曲がると建屋にぐるりと囲まれた内庭となった。白い犬が一匹、見上げているのは思い出したように落ちてくる雪を待っているのだろう。雲が広がる空からはひらりひらりと白いものが舞い降りてくる。
ふと庭を見たハシヒが足を止め、続いていたヒリもそれに従う。ハシヒに気付いた犬が『ワン!』と一声吠えて廊下に駆け寄った。怯えたヒリが後退るが、ハシヒは涼しい顔で犬を見ていた。クルメも気が付き足を止め振り返る。
廊の間際で再び犬が『ワン!』と吠えた。すると、
「久しいのぅ、ユキマル」
ハシヒが表情を変えることなく言った。
「それで、どうなのだ?」
『ワン!』
「ふむ、なるほど――で?」
『ワン! ワン、ワン!』
「ほほう、それは興味深いこと――ご苦労であった」
ユキマルに向けていた顔を前に戻してハシヒが歩き始める。振り向いて待っていたクルメがハシヒに一礼すると、やはり前を向き歩き始める。最後尾、ヒリは呆気にとられ、すぐには動けなかった。
先を行くクルメが足を止め、この部屋だとハシヒに告げる。それから中に声をかけて戸を開けると後退して、ハシヒに先を譲った。
ハシヒが中に入ると部屋には座したトヨミ、その隣、少し下がった場所で両手をついて頭を下げているのはホキ、ハシヒがトヨミの正面に用意された座に腰を下ろす。
「ふむ……温かい部屋だ」
ハシヒが呟く。クルメも入室し、ヒリも入って戸を閉めた。
「さて、皇子トヨミの妃ホキ。吾に顔を見せよ」
恐る恐る顔をあげるホキ、そして真っ直ぐにハシヒを見た。なんて美しい……息子トヨミが恥ずかしげもなく義姉同様美貌と言ったのを思い出す。麗しい顔立ちは齢を経たトヨミ、吾こそトヨミの母親だぞと顔に記されているかのようだ。
「ふむ……」
じっとホキの顔を見詰めるハシヒはニコリともしない。ホキもここで微笑むのも珍妙と真面目腐ってハシヒを見詰める。と、急にハシヒが視線をトヨミに移した。
「咲き誇るカキツバタ、穏やかな風は雲を掃う。空は澄み、夜には満ちた月が微笑むだろう」
そして再びホキを見た。それからもう一度トヨミに向かう。
「望むままに与えられよう」
そして立ち上がった。
慌てたトヨミが腰を浮かせる。ハシヒが部屋に入って以来、ようやくトヨミが声を発した。
「母者、もうお帰りか? 膳の用意をさせているのに?」
するとハシヒがニンマリと笑んだ。なんとも妖艶な笑みだ。
「用は済んだ――膳よりも火が欲しい。吾の宮にくれた火置きの数より、この部屋のほうが多い。焼けるものよの」
「母者……」
火置きとは、きっと火を入れた壺を指しているのだろう。その数が自分にくれたものよりこの部屋のほうが多い。焼けるものは妬けるに掛けてある。さらに深読みすれば火は妃に掛けてあるかもしれない。要は皮肉られたのだ。
「のちほどお届けいたします」
トヨミの言葉に頷いて戸に向かうハシヒ、ヒリが膝を立てて戸を開けると座り直して頭を下げる。部屋を出る直前にハシヒの足が止まりヒリの方を向く。
「顔」
ハシヒの声、クルメが驚き、慌てて言った。
「ヒリ、顔をあげて母者にお見せしろ」
恐る恐るヒリが顔をあげるが、真っ直ぐに自分を見るハシヒに畏怖を感じ慌てて目を伏せた。
「ふむ――結んだ手の指を開くよう、咲くは菊の花」
そう言うとハシヒは部屋を出、それをクルメが追った。ヒリは動けない。トヨミとホキは立ち去るハシヒに頭を下げる。クルメがそっと戸を閉めた――
ヒリがしくしくと泣くのをホキが慰める。緊張の糸が切れたのもあるが、やはりハシヒが恐ろしかったのだ。トヨミが不機嫌にボヤく。
「母者は巫女だと、クルメから聞いていなかったのか?」
「聞いていたとしたって巫女の前でどうしたら? 吾もヒリも知るはずもない」
怒りを感じさせるホキにトヨミが拗ねる。
「母者が不愛想なのは認める。だが、そんなに怖がらなくても良かった」
