未知の窓
8月のある日、僕は今日からできるだけ長い間、自宅に戻らないと決めた。正しい行いとは思わない。でも自分の心に真っ当に従えば、これ以外の選択肢は思い浮かばなかった。
僕が家に帰っていないと両親が気づくのは最短でも3日はかかるだろう。大抵の人はその期間を長いと感じるはず。僕も同感だ。そう思わないのは世界に2人だけかもしれない。
母さんは僕を産んだ後、長く在宅の仕事をしていた。けれど僕が小学生に上がる時 (つまり6年前)に本格的に仕事に復帰し、国内や東アジアの各所を飛び回るようになった。
土日のどちらかに義務のように帰宅し 、スーツケースとボストンバッグにパンパンに詰まった1週間分の洗濯物を、リビングの隅にゴミのように放り投げもう一組 用意してある同じ型のケースとバッグに清潔な服を詰め替えて仕事に戻っていく。
洗濯などの家事全般はハウスキーパーさんがやってくれる。母さんよりもずいぶん年上の女性で、丸っこい体つきなのに動きは機敏、加えて仕事はいつも丁寧で僕は彼女に尊敬の念を抱いている。
母さんはいつも彼女と約束した場所と違う位置に洗濯物を放り投げる。確信的で、意地の悪い手つきと不満で爆発しそうな背中でその子供じみた犯行に及ぶ。
僕はその姿をみるといつもなぜか泣きそうになってしまう。スーツケースが僕の思いで膨らんで破裂して、母さんと2人で消し飛ぶことができたらとさえ思う。父さんの洗濯物に至っては、もう何年も目にしていない。
最後に父さんの姿を見たのはいつか思い出せない。我が家の立派な書斎には家族写真なんて飾っていないから僕は父さんの顔を忘れてしまった。2人にとっての大事な子供は、僕じゃなくてこの高級マンションの一室なんだろう。
この広い部屋で僕は両親とほとんど同じ面積の自室を与えられている。誰の案か知らないが施錠は禁止。2人はほとんど帰ってこないから、他の部屋に立ち入るのは僕くらいだ。
彼らの部屋は物で溢れている。図書、レコード、天体模型。洋服にサングラス、極め付きはワインセラー(ここで寝る気ないじゃん)。
僕の室内には何もない。もちろん必要な物は揃ってる。でもここには「僕を僕たらしめる物」は何ひとつない。とにかく部屋の隅がわからない程に広く感じる。心が空っぽな裏付けみたいで自分の部屋にいるのがすきじゃない。
僕は服が少しだけ減った母さんのクローゼットを眺める。前後2列になっていて、幅はぼくが両手を広げるより長い。何ものも受け付けない洞窟のような趣がある。
クローゼットの前に立ち、僕は無限について考察する。どれだけ多くの服を持ち出したとしてもこのクローゼットだけ空にならない気がする。
試しに一番手前にかかっていた服を鷲掴みにし、自室に戻り床に放り投げる。そして見下すような形で観察を始める。やっぱりこの部屋で見る方が母さんの服は魅力的に映る。それは僕とこの部屋が空っぽって証明なのだろう。
稀に家にいる時間が重なると、母さんは僕を見つけるなり走り寄り、強い力で抱きしめてくる。彼女は必ず僕の腕を締め付けるように固定し、動けなくしてから抱擁を始める。カマキリの食事シーンみたいだ。
そしていつも搾りたての温いミルクみたいな言葉を投げかけてくる。
会えない時間が長いほど、抱きしめる時間を意図的に調整していることに僕は気づいている。そして僕に気付かれていることを、残念ながら母さんは知らない。
いつからかぼくは母さんと食事を摂ると必ず吐き気を催すようになってしまった。初めは偶然かと思ったけどそうじゃなかった。
食事の後で母さんがすぐに仕事に戻る時は(そうすることのほうが多かった)トイレに駆け込んで吐くことができる。だけどそうじゃない時は母さんに気取られないように自分の部屋に戻り、ストックしてあるコンビニのビニール袋に静かに吐くことになる。
静かに吐くのって実は難しい。脳内で暫定的に自分の存在を消去することが、静かに食べ物を戻すコツだ。上手く吐けると音も出ないし体への負担も少ない。
その代わり自分の存在を全否定された様な落ち込みが強くやってきて、しばらく何もする気が起きなくなってしまう。
薄雲のかかった空は日の光を浴びてなんだかぼんやりして見える。僕は唾を飲み込もうとして失敗し、ノドが乾いていることに気づいた。
