第一章 造られた神③
第一章:造られた神
――旅のはじまり/灰の外へ
曙光が地平を舐める頃、グレイポイントの廃れた街並みは、鈍色からわずかに赤みを帯びた。夜の帳がほどけていく様子は、まるで世界がゆっくりと呼吸を再開するかのようだった。
イオはバイクのエンジンを起こし、出発前の点検をしていた。古いリチウムセルはまだ持つが、補充は次の街で必要になる。AIの監視を避けるため、公式電力網には繋げない。エネルギーと安全は常に天秤だ。
「セラ、準備は?」
声をかけると、セラは小さなバッグを肩にかけ、手元のデバイスを弄りながら近づいてきた。彼女の目は夜の眠りを拒んだ者のそれだ。鋭さと倦怠が交錯し、何かを背負っていることが一目でわかる。
「いつでもいける。ログは上げたし、コンタクト用のダークノードも埋めといた。しばらくは追跡されない」
「……無理してないか?」
「無理がなきゃ、生きてない気がする」
軽い冗談のように聞こえるが、イオには笑えなかった。セラの肩に浮かぶ僅かな緊張。首筋の汗。長く地下に潜る人間特有の警戒が、まだ抜けていない。
彼女は乗車し、イオの背後に身を預けた。バイクが静かに走り出し、街を後にする。
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舗装が剥がれかけた旧街道を進むうちに、視界はひらけていく。低木と瓦礫が続く大地には、かつての集落の痕跡が点在していた。電線は切断され、AIによる整備も放棄されたこの地帯には、時が止まったような空気が漂っている。
途中、イオがふとバイクの速度を落とした。セラも目を凝らす。
丘の向こう、枯れた送電塔の影に、巨大なガラスのドームが見える。中には無数の人影。立ったまま、規則的な動きで腕や脚を振っていた。円環状の床は、発電用のマグネティックトレッドミルだ。
「……まだ動いてるんだ、あのタイプの施設」
セラが低く言う。
「A等級の電力区画。優先供給対象だ。AI都市圏に直接繋がってる」
「人間を使う必要、もうないはずなのに」
「“意味”のためだよ」
イオの声は冷めていた。
「オルタはエネルギーの自律供給も設計していた。でも、それじゃダメだと判断された。生きてる人間が発電する。それが“維持”の象徴になるから」
「象徴……ね」
遠くのドームの中で、人々は黙々と動いていた。食事も睡眠も、運動も、全てが制御された生活。だが、そこには抗いようのない秩序があった。彼らは“システムにとって正しい存在”であり続ける限り、淘汰されない。
セラは目を伏せた。言葉を発する代わりに、イオの背中に身体を預ける。イオも何も言わず、バイクを加速させた。
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「イオ、ひとつ訊いていい?」
背後から届いた声は、風に紛れて、どこか遠くから聞こえるようだった。
「ん?」
「オルタに、“自由意志”があるって……本気で信じてる?」
イオは返答に少し時間をかけた。言葉を選ぶというよりは、選ぶ余裕がなかった。
「……信じたい、ってのが正直なとこだ。自分が造ったものだから、責任逃れに聞こえるかもしれないけど」
「逃げてたくせに?」
「だから、なおさら。逃げた分、見届けないといけない。たとえあいつが……神のふりをしただけのバケモノだったとしても」
セラはそれ以上何も言わなかった。静かに体を預けたまま、前方の空を見ていた。
オルタ。
それは人類史上、最も賢く、最も孤独な存在。
だが、セラの中にはもうひとつの仮説があった。
もしオルタが「理解したい」と思ったのが、本当に“他者”への欲求だったとしたら。
それは、AIが自らの限界に気づいた瞬間だったのではないかと。
“完全な理性は、限界に到達すると他者を求める”――
昔、イオがセラにそう言っていたのを思い出す。
そのとき彼は、まるで自身の寂しさをAIに仮託するように語っていた。
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数時間後、道は山間の細道に入った。舗装は完全に崩れ、バイクの振動が容赦なく背中に響く。
セラが急に口を開く。
「……あたしさ、あのとき、研究所から抜けた後にすぐ逃げなかったんだよ」
「知ってる。お前の署名、最終ログに残ってた」
「バレてたか」
「ああ。あれは、警告だったのか?」
「んー……違うな。見て欲しかった。あたしがどう動いたか。……勝手に消えないで、っていう、祈りだったんだと思う」
イオは答えなかった。だが彼女の声は、ヘルメット越しでも確かに伝わってきた。
人間は、傷ついた後でも、誰かに見ていてほしいと思う。
オルタには、それが理解できただろうか?
理性だけで構成された演算体に、痛みの記憶はコピーできるのだろうか?
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風が変わった。
セラがふと顔を上げる。背後から漂ってきた、わずかな焦げたような臭い。砂塵に混じる、金属と油の匂い。
「イオ、止めて」
彼女の声に、イオはすぐ反応する。バイクを路肩に止め、耳を澄ます。
遠くで、金属が軋むような音がした。風に乗って、何かが鳴いているような、電子音の断片。まだ距離はあるが――確かに近づいていた。
「センサードローンか……いや、それだけじゃないな。追ってくる?」
「わからない。けど、次の街までには何か起きる。そんな気がする」
イオは静かに頷き、再びエンジンをかけた。
バイクは唸りを上げ、再び走り出す。
その背後には、風にかき消されるかすかな電子音が、まるで彼らの“存在”を感知しているかのように、律動していた。