8 急
電車内の吊広告を見ていた酒匂くんの顔色が急に変わる。
広告の前に、わたしの顔を眺めていたときは、とても幸せそうだったのに……。
それが悪魔でも見たように蒼白になる。
こんな場合は、わたしから問えば良いのか、それとも酒匂くんが切り出すのを待つべきなのか。
……と、そのとき、わたしの目の端で吊広告見出しの文字列が急に組み変わる。
そんなこと、ありえない。
わたしの顔も蒼白になっているに違いない。
……とすると酒匂くんの身に起こったことは、もしかして、わたしと同じ。
直後、二人で顔を見合わせたのは偶然だろうか。
それとも誰かの意思が働いたのか。
「その顔だと高野さんも見たようだね」
低い声で酒匂くんがわたしに問う。
「つまり酒匂くんも見出し文字の組み換えを……」
わたしは思わず辺りを見まわすが、他に蒼白な顔はない。
気づいたのは、わたしたち二人だけのようだ。
……と、そのとき電車が目的駅に到着する。
降りる乗客に押され、深い考えもなく、わたしと酒匂くんはその駅で電車を降りてしまう。
が、すぐに、もう一度吊広告の見出し文字の変化を確認したかった、と二人して悔やむ。
けれども過ぎ去ったことは取り返せない。
「高野さんが家に帰るなら送るよ」
暫く立ち尽くした駅のホームで不意に酒匂くんがそんなことを言う。
「だって遠いでしょう」
わたしは笑いながら答える。
ついで酒匂くんの目を見ながら、
「折角だから一杯やりましょうよ」
と言うが、
「アルコールの酔いもプログラムの結果かもしれないね」
という酒匂くんの返答。
だから、わたしは、
「酔い加減が同じならプログラムでも良いわよ」
思ってもいないことを口にする。
けれどもその後、冷静に考え、あるいはその通りかもしれないと納得する。
「じゃ、そういうことで……」
酒匂くんが苦笑をしながら、わたしに告げる。
目的を持った足取りで歩き始める。
わたしが酒匂くんに案内される形だ。
手を繋いでくれないかな、とわたしは思ったが、酒匂くんにその気はないらしい。
それで図々しく、わたしの方から手を絡める。
それに酒匂くんが戸惑うので、
「文字が入れ代わるんじゃなくて酒匂くんがこの世界から消えたら、わたしは迷子よ」
落ち着いた声でそう言うと素直に手を握ってくれる。
「大学のときは男ばかりだったから高校以来だよ」
暫く無言だった酒匂くんが、思い出したように口を開く。
「思ったより硬い手だね」
「酒匂くんの方は暖かいわ」
「テレてるんだよ」
「それもプログラムだったら嬉しくないかな」
が、わたしの質問に酒匂くんは答えない。
代わりに、
「赤い糸があるとすれば、それも『他には』の答かもしれない」
とわたしに言う。
「あの日の朝、わたしが酒匂くんと出会ったのが赤い糸の導きだっていうこと……」
「人は簡単に人を好きになるものだね」
「あら、嫌いになるのも簡単よ」
「ああ、確かに……」
つまり酒匂くんの人生にも紆余曲折があったというわけだ。
「ここの地下なんだ」
やがて目的のショットバーがある雑居ビルに辿り着き、酒匂くんが言う。
「古い建物ね」
「解体計画があるらしいよ」
「そうなんだ」
「でも景気のせいで止まっている」
エレベーターではなく螺旋階段を下り、ショットバー『色』に辿り着く。
重そうなドアを酒匂くんが開け、二人で中へ……。
「いらっしゃい」
すぐにバーテンダーから声がかかる。
「酒匂さん、お久し振り」
ついで、わたしに向かい、
「そちらは見かけない顔ですね。今後、宜しく」
それだけを言うと口を閉ざす。
酒匂くんが、
「テーブルとカウンターとどちらにする」
とわたしに問うので、バーテンダーがいるカウンター席を所望。
直後、シミュレートされた現実の話をするならテーブルだろうと気づくが、後の祭りだ。
「こちらは高野さん。小学校の知り合いで、今週偶然会ってさ」
酒匂くんが髭のバーテンダーにわたしを紹介する。
「初めまして、高野です」
それで、わたしがバーテンダーに挨拶する。
するとバーテンダーが、
「私は黒瀬と申します」
と言い、頭を下げる。
つられて、こちらもバーテンダーに首を垂れる。
酒匂くんが、その一連の動きを黙って見守る。
「何にしますか」
バーテンダーが問うので、
「ではアレクサンダーを……」
わたしが注文する。
「酒匂さんはダイキリにしますか」
「ああ、そうしてください」
「畏まりました。しばらくお待ちください」