自分は何か間違いを犯そうとしているのかもしれない。ふとそんな思いが頭をよぎった。空を見ていられなくなり、僕の心に陰が射した。日が暮れるのが怖いわけじゃない。むしろ夏の夜は優しさに溢れている気がする。
僕は近くの森林公園まで歩いて行き、誰にも見つからない場所を探した。平日の午後の園内は空いていて、順路に沿って5分ほど歩くだけで、誰からの視線を感じることのない場所を確保することができた。
誰も見ていないことを確かめて、目についた大木に思いきり抱きついた。目をつむり、幹に寄りかかり、できるだけ全身の力を抜いた。脳がじわーっとほぐれる感覚があった。幹に貼り付く苔の香りに癒され、樹皮のゴワつきは僕を励ましてくれた。
目を開けると、空蝉が地面にいくつか転がっていた。僕は率直に空蝉を羨ましく思った。必死で土を掻きながら地中でもがく蝉の幼虫と比較しながら。
遠くで踏切の警報音が鳴り、数秒後に電車の走行音が僕の前を容赦なく通り過ぎていった。東に向かう上り電車と西に向かう下り電車で線路の奏でる音が違う気がした。
どこに逃げ出しても、僕の目から涙はこぼれてくれなかった。
来た道を引き返し公園の入り口付近のベンチに座った。そして先週図書館で適当に選んで読んだ本に書いてあった。猫の死骸でイボを取る秘術について考えた。不快感からすぐにページをめくって読み飛ばしたのに、その日から僕は、ことある毎にその記述を思い出す羽目になった。
秘術に使われたのはどんな猫だったんだろう? みすぼらしい雑種の野良猫たちが僕の脳裏を埋め尽くした。
魂の在り処や、儀式の手順、死体の性別や年齢による効果の違い、など知りたいことは沢山あった。
そもそも秘術の使い手は絶滅しているのだろうか? イボを消したいという需要自体は、現代にも通じるものだろう。医療の進歩との関連は無視できないだろう。
戦争や革命、世界経済の発展は術師たちの役割にどんな影響を与えたのだろう?
もしかしたら今この瞬間も、世界の何処かで儀式が行われているかもしれない。
くそっ。やっぱり目を背けずにしっかり読んでおくべきだったんだ。タイトルはおろか、あの本がどの棚にあったかまるで覚えちゃいない。
依頼者はどんな人だろう? 秘術まで使うくらいだから、僕と同い年くらいのイボに悩んでいた女の子かもしれない。
女の子といえば〜
「ねえっ! ねえってば!」
顔を上げると正面に女の子が立っていた。
体の線が細く、黄色いTシャツに濃紺のデニムを履いている。頭の高さはそんなに変わらないので、僕が立ったら身長はずいぶん違うのかもしれない。
「そんなに驚かなくてもいいじゃん」ごめん、と僕はすぐに謝った。過集中になり他人の声掛けを聞き逃すのはよくあることで、反射的に謝る癖がついていた。
「ひとり?」いつもひとりだよ、と頭の中で答えながら彼女に見覚えがあることを確認した。でも知り合いのはずなのに彼女が誰だかまるで思い出せない。
「何考えてたの?」猫の死骸について、とは言えなかった。説明に骨が折れるし、やり切る自信もなかった。誰かわからない相手にそんなリスクはとても犯せない。
「わたしのこと覚えてないでしょ?」
遠山さんだ! 僕は心の中で叫んだ。ベンチに座り直し、顔の角度が変わったことでなんとか思い出せた。
中学に入り出会った女の子で、今日まで交流はほとんどなかった。相手によって態度を変えず、好き嫌いがはっきりしている印象があり、彼女のそんな個性を羨ましく思ったことがあった。
「あなたを掬い上げてあげる」
遠山は僕をまっすぐ見つめそう宣言した。僕は恥ずかしくて目を背けた。
「君は『こう有りたい』って思いが強すぎて『こう成りたい』って希望を潰しちゃってるんだよ。ほら、自転車のタイヤを想像してみて。片方だけ大きかったら苦しそうでしょう?」
遠山は僕の隣に座り、ジェスチャーを交えながら説明した。僕は彼女の顔を直視できず指ばかり見て、指も綺麗で見ていられなくなり、できるだけ遠くの梢を見ていた。
彼女は尚も話し続け、僕は話を遮らないように相槌を打った。話の内容は頭に入って来なかった。触れてもいないのに横にいる遠山から熱を感じる。彼女の生命力が僕を温めてくれている。それが気になって僕の頭はショートしてしまった。いったい母さんのハグと何が違うんだろう? 上手く回らない脳で僕は考え続けた。
「よし、行きましょう」
