7 夢
高野さんが問いかけを続けたとき、ぼくの頭には、真っ先にあの日の朝のことが浮かぶ。
が、それが口にできない。
口にしてしまうのが恐ろしい。
ぼくの口から体験が語られたが最後、それが現実化してしまいそうな気がする。
あるいは、ぼくが感じた、あの異常感覚が本当のことになってしまうというか。
眩暈は眩暈であり、ぼくの勘違いで、唯それだけのことで、現実に道は歪んでいない。
ぼくが感じたねっとり感も、ぼく自身の気分であり、この世界のバグではない。
そう信じたいし、実際にも、そうに違いないが、それが崩れる。
ぼくが第三者にあの現象を伝えた瞬間、現実になってしまう。
今はまだ、道の歪みは、ぼくの勘違いなのだ。
その状態に留まっている。
ぼくだけしか知らず、他の誰も気づかず、もう過ぎてしまったことだから。
ぼく以外の誰も知らないうちに……。
それに、あの歪みには再現性がない。
二度と再び繰り返されない。
似たような時空の歪みも、あの後、現れない。
だから、あの朝の異常さを知っているのは、広い世界にぼく一人。
つまり、ぼくが勘違いにしてしまえば、勘違いになってしまうのだ。
それで終わり。
世界は現実として継続する。
たとえ事実はシミュレーション世界であったとしても……。
やがて、そのまま時が経ち、ぼくの記憶も曖昧になる。
何歳まで生きられるか、今のぼくには知る由もないが、老人になれば記憶も毀れる。
だから、すべては勘違い。
唯それだけのことで終わる。
けれども事実は不明なのだ。
確認されない限り闇の中にあり続ける。
あるいは夢の中かもしれない。
その方がまだマシな気だ。
ぼくという一個の存在が、もしもシミュレートされたものだとして、コンピュータの中のプログラムであるよりは、誰かの夢に登場する人物である方が……。
胡蝶の夢、か。
そう思う。
胡蝶とは蝶のこと。
荘子が夢の中で蝶となりヒラヒラと飛んでいる。
やがて目が覚め、自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、と疑う……そんな説話だ。
説話を通じ、荘子が言いたいことは、夢が現実か、現実が夢か、の判定ではない。
夢と現実が対比されているが、どちらが真実の姿かという問いではないのだ。
胡蝶であるときは胡蝶になり、荘子であるときは荘子となる。
そのどちらもが真実。
己であることに変わりはない。
つまりどちらが真の世界であるかはどうでも良く、今自分がいる世界がどちらの状態であろうと肯定し、それぞれの世界で満足して生きれば良いと説く。
よって、ぼくが荘子ならば、この世が現実でも、シミュレートされた現実でも、悩まず生きることができるだろう。
が、実際は……。
「どうしたの。急に黙り込んじゃって……」
高野さんからの呼びかけに、ぼくがハッと夢から覚める。
「いや、何故か、胡蝶の夢に連想が飛んで……」
「胡蝶の夢、ね」
「でも考えてみれば胡蝶の夢の場合、現実と、夢……という名のもう一つの現実、における話だから交換は可能なんだよね」
「でもシミュレーションをする側とされる側には交換の関係がなく、一方的だと……」
「そういうこと。高野さん、もっと食べる」
「いや、もういいよ。お酒はまだ飲み足りない気がするけど……。酒匂くんは……」
「ぼくもお腹は一杯だな。高野さんが、お酒を飲むのなら付き合うよ」
「じゃ、河岸を変えるか」
「そうだね」
……ということになり、ぼくはグラスに残っていたベトナム焼酎を片づける。
メニューによるとルーネップはベトナムの米酒で、『ネップ』は糯米を意味するらしい。
甘味のある濁酒というわけだ。
なおルーの方はアルコールを意味するようだ。
取り敢えず、ぼくが食事代を払い、通路は狭いのでエレベーターの中で高野さんが割勘に戻す。
「上品な味だったけど、思ったより高かったわね」
「一部は場所代じゃないかな」
エレベーターを降り、乗客たちと入れ替わる。
雑居ビルの外に出れば人が多い。
高野さんと店に入る以上に込み合っている。
そんな人混みに呆れ、空を見上げ下れば確り暗い。
辺りの照明が煌々としているので街自体は暗くないが……。
「酒匂くんはショットバーみたいなところを知らないかな」
高野さんが問うので、
「友だちと良く行ったところで良ければね」
ぼくが答える。
「この辺りじゃないよね」
「電車で三駅だよ」
「じゃあ、そこに行こう」
それで電車に乗り、街を変える。
人の多さは変わらないが、少しだけタイプが違う街だと思う。
女性が多いように感じるから、Sよりはお洒落な街なのかもしれない。
人の多い金曜夜の電車に揺られながら、ぼくが高野さんの顔をじっと見る。
酒で潤んだ瞳が素直に綺麗だと感じてしまう。
そんな高野さんの方は電車の吊広告を眺めている。
それで、ぼくも吊広告に目を移す。
月間雑誌の広告で大小の活字で見出しが並ぶ。
今月の目玉は不正な政治献金のことらしい。
先月は確か、芸能人の不倫だったような気がする。
……と、そのとき、見出しの文字列が急に組み変わる。