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北浩一は、大きく息を吸った。専務に呼び出されることなど、ないに等しいからだ。専務室の前に立つ。大きく息をすって、ドアをノックする。秘書の渡井智子がドアを開け、そのまま奥に誘導した。
「失礼いたします。北課長がお見えです」
「はい。中に」渡井は北をさらに奥に進むよう誘導する。
「失礼いたします」深く頭を下げる。
「お呼びでしょうか。桐島専務」
「まぁ、座って」
「はい。失礼します」
「先日の商品企画会議の文具大賞に対するアンケート結果を議事にあげていたが」
「はい。文具に対して、関心を持つ人が30代女性を中心に広まっています」
「ああ、興味深い調査結果だったよ」
「本当ですか。ありがとうございます」
「ただ、結果に基づく考察や今後の具体的展望も書いてあった」
「はい。アンケートの結果だけでなく、我々もそこからどう展開したら、よい商品ができるか。ニーズに対応できるか。その先まで視野を広げ……」
「誰が頼んだ」
「はっ⁉︎」調子よく、話していた言葉がつまり、一気に緊張した空気がたちこめる。
「誰がそこまで求めてる?」
「……」
「マーケティング課はリサーチし、結果のみを報告すればよい。そこから先は企画開発、研究開発の役割りであって、課を越えて、余計なことなど、今後しなくてよろしい」
「はい。しかし、同じ部署内で意見交換したり、いいアイデアがあった時には、共有できると」
「それは課の垣根を越えて、課の括りなど関係者ないという、社への小さな抵抗かね」
「いえ、決してそのような気持ちでは」
「そう受け取られかねんということだよ。今後このようなことがあった時には、私にもそれなりの考えがある。覚えておきなさい」
「わ、わかりました」
「ちなみにこの案を作成したのは?」
「うちの課の結城です」
「彼に言っておきなさい。ムダだと」
「……。はい」
「もう、いいよ」
「はい。失礼しました」頭を深く下げ、専務室を後にした。無力な自分に怒りの感情が沸々と湧いてくる。会社は一つのチームであるはずだ。同じ部内で垣根を越えて、より良いものを追求しているところに、このように、自分の利益に走り、権力を維持する為だけに追力する人間のせいで、会社の成長を止め、社員の士気を下げ、かえって悪循環になり得ることがあっていいのだろうか。偉くなると、保身的になり、改革的勢力を徹底的に潰しにかかってくる。それもわからなくない。結局、自分が一番かわいいのだから。自分の地位を脅かす者は、勢力が大きくなる前に潰しておかないといけないのだろう。私には、脅かすほどの実力がないのは、もうわかっている。入社して、3年もすれば大抵わかり、10年もすれば実力が確定する。しかし、結城は違う。彼は、底知れぬ実力がある。彼と会って驚いたのは、とても静かだ。だがその静けさの中に不気味なくらい激しく蠢いている。発想力豊か、機転が効く、仕事量が人一倍、非常に効率的、かつ効果的。こんな人材は企業にとって宝だ。のはずが、大企業にとっては脅威でしかないのかもしれない。彼の味方になってくれる権力者がいれば話は変わってくるが、おそらく彼を利用するだけし、脅威になればすぐに切ってしまうだろう。このまま報われないのか。そもそもマーケティング課にいることが、この企業の彼に対する答えだ。大きな損失をしている。だが成長など望んでいない。自分たちが無事に定年を迎え、退職金を貰い、よりよい次の就職先が見つかればいいのだ。結城はそんな中、仕事を淡々とこなしている。腐ることなく、自分の仕事をきっちりと。今回の提案も、素晴らしいもので、これが実現すれば、会社へ大きな貢献ができたはずだ。企画開発部でも、反響はおおきく、大胆なアイデアではあったが、賛成的意見が多かった。この企画自体を商品開発課に回せば、継続できるのだろうか。いや、基本的に結城の案であることは分かっているため、色々な意味で誰も引き受けたいとは思わないだろう。いっそ、結城が商品開発に戻れば。いや、専務がいる限りそれは叶わないであろう。この企画案はお蔵入りになってしまうのか。非常にもったいない。
しかし、結城はどうして、そもそも商品開発からマーケティングに移動になったのか、当時色々と噂されていたのだが、結局真相はわからないままだった。桐島専務が、8年前商品開発部部長だった時、結城は新入社員として、商品開発部に配属された。それが一年としないうちにマーケティング課へと移動となった。入社して一年もしないうちに移動は異例で、結城が何か不祥事を犯したのか、社に不利益になることをしたのか、自ら移動を願い出たのか、色々憶測が飛び交い、当時桐島部長も上からの通達だとし、本人にもわかってないようだった。結城自身も真相を口に出すこともなく、話題を振っても、「なんでなのかわからないんですよね」とまるで人ごとのような対応だった。もともと、人と馴染んで、ペラペラと話すタイプではなく、人と距離を置いている為、同期とも数人としか親しくしていない状態だったこともあり、移動して数日は探りを入れる者も多かったが、話を受け付けないオーラが凄く、真相を聞き出せないままで、それがあれやこれやと本人たちのいないところで、しばらく話題になっていた。桐島側も部長クラスで、真相を聞こうとするものの、全く分からず、こちらはすぐに探りを入れることは、数日もないくらいで終わったようだった。そして、その数ヶ月後に、専務へ昇進し、その真相を知る由もなくなった。今その噂をする者はいないが、当時のことは違う部署の自分でも知るくらいで、当時のことはよく覚えている。北がマーケティング課に来たのは、昨年10月、そこに結城がいて、当時のことを久しぶりに思い出した。能天気に当時のことを聞こうとしたことは事実だが、すぐにやめた。聞いたとこで、言わないだろうし、本人はいたって普通だからだ。普通?普通ではない、まず、仕事に対する姿勢が格段に他と違う。仕事に対する意欲が気持ちよく、周りにもよい影響を与えている。彼がいると安心感安定感があり、なくてはならない存在であることが、配属して一週間もしないうちにわかった。人望があるという人はこんな人だろうという、仕事の姿勢、上司同僚後輩との接し方、マイナス面はない。仕事に関してはたくさん話し、話もはっきり言うもののそこにはユーモアがあり、嫌な気分にさせないながらも、自身に見直しの機会を与えてくれる。しかし、仕事が終われば、そこからはキッパリとスイッチを切ってしまう。このキッパリには語弊はある。仕事後の付き合いはないわけではない。プライベートな事を話すことはなく、プライベートが全く見えない。そのことになると、一気に壁ができ、楽しい時間に嫌な空気が流れる。なので、結城のプライベートはタブーになっている。触れたいし、知りたいが、空気が悪くなって欲しくない気持ちの方が強い。謎は多いのも魅力の一つでもある。この人材を欲しいという部署、会社はたくさんいるだろう。現に私は手放したくはない。