その言葉だけ聞き取れた。同時に遠山は立ち上がりこちらに向き直った。何か言わなければ。そう思ったけど上手く言葉が出て来なかった。彼女は一瞬だけ呆れた顔を浮かべた。
「ついておいで。心配いらない。君は昔のわたしと似てるんだ」
10分ほど歩き、遠山が案内してくれたのは裏路地にあるアパートだった。くたびれた紅生姜みたいな色の外壁で、塗装剥がれが目立ち、年代物の郵便受けはカリカリに錆びていた。公園のトイレをそのまま大きくしたようなアパートだった。
遠山は一階の部屋のドアノブをカギも開けずに回し、僕を招き入れた。彼女が部屋の中央にある紐を引っ張ると、蛍光灯が急に起こされたみたいに素早く灯った。
部屋は入り口から奥まで容易く見通せるほどの広さで、天井は背伸びして手を伸ばせば届きそうなほどの高さだった。サイコロみたいな部屋だ。
「好きなだけここにいて構わないよ」
と彼女は言った。
「君の部屋なの?」
僕が尋ねると遠山は首を傾げ
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」と答えた。そして
「懐かしい」
誰にも聞き取れないほど微かな声を出した。
「自由の先っぽを教えてあげる。この部屋で時を過ごせば、君は必ず変われる。わたしに言えるのはそこまで。頑張ってね」
そう言って彼女はドアをそっと閉めて出ていった。
静寂が訪れると、部屋の狭さが実感を持って襲いかかってきた。外観の印象と違い室内はとても清潔だった。壁紙はチョークのように白く、畳はさっき張り替えたばかりと言われても信用できるほど新しい。窮屈だけど、なぜか今まで歩いてきた道よりもよ空気が澄んでいる気がした。
奥の壁に段ボールが貼られていた。窓を隠しているのだろう。トイレは和式だけどピカピカでお風呂はなかった。シンクで蛇口をひねるとしばらく間があって急に勢いよく水が出てきた。僕は手を洗った後水をすくい 心ゆくまで飲んだ。
すぐに帰ろうと思ったが 少し欲しい気がした。横になり畳に身を預け、僕の重みで畳が微かに沈むのが心地よかった。
そして僕はこの部屋を自分色に染めてみようと思い立った。
僕は部屋を飛び出し銀行へ向かい、ATMで預金を1円残らず引き出した。そんな大金を触るのは初めてだった 。終夜営業のディスカウントストアで心が欲する物を手当り次第に買い漁った。うさぎやペンギン 、プリントの入ったクッション、フリルの入った枕カバー、少しでも惹かれたものは全て買い物カゴに突っ込んだ。
持ち帰り部屋に並べると生まれて初めて ここが自分の居場所だと感じることができた。部屋に溶け込むように並べ、気の済むまで愛で、並べ直し悦に浸る工程を繰り返した。
あれから何日くらい経ったんだろう。僕はまだこの部屋に居座っている。ここはとにかく静かで、心置きなくぐっすりと眠ることができる。食欲も増して、よくお腹が空くようになった。こんな暮らしがずっと続けばいいと思った。
ある日、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめていると、入り口のドアが急に開き、学生服の男がこちらを見ていた。目が合った彼は僕と同じように驚いた顔をしている。
僕はとっさに抱いていたぬいぐるみを放り出し、スニーカーを掴み靴下のまま外に飛び出した。さらに男がいて、彼らが二人組だとわかった。
僕は必死に走りながら頭の中を整理しようと試みた。そもそもなぜ逃げたのかもわからない。
あの部屋は僕だけの場所じゃなかった。
よく考えれば当然だ。僕を案内したクラスメイトはこの部屋を僕だけの場所とは言わなかった。
僕にあの空間を独占する権利はないのだろう。頭ではわかっていても、どうしても納得できない。乗り込んできた 2人に心底腹が立った。
僕は走り続けた。どれだけ走っても突きつけられた現実が頭から離れなかったし、浮かぶ考えは自分を虚しくする方向にしか向かなかった。僕は虚しく腕を振り続けた。
走り疲れ、足を止め目についた公園に入った。ベンチに座り、息を整えることに専念した。背もたれを使うと、どっと疲れが押し寄せてきた。汚れた靴下を脱ぐと母指球の皮がめくれ上がっていた。靴下を履いていても コンクリートの細かい突起で僕の足裏はひどく痛んだ。
見たこともない公園で地元とは思えなかった。街灯の色がひどく不気味で、僕を騙そうとしているように思えた。走ったと言ってもせいぜい数キロのはずで、そんなに地元から離れているはずがない。
