2 次
朝起きたときから気分が悪い。
断りはしたが、別れた夫が謝金を申し込んで来たことがまだ尾を引いているのか。
最初は、そう思う。
が、そちらの気持ちは疾うに捌けている。
では何故……。
落ち着かない気持ちが身体を膜のように覆っている。
食事をしている間も同じで熱を疑う。
が、体温計で確認しても熱はない。
単に気分が悪いだけだ。
けれども気分の悪さの質が違う。
今まで経験したことがない感覚に思える。
こんな気分では歩いては危ないだろうと、まだ時間的には早いが、職場に向かう。
徒歩で三十分弱のT駅を目指し、三階の部屋を出る。
エレベーターを待つが、人がいない。
エレベーターが着いても中に人がいない。
一階に降り立つが、人がいないのは同様。
が、エントランスの外に通行人がある。
いつもより十分ほど早いので見知らぬ顔だが……。
マンションの外に出て朝の空気を吸う。
妙にねっとりとしている。
だから気分が戻らない。
それどころか却って悪化する。
不快の原因がわからないから段々と苛ついてくる。
歩道に出ると自転車が鼻先を通り過ぎる。
ハッとするが怪我はない。
よろけもしない。
すぐに自転車を睨みつけるが、それが消える。
瞬時唖然とするが、すぐに自転車が現れる。
逃げ水でもないだろうに何が起こっているのか。
訳の解らなさが、わたしに不安を呼ぶ。
精神が急にグラつき始める。
だから深呼吸をし、落ち着きを取り戻そうと努める。
慌てない、慌てない……。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き……。
ついで気を取り直すように歩き始める。
最初の信号の向こうに信号待ちをしている人が見える。
男のようだが、明細柄のジーンズを履く。
トップは焦げ茶のダウンジャケットで、顔にはマスク、頭には薄緑色の帽子。
気のせいか、元気がなさそうに見える。
……と、その男が突然消える。
内心がパニックに襲われる。
が、グイッと抑え込む。
狂うには早い。
母と親戚に仮例ではなく、その血が流れていたとしても……。
そう念じ、一度目を閉じ、また開く。
そのときにはもう男の姿が戻っている。
今日は何なのだ。
素朴だが、切羽詰まった想い……。
ついで吃驚。
まさか男が知り合いだとは……。
記憶違いでなければ小学校の同級生だ。
横顔に面影が残っている。
足は速かったが病弱な子供。
割と頻繁に学校を休んでいた記憶がある。
わたしが転校したのが小学校五年生だから十五年振りの再開か。
そう思ったところで男がゆるりとわたしを見る。
が、まだわたしとは気づかないようだ。
それとも忘れてしまったか。
無理のない年月は経っている。
だから忘れられても仕方がない。
男の名前は薫という。
女のような名前だから憶えているらしい。
そのくせ苗字が出てこない。
確か、珍しい苗字だったはず。
そうだ、酒匂だ。
転校時に貰った寄せ書きを数回見て覚えるが、当時はひらがなで『さこう・くん』と呼んでいたはず。
「おはよう酒匂くん、お久し振り」
わたしの方から声をかける。
酒匂くんが面食らう。
鳩が豆鉄砲を喰らった顔とは、これか。
やはり、わたしのことを忘れていたようだ。
「覚えていないかな。小学校のときに一緒だった、高野祐子……」
わたしが言うと酒匂くんの表情が動く。
「高野さん。あの、五年生の時に転校した……」
「そう。よく思い出してくれたね」
「……とすると、ずいぶん変わった感じ。お世辞じゃなく女の人になったというか……」
「酒匂くんの方は変わってないよ」
「童顔だと今でも言われるよ。高野さんは、この辺りに……」
「向こうのマンションの三階奥がわたしの家。結婚したときに越し、離婚して手に入った」
「何と返答をしたら良いか」
「酒匂くん、結婚は……」
「相手がいない」
「そうか。昔からモテた感じはしなかったよね」
「はっきりと言うなあ。まあ、いいけどさ」
「会社が近くなの……」
「まだ十分ほど先だけどね」
「せっかく会ったんだし、まだ早いし、酒匂くんに時間があるなら話でもしようか」
「それは構わないけど……」
「だけど、この近くに喫茶店とかないんだよね。T駅まで歩けば別だけど……」
「ああ、高野さんはT駅利用者か。ぼくの方はJRのK駅だよ」
喫茶店はないが、近くに小さな公園があったので自販機でお茶を買い、ベンチで話す。
……といっても特に聞くことはない。
「職業は……」
「場末の化学者……。高野さんの方は……」
「ならば、わたしは場末の設計者かな」