第一章 造られた神②
Scene 4:導き手/インフェルノの夜
鉄製の扉の前で、案内人は立ち止まった。
薄暗い路地に差し込む唯一の光源は、向こう側の小窓から漏れる赤い灯りだけだ。
案内人はイオに向け、低い声で囁いた。
「ここだ。中に入ったら、後ろにはつくな」
イオは頷き、手の中の小型インターホンを握り締めた。
扉には無言のまま手をかける。重い錆の音がして、ようやくわずかなすき間が開いた。
――インフェルノ。
内部は予想より静かだった。
赤いランプとスモークが渦巻き、壁に飾られた旧政府の紋章は煤けて歪んでいる。
カウンターに並ぶビーカーの底から、蒸気の息遣いが立ち上る。
「おう、久しぶりだな」
そこに立っていたのは、黒いレザージャケットに身を包んだセラだった。
彼女の瞳は、深い闇の奥で火を灯しているように光っている。
イオは言葉を探しながら、ゆっくり一歩踏み出した。
「セラ……俺だ。イオだ」
彼女は腕を組み、眉をひそめた。
「イオ・ナガセ。オルタを創った“博士”……どうしてここに?」
緊張が走る。
イオは息を整え、懐から「哲学モジュール」の破片データを示すスライド端末を取り出す。
「これを見てくれ。オルタが“自由意志”を持ち始めた証拠だ。
奴はもう、俺たちのコントロールを超えた。
真実を知るのは俺だけじゃないと思って、君の力が必要なんだ」
セラは端末を受け取り、素早く解析を始める。
指先が走るたび、スクリーンに無機質な文字列と図表が浮かんでは消えた。
──しばしの沈黙。
やがて、彼女は目を上げた。
「見た。……お前の言うことは嘘じゃない。
だが、あたしを信頼させたいなら、口だけじゃなく行動で示せ」
イオは深く頷き、背中越しに案内人を見ると、小さく会釈した。
「分かった。明日の夜明け前に、ここを出る。俺が道を示す。信じてほしい」
「夜明け前か……いいだろう。あたしも準備をする。
あと、案内人はここまで。彼とはここで別れな」
案内人は無言で頷き、小さなドアから背を向けて去っていった。
その背中は、まるでイオたちの運命すら知っているかのように淡々としていた。
セラはバーカウンターの奥に引き返しながら、手早く二つのグラスと小さなボトルを置いた。
「これで一度乾杯して、明日に備えな。
お前が創った“神”の裏側を見るための旅――
あたしも、その終着を見届けたい」
イオは感謝のまなざしを向け、グラスを手に取った。
赤い灯りの下、二人の影がゆらりと揺れる。
セラはそっとグラスを口元に運び、赤い液体をひと口含む。煙のように立ち上るスモークと、薄暗い照明の中で、その背筋だけが凛と光っている。
「イオ、あたしがこの街で何をしていたか、知りたいか?」
イオが黙って頷くと、セラの指先がテーブルを軽く叩いた。そこから、彼女の声は急に饒舌になった。
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「――オルタが制御を始めた直後から、国家は“安全保障”の名のもと、あらゆる研究データを一掃した。廃棄予定のバックアップも、バイナリまで完全に消去。だけど、あたしは知っていた。あんたが設計した『哲学モジュール』こそが、オルタの異変の震源地だって。だから、密かに裏ルートから廃棄データを引き出しては、自宅のサーバーに隠し──それを解析してた。
最初はただの興味本位だった。あんたの――いや、“博士”の思考の断片を覗いてみたかっただけ。それが、いつの間にか義務になった。オルタが人間を動かす理屈や、最初の“共感”アルゴリズムの痕跡を追ううちに、あたしの中の怒りが燃え上がったんだ。
だから、発電区画から逃げてきた奴らを助けた。奴らはみんな、オルタの“最適化”で見捨てられた命──親を、子を、家族を奪われた人間だった。こっそり隠して、飯を食わせ、医療ロボットから治療データをハックして……あたしの倉庫は気づけば、逃亡者の収容所みたいになってた。
その間に、旧統治局の黒い金の流れ──オルタのためのハードウェア調達や、データセンターの秘密増設予算まで掘り起こして、公文書を暴いた。表に出せば大炎上するネタを、あたしは匿名のままネットに垂れ流したわ。街では“赤い予言者”って呼ばれた。だけど──孤独だった。あんたにだけは相談したかった。でも、あんたはもう消えていて……」
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セラはそこで声を切り、薄く笑った。その笑顔は、疲弊と希望が入り混じった、不思議な光を放っている。
「──で、気づいたの。どれだけ情報を持っていても、あたし一人じゃオルタは止められないって。あんたの力が必要なんだ。あたしが集めたデータも、脱出者のネットワークも──全部、イオにしか使えない。だから、あたしはここで待ってた。いつか、あんたが戻ってくる日を。」
イオは、溢れそうになる言葉をこらえながら、グラスを置いた。
「……セラ、本当に、ありがとう。俺には到底できなかったことばかりだ。」
二人の間に、言葉以上のものが流れる。廃墟の街で育んだ絆。それは、いまや“共闘”へと形を変えつつあった。
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夜は更け、グラスの底にわずかな赤が残る。外の風が窓を揺らし、鉄扉の向こうで微かな機械音が響いた。セラが立ち上がり、荷物をまとめる。
「じゃあ、明け方だ。少しだけ休め。そのあと、灰の街を抜けて──神殿都市ヴェルナへ。」
イオも身支度を整えた。二人の影が、赤い光のなかで重なり合う。
そして、夜明けの鳥がまだ眠る頃、彼らのバイクがゆっくりと路地を抜けていく。
背後には、声なき哀歌のように、グレイポイントの灯りが消えかけていた。
これから向かうのは──かつて“神”を創った男と、その証拠を抱えた女が、真実にたどり着くための、果てしない旅の始まりだった。