体力の回復を待ち、僕はあのアパートを探し求めてさまよい歩いた。自宅に戻る気にはなれなかった。番地を見てもどこか分からず、携帯の充電はとっくに切れていた。
記憶をたどり、考えうるあらゆる方向へ歩き続けた。どれだけ探してもあの部屋は見つからなかった。それどころか歩いても歩いても、なぜか自宅の前に出てしまうようになった。
何度かの抵抗の後、僕は白旗を揚げおとなしく自宅に戻った。
あれから数週間が経った。僕の人生は日常に舞い戻り、あの不思議な出来事を忘れそうなほど退屈な毎日を送っていた。
夏の終わりのある日、街中であの学生服の男とすれ違った。迷ったけど僕はどうしてもあの部屋の場所を突き止めたくて彼を呼び止めた。切り出し方が分からず黙っていると、彼は
「気づいていたよ、何度かすれ違ったから」と言って3とも4とも取れる手の形を僕に向かって見せた。そんなにすれ違っていたなら話しかけてくれればいいのに、と僕は不満に思い、思わず彼を睨んだ。
「そうした方がいいと思ったんだよ」
彼は柔和な顔つきを崩さなかった。まるで僕を諭すように。そして優しい声音で続けた。
「あの出来事をある程度消化するために 君には時間が必要だと思ったんだ」
「消化?」
僕は買い揃えた品物や、ぬいぐるみを抱きしめている所をこの男に見られた事実を思い出した。僕が走り去った後で、二人は僕を存分に笑いものにしたのだろう。
俯いていると男から提案があった。
「時間あるかい? 少し話そう」
公園に着くと男は僕を先にベンチに行かせ 、近くの自販機でペットボトルのお茶と缶コーヒーを買って戻ってきた。
「どっちがいい?」
男は尋ね僕は礼を言って飲めもしない缶コーヒーを受け取った。
隣に座った男は足が長いだけでなく、筋肉でできた体の厚みがあり僕より3つほど年上に見える。僕は彼を見上げずに済むように背筋を伸ばした。
「あのぬいぐるみはさ」
僕は言い訳をした。隣で相手がにやけたのを感じ、蔑まれたと感じた。僕が一方的に話し続ける間、彼は一言も口を挟まなかった。僕の話が途切れると、彼はカウンセラーのようにゆっくりと話し始めた。
「どこから説明しようかな。まず部屋には何も残ってなかった。君が集めたものは何ひとつ。ぬいぐるみって知ったのもついさっきだ。本当だよ。神に誓ってもいい。今日から一週間分の晩飯を賭けたっていいよ。あの部屋には何も残ってなかった。消滅したのさ。そもそもそういう部屋なんだよ、あそこは」
僕は開いた口がふさがらなかった。彼が何を言ってるのか全くわからなかった。
「君が信じるかどうかは関係ない。なぜなら君の気持ちなんて事実に比べて余りに無力だからね。繰り返すけどさっき言ったことは全て事実だ。君が走り去り、入れ違いに俺と連れは中に入った。部屋には君がいた痕跡は何もなかった。ドールハウスも魔法のステッキもシルクのパンツも全て」
「そんなもの置いてない」
言い返した後で僕は彼が冗談を言っているんだと気づいた。
「信用できないね」
僕は缶コーヒーを強く握り、別の手で足元の雑草を千切って投げた。そんな話で納得できるわけないじゃないか。
「受け入れなよ」
「無理」
「俺も同じ経験者だとしても?」
「俺も君と同じ経験をした。一年前のちょうど今頃。あるクラスメイトに連れられてあの部屋に入り、部屋に執着を感じて自分色に染めなきゃ気が済まなくなってやりたい放題して、急な来訪者に驚いて部屋を飛び出した」
僕は頷くこともできず話の続きを待った。
「そして来訪者と入れ違った瞬間に、収集物は全て消滅する。信じるべきだ。サンプルは少なくとも四つある」
「どうしてそんなに詳しいの?」
「聞いたんだよ。部屋を飛び出して数日後、俺と入れ違った人物を街で見つけた。
今日の君と同じさ。そして気になったことを根掘り葉掘り、気が済むまで尋ねまくった。相手は快く答えてくれた」
「まだ疑ってる?」
僕は正直に頷いた。こんな非科学的な話、そう簡単に受け入れられない。
「それじゃ聞くけどさ、君をあの部屋に案内した人の名前思い出せる?」
「覚えてない」僕は正直に答えた。
女の子だった気がする。
クラスメイトだった気がする。
でも僕は、僕をあの部屋に案内してくれた相手のことを、それ以上何も思い出せないでいた。