「怖くないと言われて怖がらずに済むならそうしていたことでしょう――それで義母さまは、なんと仰って?」
「ふむ」
話題が変わってホッとしたのはトヨミだ。表情が明るくなった。
「ホキの出産はカキツバタの咲く頃、晴れて風も穏やかな満月の夜に無事生まれると言っていた」
「本当に?」
これにはホキも目を輝かせる。泣いていたヒリも顔を上げて、嬉しそうにホキを見た。
「嘘など言うものか、其方も母者の言葉を聞いただろうが」
トヨミに言われて思い返してみれば、確かにハシヒの言葉はそんな意味に思える。口元に手を当てるホキ、喜びを噛み締めている。
呼び寄せた薬師はホキを診て『子を宿された』と言った。出産が無事終わるまで二度と馬に乗せないように釘を刺して薬師は帰った。それでトヨミはハシヒを呼ぶことにした。巫女であり未来を見通す力を持つハシヒ、問題ないと言われれば安心だ。もしも危ういと言われたなら、ありとあらゆる祈祷を行い、未来を変えようと考えていた。
「そいえば、ヒリはなんと言われたの?」
ホキが思い出したように問う。あぁ、とトヨミが答える。
「結んだ手を開くように、菊の花が咲く頃だって意味だが……ヒリも子を授かるのかな?」
こちらはあまり自信がないようだ。ヒリが驚いてトヨミを見る。
「吾にも子を?」
「なんだ、クルメの子が欲しくないのか?」
「まさか! 欲しいのに、なかなかできないんだわ」
「うん、クルメが言っていた。毎夜励むのにまだ出来ぬとな」
「まぁ!」
トヨミの言葉は姉妹の顰蹙を買ったようだ。ニヤッとトヨミが笑う。
「そう言えば義兄さま。庭にいた白い犬と義母さまは何やら話していました」
「ユキマルと?」
「そうそう、ユキマルとお呼びになって――ワンワン吠えるユキマルにお答えになっていました」
「ユキマルがワンワン?」
不思議がるホキ、トヨミは
「母者は巫女、時に犬とも語り合える」
と答え、そっとホキに目配せした。ユキマルが人の言葉を話すことはきっと内緒なんだわ、ホキが察する。
戻ってきたクルメが
「朝まで雪が降り続きそうだ――母者が火置きを持って帰るって言い張って聞かないから、女官が己の部屋の火置きを差し出した」
困り顔で言いながら座した。
「そんなに降っているのか? 積もるのかな?――あとで女官には別の火置きを持って行かせる。母者、どうせまた童女のようにゴネたのだろう?」
トヨミがクスリと笑う。童女のよう? あの義母さまが? 不思議な心地のホキ、だがそれを言うわけにもいかない。
ヒリが
「義母さまって犬とお話しできるのね。どんな話をしていたのかしら?」
クルメに訊ねた。
「あぁ……母者ったら、ユキマルに吾とヒリや、兄者とホキの夫婦仲を探らせていたらしいな」
クルメが笑った。
「まぁ……って、クルメも犬がなんて言っていたか判るの?」
さらに驚くヒリ、トヨミは苦笑いで舌打ちをしている。ホキは『夫婦仲を探らせるって、どんな事を探っていたんだろう?』と考えていた。
「母者の血を引いているからな。吾などせいぜい犬や野鳥の話を聞き分けられる程度だ。兄者はもっと凄い」
「余計なことは言わなくていい」
トヨミに睨み付けられて、クルメがチラッと舌を出し
「怒られてしまったよ」
とヒリに笑った。
そうね、と思うのはホキ、トヨミは自分でも『大勢が一斉に話しても聞き分けられる』と言っていた。あれはクルメが犬や野鳥の言葉を聞き分けられるのと同じことかも知れない。
『ホキはどんな力が吾にあるといいと思う?』
――返事をまだしていない。撫でるだけで手荒れを治したトヨミなら、どんな不思議なことでも遣りおおせてしまいそうだ。だけどホキは何も思いつかない。
今のままで充分幸せ。これ以上何を望めばいい? 今の幸せが続くなら、吾はそれでいい……