「俺の話を信じたほうがいい。騙したりなんかしない。部屋への案内人に感謝して、あの日々を受け入れるんだ。そうしないと前に進めない」
「ねえ、あの部屋を出て自分が変わったって思うことはある?」
彼はそれについてはもうたくさん考えた、といった顔をして答えた。
「あらゆる物事に対して寛容になれた気がする。あの部屋に行くまではそうじゃなかった。自分は他人のせいで不幸なんだと思い込んでいたし、他人はみんな俺より恵まれていて、至れり尽くせりで何の葛藤もなく大きな壁をひょいひょい乗り越えてると決めつけていた。俺は自分に群がる小石さえも避けきれないのにズルいってさ。でもあの部屋に行ってさ……チャンスを活かすってのも簡単じゃないんだろうなって感じたんだ。何ていうかさ、障害がない状況が障害になってしまうこともあるのかな? とか考えたんだよな」彼は一気に話し続けた。
「頭の中にこれからの自分を支える大切な物差しが出来て、心の中に息を思いっきり吸ったり吐いたりできる場所を見つけたって感じ」
「君は何を部屋に置いたの?」
「幼児用の食器、よだれかけ、哺乳瓶におしゃぶりなどなど。部屋を飛び出す時は、高級ベビーベッドがもうすぐ完成するところだった」
「いくつかの店で、ありったけの種類を買い揃えて、畳が見えなくなるくらい床に敷き詰めて、寝っ転がって同じ目線になって。壮観だったな。おかげで昔からコツコツ貯めてた貯金はパーになったけど、それでも俺はあの部屋に行って良かったと思うよ。君だから教えてやるけど、部屋にいる時はずっとおしゃぶりをつけてたんだぜ」
「さて、そろそろ帰らなきゃ。一番ちびの弟を風呂に入れなきゃならないんだ。今は妹の作った夕飯を食ってるころだな」
「忙しいんだね」彼は何も答えなかった。ただ遠くを見つめていた。
「肩の荷が下りた気がするよ。実際のところ、君とすれ違うたび『いい加減俺に気づいて早く話しかけてこい』って思ってたからね」
「ごめん」
「冗談だよ。今の俺の気持ちはいずれ君にもわかる。だって近い将来、君も誰かをあの部屋に案内するんだから」
「でも僕はあの部屋の場所をもう思い出せない」
「愚問だな。最初に言ったろ? あの部屋は行きたい時に自由に行ける場所じゃないんだよ。その代わり、行くべき時には確実に迎え入れてくれる。俺たちが手に入れたのはそんなシェルターなんだよ」
あれから数週間が経った。二学期最初の登校日、僕は真っ先にあの部屋に導いてくれたクラスメートを探し教室を歩きまわった。だけど彼女を見つけることは出来なかった。端から順に眺めても、手当り次第に声を掛けても、誰からもインスピレーションは湧いてこなかった。
彼女は名乗り出ないと決めたのだろう、と結論づけ僕は心の中で彼女に礼を言った。
あの部屋を通過して、僕にも大きな変化が起きた。
まずは自宅で過ごす時間が長くなった。両親の部屋に対する劣等感も薄まり、今まで以上に彼らの部屋を探索したりしている。殺風景だった自分の部屋も、これから僕だけの好きな物で埋まり始めるだろう。
そして母さんのハグを拒否するようになった。初めて突き放した時は勇気がいったし、正直言って心が痛んだ。誰かを突き飛ばしたことなんてなくて力加減もまるっきり分からなかった。母さんはまず驚いた顔をして、それから悲しそうな顔を浮かべた。でも僕も譲れなかった。
それからすぐに母さんと食事をしても吐かなくなった。同時に充実した食生活が戻ってきた。
いくつかはっきりしたことがある。
ひとつ。自分で用意した出来合いの惣菜より、ハウスキーパーさんが作ってくれる食事の方が美味しい。
ふたつ。稀に食べることができる、母さんの手料理が一番美味い! と言える日はおそらく来ないであろうことだ。苦手なことは誰だってある。仕方ないじゃないか。本気でそう思えるようになった。
みっつ。忙しいのはわかってる。でもホントにもう少しで良いから、母さんの手料理を食べる機会が増えないかなって願ってる。今度からは僕も手伝うからさ。そうすれば手際も味付けも、ずいぶんマシになると思うんだ。
学生服の男は、僕が作ったあの部屋は消滅した、と言い切った。
僕の見解は違う。部屋は消滅なんかしていないし、これからも決して無くなったりしない。
だってあの出来事を思い出す度に、僕の心はいつだって、こんなにも強く揺れ動くんだから。